Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

ただの予感に過ぎないのだけれど、堂安選手は移籍しそうだ、とシーズン始まる前から覚悟していました。今年トップで試合に出るようになって、2戦連続ゴールを決めたときに、「あ、こりゃそろそろかな」と思ったし、2得点を決めて決勝リーグへと導いた、U20W杯グループリーグイタリア戦後には、「欧州移籍決定的だな」と確信しました。
だから堂安選手移籍にそれほどショックはなく。どちらかというと、宇佐美選手がW杯予選の日本代表に選ばれなかった方がショックだったかな。
正直、ガンバの選手で海外移籍してから「大活躍」をした選手がほとんどいないこともあって、今回の移籍もほどほどの期待をもって見守りたいなと思っています。サッカー選手の短いキャリアの1過程として、成長につなげていってくれたら、な〜んてとんでもなく上から目線ですね。失礼な言い方ごめんなさい。
でも、これだけ海外移籍する日本人選手が 増えてくると、Jリーグで大活躍→海外移籍、というのがキャリアのサクセスではなくなってきている。当然ながら、それが絶対的な「成長プロセス」でもない。欧州に行かなくてはサッカー選手として大成できない、ということもないはず。そもそも欧州ならどこでもいいのか、給料未払いが続くようなリーグにも行くのか、出場機会がほとんどなくてもとにかく行けばいいのか、と考えると、移籍先の国情、リーグ、監督フロントの考え方、チーム状況、個人の資質、など条件は異なる。
拙訳書「PK」の著者ベン・リトルトンが現在執筆中の本は、世界の育成システムについての内容で、そこで彼が何回も「若い選手が海外移籍でつまずくもっとも大きな原因となるのが、語学力」と 強調しています。確かに。ボールを蹴れば分かり合える、なんて甘いもんじゃない。実力を認めてもらって試合に出るためには、チームメイト、監督、スタッフ、フロントとどれだけコミュニケーションが取れるかにかかっています。語学力>>実力、くらいかもしれない。堂安選手もまずは語学を身に付けるところから、、ですね。

さてさて、堂安選手のお別れ試合となった川崎フロンターレ戦。実はボコボコにやられるのを覚悟して向かいました。味方ならば心強いけれど、敵に回すととんでもなくこわいことがよ〜〜くわかっている阿部選手がいるからです。川崎に移籍して、ワントップで攻撃を牽引する阿部選手。ACLでもリーグ戦でも大活躍で、悔しいけれど「阿部ちゃん、移籍してほんとよかったね」と言うしかない。阿部ちゃんの恩返し弾も覚悟していましたよ。
ところが、ちんちんにやられるかと思ったら、それほどでもなかった。確かにシュート数は川崎21対ガンバ10で圧倒されていたかのようですが、川崎のシュートがあまり枠に飛んでこなかったためか、あれ? そんなに差があったっけ? という印象でした。
それは「井手口選手の超人的運動量」「倉田選手の気の利いたプレー」「ファビオ選手のボール跳ね返し力(ま、先制点は彼の足に当たって入っちゃいましたが)」 のおかげです。
この試合に限ってですが、井手口選手は今野選手を超えていたし、倉田選手は遠藤選手をしのぐ気の利き方とチーム貢献度でした。ファビオ選手はボール奪取力もさることながら、つなぐ能力も好感度大です。
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試合後に阿部ちゃんが「嫌がる(阿部談)」家長選手を連れてゴール裏に挨拶に来てくれました。そういうところが好きだなあ。阿部ちゃん、こぼれ球をすばやく拾って打つミドルシュート、最終ラインまで戻ってカバーする守備貢献、どれも本当に好きでした。川崎での大活躍を(ただし、ガンバ戦はやめてね)期待しています。

 

