Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

 私が18歳まで暮らした家の「子ども部屋」には、尚美堂という会社のカレンダーがかけてありました。尚美堂は海外の雑貨を輸入する会社だと私は長らく思っていたのですが、今調べたら主たる業務は外食、ホテル、レストランなど飲食用”紙製品”総合メーカーとあります。なぜそんな思い込みが生じたかというと、尚美堂のカレンダーには欧米をはじめとする海外のエキゾチックで美しい景色の写真が使われていて、てっきり海外に関係する業務の会社に違いないと思ったからです。確かに今も海外輸出入業務もやっているらしいけれど、メインは紙製品を製造・販売することだそうです。
それはともかく、今でも鮮明に覚えているのは、スイスアルプスでモンブランをバックに屋根にソフトクリームみたいな雪を乗せた山小屋が立っている写真です。スイス、モンブラン、雪、山小屋……写真に添えられたコメントを読みながら、うっとりとカレンダーに魅入っていた10歳の私。
「大人になったら、こんな景色を自分の目で見たい!」
そのころから「将来の夢は?」と聞かれると、「外国に行くこと」と答えるようになりました。そして私の中でむくむくと「外国への憧れ」が湧き起こってきたきっかけは、尚美堂のカレンダーと世界文学全集……だと思っていました。
ところが、昔のアルバムを整理しているうちに気づいたのは、父方の家族が代々海外留学していたことです。医師だった曽祖父は明治30年(1897年)から33年までドイツに留学していました。
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(曽祖父夫妻と長男である大伯父。ドイツに留学する大伯父の見送り? 大正時代の洋行の華やかさが感じられます)

同じく医師であった祖父は、英国留学に祖母と幼い息子たち(伯父と父)を同伴しています。
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(英国留学時代の祖父母と伯父。下宿先でしょうか?)
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(明治時代に留学していた曽祖父の影響か、長女だった祖母は「モダン」でした。昭和初期、祖父の留学に同行して帰国後に撮った写真らしいけれど、あまりのモダンさに圧倒されます)

父の兄である伯父の一家もアメリカで暮らしていましたし、父も母を伴ってアメリカに留学しました。父方の家系は欧米留学がマストだったのか? と思いたくなるほどです。私が「海外留学したい」と言い出したとき、両親はもちろん、祖父母も「女の子が一人で海外なんて」と反対するどころか、「ぜひ行け」と励ましてくれたのは、こういう家系だったからなのですね。
曽祖父はもちろん、祖父母から父母が留学した昭和30年代まで、外国には船で行くものでした。両親は幼かった私たちを母方の祖父母に預けて、夫婦2人だけでアメリカに2年間留学したのですが、当然のように船で1週間かけて太平洋を渡りました。神戸の港で、母の弟である叔父に肩車してもらい、船から投げられた紙テープを握ってデッキにいる両親を見送ったのを、おぼろげではありますが覚えています。
(アメリカに留学する両親を見送ったとき。親戚の女の子も一緒に写っています)
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(両親がアメリカに渡るとき、神戸の港まで見送りに行ったのをかすかに覚えています。甲板で写真を撮ったのは覚えていないのですが)

