梅雨入りかと思ったら、もう夏ですか?
......というあいさつがわりに、気の利いた一句詠めるようになりたいなあ。
梅雨晴に 日焼けどめ塗り ふとん干し
金曜日 大人買いする 佐藤錦
......苦笑い。まんまだ。これは俳句ではなし。
それはさておき、村上春樹氏の新作をもうお読みになりましたかぁ??
私はまだです。話題の本はあとまわしにするので、半年後にほとぼりがさめたとき、ゆっくり読みたいです。
で、爆発的売れ行きのこの本を購入している人に、TVレポーターがインタビューしていました。
「予約して購入した」というさ老若男女に聞いていたのですが、何人かが口をそろえて言ったコメントに、私は驚愕!(はい、おおげさです)
それは
「(村上春樹の本ならば)外れがないと思ったので」
というもの!!! 20代くらいの女性と、60代くらいの男性の両方が言ってましたよ。
ええええ! と目を丸くしてその映像を見た私は、そこで一つ大人になったのでした。
そうか、世の中の人は「外れないように」本を買うのだと。
そうか、そうなのか。本、しかも文学書もまた、投資(時間とお金)に見合った効果がないといけないものなのですね。あたりを求めてではなく、「外れがない」ように買うものなのですね。まるで、「話題になっているあの店のスイーツ」みたいな感じだ。
で、その「外れがない」というのは、期待、と受けとっていいのでしょうか?
そしてまた、読み終わったときに「外れがなかった」というのはなにがしかの満足感なのでしょうか? (少なくとも「感動」ってものじゃないように思うので、あえて「お客様、ご満足いただけましたでしょうか?」に対する答えとして書いてみました)
これはちょっとインテリっぽくていやらしい言い草だとわかっていながらあえて言えば、私は本の購入にあたって「あたりはずれ」は考えたことがないような気がします。もちろん買って半分ほど読んだところで「おもしろくない」「くだらん」「へたくそ」と投げ出す本はヤマとありますよ。でも、だからといって「外れた」とか「ああ、損した」とは思わないなあ。反対に、思いがけずおもしろい本に出会って「あたり!」と思うかといえば、それもちがう、ような気がする。「この本にめぐりあってよかったー!」と著者と出版社と、そしてその本を買ってきた自分に感謝するだけですね。
なんとなくだが、本に対して「あたりはずれ」という人って、「がんばった自分へのごほうび」とか「自己投資」が好きなんじゃないでしょうか。
でもって私は、その2つが嫌いなんだなあ。
ああ、そこかぁ。このなんともいえない違和感の理由は。
あてはずれ 刻印押されて 夏の雨




こんばんは、ときどきこのブログを読んでいます。前に何か翻訳関係の雑誌?か何かに連載していらしたのを読んで、面白い、好きな文章だなあ、と思ってました。
ところで「はずれがない」っていうの、私もテレビで見ていました。あと、「間違いないから」って言っていた人もいました。
そして、私もなんかもやもやとしたものを感じていたのですが、上の文章を読んで「そのとおり!」と思ったので思わずコメントさせていただきます。
でも私は「自分へのごほうび」は好きですけど・・・。というか、そういう言い訳を自分にしながら買い物しています。
海外在住者にとって(日本語書物の)読書は非常に贅沢な趣味なのです。よって「はずれ」に近い感情を抱くことはたまにあります。以前はある方の書評を頼りに購入し95%以上の確率で満足感を得られていた(いわゆる「あたり」ですね)のですが、その方に何かが起こったらしく書評が送信されなくなったため、最近は購入数がどっと減りました。
村上さんのははずれがない……。そっか~。私は異人だ。
olivaさん、はじめまして。ようこそ!もしかしてお読みいただいていたのは「体育会系翻訳者の部屋」とかいうのですか? いまフェローさんがWebでアップしてくださっています。URLが分からなくなってしまったけれど(汗)
文学は消費するものじゃないし、ましてや投資対象にはならない(してはいけない)と思うんですけれど、それはなかなか通じませんね。本を読む、というのは人間の生活のなかでどう位置付けたらいいのだろうか、と考えます。
Connyさんの場合には「あたり」「外れ」というのは言ってもいいような気がします。貴重な日本語の本ですもの。
海外旅行に行く時、そんなにもっていってどうする、というくらい日本語の本を持っていきます。移動時間中、就寝前、ヒマなとき、むさぼるように読んでしまって、たいてい帰りの飛行機では現地で買い求めた英語や仏語の本を読む羽目になる……。海外で読む日本語は格別美味です!
「本を読む、というのは人間の生活のなかでどう位置付けたらいいのだろうか」、という問いに、思わず考え込んでしまいました。
私は「アートは人間にとってなぜ必要なのか?」ということが心にひっかかっています。現在、あるアーティストを手伝っているのですが、「この不況時になぜアートか」というところで自分自身が信念を持てなくて協賛集めなどしても説得力あるプレゼンができません。…「本を読む」という作業が、作家が提示している世界を読者が受け取って消化する行為だとすれば、アートを鑑賞することにも通じるかなと思いまして、ちょっと書かせていただきました。
Olivaさん、つぶやきと思って聞いてください。
本(文学)を読むことや書くこと、と、芸術を創造したり鑑賞したりすること、この二つが同列に置けるかどうかはともかく、両方とも今の経済活動にpurelyに結びつけられるかどうかはむずかしい。というか、今まで経済システムとしてちゃんと成立していたことが歴史であったのだろうか?
書きたいものを書く、つくりたいものをつくる、というのは、それで生活を立てようとする人には許されないことじゃないかなぁ、とも思っています。
でも、読みたいものが読める、鑑賞したいものが鑑賞できる、という社会は人間がとても幸せに生きていける社会じゃないかなあ。