Glamorous Life

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今日は2/4(月)。ワルシャワからグダンスクに移動中のICプレミアムトレイン車内でこれをiPhoneで書いてます。プレミアムトレイン、豪華!というか最新設備を備えていて、座席も快適です。新幹線の上をいってるかも。iPadを出せばいいんだけど、面倒でスマホでやってます。
ワルシャワは吹雪でしたが、今は曇。列車は北に向かって走る、走る。♫早いぞ早いぞ、窓の外、雪原も飛ぶ飛ぶ、森も飛ぶ〜 、、失礼、古い歌を歌ってしまいました。あまりに雪原と雪におおわれた森が美しいので。
さて、旅日記の続きです。

2月1日(金)
泊まっているアパートメントホテルは一般住宅やオフィスも入っている住宅なので、キッチンはついているけど、食堂はありません。歩いて5分くらいのカフェのvoucher をくれるので、近くのカフェまで朝ごはんを食べに行きます。朝8時すぎ、カフェは朝日が差し込んでいます。
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ヴロツワフにはアートの街なのか、あちこちに謎の作品や、それを並べたアートショップが並んでいます。
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(地元テレビ局前の歩道にはこんなオブジェも。「これ何?」と聞いてもはっきりとした返事はかえってきませんでした)

この日は遅めの朝食後、パッキングのためにいったんホテルに帰り、少しのんびりしてから飛行機の時間まで散歩に出かけることにしました。荷物を預かってもらって、公園をだらだら散歩。旧市街にもどって、見つけておいたミルク・バーでランチを食べました。ロールキャベツ、ライス、紫キャベツのサラダで15.6ズウォチ=500円ほど。おいしいし、量としてもちょうど良くて、ミルク・バー、気に入りました。
今日はポーランド時間3時からアジアカップ決勝があるので、早めに空港に行って、空港のWiFiで試合を見ようとしたのですが、なかなか難しく、結局、同行者の家族の方にスマホでテレビを映してもらい、スカイプでつないで観る、という離れ業で観戦成功。前半の2失点でなえ、南野ゴールで盛り上がり、PKでまた萎えましたら、実力差を感じたなあ。
飛行機に50分で乗ってワルシャワへ。市の中心部にあるアパートメントホテルに落ち着きました。ひとつ問題は、エレベーターがなくて、えっちらほっちら日本でいう6階の部屋まで登らなくてはならないこと。荷物はお兄さんが持って上がってくれたからいいけど、1日歩いて、一杯やった後に6階上がるのはつらいです。
でも、アジアカップ決勝の惨敗の苦さは、その晩のポーランド飯でいくぶんか癒されました。
 

1月31日(金)(先ほど書いたポーランド滞在日記(5)を1月31日としましたが、1月30日のまちがいでした)
 ヴロツワフはポーランド西部シロンスク地方にある第4の都市 (人口62万人)ですが、工業と金融の街として発展した豊かな街、だそうです。そう言われてみると、田舎町という印象はなく、ワルシャワやクラクフに比べるとどこか垢抜けた感じがします
 宿泊したのは駅から徒歩5分、旧市街までも徒歩15分ほどのところにあるアパートメントホテル。オフィスや一般の住民も暮らしているもビルの1部屋を借りての宿泊です。BIKE UPという名前にふさわしく、天井に吊るされた(?)自転車に照明が設置されているという、なんというか、アートな感じの部屋でした。天井が高くて、広々としているのがポイント。朝食付き一泊で6000円ほど。ポーランドの物価からすると高いかもしれませんが、部屋が広くて清潔で、ロケーション抜群で6000円ならいうことないかな。
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(こんな感じに天井に自転車がデコレートされています)
この日はポーランドに来て初めて太陽が1日照り、きらきらした気持ちのよいお天気でした。そのせいかどうか、ヴロツワフの好感度がぐっとUP。垢抜けて明るい街という印象になりました。

ホテルから歩いて15分ほどで旧市街に入ります。旧市街の中心は市庁舎を囲むMARKET PLACE 広場です。広場を囲んで淡いパステルカラーの外壁の家々が立ち並び、美しい。
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(旧市街、市庁舎のあるマーケット広場。校外学習の日なのかどうか先生に引率された小学生の団体がたくさん見学に訪れていました)
 
