今をときめく勝間和代さんの文春新書。
いただいたので、読んでみました。
自己啓発本かな? 感想は差し控えます。
が、このタイトルで私は思ったことがありました。
私は自分がフェミニストだと思っているのですが、実はぜんぜんイケてない、突破も何もできていないうじうじとした前近代的男尊女卑文化の残党ではないか、と思うことがあって、それはどうしても夫に素直に「家事をして」と言えないことです。
夫は団塊の世代生まれなので、「男の子も家事をする」という育てられ方をしてこなかったこともあり、家事がたぶん苦手なんだと思います。でも、団塊の世代で、それなりにフェミニズムの影響は受けているので、「やって」と頼まれればやらないこともないわけです。だから「やって」と言えばいいのですが、それが私は言えない。非常に抵抗がある。黙ってやってもらったらものすごくうれしいくせして、「やって」と言ってやってもらっても全然うれしくなく、後ろめたさと苦さがじんわり残って、3日くらいもんもんとしてしまうのです。
これはいったい何?
子どもたちが小さくて手がかかり、仕事もほんと忙しくて時間がまったくなくていらいらしがちだったときも、私はどうしても夫にストレートに「やって」と言えなくて(「お願いします。すみません。ほんと申し訳ない」とかくでくで言ってしまい、やって「いただいた」ときには、盛大にお礼を言う。めんどくさいし、ある意味屈辱なので頼めなくなる。夫は何もそういうことを期待していないと思う)、ただ胸の奥にふつふつと「なんでやってくれないんだ」「なんで私ばかり」と怒りだけがたまって、夫に対してつねに不機嫌で、洗濯とか掃除とかそういうツマラナイことでつんけんする自分に自己嫌悪でほんといやでした。いや、今もまったく同じですが。
そのとき、家事のアウトソーシングをしていて、一週間に一回、掃除と洗濯をお願いしていたのですが、そのおカネを自分の給料から支払っている、ということを自分に対する言い訳にしていました。つまり、働く私ですが、夫には家事をしないことによる負担をかけていない、と。今から考えると、フェミニストを名乗っていて、まったくの論理矛盾なのですが、ま、若くて頭がまわらなかったのだと思います。
ごはんをつくっていて、たとえば肉でも魚でも、一番大きくて立派なのは「それはパパのにして」と盛りつける娘に言い、娘もそれを当たり前と思い、「今日は夫がいるから、3品はつくらないとな」と思って1時間かけるのに、娘と自分だけのときは「簡単にすませちゃおう」と2人(か3人)で15分くらいで適当につくる。夜、部屋が散らかっていると「パパが帰る前に片付けなさい。早く」と娘たちに命令する。何なんでしょう、この心理は。何なんでしょう、この矛盾は。
「断る力」――そんなになにもかも一人でできない。それにやりたくない。あなたもやって。それが言えたら、もっと笑顔で生活できる気がします。ただ、もう私は無理だな。身に沁みついてしまったものがあるから。
でも、娘には上手にそれが言える知恵と力を授けておかないと、将来、私の二の舞だな、と思います。




なんか、苦しいですね。夫を立てるのがいい妻という思い込みがあるのでしょうか? もう無理と言うところをみると、そうしたくないのかもね。
いや、リエさん、もう無理、というのは、いまさら「やって」という妻になるのは、無理、ということです。
それと、もう一つ。いまさら関係を変えるのがめんどうくさい、その努力をするのが無理、というのもあるかも。
でも、これは関係性というより、あくまでも私の側の問題だなあとつくづく思います。私が何かを捨てればいいんだけれど、それが無理なのかも。