Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

左側のコラムでも紹介していますが、今週土曜日に乳房文化研究会の定例研究会が京都で開かれます。

お時間のある方はぜひお越しください。

私もちょこっとしゃべります。私のテーマは「モラヴィア4事件に見るアメリカの乳房観」

ほら、そこのあなた「モラヴィア4事件って、なに?」と知りたくなるでしょ(笑) そういうかたはぜひいらっしゃいませ。

いまPowerPointで資料をつくったのですが、なかにはおっぱいの写真&イラスト(ジツカワ画伯制作)を入れてお茶をにごして華やかに彩ってみました。

ほかの講師のみなさんは立派な先生方なのですが、そのなかにあって私はボケ担当門外漢から一言、という役割のようです。巨乳に見えるファッションで行こうっと......と書いて客寄せパンダの役目も果たそう。

詳しいことはこちら→

http://www.wacoal.jp/company/nyubou-bunka/public/index.html

内容を貼り付けておきますね。

「乳房をめぐる犯罪と法律」

水島幸子先生(水島綜合法律事務所 所長/弁護士)
四宮章夫先生(弁護士法人淀屋橋・山上合同 弁護士/京都産業大学法科大学院 教授)
大島俊之先生(弁護士法人淀屋橋・山上合同 弁護士/九州国際大学法学部 教授)
実川元子先生(フリーランスライター・翻訳家/乳房文化研究会運営委員)

以前から取り上げてみたいと思っていた課題の一つが、乳房をめぐる犯罪や法律の問題です。ただ、犯罪、殊に性犯罪に関わる問題は、なかなか具体的事実に基づいて、言い換えれば、実例を挙げて、取り上げにくい課題でした。あえて挑戦しようとしたのですが、例えば法医学の立場などからはまだ生々しすぎ、また、加害者や被害者が推定しうるような事例も少なくなく、プライバシーの問題などを考慮すると難しい課題です。でも、乳房をめぐる犯罪や事件、法的事案は間違いなく存在します。そこで、今回は法律家にご講演いただき、こうした問題を可能な限り取り上げて見ます。

たとえば、乳房は性器なのでしょうか? 生殖器との法的扱いの違いとその根拠は何なのでしょう? 映画などでの乳房と性器の扱いも大きな差がありますし、歴史とともに変遷もしてきています。実際の性犯罪での乳房の扱いはどうだったのでしょう? 生殖器とはどう違ったのでしょう? 人前での乳房の露出は公然わいせつなのでしょうか? 海水浴場でのトップレスや混浴の温泉などでは、法律はどうなるのでしょう? 性差と法律上の平等性・特殊性の扱いは、胸に関してはどうなっているのでしょう? 性同一性障害をはじめとして性の多様性が問題となる中で、単純な生物学的性差で価値を分けていいものでしょうか? もし乳房の露出が犯罪を構成するとして、乳頭さえ出なければ公然わいせつにはならないのでしょうか? ニップレスで乳頭だけ隠せば問題ないのでしょうか?とすれば、男性の乳頭の露出が許されることの法的根拠は何なのでしょう? 透けるとか突起が判別できるような衣類は、性的興奮をもたらしうるのでしょうが、法的には問題ないのでしょうか? 人前での、例えば電車の中での授乳は公然わいせつになるのでしょうか? 時代とともに概念や扱いはどう変遷したのでしょうか? さらに、乳房の法的価値はいかほどなものなのでしょうか? 形成手術の失敗などの裁判での扱いはどれほどのものなのでしょうか? 女性の顔や他の部位などとの違いは如何様なのでしょう?

多くの疑問や問題が存在します。こうしたことの一つ一つを、法律家の立場から、以前に性同一性障害について先駆的で素晴らしいご講演いただきました、弁護士の大島俊之先生を中心に、お話いただきます。恐らく、法律家の世界でも、あまり真正面から考えたり議論したりしたことのない課題ではないでしょうか。また、性犯罪に関する内容も含む「巨乳はうらやましいか?」を翻訳・出版された本会運営委員・実川元子先生からも話題提供をいただきます。どうぞご期待いただきますように。そして違った世界、ジャーナリズムや法医学の立場からも、面白い議論が出ることを期待しています。

オーガナイザー:会長 田代 眞一


日 時
2008年1月26日(土)14:00~17:10(開場:13:30)
場 所
(株)ワコール本社ビル 2階 会議室
(京都市南区/JR東海道本線「西大路駅」から徒歩4分)
定 員
100名
問合せ
乳房文化研究会 事務局 TEL 075-682-1178
主 催
乳房文化研究会
協 賛
株式会社ワコール

「グッドナイト&グッドラック」

ジョージ・クルーニー監督作品

 

