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1月28日(月)
CONIFAの会議についで今回の旅のハイライトとしていたのがアウシュヴィッツ見学でした。ちなみにアウシュヴィッツはナチスドイツがポーランドを占領してつけた地名であって、ポーランドの地名としてはオシフィエンチムだそうです。鉄道駅名もオシフィエンチム。
会議開催場所がクラクフに決まったときに、すぐにアウシュヴィッツ唯一の日本人ガイドである中谷剛さんにガイドをお願いするメールを出しました。難関のポーランド語による試験を突破して1997年からアウシュヴィッツ博物館のガイドをしていらっしゃる方です。著書も読んで予習していったのですが、実際に現場で聞いたお話は文章で読んだものよりもはるかに強烈でした。
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1930〜40年代当時、ドイツは世界の中でもトップクラスの文明先進国で、科学も医学ももっとも研究が進んでいたのに、なぜその国があやまった優生思想を信じ切って、ユダヤ「人」やロマ、同性愛者や障がい者を虫けらのように大量虐殺したのか。ちなみにユダヤ人種というのは存在しないそうです。ユダヤ教徒をユダヤ「人」とし、ナチスドイツの悪名高い人種法によって、祖父母までさかのぼってユダヤ教徒であれば「ユダヤ人種」とされてしまったことです。つまり、科学的根拠なんてなく、フィクションに基づいての虐殺だった。
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実際にアウシュヴィッツ収容所に収容されたのは強制連行されてきたユダヤ「人」をはじめとするナチスドイツが築こうとしていた第三帝国にとって邪魔な人たち。送られてきた人たちの8割は、貨物列車からおろされるとガス室に直行させられたとのこと。誰を生かしておき、誰をガス室に送るのかの「選別」は医師が行なったそうです。収容所という名前はついていても、実際は絶滅させるための施設だった。それをアウシュヴィッツだけでなく、ポーランド中のあちこちに作ったのです。
生かしておくほうに「選別」されて収容された人たちは、強制労働が可能な、つまり「役立つ」若者や、人体実験のために残された子供たちだった。「LGBTの人たちは生産性がない」といった日本の政治家をはじめとする人たちの「思想」を思い出しました。
中谷さんのお話で一番ずきんときたのは、「ナチスドイツを熱狂的に支持した人たちばかりではなく、ナチスドイツに反対して抵抗運動を繰り広げた人たちもいた。だが、ドイツそしてポーランドの大多数の人たちは、支持するでもなく反対するわけでもなく、ただ傍観していた」という一言でした。
ナチスドイツを支持する人の方が、反対する人よりも多ければ、多数派である支持側につき、「だってみんなが支持しているんだから、そのほうがよさそう」と思考停止して流されるうちに、民族大虐殺にも見て見ぬ振りをしてしまうようになる。体制側に反対する人たちは、すぐに逮捕されて抹殺されていくから、結局体制支持派のほうが多数になってしまうのです。中谷さんは「それこそがポピュリズムです」と強調されていました。
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(もとはポーランドのレジスタンス運動で戦っている人たちや、またはドイツ軍兵士が殺されたらその何倍もの無実のポーランド人を連れてきて収容していたアウシュヴィッツですが、ユダヤ「人」絶滅施設となってからはとても間に合わず、3km離れたビルケナウに広大な収容所をユダヤ「人」自身に建設させました。この線路はガス室までつながっています。窓もトイレもない貨物列車に詰め込まれて欧州各地から「運ばれて」きたユダヤの人たちは、この線路の終点で裸にされてガス室に送り込まれ、殺虫剤によって殺されました。今も欧州各地から大勢の人たちが見学に訪れます。その7割が20代までの若者たちだと聞いて、二度と繰り返されないことへの希望をほんの少しだけ感じました)

