Glamorous Life

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ワコールスタディホールにてこんな講座が開催されます。
「運動ギライでも続けられるエクササイズのススメ〜元ラグビー日本代表。平尾剛さんに学ぶ、楽しくからだを動かすコツ」

http://www.wacoal.jp/studyhall/school/event/article70592

 
とき:5月25日(木)19時〜21時
ところ:ワコールスタディホール(京都駅 南口より徒歩7分くらい。新幹線側の改札から近いです)

平尾さんの著書 「近くて遠いこの身体」(ミシマ社刊)や、内田樹さんとの対談「ぼくらの身体修行」(朝日文庫)を読んで、それまでの運動感、というのか、身体感がひっくり返りました。
一言で言うと「あれ? もしかして私、運動好きかも、得意かも」です。
自慢じゃないですが、小学校から「あんたは運動神経が悪い」と罵られ続け(親に)、 体育の成績は10段階でずっと6。運動会が大っ嫌いでした。っていうか、体育の授業は積極的に仮病使って見学していました。
でも、大人になってから気づいたのは、スポーツが好きってことです。からだを動かすのが決して嫌いじゃない、むしろ好き、動かしたい。でも、ジムも筋トレやジョギングもなかなか 続かない。楽しくないから。
そしたら平尾さんはこうおっしゃったのです。
「学校の体育なんて、人の身体能力のほんの一部だけしかはかっていませんよ。体育の成績なんて、身体能力とほとんど関係ない」
そしてこうも言われました。
筋トレは今すぐやめましょう。からだを痛めるだけです」
ジョギングなんて必要ないです。日常生活の中でちょっとした工夫をするだけで運動は十分なんですよ」 
そう、運動しろしろって医者も世間もものすごくうるさいですよね。
でも、運動がめんどくさい、嫌いっていう人はいっぱいいる。
そんな人たちにオススメしたいのが、平尾流のエクササイズ。
座る、立ち上がる、歩く、そんな日常動作で「運動」は十分なんですって。
やらざるを得ないその動作を「運動」に変えるためには、ちょっとしたコツが必要です。
それを実践していただこう、という講座です。
ご参加いただければ翌日から、いや、その日の夜からきっとからだを動かすのが楽しくなるはずです。
 

