Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

 政治家が口に出してはいけない言葉がある、と私は思っている。その一つが「自己責任」だ。失業した、住む家を失った、病気になった、などなど、困難を抱えた人たちに「それはあなたの努力が足りないからだ。もっと頑張ればよかったのに、頑張らないでそうなったんだから、それはあなたの自己責任だ」ということを、もし政治家が言ってしまったら、それは政治をあずかるものとしての資格がない。それどころか、政治家としての存在理由さえ失ってしまうのではないか。そもそも自己責任がとれない人たちが生きていけるような社会をつくるのが、政治家の仕事ではないか。
 自分で自分の生活に責任がとれる、何が起こっても自己責任で行動できる人たちは、社会的強者だ。教育を受けるチャンスを与えられ、努力ができる、もしくは努力が報われるチャンスにも恵まれ、不当なことや理不尽と思えば声をあげられる、といった力を持っている人は、社会的強者だ。
 そして今の政治家は圧倒的な力を持つ強者の集団になってしまった。ダントツの「勝ち組」だ(勝ち組負け組という言葉も私は大っ嫌いだが、ここではやむなく使う)。そして困ったことに、生まれたときから強者の集団にいて、強者の集団にどっぷりつかって教育を受け、仕事をしている人たちは、自分の価値基準でしか人を判断できない。人は努力すれば報われる、弱者も強者になれる、だから頑張れ、困ったことがあれば声をあげればいい、支援を求めればいい、と平気で言ってしまう。それができないから、困っているというのに。
 努力する、もしくは頑張るチャンスにも力にも恵まれなかった人たちが困窮した姿を見て、手を差し伸べることは、圧倒的強者である政治家の使命だと私は思っている。それなのに、何世代にもわたって強者の価値基準でしか判断してこなかった政治家たちは、弱者を切り捨てる。「自己責任だ」という冷たい(言ってはいけない)ひと言で。
 21世紀に入ってから、いや、バブルの頃からか、政治家がやっていることは社会的強者をもっと強くし、弱者が弱者になったのは「自己責任だ」と突き放すようなことばかりだ。
 これは世界的な傾向らしい。「チャヴ〜弱者を敵視する社会」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳、海と月社)は英国の労働者階級がなぜ英国社会で嘲笑され、敵視されるようになったかについて書かれた本だ。
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 チャヴとは、英国の労働者階級を侮蔑的に呼ぶ言葉だが、もとは(欧州から中東まで差別の対象となってきた)ロマ族の言葉で子どもを指す「チャヴィ」から来ているそうで、つまり激しく差別的な呼称である。ところが英国ではチャヴのファッションや生活をおもしろおかしく取り上げるテレビ番組やサイトが堂々と放送、公開されて人気を博していたり、自身は私立校出身の大金持ちのコメディアンがチャヴの口調を真似して笑いをとったりしているそうだ。
 オーウェン・ジョーンズという英国の歴史学専攻の若者が20代だった2011年に書いたこの本は、世界的ベストセラーとなり、政治運動、社会運動に一石を投じた。著者自身はオックスフォード大学のエリートという社会的強者であるが、強者であることを自覚している。自覚している、と言うのは、強者が持っている力が強者自身の努力で手にしたものでないことをわきまえている、ということだ。だからチャヴという、いまや下層階級になってしまった労働者階級に対する見方が、上から目線ではない。同情とか手を差し伸べなくては、とかいう上からの姿勢ではない。チャヴが困っていること、チャヴの人生の喜びと希望を、チャヴの側に立ってかなり公平に冷静に分析している。
 サッチャー政権時代以来、労働者階級の人々が大切にしてきた価値観はズタズタにされた。英国が厳然とした階級社会であるという現実を無視して、「がんばれば努力が報われる社会にします」(はい、どこかで聞いたことがありますね、このセリフ)とか言って、社会設計を大きく変更した。福祉を大幅に切り捨て、困っている人たちには「がんばれ」とエールだけ送り、自助努力と自己責任という言葉で斬り捨てた。
 階級のトップに立つ人たちにとっての「階級」とは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした仕事につき、まじめに働いて金を稼げれば、すいすいと階段をのぼっていけるような感覚なのだろう。だが、「ちゃんとした」教育や仕事の概念が、中産階級と労働者階級とでは異なることを、政治家たちはまったく気づかなかった。労働者階級の中には、階級の階段をのぼりたくない、いまの生活で十分ハッピーだ、という人たちだって大勢いるのだ。というか、そちらのほうが多数派だ。「自助努力で中産階級に這い上がれ」といくら鼓舞したところで、価値観が根本から違うのだから動かないし動けないし、動く気がまったくない。そういう人たちの仕事(鉱山や工場の閉鎖が1980年代から相次いだ)を奪い、若者たちの人生の選択肢を狭め、「落ちこぼれ」「負け組」とレッテルを貼って嘲笑している。それがチャヴを笑いものにしている今の英国社会だ、と著者は言う。
「労働者階級の人々を悪者扱いすることは、不合理な制度を正当化する恐ろしく合理的な手段である。そうやって彼らを敵視し、彼らの関心事を無視したうえで、いまのはなはだ不公平は富と権力の分配は、人の価値や能力を公平に反映していると正当化する。だが、この敵視には、さらに悪質な意図がある。労働者階級の特定のコミュニティをむしばむ貧困、失業、犯罪といった社会問題全般に、自己責任の原則を当てはめるという意図だ。「ブロークン・ブリテン」においては、被害者はつねに自分を責めるしかない」(引用終わり)
 今年出会ったベスト本の1冊である「子どもたちの階級闘争」(ブレイディみかこ著、岩波書店)で知った本書「チャヴ」であるが、読みながら「え? これって日本の話じゃないのか?」と思う箇所がいくつもあった。と言うか、本書はまさに日本社会に当てはまる内容だ。2011年に英国で現実だったことは、2017年の日本でも現実だ(2017年以前からもちろん現実である)。生活保護受給者へのバッシング、在日外国人(特にアジア)労働者の敵視、難民受け入れの拒否……どれも根っこのところは同じだ。弱者への敵視。弱者になったのは、弱者自身の「自己責任」だとして、その人たちが何を考え、求めているかをちゃんと見ようとしない。
 政治や社会問題なんてむずかしそう。英国は階級社会だろうけれど、日本は一億総中流社会(→いつの時代だ? そもそもそんな社会だった時代が日本にあったのか?)だから関係ない。そう言わないで、ぜひぜひ読んでみてほしい。強者/弱者、富めるもの/貧しいもの、と社会が極端な形で二分されている現実から目を背けて、弱者を敵視(「ああはなりたくない」「お友達になりたくない」という意見も含まれる)しているうちに、自らが敵視される社会になってしまう……かもしれないのだから。

