Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

最近の若者はあまりお酒を飲まない、といいます。ほんとか?と疑いながらも、たしかにぐでぐでに酔っ払っている若者はぐっと減った気がする、というのは私があまり若者が行く繁華街に行かないせいでしょうが、同時に酔うことをみっともないとする緊張感が強い社会になっているせいかも。
私自身も思い切り飲むということがなくなりました。少し飲むと、気持ちよく酔う前に自己制御してしまう。羽目がはずせない。その上少しでも過ごすと具合が悪くなる。寂しいです。楽しく酔っ払って、笑いころげていられたのは40歳でおしまいだったかな?
と、こんなことを書いてケータイから投稿しているのは京都からの帰りの車中です。なんとまだ9時すぎなのに酔っ払いがいるのです。くだまいている人やら、大声でしゃべっている人やら。久々にそこまで酔っ払っている集団を見ました。大阪にはまだ酒に酔うという、ある意味ぜいたくを味わえるおおらかさが残しているのかもしれません。

「ある家族の会話」

ナタリア・ギンズブルグ著

須賀敦子訳

白水Uブックス

 

 何回も読み返したい本というのは少ないけれど、この本は読むたびに感動があらたになる。思わず声を出して笑い、同じ行を何回も読んで涙し、幸せな気持ちで本を閉じることができる稀有な本だ。

 ナタリア・ギンズブルグは1916年、イタリア北部の街、トリノで生まれた。父はユダヤ系イタリア人でトリノ大学医学部解剖学教授だったジュゼッペ・レーヴィ。母はミラノ生まれのリディア。ジーノ、マリオ、アルベルトの3人の兄と姉のパオラがいる5人兄弟の末っ子だった。本書は、17歳のころから小説家を志していたナタリアが、人生の円熟期に書いた自分の家族の回想記である。Lessico Famigliareという原題にあるように、家族間、とくに両親の間での会話が中心である。

 語られていることは、子どもたちの話が7割で、あとの3割が友人や使用人たちのこと。お父さんはすぐにキレる人で、子どもたちが粗相をすると「ぶざまなことをするなっ!」と怒鳴り、気に入らないことをすると「愚かものが!」「なんというロバだ、おまえは!」とわめく。

お母さんは子どもたちが何をやっても「私の○○」と呼んで目を細め、お父さんからかばう。たとえばアルベルトという3男は、サッカーと女の子にしか興味がなくてちっとも勉強しないし、すぐに二男のマリオととっくみあいの喧嘩をするしで、お父さんが気に入らないことこの上ない。「アルベルトはロバだ。あいつはどうしようもない愚かものだ」とお父さんがこきおろすと、「あら、私のアルベルトはいい友だちがいっぱいいるのよ。あの子は勉強がよくできる、しっかりした友だちをつくる才能があるの」とかばうのだ。

一方で、お母さんは子どもたちにかまってもらえないとすねて、とくに長女のパオラが友だちと出かけたりすると「私とちっとも遊んでくれない」とむくれたりする。次女で末っ子のナタリアについては「あの子はちっとも私に話してくれない。なんでも勝手にやっている」と嘆く。

お父さんが家族全員を引き連れて山歩きをし(長男以外はこれが苦痛で、二男と三男はぜったいに行かない)、お母さんがショッピングに出かけ、使用人が家事を取り仕切るブルジョワの家庭が描かれるのだが、3分の1を過ぎるころから、レーヴィ家の上に戦争の暗い影が落ちてくる。イタリア北部で1930年代にユダヤ系として生きること、しかも反ファシストの社会主義者を表明することの危険が、日常の会話のなかからも緊張感をもって伝わってくる。政治には何も関係なさそうだった二男のマリオが、勤務先のスイスから社会主義的な文書をイタリアに持ち込もうとして逮捕され、危機一髪で川に飛び込んで逃げて助かるくだり。息子たちの友人がつぎつぎ投獄され、家族の親しい友人だった社会主義者のトゥーラティが偽名でレーヴィ家にひそみ、亡命していく場面。そして息子たちを釈放してもらおうとかけあっているうちにお父さんも投獄され、なんとなくそれが自慢げだった様子が語られる。

ナタリアは出版社勤務のロシアからの移民のユダヤ人、レオーネ・ギンズブルグと結婚し、子どもが生まれる。しかしレオーネは当局に目をつけられて何回も投獄され、挙句に南部の寒村に家族全員で流刑された。やがてドイツ軍がイタリアに侵攻し、ローマに逃げて地下運動を行っていたレオーネは、ナタリアたちがローマで合流してから20日後に逮捕され、拷問を受けて獄死する。