親の家を片付けていて、食器類の多さに仰天します。最後は老人の2人暮らしだったのに、なんでこんなに食器がたくさんあるんや⁈
そういえば私の家にも紅茶茶碗セットが3セットもあり、引き出物でもらった対の紅茶茶碗、コーヒー茶碗も今数えると8組ほどある。で、最後に紅茶茶碗セットを使ったのがいつだったか。もう思い出せません。
結婚して新居を構えた娘たちに「紅茶茶碗、いらん?」と聞くと、「いらない」とそっけない返事。
断る理由は
1)マグカップで十分
2)紅茶茶碗(ソーサー付)を出してお茶を飲んでいる暇がない
3)そもそも紅茶やコーヒーをあまり飲まない。飲むならほうじ茶か煎茶
(ちなみに紅茶茶碗とは彼女たちは言いません。ティーカップにティーセットですよ。日本語使えよ、日本語)
だから親の家の食器など、引き取り手もありません。
箱に入っている新品の食器類なら引き取ると、親の家に来てくれた古道具屋さんとお話したところ、この半世紀でいかに日本人の家庭の生活様式が変化したか、を痛感させられました。古道具屋さんは言います。
「最近は家で食器をたくさん使ってお客さんをしたり、ましてや昼下がりにお茶の会を開いたり、といったことをされる方がほとんどいらっしゃらなくなりました。1970年代までは阪神間では主婦がお客さんをよんで手料理でもてなす習慣がありましたが、80年代後半以降、バブルのころからは家に人を呼ぶのがめんどくさい、外にいくらでもいいレストランやカフェがある、そっちの方が楽やし楽しい、と言われるようになりました」
食器でも道具でも、1980年代はじめまでは日常と非日常の両方を揃えている家庭が多かったけれど、今ではその両方を所有する経済的、時間的、空間的余裕がある家庭は少なくなった、ということです。自分ンチと他人ンチの境目がくっきりつけられるようになって、ふらっと他人の家に入り込むことは「無礼」、ときには「危険行為」と見なされるようになりました。
私が子どものころ、そういえば家には他人がよく来ていました。ご近所の方がふらっと立ち寄ったり、親戚が訪ねてきたり、泊まっていくこともよくありました。同居していた叔父が仲間を集めてパーティを開いたり(そこで結婚相手を見つけた)、週末にはご近所の人たちと両親が麻雀大会をしたり、祖父母の田舎の親戚が泊まりこんでいたり、そんな「非日常」が日常でした。
幼稚園の迎えにいったあと、子ども同士を家の庭で遊ばせながら母親たちが軽食と手作りケーキを食べたり、という光景だってよくあったのです。前に田んぼがあったくらいだし、隣には戦後に取り壊しされた社宅?がそのままになっている広い空き地があるような地域でしたから、子どもたちの遊び場には事欠きませんでした。空き地で知り合った子どもを連れて帰って、一緒におやつを食べたりしても平気でした。
疲れたら広い縁側の座椅子で一緒に昼寝もできたし、縁側に座って祖母が親戚のおばさまとおしゃべりしながら豆の莢をむいたり、近くの山でとってきた山菜の始末をしたりすることもよくありました。家に他人が出入るすることは非日常どころかむしろ「日常」だったのです。
そもそも子どものころは大家族で、最大で12人で暮らしていたこともあるくらいです。人が大勢暮らし、出入りする家。その人たちの日常生活を仕切る主婦(→ウチの場合は母)。主婦が本当の意味で「主婦」であった時代です。おそらく1980年に入るまでは、主婦が誇りをもって主婦でいられたのだと思います。
紅茶茶碗をはじめとする食器は、今の私の目からは「主婦が暇だった時代の名残」もしくは「非日常(使うためではなく見せるため)の食器」と映っていました。私自身は母から譲られたり、大叔母から結婚祝いに贈られた紅茶茶碗セットを、子どもが生まれてからはほとんど使う暇なく今にいたっています。おそらく無理やり娘たちに押しつけて死んでいくでしょう。
親の家に残された「非日常」的な日常の食器類。それの貰い手がないことを、女性たちが主婦業から解放されたことの証ととるのか、それとも暇という名の余裕がなくなった証ととるのか。
複雑な思いで片付けています。 

酷い内容の、酷い試合でした。
それしか言いようがない。なめている、とか、怪我人やコンディション不良の選手が多くて、とか、前線に迫力がないから、とか、そんな言い訳はまったく些末なこと。問題の芯のところが露呈されたのではないでしょうか。
この際はっきり言っちゃいます。
ガンバは幹が腐っている。
枝葉をいくら挿し木したって、幹が腐っているんだから育ちやしません。
J3のU23の目を覆わんばかりの酷さを見ても、いい若手が育っているとはとてもじゃないが言えない。
「ガンバのサッカー」の幹の部分は、もう空洞なんです。見かけだけはつくろえても、このまま放置したらいずれは根も腐ってくる。
そう、根はまだ腐っていない、と私は信じています。
2013年、なんとか養生して、根からちゃんと栄養を与えたことで、2014年には三冠達成できました。でも、あくまでも養生だったんです。養生は十分に功を奏したし、葉をおい茂らせることができた。
でも、それから2年。根に栄養を与えずに、すでに幹の中身は空洞になっているのに、太い枝を払うことなく、ただ養生だけをして外側の体裁を整えることに汲々としてきた結果が今だと思います。
世代交代をしながら成績を出す、ということのむずかしさはわかります。
でも、ガンバの次世代を支えるはずの若手があまりに迫力不足なのか、アカデミーも含めて考えるべきではないでしょうか。次世代の幹となるべき選手が見当たりません(森選手にはちょっと期待しているけれど)。せめてしっかりとした枝でもあればいいのだけれど、それもいま一つ。
まずは「幹が空洞」であることを全員で認識してほしい。同時に、根がまだしっかりしていることに自信を持ってほしい。
その上でどうすればしっかりとした幹を根っこから生やしていくのか。
クラブがそれこそ総力をあげて、早急に取り組むべきではないでしょうか。

