ジョージ・クルーニー監督作品
「もしもテレビが娯楽と逃避のためだけにあるのだとしたら、それはテレビがいずれ滅びるということを意味するのです」
主演のエド・マローが演説の最後にいうこの一言。彼がこう言ってから半世紀たち、いまその「予言」は的中してしまった。滅びる、というのが物理的に「なくなる」ということではない。「影響力を失う」という意味だけでもない。(「なくなる」も「影響力を失う」もある程度あたってしまっているけれど)
この映画を監督したジョージ・クルーニーが訴えたかったのは、「メディアとしての基本」がテレビ界において滅びてしまった、ということだ。それは何も娯楽と逃避だけを提供しているからではない。スポンサーと政治的・経済的圧力に負けて、報道の「節度」を失ったことを意味している。
マッカーシー上院議員の赤狩りはたしかに異常なことではあったが、非常にわかりやすい異常さだった。いまは異常にみんな慣れてしまっただけでなく、上手に隠ぺいされて異常事態が進んでいく。いまならメディアが主体的に赤狩り的異常な言論統制をすることだってらくらくできてしまうだろう。クルーニーはこの映画でそれを危惧して警鐘を鳴らしている。
テレビだけではない。インターネットも同様で、ディレクターもキャスターもいないところで、「世論」という怪物はどんどん流れていってしまう。いや、そんなことより、娯楽と逃避を提供するメディアが増えて、エド・マローがいうようにますます人々はインテリジェンス=知性をなくしていってしまう。
70歳にしてパソコンをいじりはじめた母が、インターネットを使いながらある日いった。
「前はテレビを見ていたらバカになると思っていたけれど、インターネットはもっと人の思考力を奪うね。ボケはここから始まるかもしらんわ」
50代で亡くなったエド・マローがいまもしこのメディア状況を見ていたら、なんというだろうか?
やっと見られました。推薦してくださった方がおっしゃっていたとおり、すぐれた作品でした。通訳をしている友人が、仕事でジョージ・クルーニーの話を聞いて絶賛していました。「アメリカの知性と良心」だって。「オーシャンズ」ではなく、この作品こそ見てほしいですね。
ところで、最近「今日の夕飯」を書いていませんが、今日はん? ちょっとうまくない? と我ながらうまくいった一品があったので書いておきます。
菜の花とささみの和えもの
新鮮な鶏のささみを酒と塩で下味をつけておく。
片栗粉を薄くまぶして、沸騰した湯で1分ほどゆでて取り出して氷水でしめ、キッチンペーパーで水気をとる。
菜の花はさっとゆがいて、1センチほどにきざむ。
ささみは細く切って(中はが少しなまっぽいけれど、熱は通っているくらい)、すりごま、たたいた梅干しと辛子であえる。辛子よりマヨネーズを入れたほうが喜ばれるかも。




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