この箇所を書くのはナタリアは相当つらかったのだと思う。何回も読み返して、ようやくレオーネの死の模様が私は理解できた。

 

何回読んでも私が涙する箇所がある。

流刑地で幼い子どもとともに、心細い日々を送っていたナタリアのもとに、両親は何回も訪ねてきては励まし、生活を援助し、なんとかしてやりたいと一生懸命やってくれる。でも当局ににらまれているレオーネはたえず逮捕されているし、自分たちの息子たちもあちこちに流刑されたり、投獄されていて、助けるにも限度がある。

そんなとき、ナタリアは気づくのだ。

「母もどうすれば私たちを助けられるのかわからず、おびえきっていた。そのとき私は生まれてはじめて、だれももう自分を守ってくれることはできないのだと、自分で道を切りひらく以外方法はないのだということに気づいた。そのときはじめて私の母にたいする愛情の中には、私が困っていればかならず母が私を守ってくれ、助けてくれるという確信が深く根ざしていたことに気がついた。そしていま私の中には、それまで自分が持っていた保護への願望と期待がさっぱりと消え去ったあとの純粋な愛情だけが残っていた」

この文章に何か言うのは野暮なこと。それこそジュゼッペ父さんに「なんというロバだ」と怒鳴られそうなので何も言わない。

この本はまた何回も読み返しそうな予感がする。

左側のコラムでも紹介していますが、今週土曜日に乳房文化研究会の定例研究会が京都で開かれます。

お時間のある方はぜひお越しください。

私もちょこっとしゃべります。私のテーマは「モラヴィア4事件に見るアメリカの乳房観」

ほら、そこのあなた「モラヴィア4事件って、なに?」と知りたくなるでしょ(笑) そういうかたはぜひいらっしゃいませ。

いまPowerPointで資料をつくったのですが、なかにはおっぱいの写真&イラスト(ジツカワ画伯制作)を入れてお茶をにごして華やかに彩ってみました。

ほかの講師のみなさんは立派な先生方なのですが、そのなかにあって私はボケ担当門外漢から一言、という役割のようです。巨乳に見えるファッションで行こうっと......と書いて客寄せパンダの役目も果たそう。

詳しいことはこちら→

http://www.wacoal.jp/company/nyubou-bunka/public/index.html

内容を貼り付けておきますね。

「乳房をめぐる犯罪と法律」

水島幸子先生(水島綜合法律事務所 所長/弁護士)
四宮章夫先生(弁護士法人淀屋橋・山上合同 弁護士/京都産業大学法科大学院 教授)
大島俊之先生(弁護士法人淀屋橋・山上合同 弁護士/九州国際大学法学部 教授)
実川元子先生(フリーランスライター・翻訳家/乳房文化研究会運営委員)

以前から取り上げてみたいと思っていた課題の一つが、乳房をめぐる犯罪や法律の問題です。ただ、犯罪、殊に性犯罪に関わる問題は、なかなか具体的事実に基づいて、言い換えれば、実例を挙げて、取り上げにくい課題でした。あえて挑戦しようとしたのですが、例えば法医学の立場などからはまだ生々しすぎ、また、加害者や被害者が推定しうるような事例も少なくなく、プライバシーの問題などを考慮すると難しい課題です。でも、乳房をめぐる犯罪や事件、法的事案は間違いなく存在します。そこで、今回は法律家にご講演いただき、こうした問題を可能な限り取り上げて見ます。

たとえば、乳房は性器なのでしょうか? 生殖器との法的扱いの違いとその根拠は何なのでしょう? 映画などでの乳房と性器の扱いも大きな差がありますし、歴史とともに変遷もしてきています。実際の性犯罪での乳房の扱いはどうだったのでしょう? 生殖器とはどう違ったのでしょう? 人前での乳房の露出は公然わいせつなのでしょうか? 海水浴場でのトップレスや混浴の温泉などでは、法律はどうなるのでしょう? 性差と法律上の平等性・特殊性の扱いは、胸に関してはどうなっているのでしょう? 性同一性障害をはじめとして性の多様性が問題となる中で、単純な生物学的性差で価値を分けていいものでしょうか? もし乳房の露出が犯罪を構成するとして、乳頭さえ出なければ公然わいせつにはならないのでしょうか? ニップレスで乳頭だけ隠せば問題ないのでしょうか?とすれば、男性の乳頭の露出が許されることの法的根拠は何なのでしょう? 透けるとか突起が判別できるような衣類は、性的興奮をもたらしうるのでしょうが、法的には問題ないのでしょうか? 人前での、例えば電車の中での授乳は公然わいせつになるのでしょうか? 時代とともに概念や扱いはどう変遷したのでしょうか? さらに、乳房の法的価値はいかほどなものなのでしょうか? 形成手術の失敗などの裁判での扱いはどれほどのものなのでしょうか? 女性の顔や他の部位などとの違いは如何様なのでしょう?