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(ヴロツワフ中心地の旧市街はオドラ川とその支流がぐるりと囲まれています。いくつもかかった橋の一つをわたって、洗礼者聖ヨハネ教会(2つの塔が立っているほう)にいってみました)
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(シロンスク地方はビールが有名。市内のあちこちにあるビヤホールで名物地元ビールを飲みました)


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(市庁舎前広場にはまだクリスマスのイリュミネーションが飾られていました)
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(ヴロツワフの観光のよびものは、市内に200体あるという妖精の置物です)
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(広場の一角には花市場があり、春を告げるブーケが売られています。それにしてもチューリップ5本750円は安くない?)
  どの街でも必ず訪れなければならないのがスタジアムです。ヴロツワフ市民競技場は欧州選手権のときに新しくなった大規模スタジアムでした。市内からトラムで20分くらいなのですが、スタジアムの前までいくトラムがなかなか来なくて、来たら来たでチケットが車内で買えない。でもまあたどり着いて、写真撮って帰ってきました。
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そんなこんなで1日、またもやみっちり楽しみました。走行距離15.6キロ,21,430歩。今回の旅で最高記録です。 

これを書いているのはすでに2月3日(日)午前7時です。一昨日ワルシャワに戻ってきました。明日からはグダンスクに一泊でいってきます。
それでは1月30日(木)ヴロツワフからワルシャワへの移動日についてです。

1月30日(木)
すでにポーランドにやってきて一週間がたつのに、いまだに時差ボケなのか、前日夜8時すぎに寝たくなくても眠ってしまい、いったん4時くらいに目が覚めたものの、また眠りに引き込まれて起きたら7時前。11時間近く眠ったことになりますが、疲れがとれたってことにしておきます。
この日は14時30分くらいの列車でヴロツワフに移動の予定なので、午前中にホテルから歩いていけることを発見した、地元のサッカークラブ、クラコヴィアのホームスタジアム、マルシャル・ユゼフ・ピウスツキ・スタジアムを見学に行くことにしました。
ホテルからは徒歩15分くらい。街の中心といってもいいところに、立派なスタジアムがありました。1921年に建設されたスタジアムを、2012年にポーランドがウクライナと共同でUEFA欧州選手権の開催地となったのを機に全面的に建て替えられたので、とてもきれいになっています。収容人員は15,016人。吹田スタジアムの半分以下ですが、地元の景色にもしっくり溶け込んでいる感じがしました。
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KSクラコヴィアが創設されたのは1906年。当時ポーランドはオーストリア・ハンガリー、プロシャ、ロシアの3国に分割されていました。つまり、ポーランドという国はなかったのです。クラクフはオーストリア・ハンガリー帝国領統治下にありましたから、クラコヴィアはオーストリア・サッカー連盟に所属して活動を開始しました。
第一次世界対戦が終わり、ポーランドが1918年11月11日、123年ぶりに独立を回復したあと、クラコヴィアは活動を開始したポーランドリーグに所属して、1921年に優勝します。その後も第二次世界大戦が始まるころまでに3回もリーグ優勝を果たす強豪クラブになり、戦後すぐの1946年にも優勝するも、そのあとは鳴かず飛ばず。3部にまで落ちてしまいました。2002年にスポンサーがついてからはめきめき力をつけて、2003ー04シーズンに1部復帰。2018ー19シーズンはいまのところ16チーム中9位につけています。現在リーグ戦は中断期間中ですが、2月9日に再開後、残り12試合でどこまで盛り返せるか。いまトップのレヒアとの勝ち点差は15なので優勝は厳しいかな?
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(スタジアム内にあったのはどうやらサポーターズショップだったみたいで、オフィシャルショップは別のところにありました。「ウルトラスか?」と聞いたら「いや、俺たちはフーリガンだ」と堂々と名乗ったおっかないお兄さんは、私たちがサポーターズグッズを大人買いして、クラコヴィアについて詳しく聞いたらえらくご機嫌になり、あれこれおまけをいっぱいつけてくれました。最後に「ヴィスワ・クラクフは大嫌いだ」と地元のライバルチームについて吐き捨てるように語るのも忘れませんでしたw)