アウシュヴィッツ博物館まではクラクフからマイクロバスで行きました。大型バスも走っていたのですが、間に合わなくてマイクロバスに乗ることに。往復で24ズウォチ=720円。片道1時間半ほどの道のりのわりに安いので、最初往復だと思わず、クラクフに帰るために大型バスに乗ろうと並んでいたら、中谷さんのガイドツアーで一緒だった人に「そのチケット持っていたらあっちでマイクロバスに乗れますよ」と言われて別の停留所まで走りました。
この日は霙まじりの雨が降っている日で、雪靴をぼこぼこ言わせながら雪道を走りましたよ。 もしもこれからアウシュヴィッツに行くという方がいらっしゃれば、マイクロバスを利用するときにはチケットに帰りのバスの時間が書かれているので、バスを降りた場所までその時間に行くことをおすすめします。

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くれなずむ美しいクラクフの旧市街

1月25日(金)
CONIFAの年次総会が開催されたホテルは、クラクフ郊外にあり、周囲には巨大なショッピングモールやら倉庫やら会議場などが点在している、まあ、なんというか、何もないところに大きな建物を建ててしまいました、という感じのところにありました。CONIFAのスタッフががんばって交渉してくれたおかげで、お得価格で全員が宿泊できたのはありがたいところ。でも、会議終了後に街に繰り出すとかはできない環境だったので、みんなぐだぐだホテル内で飲み食いしていました。
到着した日に、カジュアルディナーがあったのですが、私はなんと時差ボケで夕方から爆睡。起きたら翌日の午前3時で、それから眠れない。Kindleにダウンロードしてきた「カササギ殺人事件」なんか読んでいるうちに、夜が明けました。

1月26日(土)
朝から雪。それもふぶいています。ぼーっとしながら早朝にホテルの食堂で朝ごはんを食べていると、あらわれたCONIFAの人々が「きのうはどうしたんだ? 待ってたのに顔を出さないからどうしたのかと噂していたよ。Facebookに列車に乗れないかもしれない、とか書いていたから心配した」とか言われました。 ほとんどのメンバーは欧州内にいるので、せいぜい3時間くらいで来られるのだけれど、こっちは列車移動のいれて15、6時間かかっちゃうんだからね。
そうはいっても、一番の目的である年次総会の間は眠いとか疲れたとかは言っていられません。とくに今回はややこしい議題もあり、投票もしなくちゃいけないし、、、で、緊張のうちにその日の日程をなんとかこなしたのですが、夕飯を食べて部屋に帰ってきたら、シャワーを浴びるのがやっとでベッドにもぐりこみ、またもや爆睡。
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ポーランドに到着して初めておがんだお日様でした

1月27日(日)
この日は初めてくらいにきらきら太陽を見ました。
午前中で全日程が終わるはずだったのが、いろいろと打ち合わせておかねばならないこともあって、結局終了したのが14時。みんなで遅ランチをして、またね、と挨拶をしてタクシーに乗り込み、旧市街にあるホテルに向かいました。
ポーランドの多くの都市は第二次世界大戦で、ドイツとソ連に完膚なきまでに破壊されたのですが、クラクフはナチスが司令本部を置いたことから、14、15世紀の建造物が残っています。とくに街の象徴ともいえるヴァヴェル城は、ナチスがまさに指令本部を構えたこともあって、ヴィスワ川のほとりに優美な姿を残しています。ホテルはそのすぐ近くにあり、また中央広場まで徒歩15分という好立地でした。
到着後に一休みする間もおかずに、中央広場まで観光に出かけました。今ではほとんど残っていない城壁に囲まれた中央広場周辺は、クラクフの経済の中心だったことがしのばれる場所です。広場には織物取引所、聖マリア教会、旧市庁舎の塔などが立っていて、真冬にもかかわらず大勢の観光客でたいへんにぎわっていました。ホテルのレセプションのお兄さんが「何千人も歩いている」と言ったときには、なんておおげさなと思ったけれど、いや、ほんとそれくらいの人がそぞろ歩いていましたね。
でも一本路地を入ると曲がりくねった道のところどころにバーやライブハウスなどがあり、カフェではロウソクの光に照らされたテーブルでカップルが一杯やっている姿が古めかしい窓から見えたりして、もうまさに私好みの光景です。そんななかをなぜか私と同行者が入ったのは、スポーツバー。ビールを飲みながらFAカップ、クリスタルパレスvsダメダメトッテナムホットスパーズを観戦。となりのテーブルの酔っ払った英国人サポがうるさかった。
ポーランドはミルクバーという、日本でいう居酒屋みたいなところでいわゆる家庭料理が安くおいしく食べられると聞いていたので、ホテルに帰る道の途中にあった「MILK」と看板にある店に入ったら、おっしゃれーなレストランでした。おいしかったし、思ったよりずっと安かったのでまあいいけれど、今にいたるまでミルクバー体験できていません。なんとか帰るまでには一度は入りたいミルクバーです。
この翌日はみぞれまじりの雨が降る中を、アウシュヴィッツに出かけたのですが、それについては明日書きます。
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観光客でにぎわう中央広場

