Glamorous Life

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つづきです。
生まれ育った「故郷」で暮らすことをあきらめ、親の家を片付けながらしきりに思い出されるのは、阪神大震災で全壊し、今はもうない「実家」で過ごした日々です。
私が「実家」で過ごしたのは昭和30年代半ばから40年代、谷崎潤一郎が「細雪」で描いた昭和の阪神間の暮らしが残っていた最後の時代でした。懐かしいか、と言われれば胸の奥がじわっと熱くなるほど懐かしいのですが、あの時代に戻りたいか、と問われると、いえいえ、ごめんです、と首をぶるんぶるん振りたくなります。思い出は思い出だからこそ美しい。現実となると、いやなことや汚いどろどろがふつふつと湧いてくるものです。
でも、頭の中で美化された思い出ではありますが、家をたたむにあたって、思い出されることを書いておくことにします。

「実家」にまつわる思い出で、私の頭の中でもっとも鮮明なのは、蛙の合唱です。
実家の前の舗装道路を挟んだ向かい側には、田んぼがありました。田んぼの3方は舗装されていない土の道で、南側には電車の線路が走り、北側には社宅、西側には川が流れていました。今は東西、南北に舗装道路が走り、住宅が立ち並んでいます。子どもの記憶ではありますが、田んぼはかなりの広さでした。
田んぼは春になるとレンゲでピンク色に染まり、土手ではつくしやヨモギが取れ放題なので行きたくてたまらない。でも春からは耕作用の牛が放し飼いされていて、なぜか山羊もいて、恐ろしくて近寄れません。それにまだ水洗便所があまり普及していない時代だったので、田んぼの隅には糞尿を貯めた肥溜めがあり、祖母からは「落ちたら危ないけん、田んぼには入ったらいけんぞな」と厳しく言い渡されていました。当時(今もですが)「一番いやな死に方は、肥溜めで溺れ死ぬこと」でした。いや〜〜〜それだけは勘弁ですよね。
それでも田んぼは一番に季節を教えてくれる「親しい存在」でした。暖かくなってきてセーターが必要なくなるころに、ある日学校から帰ってくると田んぼに水が入っています。やがて田植えが始まり、ツバメが軒下に巣を作るようになると、始まるのです、「蛙の合唱」が。
毎日長靴で登校しなくてはならず、学校帰りにツユクサを摘んでくる季節になると、いよいよ蛙の合唱が本格化します。それまでは鳴き方が下手、というか、合唱になっていなかったのが、しだいに大合唱団にふさわしい鳴き方になります。
「ボーボーボー」とウシガエル(たぶん)の太い声が響くと、それを合図にゲゲゲゲゲ……というやかましい鳴き声、それがやむとケロケロケロケロ、ともっと柔らかな声へと変わり、ときどき間奏のように虫の声も挟まり、少しやんだかと思うと、またボーボーボーとオオボエ、じゃなくてウシガエルが先導する、と。
一定の周期でリズムよく繰り返される蛙の合唱がクライマックスを迎えるのが、夏休みが始まるころ。そして夏休みがそろそろ終わるというときになると、ある晩からピタッと聞こえなくなり、しばらくすると虫の合唱に変わるのです。
クーラーなどない時代、夏の間は雨戸を薄く開けて、蚊帳をつって寝ていました。そろそろ蚊帳をしまおうかという季節になり、夜中にふと目が覚めると、蛙の合唱はもう聞こえず、ときどき思い出したようにケロケロケロ、と鳴く声が聞こえるだけ。すると物悲しい気持ちになったりしました。
小学校を卒業するころでしょうか。「クカクセイリ」なるものが始まり、大人たちが顔を突き合わせて市から提示された青写真を前にあれこれ話し合うようになり、まもなく田んぼは埋め立てられて道路と新築住宅になりました。当然ながら蛙の合唱を耳にすることもなくなりました。
それなのにいまだに、梅雨が始まるころには私の耳に「蛙の合唱」が響くのです。
30センチほど伸びた稲が緑の濃淡で風の通り道を教え、肥溜めのにおいにも鼻が慣れ、ボーボーボー、ゲゲゲゲゲ、ケロケロケロと見事な合唱に耳を澄ます……。
私の「故郷」の原風景です。 