アメリカにいる両親からときおり送られてくるカードやプレゼントの人形や絵本や文房具や服が、日本ではまず見かけない彩り鮮やかでおしゃれなものばかりで、ああ、ガイコクはすごい、ガイコクに行けばこんなものであふれているんだと幼心に思った……と言えればいいのですが、実はそんなことはあまり考えませんでした。たとえ両親が滞在していたとしても、ガイコクはあまりにも遠い異世界で、子どもの頭ではとても想像が及ばなかった、というところでしょうか。
ただ唯一記憶に残っているのは、カードも含めてアメリカから送られてきたものには独特の匂いがしたことでした。私たち姉妹はそれを「ガイコクの匂い」と呼んでいたのですが、いったいあれは何のにおいだったのでしょう。日本の製品には決してないにおい。私にとっては、そのにおいこそがガイコクだったと思います。
その後、母方でも叔父がアメリカに留学し、母の妹夫婦も一家でアメリカに何年も暮らしました。海外から届く便りに、私の外国への憧れはかきたてられるばかり。世界文学全集をむさぼり読み、英語の習得にも力が入り、同級生が父親の転勤で海外に行くと聞くと激しい嫉妬にかられるほど。
いつか、日本ではないところに住んでみたい。ここではないどこかへ行きたい。高校生になるころには、その思いは単なる夢にとどまらず、「どうすれば実現できるか?」と必死に知恵をしぼる段階にまで至りました。
そして大学4年生でついに夢は実現し、フランスに1年間留学したのです。夢のような1年間でした。
でも、帰国したときにやっと気づいたこと、それは「洋行帰り」だけではどうしようもない、ということでした。外国に行って、何を得て、その経験や得たものをどう還元するのか。
曽祖父は、祖父母は、両親は、「洋行」をその後の人生にどう生かしたのでしょうか?
アルバムをめくりながら、問いかけています。


J1リーグはしばしの中断期間に入っています。この暑さですから、プレーする方はもちろん、観戦する側もたいへんです。寒さには衣服やカイロなどで対策は可能ですが、暑さは団扇くらいしか対策がない。暑いのが苦手な私は、夏の観戦がそろそろ辛くなってきました。
ということはさておき、2017年も半分(プラス1試合)が終わったので、中断期間を利用して振り返ってみたいと思います。灼熱の太陽を浴びながらでもスタジアムに行きたい! と思わせるガンバであってほしいという期待も込めて。

まずはベストゲームから。
私にとっては、3月5日 リーグの柏戦@柏の葉スタジアムです。
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3月1日に行われたACL vs 済州戦があまりにも、あま〜〜〜りにも酷い内容&結果だったし、しかも、ガンバが勝ったのをほとんどみたことがない柏の葉スタジアムだし。実は行くのがゆううつでした。でも、チケットをとってもらったし、席取り頼まれたし、行かざるを得なくなり、重い足取りで柏からの道をとぼとぼ一人歩いて行ったのでした。
そしたら、試合開始直後からガンバの選手が連動してプレスをかけ、奪ったらすばやく前に送るという見応えのある(あくまでガンバ側から見て)ゲームが展開され、すっきり完勝!! 済州戦の辛い思い出が消えました。また後日辛い思い出に塩を塗られるほど酷い試合をつぎつぎ見せられるのはそのときは知らず。この試合では今野選手がスーパーでした。「もしかして今野選手、今がキャリアハイ?」とか思いましたよ。その後日本代表に復帰。そこでもスーパーだったけれど、すぐに負傷してその後はまだ復活していません(涙)
最も印象深い試合the most impressive game、といえば、4月21日 vs大宮戦@吹田スタジアム 
今野選手が怪我、遠藤選手がスタメンを外れる、という両巨匠抜きの若手中心チームが躍動した、というだけではありません。その前に行われた大阪ダービーで、ナチス親衛隊のシンボルを使用したことで、この試合から応援がチャントと手拍子のみになった、ということでも記憶に刻まれました。
 スポーツと政治、またはスポーツと差別、について考えさせられることが多くなっています。スタジアムに政治を持ち込まない、差別的な表現をしない、それがどれほどむずかしいことなのかをあらためて自分に問い直した試合でした。
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最も酷い試合……ACLの試合はどれも甲乙つけがたい酷さでした。もうね、ああいう試合をしてしまうのはACLの他のチームに失礼なのではないかと思ったりしました。ACLでガンバが躍動していた時期がすでに遠くかすんでいます。 
リーグ戦では6月4日 vs磐田戦。「惨敗」という言葉が当てはまる惨めな敗戦でした。ガンバのミスばかりが目立ちましたが、なぜパスがミスになるのか、なぜ守備でミスが散見されるのか、そこをちゃんと反省しなきゃダメでしょ、と怒りが倍加したのが7月8日 vs清水戦でした。いや、鹿島戦や、勝ったもののヒヤヒヤだった仙台戦も含めて、うまくいかないガンバの試合で目につくのは、ミスmissというよりも物足りない(insufficient)ところです。
ミスとは、狙ったことがうまくいかないこと、作り出したチャンスを逃してしまうこと、という意味なのだけれど、そもそも最近のガンバの試合では狙いが見えないことが多い。もしくは同じことばかり狙っていて、相手に読まれてしまっている。それは戦術力やチーム力が物足りないからではないか。選手の能力は十分にあるはずなのに、チームとしての機動力が不足しているように感じられる。ミスをするまでにも至っていない、だから、試合後に(たとえ勝っても)ずっとモヤモヤしていて「最近のガンバはつまらんわー」とか文句を言ってしまう。まあね、ないものねだり、なのかな。