現在ポーランド時間 1月30日(水)午前9時30分です。24日に当地に到着したので、ちょうど一週間経つことになります。
今回ポーランドにやってきた一番の目的は、クラクフで開催されるCONIFA年次総会に出席するためでした。 年次総会で何を話し合ったか、どんなことが決まったかについては別のエントリーで書きます。
とりあえず、この一週間、とても濃密な時間を過ごしてきたので、メモではありますがCONIFA会議以外の日々を写真でざっと追っていきます。

1月24日(木)
午前10時55分成田発のLOTポーランド航空でワルシャワに飛び立ちました。ボーイング787機の機内はまあ快適で、なによりも空いていたおかげでより居心地よかったです。この寒い時期のポーランドにわざわざ観光に行こうという物好きな人はいないのかな?(あとでわかったのですが、寒い時期ですいているからこそいくという人も少なからずいらっしゃったみたいです)
11時間半ほどのフライトで無事ワルシャワに到着。現地時間14時10分。天気はまあまあ晴れ。入国審査もあっけないほどあっさりしたもので、荷物もすぐに出てきて14時30分にはもう迎えのハイヤーに乗っていました。一人だったし、初めての場所だし、少し不安だったのでホテル・ポロネーズ・パレスという中央駅近くのホテルまでハイヤーの迎えをネット経由で頼んでおいたのでした。運転手さんともすぐに会えて、空港から20分ほどでホテルに到着。15時前に到着できました。スムーズ!
この日はアンナさんというワルシャワ大学日本語学科の先生をしていらっしゃるかたに、ヘブライ語講座に連れて行っていただくことになっていたので、急ぎシャワーを浴びて着替え、16時30分にホテルロビーへ。アンナさんとはメールでやりとりしていたおかげか、初対面でも旧知のような親しみを感じました。知性と思慮深さがにじみ出ていて、そしてエネルギッシュ。
ヘブライ語講座の皆さんに、日本から和三盆のお菓子とチョコレート菓子を持って行ったら、喜んでいただけました。
その後にあった「ワルシャワゲットー蜂起」の中心人物だったマレク・エデルマンさんという人の本を書いているジャーナリストのトークイベントに誘っていただき、アンナさんの同時通訳で話を聞きました。とても心に残った言葉がいくつかあったのですが、それは別エントリーで書きます。私の第一の印象は、ホロコーストは現在進行形だ、ということです。ポーランドだけでなく、世界中でホロコーストは進行形なのです。歴史に学ぶことがどれだけ重要なのかを身に沁みて感じました。
アンナさんにホテルまで送っていただき、ホテルのレストランでジュレックというすっぱいスープとパンで食事をして就寝。
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夜のワルシャワ
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朝になったら雪が積もってました