 お孫ちゃん2号誕生から3週間以上が経ちました。初めて男の子の赤ちゃんを世話して思ったのは、「赤ちゃんのときって男女の違いはないのだな」ということです。
初めての男の子だと知ると、みなさんが「男の子は泣き声が大きい」とか「からだががっしりしているから抱き心地がちがう」とか 「おっぱいの飲みっぷりがすごい」とかおっしゃるのですが、今のところは「男女」の違いを感じることはまったくなく、違いがあるとしたら、それははむしろ「個体差」ではないかと思います。
 泣き声がわんわんと大きかったのは孫1号(女の子)で、からだが一番がっしりしていたのは長女でした。おっぱいの飲みっぷりに関してはなんといっても次女で、生まれて1日目で50ccの母乳を飲んで「こんな赤ちゃん見たことない」と助産師さんに驚かれたという逸話があります。
 いま赤ちゃんの授乳で頭がいっぱいの次女に「あなたは初日から50ccのみ、2800gで生まれたのにあっという間に1キロ体重が増えて「増えすぎ」と注意された」というと「ああ、生まれてきたのが私みたいな赤ちゃんだったらよかったのに」とか言ってます。いえいえ、孫2号も存分に飲んでいるのですがね。
 男の子の孫2号はあまり泣きわめかず、よく飲んでよく寝ていたって育てやすい赤ちゃんです。今のところは。ありがたい。
 ところで、まもなく4歳の誕生日を迎える孫1号ですが、3歳をすぎるころからにわかに「私は女の子」と主張するようになりました。保育園のちょっとお姉さんたちの「女の子だもん」の主張にあっけなく影響されて、いきなり「私、女の子だからピンクが好き」とか言ったりする。ジェンダーフリーで育てたいお母さんが紺色のパンツを履かせようとすると、「いやだ、ピンクのふりふりのスカートがはきたい。だって○ちゃん、女の子だから」と言ってがっかりさせます。
 孫1号はなぜかクサリとかネジなどのメタルが大好きで、公園に行くとブランコに駆け寄り、乗るのかと思ったらブランコのくさりをずっと撫でているし、ベンチのネジをずっとさわってうっとりしている、という子どもでした(です。今もメタル大好き)。また何かを操作する、ということが好きで、ミニカーやヘリコプターの模型などを走らせたり飛ばせたりして身震いするほど興奮していたし、先日は公園で自転車を借りて乗ったらいつまでも降りず漕ぎ続けたそうです。
 そこで私が「お誕生日に自転車をプレゼントする!」というと、飛び上がって喜び「プリキュアの自転車ね! ピンクと白にして。だって○ちゃん、女の子だもーん」と叫ぶではないですか! いや、いいんですよ。ピンクと白が好きだって。プリキュアに夢中だって。でもね「女の子だもーん」って、それ何? ジェンダーの刷り込まれすぎだよ、とフェミニズムをかじったおばあちゃんはイラッとするのです。
 孫2号よ、きみも3歳くらいになったら「ぼくは男の子だから、紺色が好き、車が好き」とか言うようになるのでしょう。でもね、おばあちゃんは、おばあちゃんだけは、ぜったいに言わないようにするよ。「男の子だから〜〜しなさい」とか「男の子の色はブルー」とか、そういうジェンダーに縛られたような発言は、おばあちゃんだけはしない(きっぱり)。
 どんな色が好きでも、どんな遊びが好きでも、おばあちゃんは「いいねー! 好きなものがあるって最高だよ。それがたいせつだよ」と励ましたいです。
 男のコだから、女の子だから、なんて関係なし。いっぱい食べて、いっぱい遊んで、人生を満喫してほしいなあ。
 