さて、暗くなってしまいそうなので、このあたりで切り上げて、前半のMOMを上げておきます。
 倉田選手です!
今季、10番を背負うと聞いたとき、いよいよ来たか、と思いました。二川選手とは違うタイプになるだろうと予想していましたが、予想通り、ファンタジスタ・タイプにはならなかった。むしろ、ゲームをコントロールしよう、という責任感をはっきり出すようになりました。ひさびさの「頼れる10番」かな。次のガンバを背負うのは倉田選手、と言い続けてきた私としては、「遅いよ!」と言いたくなってしまうのだけれど、自分がやるのだ、という気持ちを試合で見られるようになっておばさんはうれしいよ。
もはや「成長した」という段階を超えて、この選手なくしてはガンバは機能しなくなる、とさえ思わせる井手口選手。賢い守備とはどういうものかを毎試合見せるファビオ選手。ガンバらしいCBになることを期待させる三浦選手。この3人もMOMに加えたいです。
後半戦開始まであと2週間。よりいっそうの飛躍を期待してたいですね。 そしてそして、市丸選手の出場時間がもっと増えることを、期待しています!

書く気がしなかったのでブログにアップしていませんでしたが、ジュビロ磐田戦、清水エスパルス戦も現地観戦していました。いや〜〜〜どちらも最悪の内容でしたね。ミスミスのオンパレードだったし。帰りの3時間が辛かったこと。
現地生観戦での勝利は、4月30日のvs横浜戦以来の2ヶ月半ぶり。それも良い思い出の多いスタジアム、フクアリでの勝利だったので、感慨もひとしおでした。
しばらく中断期間に入るためか、中二日にもかかわらず、清水戦とはあまりメンバーを変えないで臨んだジェフ千葉戦。 ガンバがJ2にいたときに、フクアリで対戦したときには、米倉、大塚翔平、山口智と、よりにもよってガンバと縁がある3人に見事なゴールを叩き込まれての敗戦。「敗戦って、ガンバが負けたのか?」と聞きたくなるような3人の得点者ですね。そうか、フクアリには必ずしもいい思い出ばかりではなかったのかも。
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昨日の試合も、ジェフにもう少し決定力のあるFWがいたら、3−2くらいで負けてそうでした。特に2点目をとったあとからは防戦一方。ずっと向こうで試合が進んでいたので、何が何やらわからず、ヒーヒー、やばい、危ないよ、と叫んでいるうちに終了のホイッスルを聞いてホッとしましたよ。
昨日の試合のハイライトは、実は得点シーンではなく、センターバックの三浦がCK後にこぼれたボールを拾うなり、最終ラインから猛然とドリブルで駆け上がり、放った強烈シュートがポストに弾かれたところ。まさかCBの三浦があんなシュートを放つとは思ってもみなかったから、泉澤〜〜なんて叫んじゃいましたよ。ごめん、三浦!
そのシュートで目が覚めたのか、その後によくボールがまわってチャンスも増えたのように思います。後半のガンバ2点目、泉澤のゴールもすばらしかったけれど、帰途中、頭の中で反芻していたのは、三浦のドリブルからのシュートシーンでした。
それでも私の昨日のMOMは、得点者のファビオや泉澤でも、三浦でもなく、藤春です。 ずいぶんとお疲れの様子だったけれど、後半にチャンスと見ると駆け上がってくる姿にジンときました。初瀬と比べると、上がるタイミング、守備の察知能力なんかはまだまだ藤春の方が一枚上手だなあ。
次のMOMは倉田。井手口が前半の早い時間に負傷交代となり、泉澤が入ったことで今野とのダブルボランチになってから、試合のコントロールが見事でした。時間の使い方、ボールのさばき方、相手選手への対応など、キャプテンマークをつけているだけのことがある、とまた見直しました。ヤットさんとは違うタイプではあるけれど 、次の時代のガンバの色を出していくのは、たぶん、倉田なんだろうなあと思わせました。
さて、つぎは吹田スタジアムでのダービーです。吹田では初となります。しかも相手は首位。いい試合になりますように。 