私が幼少期から上京するまで暮らした家は、阪神大震災で全壊して今はもうない。その家の思い出はたくさんあるのだけれど、「心地よい場所」として最も強く記憶に残っているのが、縁側である。
居間から庭に張り出した幅1.5メートルほどの板敷きの縁側は、家族がくつろぎ、洗濯物を干し、ときには食事もする生活の場所だった。部屋の天井の高さから張り出した梁にビニール板がはられ、雨よけと日よけの役目を果たしていた。エアコンなどない時代である。梅雨時や盛夏には、縁側はたぶん家の中で一番過ごしやすい場所だったと思う。
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(縁側でくつろぐ?8歳の私。隣には文鳥の鳥かご)
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(縁側に沿って作られた花壇。バラの花が植えられていたこともある)

よほど寒くない限りは居間(兼食堂)と縁側を仕切る掃き出し窓は開け放たれ、居間と廊下をはさんだ位置にあった台所の勝手口も開いていたので、縁側にはいつもいい風が吹き抜けた。縁側に置かれた藤の座椅子に寝転び、「ええ風じゃ。極楽じゃ」とうっとりと庭を眺めていた祖母の姿がなつかしい。私にとって母方の祖母、といえば縁側の籐椅子なのだ。
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(子どもたちの食事@縁側。立て膝だろうが、こぼしまくろうが、何も言われなかった)

少し暖かくなると縁側にちゃぶ台が出され、子どもたちはそこで食事をした。大人は室内で椅子に座ってテーブルで食事をし、子どもは縁側の板敷きに敷いた座布団にぺたんと座ってちゃぶ台でご飯を食べる。お客を迎えての「正式な晩餐」が催されるとなると、私たち子どもはまだ明るいうちから追い立てられるように縁側のちゃぶ台で夕食をかきこみ、お風呂に入れられて2階の寝間に追いやられた。ふと目が覚めると、縁側に移ったらしい宴席から大人たちの話し声や笑い声が2階まで聞こえてきて、大人たちの時間が少しだけ羨ましかった。

男たち(祖父、父、叔父)の「領土(陣地)」が書斎や居間だったとすると、縁側は祖母や私たち子ども、そしてペットのための「領土」だった。室内で食事をしているときには、食べ物をこぼしたりするとうるさく叱られたが、縁側だったら平気だ。立て膝で食べようが、食べ物の奪い合いで喧嘩をしようが、大人たちは何も言わなかった。というか、自分たちの食事時間に集中していて、子どもにまで目が届かなかったのだと思う。
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(縁側から金魚に水をあげている?)

縁側はペットとたわむれる場所でもあった。実家では代々犬を飼っていたが、犬を室内に入れることは決して許されなかった。祖母が大の動物嫌いだったからだ。それでも縁側まで上げることは何とか許されていたので、犬の飼い主である妹は、縁側で犬に餌をやり、遊び、ときにはおなかを枕に昼寝をした。
文鳥や九官鳥の鳥かごも縁側に出していたが、あるとき、庭に忍び込んだ猫に文鳥のつがいが食べられて以来、私たちと遊ぶとき以外鳥かごは室内に入れるようになった。縁側の先には大きな金魚鉢があり、夜店でもらった金魚が巨大化して悠々と泳いでいた。だが、金魚もまた格好の猫の獲物となる。見張っていて、近づいてくると追っ払うのは子どもの役目だ。縁側は子どもにとって、外の世界の危険なものからペットという「家来」を守るための最前線基地の役割も果たしていた。
縁側に沿って祖母は花壇をつくっていた。夏には朝顔が植えられ、梁にかけた紐を伝って蔓が2メートル以上伸び、秋口まで大輪の朝顔が楽しめた。祖母はバラなんか好きじゃなかった、と思っていたが、アルバムの写真を見たらバラも植わっている。だが、何と言っても祖母のお気に入りは芙蓉で、初夏から何種類何色もの芙蓉が花壇を彩った。
籐椅子の祖母に、花壇の花の話をいろいろと聞かされたのもなつかしい思い出だ。今でも覚えている花や草木の名前は、ほとんどが祖母から縁側で教わったものだ。
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(祖母が大好きだった縁側脇の芙蓉の花。この写真はどうやら縁側の板張りを張り替えるために撮ったらしい)