80歳を過ぎるころから、母の口癖は「私には関係がない」になりました。75歳くらいまでは毎朝新聞をなめるように読み、外出すれば週刊誌を購入して往復の電車の中で目を通し、世間でベストセラーになっていると聞けば本を購入するなど情報収集に余念がない母でした。そのお陰かどうか、あらゆることに自分の意見があって、自分の意見に反対するようなことをいう人(特に夫や娘たち)には、論破するまで声高に自説の主張を演説し続けるという困ったところもあったのですが、この5年ほどはどんな話題をふっても「だって私、きっとあと10年後にはこの世にいないから関係ない」と投げやりです。たぶん情報収集も討論もエネルギー不足で面倒になっただけでなく、今世界で起こっていることに自分が関与することはないと決めて、区切りをつけているのだろうと思います。
80代も半ばとなった母の世代の人たちが、「私には関係がない」と政治や経済、社会の問題に背を向けて、内向きの自分ファーストになってしまうのは「老化」のせいで、ある意味ではしかたないのかもしれません。
ですが、私の世代から自分ファーストになってしまったら、次世代がとっても困るのではないでしょうか。ときどき私が熱く社会問題や世界情勢などを語ってしまうと、「そんな遠い世界の出来事は日本人には関係ないんじゃないか?」とか、「私のまわりにはそんな人はいないから関係ない」とか、教育費の無料化や子供の貧困を救うという話題には「私には子供がいないから関係ない」と言われることが多いです。でも、世界の果てのように思えるたとえばシリアとかイラクのような国の紛争が、日本にも及ぼす影響は大きいし、自分の子供はいなくても、50年、60年生きてきて、次世代と何かしらのつながりがないと言い切れる人なんてこの世の中にはほとんどいないはず。50、60代は自分の老後のこと以上に、次に続く世代のことを心配しなくてはならない世代なんだと思います。
憲法改正はもとより、子供の貧困問題、世代間、社会間格差の問題、外国人実習生の労働環境、AIが変える職場、地球規模での気候変化、沖縄をはじめとする米軍基地問題、東アジア情勢などなど、私たちの社会には今手を打たないと明日の生活さえも大きく(悪い方へと)変わってしまう問題が山積しています。
そんなことを考えたのは、仕事部屋の整理をして10〜20年ほど前の新聞や雑誌の切り抜きを見返していたら、「あのときに手を打っていればこんなことにはならなかったのに」ということが山ほどあると気づいたからです。一番強く思ったのは原子力発電所の地震対策です。阪神淡路大震災のときに懸念する声はあったのに、「阪神間には原発がなくてよかったね」で終わってしまった。あのときに耳を傾けていたら、福島の惨事はここまで大きくならなかったはず。次世代どころか、十世代後までの大きな負の遺産となってしまった責任は、私も含めて当時現役真っ只中だった、現在の50、60代にあると思います。
私はこの10年以上、テレビの地デジ、特に民放テレビ番組をいっさい見なくなってしまい、また週刊誌を読まなくなってしまったのですが、その理由がタレントや政治家の不倫や噂話やいい加減な健康情報、旅やグルメ情報ばかりで辟易するからです。もしかしてテレビと週刊誌は日本人を思考停止させるための「国策」として不倫・健康情報だけに絞っている? うっかり地デジをつけてそんな番組を見るたびに、私は絶叫してしまいます(心の中で)。「私には関係ない!」
そんな見知らぬ他人の不倫話以外、世界で起こっていることで自分に関係がないことなどない! というのが私の主張です。
だから「どうせ私がなんか言っても世の中変わらないから」とか白けて目を背けないで、選挙には行きましょう! と最近では会う人ごとに念を押しています。明日の世界がどうなるかは、私たち一人ひとりにかかっているのだと信じているから。民主主義の社会に生きている私たちが明日の世界のためにできる、そしてやるべき最低限のことは、投票です!
ふ〜〜〜熱く語ってしまいました。 衆院選投票日まであと4日。