「もしもテレビが娯楽と逃避のためだけにあるのだとしたら、それはテレビがいずれ滅びるということを意味するのです」

主演のエド・マローが演説の最後にいうこの一言。彼がこう言ってから半世紀たち、いまその「予言」は的中してしまった。滅びる、というのが物理的に「なくなる」ということではない。「影響力を失う」という意味だけでもない。(「なくなる」も「影響力を失う」もある程度あたってしまっているけれど)

この映画を監督したジョージ・クルーニーが訴えたかったのは、「メディアとしての基本」がテレビ界において滅びてしまった、ということだ。それは何も娯楽と逃避だけを提供しているからではない。スポンサーと政治的・経済的圧力に負けて、報道の「節度」を失ったことを意味している。

マッカーシー上院議員の赤狩りはたしかに異常なことではあったが、非常にわかりやすい異常さだった。いまは異常にみんな慣れてしまっただけでなく、上手に隠ぺいされて異常事態が進んでいく。いまならメディアが主体的に赤狩り的異常な言論統制をすることだってらくらくできてしまうだろう。クルーニーはこの映画でそれを危惧して警鐘を鳴らしている。

テレビだけではない。インターネットも同様で、ディレクターもキャスターもいないところで、「世論」という怪物はどんどん流れていってしまう。いや、そんなことより、娯楽と逃避を提供するメディアが増えて、エド・マローがいうようにますます人々はインテリジェンス=知性をなくしていってしまう。

70歳にしてパソコンをいじりはじめた母が、インターネットを使いながらある日いった。

「前はテレビを見ていたらバカになると思っていたけれど、インターネットはもっと人の思考力を奪うね。ボケはここから始まるかもしらんわ」

50代で亡くなったエド・マローがいまもしこのメディア状況を見ていたら、なんというだろうか?

やっと見られました。推薦してくださった方がおっしゃっていたとおり、すぐれた作品でした。通訳をしている友人が、仕事でジョージ・クルーニーの話を聞いて絶賛していました。「アメリカの知性と良心」だって。「オーシャンズ」ではなく、この作品こそ見てほしいですね。

ところで、最近「今日の夕飯」を書いていませんが、今日はん? ちょっとうまくない? と我ながらうまくいった一品があったので書いておきます。

菜の花とささみの和えもの

新鮮な鶏のささみを酒と塩で下味をつけておく。

片栗粉を薄くまぶして、沸騰した湯で1分ほどゆでて取り出して氷水でしめ、キッチンペーパーで水気をとる。

菜の花はさっとゆがいて、1センチほどにきざむ。

ささみは細く切って(中はが少しなまっぽいけれど、熱は通っているくらい)、すりごま、たたいた梅干しと辛子であえる。辛子よりマヨネーズを入れたほうが喜ばれるかも。

 

やっと水本裕貴選手の完全移籍加入が公式に発表になり、ガンバのスタメンがアップできることになりました。

私が予想してどうなるってもんじゃないけれど、、ま、そこはサポのシーズンオフ期間のお楽しみってことで。

2008年ガンバはリーグ戦、ナビスコ杯に加えてACL(アジアチャンピオンズリーグ)に参戦が決定しており、シーズン前にもハワイでアメリカと中南米のチームとパンパシフィックなる大会への出場、夏に東京でアルゼンチンのチームと国際試合をすることが決まっています。どの年代にも日本代表を数多く出しているガンバは、W杯予選と北京オリンピックに選手をもっていかれることも覚悟しなくてはならない。

そこで、4種類のスタメン予想をしてみました。

リーグ戦4-4-2

 

―――――――藤ヶ谷――――――

 

加地――ミネイロ――山口――安田(兄)

 

     明神―――――橋本

  

  遠藤―――――――――――二川

 

     ルーカス――――バレー

 

単純に2007年の布陣で、抜けたシジクレイのあとに新規加入のミネイロ、マグノ=アウベスのところにルーカスをもってきただけです。ある意味、安全ではあるけれど、もしこのままだとしたらあまりに能がない。だいたい読まれているしね。

だから<基本>としてとっておくでしょうが、ずっとこれを基本のまま使い続けることは考えられないでしょう。そんなことしていたら、また去年までの二の舞だし。

そこで考えるのが、同じ4-4-2でも若手を抜擢していく形。

②新規 4-4-2(括弧内はターンオーバー・代表組が抜けたとき)

 

 ―――――――藤ヶ谷――――――

 

  加地――ミネイロ――山口――下平

  (佐々木)   (中澤)   (水本)

 

        明神

       (武井)    

 

  寺田――――――――――遠藤

                     (安田兄)  

            二川

          (倉田or安田弟)

 

         ルーカス

      バレー

      (平井)