「カラーテレビを買うたんは、ここいらあたりじゃウチが一番早かったんじゃ」
祖父のこの自慢をいったい何回聞かされただろう。1964年、東京オリンピックをカラーテレビで見るために、祖父は奮発した。初めてカラーテレビが実家にやって来た日、学校から小走りで帰宅すると居間にテレビがあり、祖父母や母が興奮したのか立ったまま眺めていたのを思い出す。今までの白黒テレビよりはるかに大きく、音も鮮明。カラーになると、一気に番組が華やいだように見えた。
「カラーテレビ買いはったんやって」とご近所や親戚がわざわざ見物にやってくることもあり、祖父は鼻高々だった。当然ながら、チャンネル権は祖父が握り、子どもたちが観たい番組を観せてもらうことは滅多にない。居間の隅に追いやられた白黒テレビでさえも、スイッチを入れるためには大人たちの許可が必要だった。テレビは魔法の箱と言われたが、子どもにとっては魔の箱だと実家では認識されていたのだ。
子どもが決して観てはいけない番組、それは大人たちが「テーゾク」のレッテルを貼ったものだ。お笑い系、歌謡番組、プロレスはテーゾクの最たるもの、とレッテルを3枚くらい貼られて「視聴禁止命令」が出る。つぎに夜8時には就寝させられたので、夜の番組も視聴禁止。基本、テレビではNHKとニュースしか観せてもらえない、という修道院のような家庭で私たち姉妹は育った。
しかし観てはいけない、と言われるとよけいに観たくなるのが子ども心。学校で友だちの話題にもついていけなくなる。近所でもっとも早くカラーテレビを購入した家だというのに、私たちは時代の波に乗れていないと歯がゆかった。小学4年生以後の子どもにとって、「まじめ」「カタブツ」のレッテルを貼られるのは拷問である。お笑いのギャグを知りたい、流行歌を口ずさみたい、アイドル(という言葉は当時はなかったが)が動いている姿を見たい……どれだけ願っただろう。
全面的ではないにしろ、願いがかなう日はまもなくやってきた。私たちが小学校高学年になってから、母も祖母も土曜日に外出をするようになった。祖父も父も仕事に行っている(当時土曜日が半ドン(→死語)の会社は少なかった)
学校から息急き切って帰ってくると、まず白黒テレビをつけて観るのが「吉本新喜劇」である。今調べたところ、12時からはうめだ花月劇場での公演が毎日放送で「花月爆笑劇場」として、13時からはなんば花月での公演が朝日放送で「お笑い花月劇場」としてテレビ中継されていた、とある。
私たちが観ていたのは13時からの放送だ。大村崑、白木みのる、財津一郎、ルーキー新一、花紀京などが、毎回お決まりのギャグを連発して、人情もののコントを演じる、という内容だった。テーゾクのレッテルを貼られるのがもっともな番組ではあったが、大人にとやかく言われずにテレビが見られるその時間は、子どもにとってのドリームタイム。土曜の昼ごはんは毎回レトルトのボンカレーと決まっていた。いそいそとそれをを温めて冷たいご飯にかけて食べながら観る吉本新喜劇。幸せ!(ちなみに私はカレーに生卵を落としたのが好きだった)
 日曜日の夕方からは、吉本の芸人たちが出演する「てなもんや三度笠」がテレビ放送されていて、これも観たかったけれど、もちろんテーゾクと一蹴されて観せてもらえなかったから、「花月爆笑劇場」はよけいに貴重だった。
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(日曜夕方6時から放送されていた「てなもんや三度笠」藤田まことと白木みのるはアイドルだった)