夏休みには縁側に置かれたちゃぶ台で絵日記を描き、図書館で借りてきた本を読み、昼寝をした。近所の友だちが遊びに来ると、庭でゴム跳びや縄跳びや陣取りをして遊び、おやつになると勝手に冷蔵庫からアイスを出して縁側で食べた。ときには、縁側にゴザを敷いておままごとをした。縁側は、私たち子どもが主役となって友だちをもてなす社交場でもあった。
今振り返ると、縁側はとても特殊な空間だったと思う。室内ではなく、屋外でもない。ウチとソトをつなぐ場所であるが、ウチにもソトにも属さない。言ってみれば「エンガワ」という独立した場所、子どもにとっての王国だった。
子どもの私にとって、縁側は親や大人から解放され、家の中で唯一勝手気ままに振る舞える場所だった。大人の視線は届いても、大人の支配は及ばない。子どもにとっての一種の治外法権が縁側にはあった。大人の世界に守られていたが、自分たちの独立した世界が構築できる場所。子ども部屋にはない自由と安心感が縁側にはあった。
だから、何か内緒にしたいことがあれば、もしかしたら親がのぞくかもしれない勉強机の中ではなく、縁の下に隠した。点数の悪かったテスト、嫌いなおかず、こっそり買った漫画本、ビーズ、消しゴム、紙石鹸、ブロマイド、などなど。内緒で拾ってきた犬をかくまっていたこともある。

実家を出てから10回以上引っ越したが、どの家にも縁側はなかった。私の娘たちはどうやって親に保護されている安心感を持ちながら、親の支配を免れる「子どもの王国」を確保していたのだろう? 

親の家にあったアルバムを妹と半分に分けて持ち帰り、デジタル化する作業に没頭しております。真っ黒で何が写っているかわからないような紙焼き写真も、デジタル編集してみるとかなり鮮やかによみがえるものなのですね。デジタル技術、万歳!
大正初期から昭和の戦争直後くらいまでの写真を見ながら、祖父母や親、親戚の過去を振り返り中です。私が生まれるよりかなり前の写真ですから、写っている人たちのほとんどは知りません。 今のうちに母に聞いておかないと、自分のルーツがほとんどわからないままになってしまいそう。あせっています。
私はこれまで、過去はもういい、私は今と未来にだけ目を向けて生きていきたい、なんてほざいていました。だからアルバムなんて興味がなかったのですが、家をたたむ作業で思い知らされたのは、過去があるからこそ今の自分があり、未来の自分は過去の積み重ねの上にあるのだ、ということです。そんなことに還暦過ぎて気がつくなんて、やや遅過ぎなんですけれど、それでも今気づいておいてよかった、ということにします。
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(昭和12年ごろらしい。母が当時住んでいた岡山県の家のご近所の子供たちと。色褪せて不鮮明な写真はデジタル技術でよみがえります。そして記憶はデジタル技術など必要なく色褪せないのだ、と母の話を聞いてわかりました)

父が亡くなった後、母がぽつりと言ったことがあります。
「年をとるのって、本当にさびしいことよ。あなたはまだわからないかもしれないけれど、親しい人たちがみんな死んでいってしまって、一人取り残されているような気がする」
正直、私には母が言う「取り残されていくさびしさ」がよくわかりませんでした。連れ合いは亡くなったけれど、娘たちだっているし、孫もひ孫もいて、仲の良い友達と一緒に旅行に行ったり、楽しんでるじゃない、何がさびしいのか! なんて冷たく思っていたのですよ。
でも、今回、アルバムの中に青春をしている母を見ているうちに、母がしきりに口にするさびしさが少し理解できたような気がします。

 昭和7年生まれの母は、小学校高学年から中学生で戦争を経験し、戦後まもなく20歳で結婚してすぐに私たち姉妹を出産しました。母がはつらつとして輝いているのは——あくまでも私の目から見て、ですが——結婚出産後、私たちがまだ手がかかっていた時期の育児期間中でした。そのころ私たちを連れて同窓会に出たり、私の幼稚園の同級生親子と遊園地や行楽地で遊んでいる母の写真は、自分の母親ながら「うわっ!」と言いたくなるほど美しい。そして、一緒に写っているお母さんたちも同じくらいはつらつとしてきれいなのです。
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(結婚後の同窓会で。左から2番目が母です。)
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(幼稚園の遠足付き添いらしい。私が3歳くらいですね、これを見ると)