 

昨年、リーグ戦終盤と天皇杯でも試したダイアモンド型の4-4-2です。

中盤の底にワンボランチ。両翼とトップ下でダイアモンド型を形成し、2トップを並べるのではなく、片側が1・5列くらい少し下がった位置にいてトップ下と連携する、という形。

ルーカスの特徴を活かし、バレーの高さを狙うのであればこれではないかと。

今季はCBの本職をとったし、明神様というボールを狩りまくる職人がいるので、守備が安定しています。

攻撃陣が自由に動き回れる意味でも、かなり期待ができそうです。

また、代表組が抜けたときのバックアップ要因も十分。

 

③リーグ戦 3-5-2

 

―――――――松代――――――

 

   中澤―――水本―――山口

   (青木)(ミネイロ)(福元) 

         

      明神―――橋本

      (武井) (遠藤)

  遠藤―――――――――――安田兄

  (寺田)         (安田弟)

        二川

       (倉田)

             ルーカス

     播戸

     (平井)

 

良し悪しはともかく、ガンバは対戦相手に合わせたサッカーをやらないのですが、ときにはそれも必要なときがあります。スピードのある強力3トップを並べてくる、たとえば川崎のようなチームには3-5-2で、ボランチの位置にも守備的な選手をおいてがっつり押さえることも必要でしょう。

前線からの守備も重視することを考えて、こういう3-5-2もあるかも。

 

④4-4-2 こじあけ超攻撃布陣

 

 

―――――――松代――――――

 

佐々木――水本――山口――安田兄

 

       遠藤

 

  寺田――――――――――二川

 

              ルーカス

 

      バレー

 

守備は2CBとGKに任せ、あと8人で攻めまくる、という布陣です。引いて守ってくる、たとえばACLのタイには効く......かもしれません。大明神と加地先生を休ませても大丈夫なときに。

 

と、ここまで書いてきて、私のなかで「ガンバのなかでこの選手だけはどうしても外せない」と思っているのが「山口」と「二川」であることがわかりました。

山口の後継者は「水本」とはっきりしているし、遠藤の代わりは倉田がいる。

でも、二川の代わりが思いつかない。安田弟が成長するのを祈っています。

 

と、ガンバに興味のある人だけに興味のある話でした。

 

       

「脳はなにかと言い訳する」

池谷裕二著 祥伝社

 

 「海馬―脳は疲れない」(糸井重里との対談)を読んで、ふーん、おもしろいと思ったのがきっかけで海馬の研究者である池谷氏の本をもう1冊読んでみた。

 うーん、いまひとつおもしろくなかったのは、最初の本の感動が薄れたからだろうか? 脳ブームでいろいろ読み過ぎて(新書レビューをやっているので、毎月結構な新書を読んでいて、一時期脳関連本ばかり立て続けに20冊読んだことがあった)いまさらな情報だったからかもしれない。

 それはともかく、以前に「海馬」のほうで、「脳は疲れない。頭が疲れた、というのは、目をはじめとする体が疲れたのだ」(まちがっていたらすみません。これが私の解釈です)というのを読んで、なるほどな、と感心したのだが、本書を読んで、「脳の力を十分に発揮するには、人間の体はあまりにも脆弱である」ということがわかった。人間の高度な脳(しかもいくら使っても疲れない)に存分に働かすと、体のほうがとてももたない、ということか?

いや、こういう否定的・悲観的言い方はまずいな。「人間が体をコントロールするのには、脳の力は10%程度発揮するだけで十分に事足りる」という言い方を池谷氏はしている。もっと大きく、もっと力強く、もっと精巧な体をもっていて、しかもいまの人間並みの高度な脳をもっていたら、地球最強の種になっていたかも(いまもある意味最強なんでしょうが)。でもそうなると、あまりに強すぎてほかの種をとっくの昔に絶滅させてしまい、自らももっと早めに滅びてしまっていたかも。

つまり人間という種として長く繁栄をつづけられたのは、言語をもって社会を構成し、発展させていくだけの高度な脳をもったからだけれど、反対に体が脆弱で、それを補うための道具を発達させるためにもっと脳を進化させたため、ということもいえるわけだ。要するに、生き延びてこられたのは脳と体のバランスがとれていたから、ともいえる。

脳と体をつい切り離して考えてしまいがちだけれど、体なくして脳は働かない。というか、脳も体の一部。

睡眠中も働いている脳は、人が目覚めているときの記憶を整理して収納するという仕事をしている、という。睡眠は体を休めるためだけでなく、脳自身の基本的な機能を十分に働かせるために重要だ、というわけ。だから、徹夜で仕事をするなんて、単に体がもたないだけでなく、脳にとっても致命的な機能不全を起こしかねない。脳はいくら使っても疲れないけれど、脳にとってたいせつな仕事をさせるためにも睡眠は必須だ。

