Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

 昨晩、NHKクローズアップ現代で「書店のランキングの功罪」を取り上げていた。

 私は比較的書店によく行くほうだと思うが(仕事柄あたりまえだ)、面出しされているランキング本を見てチェックはしても、買ったことがない。みんなが読んでいる本を私が読んでも意味がない。あまり読まれていないけれど、実はものすごくおもしろい本を探さなくちゃ本を読む意味がない、とまで思っていますです、はい。いや、実を言うと読んでいる本の8割は仕事がらみなので、楽しみで読む本くらい好きな本を読みたい。

 ただ、番組でもいわれていたが、本に関しては「ランキングには左右されない」という私の行動はあまり一般的ではないだろう。それは認める。本を読む目的、探す目的が、一般的ではないから。

 だが、私はほかのこと――グルメ、エンタテインメント、美容など――に関しても、ランキングを見ない。ランキングを見るのは「ランキングに出ていないものを探そう」と思うときだ。映画の「興行成績ランキング」だの「コメント数ランキング」だのは、その裏にある作為が感じられて、見るだけ腹が立つ。観たい映画は、監督と簡単なストーリーで決める。貴重な時間とお金を使う以上、自分で決めて納得したい。最近ではめっきり減ってしまった外食でレストランを選ぶときも、メニューと店のたたずまいで決める。失敗もあるけれど、ランキングみたいな他人のあやふやな評価や作為で決めて失敗したときよりは、不満度が低いから。

 なんだかね、あちこちのサイトに貼りついているランキングを見ると哀しくなってしまうのだ。

 そんなことまで「みんなと一緒」にしたいのかな、と思って。そういう時代はもう10年前に終わったと思っていたんだけれど、そうじゃなかったのかな。

 みんなが読む本を読んで、みんなが見る映画やテレビ番組を見て、みんなが行くレストランに行って、みんなが使っている化粧品を使って、みんなが着ているブランドの服を着て、それ、何がおもしろいんだろう。それでいて「私、ちょっと変わってるっていろんな人に言われるんです」とみんな同じことを言う。

 マーケティング手法のメインがランキングていうのは気持ち悪い。ランキングに振り回されるのは、もっと気色悪い。

 ああ、今日の私は毒吐いている。

 『臨死、江古田ちゃん』第3巻がいまいちパワーに欠けていたせいかもしれない。難波ゆかり、いい加減にダメンズをやめさせてください。

「(プラハで)20代前半の男性観光客が、20代前半の女性観光客に、「ぼくは観光客じゃないから」と説明している。観光客じゃなくて「旅人」なんだそうだ。そういう2人はカフェのテーブルに観光用の地図を広げ、英語に翻訳されたメニューを見ている。「旅人」だから自分はもっと内容の濃い経験をしている、という。そいつが見ているもの、かいでいるにおい、ふるまいも含めて、観光客以外何者でもないだろう!(中略)当然ながら、ぼくはまぎれもない観光客だ。ぼくにはその地で暮らす人がもつ視点はない。どこにいっても自分がよそものだと感じる。ぼくはよそものの視点が好きだ」――「サウンド・バイツ」より

アレックス・カプラノス(「サウンド・バイツ」の著者。これ、プロ宣です)はいいこといってるなあ。

きのう、いろいろあって前半はチラ見だったのだが、W杯3次予選、後半からしっかり見せていただきました。

7時にテレビをつけたとき、なんと旅人ヒデさまが写って「もっと観客が来ないと盛り上がらない。サポートがない」とか苦言を呈していて、カワブッチーになんか言われたのか?見る気が一気にうせました。だって、W杯予選というより、あきらかに旅人ヒデさまの旅記録放映の番組宣伝みたいなんだもん。

やーめたやめた、サッカーなんてやってらんないよーとかいって旅人している人が、サッカーをまじめにやろうとしている人たちが試合している様子を、お友だちだかスポンサーだかと一緒に笑いながらガラス越しに試合を眺めて、あーだこーだいうところを映すのって、ものすごく失礼じゃない? ピッチをちゃんと映せよ、ピッチを! とアタマに来たので、いったんテレビを消しましたのです。

ふと思いついて、新聞のテレビ欄を見たらBS1でもやってる!

