「わたしを離さないで」
カズオ・イシグロ著・土屋政雄訳
早川書房
注:これから書くことはネタバレです。未読の方は読まないで!
衝撃的な小説である。
時間つぶしや教養づけや娯楽のための娯楽としてではなく、「小説を読む」という本当の楽しみを満喫させてくれた小説だった。ひさびさにそういう小説を読んだ気がする。一ページめくるごとに、読み終わるのがもったいなくなる。数行の文章に書かれた意味を、そこに隠された謎を解き明かそうと、ときどき本を置いて考える。そうやって想像力を思うままはばたたかすことを読者に許し、好き勝手に想像させるスペースをたっぷり与えてくれる。なんてぜいたく!
そして、この小説の読み方は一人ひとりみんなちがう......ような気がする。いや、ほかの人の意見を聞いたことがないからわからないのだけれど、私の感想と、ほかの人の感想ははっきりちがうだろう。それがわかる。一人ひとり、好きな読み方ができるはずだ。私が見つけた謎解きのカギと、別の人のカギとはまったく異なるものになっているのではないか。それ以上に、私が謎に思うところと、ほかの人の謎ともちがう。そうやって読者の自由裁量に任せてくれる構成になっている。
そんなことすべてが、この小説を読む「楽しさ」につながっていく。
舞台も時代も、架空だ。イギリスの地名が使われていて、人物の名前も英語名で、どうやら二○世紀の話と読めないでもないけれど、未来SFのようでもある。
ヘールシャムという名前の田園地帯にある小さな学校らしきところから話は始まる。幼児から15,6歳までの子どもたちが、外部とは隔絶された場所で寄宿生活を送っている。ふつうの学校のように算数や地理や国語を先生が教えているが、とくに力を入れているのが、絵画や彫刻、詩作といった創造的な授業だ。優秀な作品は選ばれて、「マダム」と呼ばれる人の「展示室」に保存される、と子どもたちはいわれる。「展示室」がどこにあって、誰がそんな作品を見るのか、子どもたちはふしぎがるが、先生たちをあえて問い詰めようとしない。
問い詰めることがはばかられることはほかにもたくさんある。
なぜ自分たちは隔離されているのか?
「親」はどこにいるのか?
「マダム」とはいったい何者なのか?
なぜ「マダム」は、おぞましいものを見るような恐怖のまなざしで子どもたちを見るのか?
子どもの一人、キャシー・Hの一人称で語られる小説のなかで、一枚ずつ薄皮をはぐようにその謎があきらかにされていく。
セックスは許されるが、子どもをつくることはできない、と性教育の授業で先生たちにきっぱりいわれる子どもたち。
15、6歳になると、先生たちに保護されていたヘールシャムを出て、「外の世界」に連れていかれ、「介護人」と「提供者」という役割を割り当てられる「ルール」。
優秀な「介護人」となったキャシー・Hは、ヘールシャムで一緒に育った仲間で、「提供者」となったトミーとルースの2人の介護をしながら、その「ルール」に例外は認められないのかと必死にあがく。
......
生殖行為なくして生まれ、生殖ができず、短い生を義務付けられ、あらゆる「人間的な」生活を禁じられた人間に創造的な営みは可能なのだろうか?
そもそも人間とは何なのだろう?
最後の一ページを読み終わった今朝、明けていく空を見ながらしばし余韻にひたった小説だった。




コメントする