その意味で、浦和戦、広島戦、そして特に昨晩の江蘇戦を前向きに反省し、これから5年後に振り返ったとき、ああ、あの試合が分岐点だったね、と言われるようにしてほしいです。
ここから上がっていくのか、それとも泥沼に足を踏み入れるのか、本当に分岐点ですよ。
 

つづきです。
生まれ育った「故郷」で暮らすことをあきらめ、親の家を片付けながらしきりに思い出されるのは、阪神大震災で全壊し、今はもうない「実家」で過ごした日々です。
私が「実家」で過ごしたのは昭和30年代半ばから40年代、谷崎潤一郎が「細雪」で描いた昭和の阪神間の暮らしが残っていた最後の時代でした。懐かしいか、と言われれば胸の奥がじわっと熱くなるほど懐かしいのですが、あの時代に戻りたいか、と問われると、いえいえ、ごめんです、と首をぶるんぶるん振りたくなります。思い出は思い出だからこそ美しい。現実となると、いやなことや汚いどろどろがふつふつと湧いてくるものです。
でも、頭の中で美化された思い出ではありますが、家をたたむにあたって、思い出されることを書いておくことにします。

「実家」にまつわる思い出で、私の頭の中でもっとも鮮明なのは、蛙の合唱です。
実家の前の舗装道路を挟んだ向かい側には、田んぼがありました。田んぼの3方は舗装されていない土の道で、南側には電車の線路が走り、北側には社宅、西側には川が流れていました。今は東西、南北に舗装道路が走り、住宅が立ち並んでいます。子どもの記憶ではありますが、田んぼはかなりの広さでした。
田んぼは春になるとレンゲでピンク色に染まり、土手ではつくしやヨモギが取れ放題なので行きたくてたまらない。でも春からは耕作用の牛が放し飼いされていて、なぜか山羊もいて、恐ろしくて近寄れません。それにまだ水洗便所があまり普及していない時代だったので、田んぼの隅には糞尿を貯めた肥溜めがあり、祖母からは「落ちたら危ないけん、田んぼには入ったらいけんぞな」と厳しく言い渡されていました。当時(今もですが)「一番いやな死に方は、肥溜めで溺れ死ぬこと」でした。いや〜〜〜それだけは勘弁ですよね。
それでも田んぼは一番に季節を教えてくれる「親しい存在」でした。暖かくなってきてセーターが必要なくなるころに、ある日学校から帰ってくると田んぼに水が入っています。やがて田植えが始まり、ツバメが軒下に巣を作るようになると、始まるのです、「蛙の合唱」が。
毎日長靴で登校しなくてはならず、学校帰りにツユクサを摘んでくる季節になると、いよいよ蛙の合唱が本格化します。それまでは鳴き方が下手、というか、合唱になっていなかったのが、しだいに大合唱団にふさわしい鳴き方になります。
「ボーボーボー」とウシガエル(たぶん)の太い声が響くと、それを合図にゲゲゲゲゲ……というやかましい鳴き声、それがやむとケロケロケロケロ、ともっと柔らかな声へと変わり、ときどき間奏のように虫の声も挟まり、少しやんだかと思うと、またボーボーボーとオオボエ、じゃなくてウシガエルが先導する、と。
一定の周期でリズムよく繰り返される蛙の合唱がクライマックスを迎えるのが、夏休みが始まるころ。そして夏休みがそろそろ終わるというときになると、ある晩からピタッと聞こえなくなり、しばらくすると虫の合唱に変わるのです。
クーラーなどない時代、夏の間は雨戸を薄く開けて、蚊帳をつって寝ていました。そろそろ蚊帳をしまおうかという季節になり、夜中にふと目が覚めると、蛙の合唱はもう聞こえず、ときどき思い出したようにケロケロケロ、と鳴く声が聞こえるだけ。すると物悲しい気持ちになったりしました。
小学校を卒業するころでしょうか。「クカクセイリ」なるものが始まり、大人たちが顔を突き合わせて市から提示された青写真を前にあれこれ話し合うようになり、まもなく田んぼは埋め立てられて道路と新築住宅になりました。当然ながら蛙の合唱を耳にすることもなくなりました。
それなのにいまだに、梅雨が始まるころには私の耳に「蛙の合唱」が響くのです。
30センチほど伸びた稲が緑の濃淡で風の通り道を教え、肥溜めのにおいにも鼻が慣れ、ボーボーボー、ゲゲゲゲゲ、ケロケロケロと見事な合唱に耳を澄ます……。
私の「故郷」の原風景です。 