うがった見方ですが、母と同世代、現在80代半ばの人たちは、まだまだ親が年頃の娘をきつく束縛していた時代に10代を過ごした人たちです。ところが戦後、大きく価値観が変わり、女性たちを縛っていたものが少しずつほどけていったのではないでしょうか。自由を謳歌した、とまではいかないにしろ、戦後の解放感とあいまって、母の世代の女性たちにとっての青春は、20歳をすぎてやってきたのだと想像します。ああ、戦後なんだな、青春なんだな、と思いたくなるほど、アルバムの20〜30代の母と友人たちは笑顔がいっぱいで、自信に満ちていて、はつらつとしています。女学校時代の写真は、どれも表情がかたいのですが、20代となると大口開けて笑ったりしている。そしておしゃれです。戦争中はたぶん許されなかった洋装のおしゃれを、満喫しています。

しかし、母が親しくしていた人たちは40代を過ぎるころからぽつりぽつりと亡くなられていきました。「10代初め、育ち盛りの時期に戦争で栄養状態が悪かったせいだ」と母はお葬式から帰ってくるたびに嘆きました。特に、大親友だったらしく、一緒に写っている写真が何枚もある方が40代半ばでなくなられたことはこたえた、と言います。そしてアルバムで輝いていたおかあさんたちは、今ではほんの数名しかご存命ではない。
当時の記憶は、母の中で驚くほど鮮明です。仲良くしていた人たちの 苗字と名前がすぐに出てくるし、住んでいる場所、家族構成、子供の学歴にいたるまで覚えています。記憶は少しも色褪せていない。
だからさびしさがつのるのかもしれない、と私は推察します。
母の記憶の中で輝いている人たちは、もう記憶の中にしかいません。「あのころ楽しかったね」という思い出を共有する人たちは、もうこの世にいないのです。自分の記憶の中では鮮明なのに、思い出を振り返ることができない。
老いることのさびしさ、というのは、色褪せない記憶があるからよけいにさびしさがつのるのかもしれません。 
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(昭和33年の神戸の光景、らしいです。服がとってもおしゃれ。しゃがんでなんかやっているのは私です。当時、母たちは自分たちで服を作っていました。母は洋裁が趣味で、洋裁教室の仲間とも仲良くしていたようです) 
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 (実家近くの浜辺で遊ぶ母と友人。ぞうりなのに、おしゃれワンピース! そしてなぜか真珠のネックレス! お友達、スタイルがいい!)

昨晩は味の素スタジアムで、サッカー日本代表vsシリア代表の親善試合がありました。私は勉強会があり、同時間帯に見られなかったのでダッシュで帰宅してからの録画観戦となりました。なんてったって、ガンバの選手が5人も選ばれているとあっては、見ないわけにはいきません。後半に今野、倉田、井手口の3選手が中盤を構成したときには、胸が熱くなりましたよ。
とはいうものの、私はどうもサッカー日本代表戦の観戦が苦手です。 試合前からスタジアムにお経のように響きわたる「ニッポン、ニッポン」コールに酔いそうになっちゃうし、実況や解説の絶叫にもうんざりしてしまうから。テレビ観戦のときは、録画だろうが生放送だろうがA代表の試合のテレビ観戦は消音モードです。 
FIFA非加盟の国や地域、僻地の人たちが結成したサッカー協会がメンバーのCONIFAの活動にかかわるようになって、スポーツの「国別対抗戦」について考えるようになり、なぜ自分が日本代表戦に燃えないのかが少しわかってきました。
「国」に所属しないと参加できないワールドカップやオリンピック(最近は「難民」の身分での参加も可能になりましたが)ですが、どちらも代表として出場していながら、その「国」で生まれ育ったわけではなく、もしかするとその国の言葉も満足に話せない選手がいっぱいいます。サッカーのワールドカップでは、移民してきた国で代表になった選手はいっぱいいるし、オリンピックでも、たとえば卓球では中国で生まれて帰化した選手を代表にしている国は多い。スポーツの国際大会は「国別対抗戦」が原則であるがゆえに、どこかの「国」に帰属していないと選手は出場できない。だから選手は帰属意識のあるなしに関係なく、自分を代表にしてくれる国を選ぶことがあります。選ばれた国にとっても、活躍してくれれば国威発揚に役立つ。なんか……すっきりしない。