スタジアムの前には「クラブのレジェンド」(強面の自称フーリガンのお兄さんの顔がこの名前を口にするときだけは輝いた)というユゼフ・カルーザ(Jozef Kaluza)像が立っています。1896年オーストリア・ハンガリー帝国にあったPrlzemysiに生まれたカルーザは、1911ー31年までクラコヴィアのFWとして大活躍し、1921年クラコヴィア初優勝に大いに貢献しました。1921ー28まではポーランド代表としても活躍。現役引退後はクラコヴィア、レギア・ワルシャワの監督を経て、1932ー39年にはポーランド代表監督をつとめました。
彼が最後に指揮をとった試合は、1939年8月27日対ハンガリー戦。4ー2で勝利をおさめました。
しかしそれから5日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦勃発。Kaluzaは1944年に48歳で亡くなっています。「どうして亡くなったの?」とお兄さんに聞いたら顔をくもらせて「戦争で」と短く答えました。
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(レジェンドに恐れおおくもタックルしているつもり)

ポーランドサッカー協会の中心的人物でもあったKaluzaは、もしかするとドイツ軍部から目をつけられていたのかもしれません。あくまで推測です。

スタジアムから戻って荷造りをすませ、チェックアウトしてタクシーでクラクフ中央駅に行きました。
で、今度もまた「どの列車に乗ったらいいかわからない」状態になってしまいました。寒い中をプラットフォームで「いったいどこに列車は来るんだ?」とうろうろ。同行者に「このプラットフォームという案内のとなりにある、トラックっていうのはなんでしょうか?」と聞かれて、はっとしてホームの向かい側を見たら、なんと乗るべき列車がもう停車していました。やばい、危うくまた乗り過ごすところだった。
3時間弱の列車の旅はほぼほぼ快適で、無事にヴロツワフに到着し、歩いて5分のアパートホテルまでたどりついたのでした。

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(ポーランドで一度は食べなくちゃいけないホットアップルパイ➕アイスクリーム)

今日から2月に入りました。ときがたつのが早い! もう1月がいってしまいました。
いまは中部の町、ヴロツワフにいます。これから飛行機でワルシャワにいったん戻りますが、チェックアウトまでの時間を利用して「滞在日記」の続きを書きます。

1月29日(火)
  会議とアウシュヴィッツ訪問と、大きなイベントが続いたためにでいささか疲れがたまり、この日はのんびりクラクフ観光をしよう、ということにしました。が、結局「のんびり」からはほど遠い1日となり、歩いた距離は12.6キロ、のぼった階数23階と、前日につぐ活動量でした。
 まずはクラクフ国立美術館にレオナルド・ダヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」を見に行きました。この美術館の一番の売りであり、これを見るだけで20ズウォチ=600円もかかります。でも、その価値はありました。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの貴族の愛人 だったチェチーリア・ガッレラーニ。チェチーリアはラテン語やフランス語にも堪能で、よく本を読んで教養も高い才女だったそうですが、悪名高いルドヴィーコの愛人になって子供を生みます。でも、ルドヴィーコはその後結婚し、妻になった女性がチェチーリアに嫉妬して、追い出すように夫に迫り、結局、彼女はミラノの別邸に引っ越してすぐに別の貴族と政略結婚しました。この絵はチェチーリアが16歳くらいのときにルドヴィーゴがダヴィンチに依頼して描かせたものですが、別れるにあたってチェチリーナはもらって大事にしていたとか。
 この絵はその後あちらこちらにさまよったあげく、ポーランドの貴族の手に渡って現在に至る、というわけです。
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 美術館を出てからはヴィスワ川の河岸を歩いてヴァヴェル城へ。みぞれが降ったりやんだりのあいにくのお天気でしたが、傘をさす必要があるほどではなく、河岸散歩も楽しめました。ヴァヴェル城の見学はやめて、すぐそばに立つ大聖堂を見学。途中で私は、何をまちがったか鐘楼までの階段をのぼってしまったのです。のぼりはじめてしまった、と思ったけれどもう後の祭り。そう、私は高所恐怖症なんです。しだいにはしごのようになっていく狭い階段を汗をかきながらのぼる中で、自分に言い聞かせたのは「きっとすばらしい景色が待っているにちがいない」ということ。でも、期待はみごとに裏切られ、どんよりと曇って霧がかかったクラクフの町が薄ぼんやり見えただけでした。 のぼった階数23階のうち、たぶん15階はこのはしご階段ですね。
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(むこうに見える大聖堂の鐘楼までのぼってしまったわけです)

