今日、書評原稿を書いていて、「訳者あとがき」に

「最近は翻訳調(というのがあるとすれば)がとみに嫌われるようだが、本書の性格からあえて「日本語らしく」しなかった部分もある」

と書かれているのを読んで、ん? と思った。

というのは、その本の訳は秀逸で、「翻訳調」で「日本語らしくない」部分に、すごく味があったから。嫌われるんですか、そこが? 

という本は

「厨房の奇人たち」

ビル・ビュフォード著 北代美和子訳

白水社

うん、とても楽しかったし、こういう言い方は誤解を招きかねないけれど、とても勉強になった。知らないことを知る楽しみを与えてくれる本はいいね。著者の行動力に引きずられて、これまで「知ろう」とも思わなかった世界をのぞけるのがありがたい。さすが『フーリガン戦記』の著者だ。

読み終わって、すごくトクした気分にさせてくれる。自分も一緒になって、著者と一緒に、NYの厨房で汗水たらして兎やら鴨やらをさばき、ワインをラッパ飲みし、トスカーナの山奥の質素な、でも実はとても豊かな食卓に座った気分にさせる。

どんなシーンを描いても、その場の「空気」が感じさせるのがうまい訳だ。これ、ビュフォードさんの文章がうまいだけじゃないと思う。翻訳に空気を伝える力がある。

そういう本であり、そういう訳。

で。

翻訳された本を読む楽しみは、いつも自分にまとわりついている(まとわりつかれるのがいやだっていうんじゃない)ものとはちがう「空気」を感じることにある、と私は思っている。

その「空気」を感じさせるのが、ひとつには「翻訳調」じゃないかとときどき思うのですね。

あまりにもひっかかりのない日本語になった翻訳文って、ちょっとちがう気がする。

日本語と外国語の間に横たわる深い溝を、ときどき垣間見せる(感じさせる)ほうが、歯ごたえがある。だって、溝を超えてどちらか土俵に引きずり込んでしまったのなら、翻訳を読む楽しみが減りませんか? ま、それは私だけかもしれないけれど。

自分に向かって石が飛んでくるのを覚悟の上でいわせてもらうと、世の中には「翻訳調」どころか、「翻訳」までもいたっていない本もいっぱいとはいわないけれどあって、それを読んだ人が「あ、これ翻訳調だから読みにくい」とか思っていたら困るなあ。