「日本語の歴史」
山口仲美著
岩波新書
石垣から戻ってきました。
石垣の人たちが地元の言葉で話されると、さっぱりわかりません。Welcomeが「おーりそーり」の意味だといわれても、は~それ私が知っている日本語じゃないし、と方言の域を越えた言葉のちがいにため息が出ます。
でも、日本語とはそもそも何? という疑問に応えてくれたのが、石垣島への往復で読んだこの本。同行者に「まあ、むずかしそうな本を読んで」と言われましたが、タイトルよりもずっとやさしく、わかりやすく書かれた日本語の歴史入門エッセイです。
この本で私が注目したのは、現在「日本」とされている土地のなかで、「日本語」として「日本人」に通用する言語とするまでに何を統一しなければならなかったか、という点です。実際に「日本語」が成立するのは、明治時代が終わるころというから、たかだか100年ほどの歴史しかないのです。日本のなかで言語のちがいを生じさせていたのは3つでした。
その1。地域。沖縄県で使われている言葉が、現在の日本語とは大きく異なるのを見てもわかるように、方言ですませられないほど地域によって使用言語はちがっていたし、いまもちがう。
その2。性別と社会階層。男言葉と女言葉は江戸時代近くまで分離していたし、農民と武士とでは江戸時代においても別言語といっていいほどちがう言葉を使っていた。
その3。話し言葉と書き言葉。
著者はとくにその3について詳しく書いています。その1とその2も、その3のちがい(そして統一)が日本語という共通言語を成立させるのに大きな意味をもっていたからです。
江戸時代まで話し言葉が書きとめられることはめったになかったので、それぞれの地域でどんな言葉で人々が日常会話をしていたのかはなかなかわかりずらいのですが、それでも物語や説話に書かれた会話から推測することができます。そしてそれは明治が終わるころまで、書き言葉と大きくちがっていました。
書き言葉の変遷は、どんな文字を使うかで歴史をたどることができます。文字をもたなかった日本人(と仮にしておきます)は、中国の漢字を流用して、自分たちの言葉(やまと言葉)を漢字の意味に関係なく音だけに頼って書きあらわしました。万葉仮名と呼ばれるこの書き方にはかなり無理があったし、画数の多い漢字を延々と書かなくてはならなかったのでずいぶん面倒でした。
それじゃ中国語の漢字の使い方(漢字の一つひとつにこめられた意味を利用する)で書けばいいじゃないかというと、やまと言葉は助詞や助動詞という中国語にはない文法上の語があるし、文法がちがうのでややこしい。そこで私たちが漢文の授業で習った返り点を使って、いわゆる訓読をする漢式和文が発達し、そのうち送り仮名や助詞を補うために漢字を略式にしたカタカナが生まれました。
それじゃひらがなはというと、漢字を崩してうまれたそうです。安→あ、以→い、といった具合。
法律や政治的文書を書くために生まれたカタカナに対し、ひらがなは和歌のために発達しました。つまりひらがなとカタカナは同じように漢字から発達したとはいえ、生まれも育ちもまるでちがう。しかも、漢式和文→漢字→カタカナ→男性が使うもの、崩し字→和歌→ひらがな→女性が使うもの、という使う人まで分離していました。書くものによって、文字までちがっていた、というところがおもしろいですね。女は漢字を使うものではないとされ、男がひらがなを使うことは恥ずかしいことだったのです。
漢字とひらがなとカタカナを駆使した日本語の書き表し方にどういう風に変遷していったかは本を読んでもらうことにして、私が興味深かったのは日本語のなかに「外来語」がどう導入されていったかの部分。これには残念ながら、明治時代の言文一致の章のなかにさらりとしかふれられていません。それでも、日本にはなかった概念(たとえば哲学、科学、社会、思考、人格、必要など)を、西周をはじめとする明治時代の思想家たちが言葉を漢字でつくっていった、というくだりは興味深い。日本人がつくった西欧「外来語」を表現した漢字は、中国や韓国でいまでも使われているそうです。万葉仮名→漢式和文→ひらがな・漢字まじり文の変遷のなかで、日本は独自の和式漢字とでも呼びたいものを発達させてきたことがうかがえます。
翻訳をしているとき、頭の片隅にいつもひっかかっているのが、アルファベットで表現された言葉と、漢字とひらがな、カタカナを使って書き表す言葉の間にある深い溝のようなもの。溝というよりも、むしろ肌ざわりといったほうがいいような皮膚感覚的に近いものかもしれません。(でも溝という距離感でもある)言葉や文法の違いとともに、使用する文字の違いにときどき(しょっちゅう)いらだちます。
この本は、そのいらだちがどこから来るのかを少しだけ教えてくれると同時に、いま使っている言葉に甘えてはいけないといさめてくれました。「日本語」という言葉に絶対はない。「これこそが日本語だ」といいきるのは傲慢だというものです。いま大手メディアが使っている標準語(この言葉は嫌いだけれど)に絶対的に依存することのあやうさを自分のなかでいさめる意味でも、つねに「日本語とは何か?」を問いながら翻訳していきたい、と思いました。
ところで。本日、また一つ年をとりました。
お誕生日にメッセージをいただき、とても喜んでいます。私はなかなか誕生日が覚えられないので、お祝いをくださった方の誕生日にメッセージを送っていない失礼を重ねています。ごめんなさい。そういいながら、自分の誕生日を覚えていてくださるのはとてもうれしい! 今年一年、また元気に過ごしていきたいです。
コメント
コメント一覧 (2)