今年の私個人の最大の「事業」は、親の家をたたむことです。
父が亡くなり、母が介護ケア付き住宅に移り、空き家となって2年足らず。隣接した敷地に親戚が暮らしているので不用心ということはないし、母や私たちもしばしば様子を見に戻ったり、庭も含めて手入れもしてきたのですが、いつまでも無人のままにしておくわけにはいかない。将来、私たち姉妹の子供たちの誰かが住むかもしれないから残しておこうか、それとも誰かに貸せないか、とこの2年でいろいろと考えたのですが、結局、処分するしかない、という結論に達しました。
ただ、たたむのは私にとっての「実家」ではないのです。私が「実家」と言ったときに頭に思い浮かべるのは、祖父母が戦後に建てて、私が5歳から18歳まで暮らした家です。両親は私が高校3年までその家で祖父母(その他にもさまざまな人たち)と同居してきましたが、私が高校3年のときに父が転勤で徳島に移住し、以来祖父母と母の弟の家族が住んでいました。私は大学受験を控えていたので祖父母のもとに残り、そこから東京の大学へと進学しました。
今、たたもうとしている家は、30年前父が転勤になって関西に戻ってきたとき、隣接した敷地に建てたものです。私たち子供はすでに大学から東京に出て、そこで就職して結婚し、子供が生まれ、それぞれ家を購入して暮らして今に至っています。つまり、私たちは今たたもうとしている両親の家には住んだことがありません。だからか、「実家」という感じがしないのです。
私は関西の別の町で生まれたのですが、5歳のときに「実家」に引っ越して祖父母と同居しました。父がアメリカに留学し、母が同行したので、祖父母が私たちの面倒をみるために引き取ったのが「実家」との縁でした。幼稚園の年長組から高校3年生まで暮らした「実家」の記憶は深いところに刻まれています。しかし、「親の家」の記憶はほとんどなし。私にとっての思い出深い「故郷」は、たぶん今はもうない「実家」にあるのだと思います。
「実家」は1995年1月の阪神淡路大震災で全壊しました。幸いにして、そこで暮らしていた親戚一家は誰も怪我をしませんでしたが、築50年の木造の家は住めなくなりました。そのとき築10年だった両親の家は、瓦が少し落ちたくらいでさほどの被害がなく、築年数だけでなく、建築したときの耐震基準の強化が如実に現れたなと思ったものです。祖母は私たちが東京で暮らすと言ったとき、「東京は地震が怖いじゃろ。阪神間は地震がないから、こっちで暮らしんせえ」(→岡山弁です)と何回も言ったのですが、なんと、安全と信じていた家が被災してしまったというのは皮肉でした。
両親は家を建てると同時に自分の親(私にとっての祖父母)と同居を始めました。夫婦2人だけの暮らしになったのは、祖母が亡くなってからの20年足らず。そして今、片付けていて気がついたのは、祖父母のものはほとんどなく、両親のものばかりだということです。つまり比較的新しいものばかり。あくまでも「比較的」ではありますが、片付けながら「ああ、懐かし〜〜」と片付けの手を止めて見入る、ということがあまりなくてすむ、ということです。昭和初期からのものがもう少し残っていれば、感慨に耽ることもあるでしょうが、そういうことはほとんどなし。「思い出のもの」がさほどないおかげで、「使えそうなもの」と「いらないもの」に分けるくらいですんでいる。そこが助かると言えば助かります。
長くなるので、いったんここで止めます。 

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(途中であくびが出そうな内容でしたが、目が覚めたのは泉澤仁選手の鋭いクロスとシュートでした。仁くん(いきなりタメ口)、いいねー! 期待しているよっ。足を滑らすことが多かったけれど、それはきみだけじゃないから。それにしても芝、大丈夫なのかね。怪我人が増えそうでこわいです)

はいはいはいはい、負けましたよっ💢 
しかもつまんない試合で。
しかも17位で今季勝利がまだなかったチームに、初勝利を献上。
しかも無得点で!

何がご不満かって、攻撃の迫力がまったくないことです。
相手にとって「こわい!」と圧力をかけられる選手が一人もいなかったです。
なんでシュートを打たない! なんでラインを下げる! なんでそこで横パス!
そんなんばっか。
迫力とか圧力とか、そういうものがないと点って取れないんじゃないですか?
だーらだーら、ちんたらやっていても、点は取れませんよ。
かつての監督がおっしゃった一言が身にしみます。
「いつか取れるだろうと待っていては決してゴールは生まれない」
昨年からそんな試合ばっかで、これじゃね、観客も集まりませんよ。
ま、そんなに簡単じゃないってわかっていますけれど、ついシロートは疑っちゃうんですよ。
ねえガンバさん、シュート練習してる?