そんな私の気持ちをすっきりさせてくれたのが、星野智幸さんが「新潮」に発表した「世界大角力共和国杯」でした。 ぜひ読んでいただきたいのでネタバレは避けますが、ざっとあらすじを説明しておきます。
日本国籍ではないからと日本大相撲協会に残れなかったモンゴル人のカリスマ力士が、世論を味方につけて年寄りになり、さらに10年後に相撲協会の理事長に就任する。実権を握るや否や、「国籍条項」を全廃止しようとし、反対されると協会を脱退して自ら日本大角力連盟を立ち上げる。新連盟は「世界大角力共和国構想」を発表し、角力を世界的競技にするための画期的なアイデアをつぎつぎと実現していく。女性力士のプロ化から、外国籍力士が引退後自分の国に帰って部屋を立ち上げるときには手厚いバックアップをする、といった「革命」により、角力は日本の「国技」から、世界的人気を獲得する競技になる。
共和国杯は予選を勝ち抜いた世界中の力士が、真の角力世界一力士を決めるための大会。おもしろいのは、日本人の「純血」の力士がコンプレックスを抱く、というところ。父方、母方共に日本の有名力士だったという伊勢ノ杜という力士は「負けるたびに「純粋培養は逆境に弱い」と言われ続けてきた」という。
「出身を問われて正直に答えると、ああ、だからか、という顔をされる。血なんか関係ない、血のせいだと言われたくない。そうじゃないことを証明してやる、と思うのに、注目の一番となると固くなって自分の相撲が取れず、負けてしまう。「伊勢ノ杜は弱い」と言ってくれたほうがすっきりするのに、素質はあるけれど純日本人であるがゆえにひ弱なのだ、と言われると、やりきれない思いにうちひしがれる」
私はここで笑ってしまった。なんというアイロニーなんだ! いや、ごめんなさい、稀勢の里ファンの方に悪いけれど、ここで浮かんでしまうのが稀勢の里の姿。私も稀勢の里を応援しているけれど、日本人だからっていうんじゃなくて面白い角力だから。でも白鵬の角力も好きだし応援している。ま、私はあんまり角力詳しくないけれど。
そして両親ともモンゴル人で、日本生まれの日本育ちの大関はモンゴル系日本人であって「純血」ではないとされる。主人公は「純血って何なのだ?」と頭をかきむしります。
その答えも書かれています。
「純血とか混血とか、本物とか移民とか、全部幻想だ」
幻想、というか、フィクション。作られた物語なんだ、と私も思います。
人は自分が帰属しているものについての物語を必要としている、と文化人類学者は言います。だから神話が語り継がれ、経典や聖書が生きる上での規範となり、同じ物語を持った集団をまとめる「国」が作られる。
でも、個人が自分の中で紡いでいる物語が、必ずしも生まれ育った「国」や今暮らしている「国」の物語とは一致しないことだってあるわけです。ましてや自分が代表としてスポーツの国際大会に出場するために選んだ「国」の物語を幻想として抱けるかと問われたら、さて、どうなのでしょうか?
ときどきクスクス笑いながら面白く読んだ小説でしたが、読み終わった後に考えこんでしまいました。

私自身はいったい何に、どこに、どのように帰属しているのだろうか?
両親ともに「日本人」だったし、先祖をさかのぼっても日本で生まれ育った人たちばかりなのですが、それなら私は日本に帰属していると自覚しているだろうか?
私は自分の中でどんな物語を紡いでいるのだろう?
なーんてことを考えて、この小説を読んだ後に「口語訳 古事記」(訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋)を読んでます。
すごいね、私。角力からいきなり古事記に飛んじゃったよw