 その後にこの日のメインイベントである「カジミエシュ地区探訪」へ。ポーランドの偉大な王様の名前が地名になったカジミエシュ地区は、かつてはユダヤ人街でしたが、いまはおしゃれなギャラリーやカフェが立ち並ぶ観光スポットになっています。カジミエシュ大王は1335年から当時迫害されていたユダヤの人たちを保護する政策を実施したので、クラクフだけでなくポーランドやその近郊から大勢のユダヤの人たちがこのあたりに移り住み、シナゴーグもいくつも建てられました。
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(この地区で最古のシナゴーグです。中の展示がおもしろくて、ユダヤ教の戒律や生活の規律がこまかく説明されてあって、つい熟読してしまいました。コーシャと呼ばれる食事のきまりごとがとくに興味深かったです)

ナチスドイツがクラクフを占領したとき、この地区の一部がゲットーとなり、一時期は狭い地区内に50万人以上が押し込められていたといいます。水もなく、食料もなく、もちろん暖房もないアパートは不潔きわまりなく、疫病が蔓延したとか。しかもそこから毎日のように収容所に送られて殺されていった、という悲惨な歴史がある地区です。暗黒歴史のために長く放置されて荒れていた地区が、この10年で再開発され、おしゃれなスポットへと生まれ変わったのです。
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(いっぱいあるなかで、迷ったあげくにこのカフェにしました)

 おしゃれカフェでさつまいものスープとpierogi(餃子)のランチを食べ、シナゴーグを見学し、夜にはポーランド名物のホットアップルパイに舌鼓をうちました。
 昼食後にトラムで、映画「シンドラーのリスト」で有名なオスカー・シンドラーの琺瑯工場あとにつくられたクラクフ歴史博物館(のひとつ)を訪れました。 オスカー・シンドラーは数多くのユダヤの人たちをかくまったとされていますが、彼は最初からユダヤの人たちを救おうと考えていたわけではなく、よく働き、賃金がほとんどいらない収容所のユダヤの人たちを自分の工場で働かせたいがゆえに軍部に賄賂を送って働きかけ、10キロも離れた収容所から通わせていたのでは仕事にならないと説得して、ついには工場近くの寮におおぜいのユダヤの人たちを住まわせていたのだとか。そういうことができたのは、シンドラーが詐欺師の放蕩者で、盗みや詐欺の常習犯だったからこそ。軍部に裏から手を回すことに抵抗はなく、結果的にその「実績」がユダヤの人たちをかくまうときに役立った。真正面から正義を振り回さなかったことに、かえってシンドラーの「偉大さ」を感じました。
 博物舘内にはナチス侵攻当時のなまなましい写真や動画が数多く展示され、2時間半があっという間。前日のアウシュヴィッツに引き続き、戦争と狂気について考えさせられました。
 
さて、そろそろ荷造りしてワルシャワに向かわねばなりません。
1月31日に訪れたクラクフのサッカークラブ「クラコヴィア」とそのスタジアムについて、そしてかわいい街、ヴロツワフについてはまたあとで。