先日、お孫ちゃん2号が誕生し、今日からまた我が家は5人家族です。なかなか夫婦二人暮らしを満喫する、というわけにいかず、しばらくはまたおばあちゃん稼業にも精を出すことになりそう。ある意味、本当にありがたいことだと感謝していますよ、はい。この少子化の時代に、すでに孫2人。まだまだじいちゃんばあちゃん元気で現役で、孫の面倒も見られるのだから、この幸せを噛み締めなくちゃね。
とはいうものの、孫が何人生まれようが、私たちがこれから心身ともに老いていくことは確実です。いくら若作りしたってダメ。孫一人につき5歳若返るってわけにはいかない。
今年は実家の片付けと処分に奔走したのですが、そのときにしみじみ思ったのが、「我が身の始末をつける年齢に入った」ということでした。老後、なんてずいぶん遠い先のことのように思っていたし、まだ10年以上現役で働き続けるつもりではありますが、それでも始末をつけねばならない年齢になっているのはまちがいのないところです。私も確実に老いていき、その先には死が待っているのです。若いときは死ぬのが怖かったし、考えることさえもタブーにしていたところがありますが、孫が生まれ、親が亡くなり、生まれ育った家を手離すというこの4年ほどの変化の中で、私と死との距離はぐっと近くな理ました。
以前に比べると、死ぬこと自体はそれほど恐ろしくない。恐ろしいのは、始末をつけないで死ぬことです。
始末をつけるとはどういうことか? いつ死んでもいいように、身辺を整理することだと今の私は思っています。いつか読むから、いつか仕事に役立つはずだから、と思って大量の書籍を手放さずにいたのですが、その「いつか」はもうたぶん来ないのです。 あとみっちり働けるのは10年もない。その間に「役立つ」本はそれほど多くありません。そしてもし私が明日死んだら、この本の始末に苦しむのは子供や孫でしょう。
似合わなくなっても、(体形が変わって)着られなくなっても、もったいないからとクローゼットにしまっておいた服も始末しなくてはなりません。今、似合わず、今、着られない服はもう一生着ることがないのです。
今はまだお客さんも来るし、娘たち家族が集まってにぎやかにわいわいやる機会があるから、食器もそれなりに揃えていますが、あと10年もしないうちに不要になるでしょう。好きで集めていた食器、テーブルクロス、キッチン用品なども、始末をする時期が早晩やってきます。
母がいま介護ケア付きホームに入っているのですが、持っていける身の回りのものはほんのわずかだし、わずかですんでいることで母は精神的に穏やかです。たくさんのものを持つ、持ちたいという欲求は、せいぜい70歳までではないか。
身の回りのもの、そして自分自身の始末をつけること。それがこれからの私のテーマなのだと思います。何かを残そうとするのでなく、これまでのことを少しずつ消滅させていくこと。子供や孫に自分の始末の負担をかけないこと。実家の始末を終えて、2人目の孫が生まれた今、そんなことを強く感じています。

ルヴァンカップの第二戦、95分に気持ちがどん底に落ちました。ガンバについて何か書こうという気持ちに、3日たった今もまったくなれません。
J2降格危機のときは「監督選びに大失敗した」と原因がはっきりしていたし、ガンバ大阪ともあろうクラブがこんな失態を見せるとは、とクラブに怒りをぶつけることができたのですが、今年はもうね、どこにどんな怒りをぶつけていいかわからない。
今年のJリーグの開幕戦のとき、いや、昨年からずっと「こんなことでいいのだろうか?」ともやもやした気分でしたが、ときどき勝ったりするし、なんのかんの言いながらACLにも出場したし(酷かったけれど)怒っていいのかがよくわからず、もやもやを抱えたまま今まできました。
きっと誰かがなんとかするだろう、というかすかな期待はことごとく裏切られ続け、最後にとどめを刺したのがルヴァンカップ95分の一撃でした。

しばらくガンバのことは私のなかで封印しようと思います。
誰が監督になるか、来年はどうなるのか、そんなことも考えるのをやめます。
年パスも来年は購入をやめることにしました。ファンクラブだけは継続しますけれどね。
来季は少しガンバと距離をおいて、サポとしての精神の安定を取り戻すシーズンにする予定です。

でもね、一言だけ言わせて。
今のガンバは末期症状ですよ。J2に降格した2012年よりも先が見えない深い穴に落ち込んでいます。
来年は降格も覚悟しなくてはならないかも。そして降格したら、1年での復帰はむずかしいでしょう。
クラブも、チームも、そういう危機感を持って臨んでほしいなあ。

それでは来年のリーグ開幕まで、しばらく「青黒を追いかけ」るのはやめます。
来春、笑顔でスタジアムでお会いすることができますように! 

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