次女が4〜5歳のとき、いわむらかずおさんの絵本「14ひきシリーズ」が大好きでした。
森に住む14匹のねずみ一家の春夏秋冬の日常が美しい絵とともに描かれていて、季節に合わせて読み聞かせては私も楽しんでいました。
春になって家族みんなでお弁当を持って野原にいく「14ひきのピクニック」を読んだ翌日のこと。3月下旬でめっきり春めき、その年初めてコートを着ないで、トレーナーだけで保育園に登園した朝でした。身も心も軽くなったのか、マンションの中庭を駆け抜けた娘が、春の光が降り注ぐ公園の真ん中でいきなり大きくジャンプし、「うっほほーい、春だよ、春だっ!」と叫んだのです。(指摘あり。セリフは「はるのかぜ、はるのにおい」だったそうです)
ジャンプもセリフも前夜一緒に読んだ、14ひきのピクニックの最後のページそのままでした。娘がそのとき着ていた空色のトレーナー、チェック柄のズボン、赤い靴、背負っていたお弁当や着替えの入った紺色のリュック、そして私を振り返った笑顔まで、今も私ははっきりと思い出すことができます。
娘はそのとき初めて「春」という言葉を身体感覚として獲得したのだと思います。
娘だけではなく、私にとっても「春」の認識が変わった瞬間でした。春とは、あの瞬間の光、空気、空の色、そしてとてつもない解放感を感じさせる言葉になりました。
絵本を読まなければ、娘は「春」が感覚としてつかめなかったかもしれない。春という言葉を自分のものにできなかったかもしれない、とさえ思います。
娘が「春」に気づいた、言い方を変えれば、娘は絵本に書かれたセリフを通して「春」と初めて出会えたのだと思います。