1月28日(月)
CONIFAの会議についで今回の旅のハイライトとしていたのがアウシュヴィッツ見学でした。ちなみにアウシュヴィッツはナチスドイツがポーランドを占領してつけた地名であって、ポーランドの地名としてはオシフィエンチムだそうです。鉄道駅名もオシフィエンチム。
会議開催場所がクラクフに決まったときに、すぐにアウシュヴィッツ唯一の日本人ガイドである中谷剛さんにガイドをお願いするメールを出しました。難関のポーランド語による試験を突破して1997年からアウシュヴィッツ博物館のガイドをしていらっしゃる方です。著書も読んで予習していったのですが、実際に現場で聞いたお話は文章で読んだものよりもはるかに強烈でした。
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1930〜40年代当時、ドイツは世界の中でもトップクラスの文明先進国で、科学も医学ももっとも研究が進んでいたのに、なぜその国があやまった優生思想を信じ切って、ユダヤ「人」やロマ、同性愛者や障がい者を虫けらのように大量虐殺したのか。ちなみにユダヤ人種というのは存在しないそうです。ユダヤ教徒をユダヤ「人」とし、ナチスドイツの悪名高い人種法によって、祖父母までさかのぼってユダヤ教徒であれば「ユダヤ人種」とされてしまったことです。つまり、科学的根拠なんてなく、フィクションに基づいての虐殺だった。
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実際にアウシュヴィッツ収容所に収容されたのは強制連行されてきたユダヤ「人」をはじめとするナチスドイツが築こうとしていた第三帝国にとって邪魔な人たち。送られてきた人たちの8割は、貨物列車からおろされるとガス室に直行させられたとのこと。誰を生かしておき、誰をガス室に送るのかの「選別」は医師が行なったそうです。収容所という名前はついていても、実際は絶滅させるための施設だった。それをアウシュヴィッツだけでなく、ポーランド中のあちこちに作ったのです。
生かしておくほうに「選別」されて収容された人たちは、強制労働が可能な、つまり「役立つ」若者や、人体実験のために残された子供たちだった。「LGBTの人たちは生産性がない」といった日本の政治家をはじめとする人たちの「思想」を思い出しました。
中谷さんのお話で一番ずきんときたのは、「ナチスドイツを熱狂的に支持した人たちばかりではなく、ナチスドイツに反対して抵抗運動を繰り広げた人たちもいた。だが、ドイツそしてポーランドの大多数の人たちは、支持するでもなく反対するわけでもなく、ただ傍観していた」という一言でした。
ナチスドイツを支持する人の方が、反対する人よりも多ければ、多数派である支持側につき、「だってみんなが支持しているんだから、そのほうがよさそう」と思考停止して流されるうちに、民族大虐殺にも見て見ぬ振りをしてしまうようになる。体制側に反対する人たちは、すぐに逮捕されて抹殺されていくから、結局体制支持派のほうが多数になってしまうのです。中谷さんは「それこそがポピュリズムです」と強調されていました。
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(もとはポーランドのレジスタンス運動で戦っている人たちや、またはドイツ軍兵士が殺されたらその何倍もの無実のポーランド人を連れてきて収容していたアウシュヴィッツですが、ユダヤ「人」絶滅施設となってからはとても間に合わず、3km離れたビルケナウに広大な収容所をユダヤ「人」自身に建設させました。この線路はガス室までつながっています。窓もトイレもない貨物列車に詰め込まれて欧州各地から「運ばれて」きたユダヤの人たちは、この線路の終点で裸にされてガス室に送り込まれ、殺虫剤によって殺されました。今も欧州各地から大勢の人たちが見学に訪れます。その7割が20代までの若者たちだと聞いて、二度と繰り返されないことへの希望をほんの少しだけ感じました)

アウシュヴィッツ博物館まではクラクフからマイクロバスで行きました。大型バスも走っていたのですが、間に合わなくてマイクロバスに乗ることに。往復で24ズウォチ=720円。片道1時間半ほどの道のりのわりに安いので、最初往復だと思わず、クラクフに帰るために大型バスに乗ろうと並んでいたら、中谷さんのガイドツアーで一緒だった人に「そのチケット持っていたらあっちでマイクロバスに乗れますよ」と言われて別の停留所まで走りました。
この日は霙まじりの雨が降っている日で、雪靴をぼこぼこ言わせながら雪道を走りましたよ。 もしもこれからアウシュヴィッツに行くという方がいらっしゃれば、マイクロバスを利用するときにはチケットに帰りのバスの時間が書かれているので、バスを降りた場所までその時間に行くことをおすすめします。

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