中学に進学すると、母親が外出することが増えたから、子どものテレビ独占タイムはぐっと増えた。中間や期末テストで早めに帰宅したときには、テスト勉強もそっちのけで昼間のテレビを見まくった。私がとりわけ楽しみにしていたのは、旧い邦画の放送だった。私が生まれた1950年代前半に制作された映画には、今も語り継がれるほどの名作が多く、1960年代後半によくテレビで放送されていたのだ。
「無法松の一生」「名もなく貧しく美しく」「次郎物語」「にあんちゃん」「喜びも悲しみも幾歳月」「青い山脈」「二十四の瞳」……今もすらすらとタイトルが出てくるだけでなく、印象に残った場面がくっきりと思い出せる。「名もなく貧しく美しく」で、聴覚が不自由な高峰秀子が、聴くのも話すのも不自由な小林桂樹に電車の窓ガラス越しに手話で愛を伝えるシーンは、今思い出しても泣ける。
映画を見たのがきっかけで、原作となった本も愛読書になった。下村湖人の「次郎物語」や安本末子の日記「にあんちゃん」や石坂洋次郎作品は取り憑かれたように読みまくった。テレビがきっかけで本を読む、というのが当時の私の読書パターンだったのだ。
テーゾクのレッテルを貼られず、親と一緒に観られる番組もあった。その中で一番よく覚えているのが、「ベン・ケーシー」だ。日本では1962年から1964年までTBS系列で放送された、とある。脳神経外科医の ベン・ケーシーが、医師として成長していく物語だったが、なぜ8〜10歳の私にこの番組の視聴が許されたか、というと、父が医師だったからにちがいない。日本でも視聴率が50%を超えるほどの超人気ドラマで、放送の翌日には学校の友だちと前夜の内容を反芻するのが楽しみだった。ベン・ケーシー医師が来ているスタンドカラーの白衣がたまらなくカッコよくて、父に「あれを着てほしい」と頼んだけれど「くだらん」と一蹴された。
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(ベン・ケーシーは医療ドラマの原型だったと思う。私はその後も「ER」にハマったし、今も「シカゴ・メッド」を録画している)

1960年代後半から1970年代初めにかけて、テレビは未知の世界に開かれた窓だった。地方都市に暮らすティーンエイジャーにとって、学校や家庭以外に世界があることを教えてくれるのは、テレビと本だった。ここではないどこかへ行きたい、知らないことを知りたい、そういう衝動を与えたのがテレビだった。洗濯機や冷蔵庫など、その時代に実家にやってきた家電はあるけれど、「新しい時代」を感じさせたのはテレビだったと思う。
だが、チャンネル主導権は常に他の家族が握っていた。実家にいたときには祖父が、独身時代は寮で暮らしていたから寮母が、結婚してからは夫か子どもがチャンネル権を握っていて、私が観たい番組を観ようとすると、たいてい抵抗にあった。「好きな番組を好きなだけ観たい」と願い続けたが、40歳くらいのときに録画機を購入すると、憑き物が落ちたようにテレビへの執着が消えた。今もテレビを見るが、見るのはサッカーと録画して見る映画くらいだ。
家電としてのテレビの役割や力も大きく変わった。「テーゾクだ!」と当時の大人たちは情報を遮断する力があったが、インターネット時代にそんな権力行使は使えない。そもそもテレビは一人に一台の時代となって久しいし、子どもたちは観たいものを観たいときに、誰にも邪魔されずに好きなだけ観られる……でも、それってあまり幸せな環境でないように思う。 知りたいという気持ちも削がれるし、未知の世界への夢も描けなくなるのではないか。まあ、そんなことは昭和の生き残りのたわごとですね。