解説は、原博美さん。

後半から、じっくり見られました。

私の感想はひと言。

遠藤はボランチがいい。

ヤット、ちょっとはコンディション戻ったかな?

カーテンを閉め切って朝から原稿書いていたので気づきませんでしたが、夕方、用事で外に出たら、手が届きそうなくらい低いところに黒い雨雲がたれこめていました。

もう梅雨入りだそうで。

原因が梅雨と台風の低気圧のせいか、歯のせいか、押し寄せてくる締切のせいかわかりませんが、コンディションがピーク時の2割程度です。

今日はもうあきらめて寝よう。

 

スポーツ仲裁裁判所(CAS)裁定結果について(Jリーグ)

我那覇選手への処分否定 ドーピング問題で仲裁裁判所(朝日)

鬼武チェアマン、我那覇問題で謝罪...裁定への不満も(読売)

 

ドーピングはスポーツ界にとって、プロ、アマを問わず屋台骨をゆるがしかねない。

「ドーピングだ」という判断は、勝利と名誉と選手生命を失うかどうかの大問題だ。

もうちょっと記録が伸ばせたら、もうちょっと速く走れたら、もうちょっと力が出たら、もっと集中できたら......スポーツ選手なら誰でもそう思ってがんばっている(にちがいない)。そのがんばりを、ドーピングは無にする。いや、それ以上だ。踏みにじってどろどろにしてしまう。

だが、私は「ドーピングの規定」がよくわからない。ステロイドだの興奮剤だのというくらいはわかるけれど、ふだん口にしている食べものやサプリメントくらいになると、いったい何がよくて、何がいけないのかがわからない。

昨年5月、体調不良でチームドクターから生理食塩水とビタミンB1の点滴を受けた川崎フロンターレのが我那覇選手が、ドーピングとJリーグに判定され、6試合の出場停止、フロンターレは制裁金1000万円を科された事件があった。

そのときも、「え? 生理食塩水とビタミンもドーピング???」とショックを受けて、ちょっと調べて見たのだが、わかったのは「スポーツ選手のドーピング規定はとてもあやふや」ということだった。イタチごっこで追いついていけない、というだけではない。あきらかな禁止薬物はさておき、たとえばビタミン剤はどうか、サプリメントは? 食べもののなかにもドーピング効果があるものがあるのでは? となると、ほんとわからないらしい。WADAというドーピング規約を決めている機構も、毎年あれこれ改訂している、とのことだ。つまり、私だけじゃなく、この問題に真正面から取り組んでいる人たちにとっても、白黒がはっきりつかないドーピング行為がある、ということだ。

それでも、Jリーグは選手にもクラブにも厳しい制裁を与えた。JリーグはWADAという世界的なドーピング規準を批准していない。独自の判断でドーピングかどうかを決める、としていて、しかも何がドーピングでそうでないのかを示していなかった。それでも厳罰を与えた理由は「疑わしきは罰する」というものだそうだ。びっくりだ。日本の裁判所の判断にある「疑わしきは罰せず」ではないのだ。なんかよくわからないけれど、あやしそうだったら罰しておけ! というのだ。いや、これにはほんとに驚いた。

冷たい。いったい何のためのドーピング規定であり、なんのための制裁だろう? 選手とチームを守るためではないのか? プロのスポーツ選手が行なう競技の公正さのためではないのか? なぜ世界的にも規準があやふやなドーピング問題を、「疑わしきを罰する」という冷たさで安易に厳しい処分を与えてしまうのだろう? 