1月25日(金)
目覚めたのは午前6時。時差ボケで午前2時に目が覚めてしまったのですが、睡眠導入剤を飲んでむりやり眠り、それでも6時には起きてしまいました。
まだ暗い中を目をこらして窓の外を見たら、なんと雪がしんしんと降っているではないですか! やれやれとため息。ホテルからふつうに歩けば5分のところにある中央駅まで、ばかでかいトランクを引っ張って、転ばないように用心しいしい20分かけて歩きました。たどりついたときには汗かいてましたね。
クラクフまでポーランド鉄道のネットでチケットを購入したのですが、ポーランド語が読めない哀しさ
よ。これだ! と信じていた列車が、ぎりぎりになってどうやら違うらしいと気づき、あわてて近くの人に「このチケットでクラクフ行きたいんだけれど、どれに乗ったらいい?」と聞きまくり。アンナさんから「若者は英語を学校で勉強しているから、聞くなら若者に」といわれていたので、最後に家族づれで旅行している高校生くらいの男の子に乗るべき列車と号車を指差し確認(ちょっと意味が違うけれど)で教えてもらいました。乗ってからも、どのコンパートメントかわからなくて「私はどこに行けばいいの?」と叫び、見つけた修道女をつかまえてチケットを見せて案内を乞い、手を引っ張って連れていってもらいました。コンパートメントではおじさんにトランクを網棚にのせてもらいました。ポーランドの方々に感謝感謝、拝みましたよ。あ、修道女のかたには祈りを捧げてしまいました。
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ワルシャワ中央駅で、てっきりこの列車に乗るのかと思ったら違いました
 