妹は動物好きだ。子どもの頃からさまざまな動物をペットとして飼っていた。鳥はカナリアや文鳥をつがいで飼って雛をかえしていたし、学校が休みのときはクラスで飼っていた九官鳥を家に連れ帰って世話をしていた。
金魚も飼っていたが、すべて近所の商店街の金魚屋さんがやっている金魚すくいで妹が「稼いできた」ものばかりだった。いま記憶をたどってみても、はたしてそこが「金魚屋」だったかはわからないのだが(駄菓子屋だった?)、店先には真冬以外、金魚の水槽が出ていて、夜店に行かずとも金魚すくいが楽しめた。代金は1セット10円、100円で11枚綴りの券が買えた。小学生だった私たちの1ヶ月のお小遣いは300円だったから、たったの数分で終わってしまう金魚すくいはたいへんに贅沢な娯楽だったといえる。
ところが妹は、ほとんど「ただ」で毎日のように金魚すくいを楽しんでいた。金魚屋は、10匹すくうと金魚1匹、もしくは1枚券をプレゼントしてリピーターを増やそうとしていた。妹は1ヶ月分のお小遣いをつぎこんで毎日のように練習し、たちまち腕をあげて、すぐにやすやすと10匹すくってはもう1枚券をもらうまでに上達した。1ヶ月後には、毎日ただで金魚すくいがやれるまでの腕前となり、「金魚すくいあらし」の異名をとったのだった。
金魚屋のおばさんは内心閉口していたのかもしれないが、妹が友だちを連れてきたこともあって「特待生」として扱ってくれた。そのうち金魚すくい用の水槽にいる金魚ではなく、店の奥から特別に出してきた丈夫な金魚を分けてくれるまでの特別扱いとなり、家の瓶にはひたすら巨大化する立派な金魚が泳ぐようになった。