6月3日に、難民を助ける会(AAR)が「世界難民の日」を記念するために開催したトークイベント「芥川賞作家、小野正嗣さんを迎えて〜文学で語る難民問題」を聴きに行きました。
非常に興味深くて、深いお話だったのですが、聴きながら私が考えていたのは「出会うこと」についてでした。
文学者である小野さんは、フランス留学時代に滞在していた家で、家主夫妻が受け入れていた多くの難民たちと知り合う機会を得たそうです。その後、日本に帰国してからも、偶然知り合ったシリアの方が内戦によって難民になってしまうのを目の当たりにしたこともあったとか。フランスでの難民との出会いがきっかけで、何かが小野さんの中で目覚めて、その後も難民との「出会い」(ご縁みたいなもの)が続いていったのでしょう。
AAR理事長の長さんは、アメリカ留学中に自分自身がマイノリティとなって差別される経験をしたことがきっかけで、旧ユーゴスラビア問題に関心を持ち、ホロコーストと文学について深く考えるようになり、「難民を助ける会」の活動に踏み込んでいったそうです。
なぜ日本人のあなたが、遠い海外の「難民」に関心を持つのか?
関心を持つだけでなく、難民に何らかの関わりを持って活動しようとする動機はどこにあるのか?
それに対して、小野さんも長さんも「事実と出会ったから、何かせずにはいられなかった」と答えていらっしゃいました。小野さんの場合は「出会った以上は書かずにはいられなかった」、長さんは「何か手を差し伸べないではいられなかった」
しかし「同じ事実を目の前にしても、出会える人もいれば出会えない、出会おうとしない人もいる」と小野さんは言います。
でも同じ光景を見ても、同じ経験をしても、出会う人もいれば出会わない人もいる。
 出会えるか出会えないかを分けるもの。それは(小野さんは直接的にはおっしゃいませんでしたが)「言葉」ではないか。もっと言えば、出会った人や事柄の物語が読めるかどうかではないか。
小野さんは「難民を人間にしたい」と、日本にいるコンゴ民主共和国からの難民を取材して文芸ルポを発表されました。その人の人生を言葉を紡いで物語ることで、その人は「難民申請中の人」というデータではなく、生きて、働いて、泣いて、笑う身体を持った人間になった、ということです。
(一言言っておくと、私は「難民」という言葉があまり好きではありません。避難して保護されるべき人たちの意味が、なんか面倒なことを起こす困った人たちみたいな印象を与えかねないから。彼ら彼女らに当てはめられるマイノリティという言葉にも強い抵抗があります。マイノリティ=少数グループというのは、人を数やデータと見てしまう、マジョリティ=多数グループからの一種の「差別」だと思うのです)
小野さんの言葉を通して描かれることで、初めてその人は身体を持ちえて、物語られる存在となり、読者と出会えたのです。
小野さんがお書きになった「ヒューマニティーズ 文学」(岩波書店)を会場で購入し、帰宅してから読みました。評論だから読むのに苦労するかな、と恐る恐るページを開いたのですが、お話を聞いたからか、それとも最近の私がCONIFAの活動に関わることで感じていることに通じるところがあったせいか、すっと腑に落ちる内容でした。もっといえば、感動さえ覚えました。
「文学は社会の役に立つのか」(なぜ役に立つのか)の章でグッときたのはつぎの文章。
「われわれは文化や国籍のちがいなど関係なく文学作品に出てくる登場人物たちに共感することができる。しかしそのような人間であれば誰でも可能な共感の力は、とりわけ作品に描かれている文化や社会、そしてそれを描く言語が「自分のもの」だと感じられるとき、いっそう強くなるだろう」
共感の力、つまり出会える力、と私は理解しました。文学作品の中に紡がれていく言葉をたどり、言葉に耳を傾けることで、初めて人は人に、そして世界に出会える、という意味ではないかと。
そして物語られている話を「自分のもの」と感じることで、共感する気持ちはいっそう強くなる。私が思うに、自分のものと感じて初めて、なんとかしなくちゃ、何かせずにはいられない、という行動のモチベーションになるのだ、と思います。
出会いをモチベーションにして行動することは、実は私たちは日常的に経験していることではないでしょうか。「春」という言葉を絵本で読んだことで、「春」に出会い、光を全身に浴びてジャンプするという行動に出た4歳の娘のように。「難民」や「移民」との出会い、共感したことが行動に結びつくことも、それとたぶんあまり変わらないのではないか、と小野さんたちのお話を聞きながら思いました。春が嬉しくてジャンプして叫ぶことも、難民や移民の人たちを受け入れるために何らかの行動を起こすことも、実は同じように言葉に反応する感受性が鍵を握っているのではないか。

私は常々、翻訳というのは本の中から響いている「声」を聴く仕事だと思っています。登場人物や著者が考えていること感じていることだけではなく、母語ではない言葉で書かれた文章がつむぎだすリズム、書かれた時代や文化全体からの響というか声を聴くこと。聴いた声を、今度は「自分のもの」とするために母語とする言葉で発してみること。つまり、身体的な感受性や表現力が必要とされるのではないか。
小野さんと長さんのお話を聞きながら、そうか、文学者の仕事もかなり身体的なものなのだと気づきました。「声を聴く」「言葉を発する」そして「行動する」それが文学者の仕事なのではないか。声に文字通りの意味で耳を傾ける、というのはまさに共感することの基本です。出会えるかどうかは、まず声を、言葉を、聴けるかどうか。
最後に、長さんがおっしゃり、カクンカクンと首が肩に埋まるくらい頷いたのはこの言葉。
難民と出会ったとして、何かする「義務」があるのでしょうか? という質問に対して、長さんは「行動を起こす義務はないけれど、知る義務はある」とおっしゃったのです。
なぜ難民が世界に6500万人もいるのか?
そもそも難民とは何か?
日本はなぜ難民を認定しないのか?
それを知る義務は私たちにあります
知った後にどうするか? それはその人の判断となるのだけれど、とにかく知ることが大事。

とりとめないことを書きましたが、AARの講演会は私にとって大きな出会いになりました。ほんと、聞きに行ってよかったです。感謝。 

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