土曜日に京都で会議だったので、早めに出て京都国立博物館で「長谷川等伯展」を鑑賞してきました。東京では上野まで出かけたものの、90分待ちの表示に耐えられず、以前に「琳派」も京都なら40分待ちで見られたのを前夜ふと思い出し、6時起きで新幹線に飛び乗りました。
(長谷川等伯とは何の関係もないのですが、私はこの「ふと思いついて、いきなり旅立つ」というのも好きです。前々から準備をして、周到に調べて計画を練っていく旅行も好きなのですが、時間があいたので、いきなり出かけてしまう、というのもいい。えーなんでこれを書くかというと、6月が近付くにつれて、「ふと思いついて、南アフリカに旅立つ」私がいちゃうかもしれないな~なんていう布石です)
おかげで40分待っただけで入場でき、しかも待っている間は曇りながら京都の新緑に囲まれて気分よく、ヘニング・マンケルのさむざむしくおどろおどろしいミステリーを堪能できて、とてもよかった(のかホントに?)
京都の初日に訪れた父からは「波濤図がいい。単純な繰り返しながら、海の底から湧きおこってくるエネルギーを、波を描いた線から感じる」と言われていたのですが、私が圧倒されたのは(たぶん8割の人がお目当ての)「松林図屏風」でした。
最後に展示してあり、鑑賞者の平均年齢が(たぶん)70歳くらいでお疲れがたまってくるせいか、なぜかこの屏風の前は足早に通りすぎて行く人が多く、私は落ち着いてたっぷり30分鑑賞できました。
霧が立ち込めた山に、松の影が浮かび上がっている水墨画ですが、描かれているのは遠くの山影と松のみ。松の本数もさほど多くありません。霧が立ち込めた、といっても、霧そのものは目の錯覚かな、という程度薄い墨がのせられているだけです。それでも、その絵が晩秋、もしくは初冬の人里離れた山奥で、落葉樹はすべて葉を落とし、今にも雪が降りそうな曇天の午後である、ということは伝わってくるのです。画家とともに山の中腹に立って見上げると、動くのは流れていく霧だけ。鳥や獣はひそやかにねぐらに帰り、木々のざわめきも聞こえず、空の遠くのほうでかすかにごごご、という雪の到来を告げる音が聞こえてくる。自分もまた、霧に包まれて、それが現世なのか天界なのかがよくわからなくなってくる。そんな画です。
優れた作品には、目には見えないものが描かれている。
もう一度戻って、初期のころに描かれたという「山水図襖」を見に行き、あらためて亡くなる前に等伯が画家としても人間としても、一つ抜けた境地に達したのだ、と感じました。
みぞれに打たれながら早朝の新幹線に乗った価値ある長谷川等伯展でした。




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