鳥と金魚程度までは許可が下りたものの、犬を飼うまでには紆余曲折があった。祖母が犬嫌いだったし、母もペットにまったく興味がなかったからだ。
だが、父が犬好きだったことから、妹の「犬を飼いたい」という懇願についに母や祖母が折れ、ある日紀州犬が我が家にやってきた。
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真っ白い優美な姿から、紀州のお姫様犬だね、ということで「多鶴(たづ)」と命名。血統書まで付いていたので、さぞかし品と行儀のいい成犬となり、立派な番犬となるだろうと期待は高かった。
ところが、である。躾をしなければ、血統書なんか何の意味もない、ということを私たちはすぐに思い知る。裏庭に立派な犬舎を作ってもらったたづは、やがてそこで惰眠をむさぼるばかりになる。学校から帰って、さあ、散歩に行こうと犬舎に行くと、木でできた屋根付きの犬小屋から、半身をコンクリ床の方に出して眠っている。寝相が悪いから、起き上がっても手足が痺れているらしく、すぐには歩けなかったりする。だから犬舎から私たちを見て尻尾は振るものの、すぐに駆け寄ってくるわけではない。
ようやく手足のしびれがとれるやいなや、今度は一気にハイテンション。犬舎の中で何とか鎖をつけるものの、いったん外に出たとたん、私たちを振り切って裏の畑に突進。祖母が丹精して育てている野菜畑を縦横無尽に駆け回り、用を足して気持ちが落ち着くと、鎖をジャラジャラ言わせながら戻ってきて「さあ、外に行こう!」と催促する。その時点で私たち姉妹は、今日はたづはどんなことをやらかすだろうか、とすでに不安に駆られるのだが、やむなく鎖をとって外に出る。
たづは最初の10分は鎖を、というか、私たち姉妹をめいっぱい引っ張って、「早く、早く、あっちに行こう! いや、こっちだ!」と振り回す。白目をむき、舌を出して、ゼーゼーゼー言いながら全身で私たちを引っ張る、いや、引きずるのである。さほど人通りはないとはいえ、一応は公道。たまに人と行き交うと「あらあら、ワンちゃん、そんなに引っ張られてずいぶん苦しそうね」とか言われる。違うっ! 引っ張られているのは私たちだ! と言いたいところだが、そんな余裕はなし。思春期まっただなかの私たちはたまらなく恥ずかしい。優雅に犬を散歩させている令嬢たちでいたいのに、犬に引きずられまくってオタオタしているガキだ。血統書が聞いてあきれるよ! いや、躾がまったくできなかった私たちがいけないのだが。
ところが、である。たづは自分も犬のくせに犬嫌いなのだ。というか、犬が怖いのだ。むこうから犬がやってくると、先ほどまでの勢いはどこへやら、いきなりしおしおと私たちのかたわらにやってきて、横目で相手の犬をチラチラ見ながら影に隠れようとする。尻尾は完全に下向き。自分よりずっと小さい犬にまで怯えて、こそこそと電信柱の影に隠れてやり過ごそうとする。
吠えられでもしようものなら、もうたいへん。私たちを見上げて、「ちょっとぉ、あの犬、私に向かって吠えてるんだけれど、叱ってやって」と言わんばかりにからだをすり寄せる。もうっ、根性なしっと腹が立つが、実は私も犬がこわいのでやむなくしゃがんでおんぶしてやるのだ。
子犬だったとき、大きな犬に吠えられて、怯えるたづをおんぶしたのが大きな間違いだった。しかも、おんぶした私が、たづの代わりに吠えてきた犬に吠え返したのだ。
相手の犬、私の吠え声に衝撃を受けてしばし沈黙。犬の飼い主も仰天。
若き乙女 犬をおぶって 犬と吠え合う
お粗末、っていうかなんの冗談か!
以来、吠えられたら私たちがおんぶしてくれる、と思い込んでしまったお犬様。子犬のときはともかく、成犬になってからのおんぶはかなりきつい。しかも、おんぶされたとたんに気が大きくなって、いきなり相手の犬を威嚇したりする。まさに虎の威を借る犬。私の肩に前足を食い込ませ、伸び上がって「ウウウウウ」と歯をむき出すとか、いったい何様? 襲いかかられたらこっちはどうしたらいいんだよ。たいていは相手の犬の飼い主がそそくさと犬を連れて行ってくれるから助かるのだが、もう恥ずかしいったらない。
そのあたりで私たちはもうヘトヘトであるが、まだ最後の難関が待ち構えている。そろそろ帰路につく、とわかったとたん、たづは道路に寝そべるのである。しかも道路の真ん中に、ドタッと寝転ぶのだ。おなかを出してあられもない姿で。車が来ると、私たちは二人がかりで道路脇まで引きずる。犬、起き上がる気配なし。引きずったまま家まで帰るのだが、途中で「あら、ワンちゃん、かわいそう」とか言われること数回。いちいち大声で、「もう十分散歩したでしょ」「家に帰ってご飯食べよ!」と声をかけるものの、どこ吹く風。「あたしは帰りませんからねっ。何があっても帰りませんからねっ」」とばかりに引きずられていく。
 そんな調子だったから、私は散歩に行くのを渋るようになり、妹1人に世話を任せるようになった。たづは次第に家族の中で忘れられた存在になり、やがて父が転勤して徳島に行くと、たづは父の実家に引き取られた。余生はどうだったのだろう。そのときには私はもうたづのことなどすっかり忘れ、東京で大学生活をエンジョイ(死語)していた。
 結論と反省:たづには本当に気の毒なことをしてしまった。私はもう一生犬は飼わないし飼えない。というか、私はペットを飼うのではなく、飼われるタイプである、と悟った。
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