Prideという言葉をランダムハウス英和辞書で引くと、一番に出てくるのが「(心に抱く)うぬぼれ、思い上がり、(行動に現れた)横柄さ、傲慢」です。誇りとか自尊心というプラスの意味が出てくるのは3項目目。ジェイン・オースティンの « Pride and Prejudice »という有名な小説の日本語タイトルは「高慢と偏見」が一番有名。「自負と偏見」とか「自尊と偏見」とかもあるけれど、小説の内容からすると「高慢と偏見」が一番しっくりだと思います。
ここ10年ほど、両親のことがあって、高齢者の方と、または介護にかかわる方たちとおつきあいをすることがあるのですが、そこで非常によく耳にするのが「(高齢者の方の)プライドを傷つけないことに気をつかう」とか「誤ったプライドがリハビリの、または介護の邪魔になる」といった言葉です。特に長く社会で活躍した男性の方々と接するときには、「プライド」が重要になるとのことで、ちょっとした言葉や態度でいったんプライドを傷つけてしまうと、その後のコミュニケーションがまったくうまくいかなくなる、という話を介護や理学療法士の方からよく聞きました。
父のつきあいでときどきリハビリ教室を見学していたのですが、和気藹々と楽しそうにリハビリに励んでいるのは9割がおばあさまたちで、おじいさまたちはむすっとして車椅子に座ったまま立ち上がりもしないか、もしくは理学療法士の先生が「危ないからやめてください」と制止するのもきかないで一人で黙々と歩行訓練をしていて、みんなと一緒に行動しようとしない。たしかに集団でのリハビリは、ちょっとお遊戯みたいな感じがしないでもないのですが、でもせっかくなんだから一緒に楽しめばいいのに、とか私は思いながら見ていました。
お調子者の父はリズム体操がワンテンポツーテンポ遅れることをおばあさまたちにからかわれながらも、休憩時間におばあさまたちに囲まれておやつをもらったりして「人生、最終盤でモテ期が来た」とか楽しんで通っていました。見栄っ張りで、かっこを気にする父でしたが、若い理学療法士の「もうちょっとがんばりましょう」「いいですね。よくできました」とかいう言葉にも結構嬉しそうに反応していました。でも、帰り道で「ああやって子供扱いされることで、プライドが傷つく男性が多いんや」と言うから、「お父さんはプライドが傷つかへんの?」と聞いたら、「そんなとこでええかっこしーしてプライド振り回してどないすんねん。かっこつけんのはほかでやったらよろし」と言ってました。父にとってプライドとは、「やらんでもええところで、ええかっこしーをすること」を意味していたようです。
実は私も見栄っ張りです。でも、還暦を過ぎてから「まあ、こんなところで見栄張っても無駄に疲れるだけでいいことないなあ」と思うようになってきて、できないことはできないと認めるようになりました。たとえばフルマラソンはもうできないし、ランニングもちょっとがんばってしまうと膝が痛くなります。もうサッカーはできないし、徹夜も無理だし、大酒も飲めないし、外食が2日続くとたちまち胃をやられる。でも、ゆっくりだらだらとだったら10キロは歩けるし、太極拳もできる。ちょっと気をぬくとすぐに太るし、なかなかやせられない。でも、ありがたいことにだぶついたお肉を隠すような服を選べばいい、と開き直れるようになった。自分の子どもくらいの年齢の人にあれこれ意見されても、あきらかに自分のミスや力不足だと思えば「ああ、まったくそのとおりです。ほんとごめんなさい」と言ってしまう。以前は言えなかったし、腹を立てていた。プライドが消えたとは言わない。むしろ違うところで、父のいう「ええかっこしー」をするようになった気がします。
それでも言いたい。
私はプライドという言葉が嫌いです。
邪魔なプライドはさっさと捨てたい。
プライドを捨てたら、気持ちよく老いられる気がしています。
そんなことを思っている今夜はフルムーン
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 40歳になったころから、私は一人暮らしに憧れています。長女が中学生、次女が小学生で子育てに一息ついたころからです。一息ついたといっても、家族関係は子どもが幼いときよりもはるかにむずかしくなっていました。ときどき「全部投げ出してどこか遠くに行きたい」「ああ、もう一人でのびのび暮らしたい」と本気で思いましたし、家族にも言いました。でも、結局、責任感とか常識というのが邪魔をして今にいたっています。
でも、そのときから変わらず今も一人暮らしは憧れです。
その昔、親といろいろとあって、一人で東京に出てきて就職し、一人暮しを始めました。
初出勤の朝。ときは春。きらきらと陽光が降り注ぐなか、アパートを出て、20分ほど歩いて駅に向かうとき、それまで感じたことがないほどからだが軽く、気持ももちろん軽く、全身で幸せを実感しました。この上もなく足は弾み、誰もいなかったら口笛をふいてスキップするところでした。
一人暮らし、一人で働いて自活する(実際は自活はなかなか厳しいものではありましたが、そのときは自活という言葉にうっとりしていました)、誰にもあれこれ批判されない! 憧れていた生活の始まりです。すべてが輝いて見えた朝でした。
まあね、それからあっさり一年あまりで結婚しちゃって一人暮らしはそれっきりでしたけれど。
その後も私は一人暮らしにたまらなく憧れています。東京に出てきて一人暮らしを始めた朝の至福が忘れられないのかもしれません。
ないものねだりなんじゃないか。家族がいるからこそ思えるぜいたくじゃないか。そう思いながらも、ほぼ毎日、「もし一人暮らしになったらどうするか?」と架空の生活をうっとりと思い描いていたりするのです。散歩のときには、マンションとかアパートを見かけるたびに、「50平米くらいの部屋はないかな」とか考えてしまう。
そんなの単に夢想しているだけ。ぜいたくな夢を見ているだけ。そう自分をいさめていました。
そしたら昨年、女性の友人複数人から「実は家族とは別居して一人暮らししているんだ」と打ち明けられたのです。
友人たちは既婚者です。子どももいます(成人していますけど)。でも、数年前からそれまで家族と暮らしていた家を出て、一人で暮らしているとのこと。離婚はしていないしする気もない。でも、家族と一緒に暮らすのはやめた、という友人たちの顔は、晴れ晴れとして自信があふれていました。淡々としていて、肩の力が抜けていて、そして媚びていなかった。あ、思い切って人生を整理したんだな、と思いました。
私は拍子抜けしました。なんだ、やろうと思えばできるんじゃないか。
私は何を迷っているのか。
一人暮らしは寂しい、と言われます。とくに単身世帯の高齢者は不安と孤独にさいなまれる、と言われています。
でも、本当にそうでしょうか? 高齢者の孤立は問題がいろいろと起こるでしょうが、孤独を好む、もしくは孤独に生きることを自ら選択したい高齢者だっているのです。
家族がいないと不幸。孤独な高齢者はみじめ。それは思い込みにすぎないのだ、と私は友人たちに教えられました。
 私は孤独を楽しめる高齢者になりたいです。
 前々からここで何回となく書いているように、一人で生きていく潔さを持ちたいです。 

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