我那覇選手は、自分はプロのスポーツ選手として不正を働いていない、ということを社会にあきらかにしたい、という一心で、個人的にCASというスポーツ関連事件の裁定を行なう場所に訴えを起こした。

そして一昨日「我那覇選手はなんら不正をしていないし、罰せられる根拠はない」という国際的な裁定が下ったわけだ。

それでもJリーグは「ああ、わかりましたよ。我那覇選手には悪いことしました。ええ、ええ、謝りますよ。でもCASは我那覇選手が受けた点滴が、ドーピングかどうかにはふれてないじゃん! だからドーピングがあったという俺らの判断がまちがっているとはいわれてないじゃん」と開きなおったのである。(思いっきり要約)

びっくり。これにも驚いた。

CASは言っているのだ。「この裁定は、我那覇選手への制裁が正当か不当かを問うものであって、ドーピングの規準を示すものではない。JリーグはWADAも批准していないし、事件が起きたときに独自のドーピング規準も示していなかったのだから、点滴がドーピングかどうかを判断することもできなかったはずだ。しかも罰則規定も設けていなかったのに、罰を科したのはまちがっている、という理由で、我那覇選手への制裁は不当であると判断した」(思いっきり要約)

私は法律の解釈がよく読みとれないのだが、Jリーグのおえらいさんはもっと読み取れないのだな、ということはわかった。

こじつけるわけじゃないけれど、最近のJリーグにまつわる数々の不祥事――選手やスタッフの頻発する交通事故、酔っぱらい運転、スタジアムでの暴動――は、根幹となるJFAという組織のゆがみが遠因だと思えてならない。選手やチームを守ろうとしない、というか、むしろ「制裁を与える」ことで組織の権威を守ろうとしているような組織には、あまり明るい未来はない。

プロのスポーツ選手になるのはすごいことだ。Jリーグの選手になるのは、ほんとにすごいことだと思う。選手の才能と努力はもちろん、たくさんの人たちの愛情と誇りと支えがなかったらサッカー選手にはなれないし、続けていけない。それを「疑わしきは罰する」というようないい加減さと冷たさで、簡単につぶしてしまっていいこととはとても思えない。

「誘拐」 

本田靖春著

ちくま文庫

 

自分が生きてきた昭和はどんな時代だったのか、ということをあらためて知りたくなり、今年に入ってから、昭和のとくに戦後に起きた事件をたどって読んでいます。「下山事件」「疑獄事件」は記憶にあまり残っていなかったのですが(しかしこの2つの事件もあらためて読むと衝撃でした)、「吉展ちゃん誘拐事件」はたぶん私の記憶に鮮明に刻まれた最初の大事件だったと思います。私が9歳だった1963年、東京オリンピックを1年後に控えた東京の下町で起きたなんともいたましい事件でした。

本田靖春氏は、この優れたノンフィクションで犯人の小原保側から事件に迫っていきます。福島県の山間の貧しい農村で生まれた犯人の貧しさ――読んでいて胸が痛くなるほどの貧困――を淡々とした文体で描いていくのです。

誘拐事件とそれの解明に向けた刑事の取り調べ以上に、戦後の混乱からようやく落ち着きを取り戻してきた......それどころか高度成長期を経て経済も社会も安定していたはずの日本で、ついに営利目的の幼児誘拐・殺人という重罪を犯してほど追いつめられていく犯人の心象を暴いていくところが、このノンフィクションの真骨頂でしょう。貧しいからといって、犯罪をおかすのは大きなまちがいだが、貧しさが犯罪を生む土壌となることは否めない、という著者のスタンスが犯人像をより鮮明にしています。

著者はこの事件を通して、貧しさから抜け出すためには、教育が重要、教育が、人を反社会的行為(ひいては犯罪)に走るのを救う、ということを言外に訴えています。

それは楽観的すぎる、というかもしれませんが、この時代のような貧困層を生み、格差が大きい社会に逆戻りしないためには、やはり教育しかないのではないか、と読後しばし考えてしまいました。教育はすぐに投資効果があらわれるものではないし、高齢者対策とはちがって票にもつながりません。でも、このまま教育費を高騰させ、教育格差を広げるままにしていけば、戦後の混乱期と同じような不安な社会になるのは時間の問題に思えます。もう十分不安で不穏ではありますが。

 

話変わって。

歯の骨再生手術は無事終わりました。

痛いことは痛いけれど、少しはマシになるかなと期待があるので、痛みさえもポジティブに受け止められます。

しばらくごはんが食べられないのが一番つらかったりして。

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