多くの疑問や問題が存在します。こうしたことの一つ一つを、法律家の立場から、以前に性同一性障害について先駆的で素晴らしいご講演いただきました、弁護士の大島俊之先生を中心に、お話いただきます。恐らく、法律家の世界でも、あまり真正面から考えたり議論したりしたことのない課題ではないでしょうか。また、性犯罪に関する内容も含む「巨乳はうらやましいか?」を翻訳・出版された本会運営委員・実川元子先生からも話題提供をいただきます。どうぞご期待いただきますように。そして違った世界、ジャーナリズムや法医学の立場からも、面白い議論が出ることを期待しています。

オーガナイザー:会長 田代 眞一


日 時
2008年1月26日(土)14:00~17:10(開場:13:30)
場 所
(株)ワコール本社ビル 2階 会議室
(京都市南区/JR東海道本線「西大路駅」から徒歩4分)
定 員
100名
問合せ
乳房文化研究会 事務局 TEL 075-682-1178
主 催
乳房文化研究会
協 賛
株式会社ワコール

「グッドナイト&グッドラック」

ジョージ・クルーニー監督作品

 

「もしもテレビが娯楽と逃避のためだけにあるのだとしたら、それはテレビがいずれ滅びるということを意味するのです」

主演のエド・マローが演説の最後にいうこの一言。彼がこう言ってから半世紀たち、いまその「予言」は的中してしまった。滅びる、というのが物理的に「なくなる」ということではない。「影響力を失う」という意味だけでもない。(「なくなる」も「影響力を失う」もある程度あたってしまっているけれど)

この映画を監督したジョージ・クルーニーが訴えたかったのは、「メディアとしての基本」がテレビ界において滅びてしまった、ということだ。それは何も娯楽と逃避だけを提供しているからではない。スポンサーと政治的・経済的圧力に負けて、報道の「節度」を失ったことを意味している。

マッカーシー上院議員の赤狩りはたしかに異常なことではあったが、非常にわかりやすい異常さだった。いまは異常にみんな慣れてしまっただけでなく、上手に隠ぺいされて異常事態が進んでいく。いまならメディアが主体的に赤狩り的異常な言論統制をすることだってらくらくできてしまうだろう。クルーニーはこの映画でそれを危惧して警鐘を鳴らしている。

テレビだけではない。インターネットも同様で、ディレクターもキャスターもいないところで、「世論」という怪物はどんどん流れていってしまう。いや、そんなことより、娯楽と逃避を提供するメディアが増えて、エド・マローがいうようにますます人々はインテリジェンス=知性をなくしていってしまう。

70歳にしてパソコンをいじりはじめた母が、インターネットを使いながらある日いった。

「前はテレビを見ていたらバカになると思っていたけれど、インターネットはもっと人の思考力を奪うね。ボケはここから始まるかもしらんわ」

50代で亡くなったエド・マローがいまもしこのメディア状況を見ていたら、なんというだろうか?

やっと見られました。推薦してくださった方がおっしゃっていたとおり、すぐれた作品でした。通訳をしている友人が、仕事でジョージ・クルーニーの話を聞いて絶賛していました。「アメリカの知性と良心」だって。「オーシャンズ」ではなく、この作品こそ見てほしいですね。

ところで、最近「今日の夕飯」を書いていませんが、今日はん? ちょっとうまくない? と我ながらうまくいった一品があったので書いておきます。

菜の花とささみの和えもの

新鮮な鶏のささみを酒と塩で下味をつけておく。

片栗粉を薄くまぶして、沸騰した湯で1分ほどゆでて取り出して氷水でしめ、キッチンペーパーで水気をとる。

菜の花はさっとゆがいて、1センチほどにきざむ。

ささみは細く切って(中はが少しなまっぽいけれど、熱は通っているくらい)、すりごま、たたいた梅干しと辛子であえる。辛子よりマヨネーズを入れたほうが喜ばれるかも。

 