今年の私個人の最大の「事業」は、親の家をたたむことです。
父が亡くなり、母が介護ケア付き住宅に移り、空き家となって2年足らず。隣接した敷地に親戚が暮らしているので不用心ということはないし、母や私たちもしばしば様子を見に戻ったり、庭も含めて手入れもしてきたのですが、いつまでも無人のままにしておくわけにはいかない。将来、私たち姉妹の子供たちの誰かが住むかもしれないから残しておこうか、それとも誰かに貸せないか、とこの2年でいろいろと考えたのですが、結局、処分するしかない、という結論に達しました。
ただ、たたむのは私にとっての「実家」ではないのです。私が「実家」と言ったときに頭に思い浮かべるのは、祖父母が戦後に建てて、私が5歳から18歳まで暮らした家です。両親は私が高校3年までその家で祖父母(その他にもさまざまな人たち)と同居してきましたが、私が高校3年のときに父が転勤で徳島に移住し、以来祖父母と母の弟の家族が住んでいました。私は大学受験を控えていたので祖父母のもとに残り、そこから東京の大学へと進学しました。
今、たたもうとしている家は、30年前父が転勤になって関西に戻ってきたとき、隣接した敷地に建てたものです。私たち子供はすでに大学から東京に出て、そこで就職して結婚し、子供が生まれ、それぞれ家を購入して暮らして今に至っています。つまり、私たちは今たたもうとしている両親の家には住んだことがありません。だからか、「実家」という感じがしないのです。
私は関西の別の町で生まれたのですが、5歳のときに「実家」に引っ越して祖父母と同居しました。父がアメリカに留学し、母が同行したので、祖父母が私たちの面倒をみるために引き取ったのが「実家」との縁でした。幼稚園の年長組から高校3年生まで暮らした「実家」の記憶は深いところに刻まれています。しかし、「親の家」の記憶はほとんどなし。私にとっての思い出深い「故郷」は、たぶん今はもうない「実家」にあるのだと思います。
「実家」は1995年1月の阪神淡路大震災で全壊しました。幸いにして、そこで暮らしていた親戚一家は誰も怪我をしませんでしたが、築50年の木造の家は住めなくなりました。そのとき築10年だった両親の家は、瓦が少し落ちたくらいでさほどの被害がなく、築年数だけでなく、建築したときの耐震基準の強化が如実に現れたなと思ったものです。祖母は私たちが東京で暮らすと言ったとき、「東京は地震が怖いじゃろ。阪神間は地震がないから、こっちで暮らしんせえ」(→岡山弁です)と何回も言ったのですが、なんと、安全と信じていた家が被災してしまったというのは皮肉でした。
両親は家を建てると同時に自分の親(私にとっての祖父母)と同居を始めました。夫婦2人だけの暮らしになったのは、祖母が亡くなってからの20年足らず。そして今、片付けていて気がついたのは、祖父母のものはほとんどなく、両親のものばかりだということです。つまり比較的新しいものばかり。あくまでも「比較的」ではありますが、片付けながら「ああ、懐かし〜〜」と片付けの手を止めて見入る、ということがあまりなくてすむ、ということです。昭和初期からのものがもう少し残っていれば、感慨に耽ることもあるでしょうが、そういうことはほとんどなし。「思い出のもの」がさほどないおかげで、「使えそうなもの」と「いらないもの」に分けるくらいですんでいる。そこが助かると言えば助かります。
長くなるので、いったんここで止めます。 

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