というわけで、仕事は終わっていないが、さっさと寝よう。

ガンバはぽつんぽつんとしか移籍情報を発表しないので、なかなか来季スタメン予想がアップできません。

私の「リーグ戦スタメン」「ACL用スタメン」「代表組不在時のスタメン」はもうできているのだけれど、なにせ、肝心要のCBが決まらないから。

なので、今日は移籍濃厚な家長選手のことを一言。

家長アキのことをどう判断すればいいか、実は私はよくわからないのです。

はじめて見たのは、2004年ナビスコ準決勝だったかな? 大雨というか、嵐のような天候のなか、ガンバはぼろぼろ失点してFC東京に負けるのですが、ダメガンバのなかにあって家長はよかった、という記憶があります。キープできるし、突破もできる。負けたけれど、アキを見られたからいいや、とか自分をなぐさめて国立から帰りました。

2005年にはしっかりスタメンを確保。まさに爆発的な攻撃力をもち、守備がザルでもそんなの関係ねー! という2005年のチームにあって、家長は光り輝く希望の星でした。

ところが、守備もちゃんとやろうよ、攻撃陣も前線からしっかりチェイシングして守備してね、とチームをあげて決意して臨んだ2006年。家長の弱点が目立つようになっていきます。オフ・ザ・ボールがふまじめ......に見える。ボールが自分の前3メートル以内にないと、知らん顔。ボールをとられると「あら?」って感じで突っ立ったまま。必死に奪い返しにいくのはフタやマグノ。20メートル先でみんなが形相変えてやっているときも、「俺、関係ないわ」とチンタラ歩いている。ボールを持つと、やたらと張り切って勝手に遊んでしまって周囲を無視。それに、とにかく走らない。あの走らないヤットが家長を追い抜いていくシーンをいったい何回見たでしょうか。最近はやりの「ボールも人も動くサッカー」からほど遠いプレイが目についてしまう家長選手でした。

で、案の定、にしのんのお怒りを買ってしまった。2006年8月にどれほどやさしいサポでも「アキ、何やっとんねん(呆然)」というプレイを45分通してやりつづけたことが原因で途中交代。にしのんから雷を落とされしばらくスタメンを外れたものの、ケガや代表で主力が抜けると、何はさておいても家長サマでした。

ところが、2007年はついにスタメンはリーグ戦で6試合のみ。光り輝く家長を、私は昨年ついに1回もナマで見られないまま終わってしまいました。(ちなみに光り輝いたのは、ガンバでは1試合のみ。ナビスコ準々決勝VS浦和戦。それと北京五輪予選シリア戦。つまり1年間でたったの2試合)

すばらしいときの家長選手を知っているからこそ、移籍すると聞くととてもつらいものがあります。でも、スタメン予想を書きながら、どうしても彼があてはまる布陣が思いつかない。フタやヤットのレベルは望まないけれど、寺田や安田のような勢いも感じないし、倉田のような「ここでも使える」という多様性も思いつかない。そう考えると、家長というピースをあてはめられるチームはかなり限られるし、あてはまったら爆発するだろうけれど、それも回数が限られるのではないかと思いました。つまり、ある意味非常に使いづらい選手なのだろうと。

新井場、都築、吉原、フェルナンジーニョと、にしのんに使われなくなって移籍していった選手は、振り返ってみるとみんな共通した「使いづらさ」がありました。試合ごとのデキにムラがある。いいときがすばらしすぎるので、ついそのパフォーマンスを期待すると、最高値100に対して30くらいしか発揮しないことがある。「決定的仕事」もするけれど、「決定的大失敗」もやらかす。一芸には秀でているけれど、プレイにもメンタルにも弱点がある(運動量がない、守備をしない、気まぐれ、むくれる、すねる)。家長にもその共通点があるのかもしません。

ただ、希望が持てるのは、完全移籍ではなくレンタル移籍だということ。完全移籍で出て行った選手たちが全員、平均的にレベルを向上させ、移籍先のチームに溶け込もうという努力をすることで大人になり、移籍先で主力となっているのを見ると、家長もきっとひと回りも二回りも大きくなってガンバに帰ってくるという期待ができるのではないか、と期待がふくらみます。じゃなくて、期待をふくらませます。にしのんがいる間はむずかしいかもしれないけれど。

家長選手が移籍してもしなくても、正直、ガンバの来季にはそれほど大きく影響はしないでしょうが、2010年以後のガンバには大いに影響してくると思うのです。「天才」「期待の星」という評価をどうか実がともなったものにして、帰ってきてほしいと願っています。

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