そして火曜日にはACL。引き分けでもグループリーグ敗退ですよ。
崖っぷちに立ったときこそガンバは強い、と信じておきます。

 ゴール、ゴール、ゴール!! 決めろよ!
ゴール、ゴール、ゴール!! ぶちこめ!

日本代表<<<<ガンバの人なので、代表戦にはさほど力が入らないのですが、今回は久々に今野選手と倉田選手が選ばれたので、録画までして見ました。
まずUAE戦は今野選手の一人舞台と言っていいほどの素晴らしさ。ガンバでの素晴らしさとなんら変わらなかったので、「日本の方々、これが今野大魔王@ガンバですよ」と叫びたい気分でしたね。すごい選手ってどんどん高みに登って自分のピークをもっともっとあげていくんですね。ほんま、すごいわ。
そして倉田選手、これまたガンバでの活躍がそのまま日本代表戦でも生かされた、という感じでした。本人は物足りなかったかもしれないけれど、でも20分という時間で持ち味が発揮できたんじゃないでしょうか。
しか〜〜〜し、なんというか、UAE戦はともかく、昨晩のタイ戦はどうなのよ。川島選手の好セーブにひたすら救われ続けるというのはどうなんだか。

こないだから英国のスポーツ社会学研究者が書いた「グローバリズムとフットボール」という本を読んでいます。そこには21世紀に入ってからサッカーの世界では東アジアと東南アジア諸国の台頭が顕著だ、と何回となく日本と韓国の例が引かれています。グローバリズムによって経済的に豊かになった国が、同じくグローバリズムによって大きな資金を集められるようになったサッカーに資本を投下し、国際試合で「国力の示威(ナショナリズムの発揚)」に利用している、というのが研究者たちの意見なのですが、その筆頭に上げられているのが日本と韓国。
そして2010年以降はそこに中国をはじめとするアジアの国々が入ってきているわけです。 グローバリズムの流れは変わらないとしても、「アジアの先進国」として息切れ気味の日本と韓国は、サッカーにおいても揺り戻しがきているのかもしれません。新しい勢力が台頭していく中で、相対的に力が落ちていくのは避けられないのかも。ACLを見ていても、差は縮まって来ている、どころか追い抜かれているんじゃないかと思うことが多いです。
そんなことを考えながら見ていた代表戦。日本代表も「新しい世代」を入れることで相当な活性化をはからないと上(欧州勢)に追いつくのはもちろん、下からの突き上げが厳しいんでしょうね。

 



やっと浦和戦について書く元気が出てきました。その前のACLで書く元気がすっかり失せてしまったみたいで。
前半、浦和9本に対してガンバ0。もうこれだけで萎えました。後半、ちょっと持ち直したところで今野選手の豪快なヘディング。これは浦和の3バックをうまく利用できたように思います。
その後、攻められ続ける中、藤ヶ谷GKが怪我、というアクシデント。なんと田尻選手が途中交代でJ1リーグ初出場となりました。不安、というよりもワクワクしましたね。こんなチャンス、そうそう転がり込んでくるわけじゃない。田尻〜〜歌が上手いだけじゃないことを見せたれ!とか叫びましたよ、一人で。
ところが、その後セカンドは拾えなくなるし、ラインはペナルティエリアの中まで入ってくるほど下がる下がる。3バックじゃなくて7バックくらい。だからセカンドは拾えない、攻撃に行くなんてとんでもない、という状態。
そこで起きたハンドでしたが、あれだけペナリティエリア内に人が密集していたら、そりゃハンドも起きますって。これまた3バック➕新人GKの不安が産んだ当然の結末かな。
終わってみれば引き分け。これをどう捉えるか?
同じ3バック同士。でも試合の内容はずいぶんと差がありました。去年から感じていた浦和とのチーム力の差がますます広がっているような嫌な感じがしていますが、少なくとも去年の埼スタの惨殺劇を見ないで済んだだけでいいとしなくちゃいけない?
W杯予選のためにしばしJリーグは中断。けが人が早く戻ってきますように。
 

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