やっと水本裕貴選手の完全移籍加入が公式に発表になり、ガンバのスタメンがアップできることになりました。

私が予想してどうなるってもんじゃないけれど、、ま、そこはサポのシーズンオフ期間のお楽しみってことで。

2008年ガンバはリーグ戦、ナビスコ杯に加えてACL(アジアチャンピオンズリーグ)に参戦が決定しており、シーズン前にもハワイでアメリカと中南米のチームとパンパシフィックなる大会への出場、夏に東京でアルゼンチンのチームと国際試合をすることが決まっています。どの年代にも日本代表を数多く出しているガンバは、W杯予選と北京オリンピックに選手をもっていかれることも覚悟しなくてはならない。

そこで、4種類のスタメン予想をしてみました。

リーグ戦4-4-2

 

―――――――藤ヶ谷――――――

 

加地――ミネイロ――山口――安田(兄)

 

     明神―――――橋本

  

  遠藤―――――――――――二川

 

     ルーカス――――バレー

 

単純に2007年の布陣で、抜けたシジクレイのあとに新規加入のミネイロ、マグノ=アウベスのところにルーカスをもってきただけです。ある意味、安全ではあるけれど、もしこのままだとしたらあまりに能がない。だいたい読まれているしね。

だから<基本>としてとっておくでしょうが、ずっとこれを基本のまま使い続けることは考えられないでしょう。そんなことしていたら、また去年までの二の舞だし。

そこで考えるのが、同じ4-4-2でも若手を抜擢していく形。

②新規 4-4-2(括弧内はターンオーバー・代表組が抜けたとき)

 

 ―――――――藤ヶ谷――――――

 

  加地――ミネイロ――山口――下平

  (佐々木)   (中澤)   (水本)

 

        明神

       (武井)    

 

  寺田――――――――――遠藤

                     (安田兄)  

            二川

          (倉田or安田弟)

 

         ルーカス

      バレー

      (平井)

 

昨年、リーグ戦終盤と天皇杯でも試したダイアモンド型の4-4-2です。

中盤の底にワンボランチ。両翼とトップ下でダイアモンド型を形成し、2トップを並べるのではなく、片側が1・5列くらい少し下がった位置にいてトップ下と連携する、という形。

ルーカスの特徴を活かし、バレーの高さを狙うのであればこれではないかと。

今季はCBの本職をとったし、明神様というボールを狩りまくる職人がいるので、守備が安定しています。

攻撃陣が自由に動き回れる意味でも、かなり期待ができそうです。

また、代表組が抜けたときのバックアップ要因も十分。

 

③リーグ戦 3-5-2

 

―――――――松代――――――

 

   中澤―――水本―――山口

   (青木)(ミネイロ)(福元) 

         

      明神―――橋本

      (武井) (遠藤)

  遠藤―――――――――――安田兄

  (寺田)         (安田弟)

        二川

       (倉田)

             ルーカス

     播戸

     (平井)

 

良し悪しはともかく、ガンバは対戦相手に合わせたサッカーをやらないのですが、ときにはそれも必要なときがあります。スピードのある強力3トップを並べてくる、たとえば川崎のようなチームには3-5-2で、ボランチの位置にも守備的な選手をおいてがっつり押さえることも必要でしょう。

前線からの守備も重視することを考えて、こういう3-5-2もあるかも。

 

④4-4-2 こじあけ超攻撃布陣

 

 

―――――――松代――――――

 

佐々木――水本――山口――安田兄

 

       遠藤

 

  寺田――――――――――二川

 

              ルーカス

 

      バレー

 

守備は2CBとGKに任せ、あと8人で攻めまくる、という布陣です。引いて守ってくる、たとえばACLのタイには効く......かもしれません。大明神と加地先生を休ませても大丈夫なときに。

 

と、ここまで書いてきて、私のなかで「ガンバのなかでこの選手だけはどうしても外せない」と思っているのが「山口」と「二川」であることがわかりました。

山口の後継者は「水本」とはっきりしているし、遠藤の代わりは倉田がいる。

でも、二川の代わりが思いつかない。安田弟が成長するのを祈っています。

 

と、ガンバに興味のある人だけに興味のある話でした。

 

       

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