『普通の家族が一番怖い――徹底調査、破滅する日本の食卓』
岩村暢子著 新潮社
という本を読みました。
マーケティング調査会社につとめている方が、8年にわたってアンケート、グループ面接で調査をした日本の食卓を読み込んで書かれた本で、ま、タイトル通り扇情的な内容です。
18歳になった息子にもサンタクロースの存在を信じさせて、クリスマスになると窓に靴下をぶら下げている、とか。(「子供には夢を持ってもらいたいから」なんですってw)
正月のおせちをつくらない家庭が43%もいて、元旦の朝には起きてきた順番に菓子パンとペットボトルの飲み物を飲んですます、とか。
結論は「日本の食卓(そして家族)は破滅にむかっている」というような話です。
料理が苦手で子供にひたすらスナック菓子を食べさせていた、とか、子供の弁当に毎日オレオをつめてきた、とか、幼稚園の遠足のときにお弁当を食べる場所まで寿司屋に出前させた、とか、遊びにいったら家にまな板がなかった(包丁は果物ナイフが1丁だけ)、とか、そういうお母さんたちが私が子育て真っ最中のときに知り合ったなかにいました。仲良くはなれなかったけれど、でもそんなに異常な人たちだとは思わなかったな。そういう意味でこの本は思い当るところがあってうなずきながら読みはしたけれど、だからって日本の家族は崩壊している、もしくは破滅への道をたどっている、とは私は思わない。
自分で言うのもなんだけれど、私は食べることにはかなりマメで、せっせとつくるし、着実に腕をあげていると思う。料理をするのは、おいしいものを食べたいという生理的欲求があるからで、たとえ一人でも結構ちゃんとしたものをつくる。(→自慢させて)でも、料理がほんとに苦手で嫌いで、キッチンに立っただけで頭痛がする、という人のことを軽蔑する気にはまったくならない。私が裁縫が苦手なように、料理が苦手な人がいて当然だと思いますよ。ボタンつけとすそ上げのときしか裁縫箱開けないもん、私。
家事はやらないほうが苦痛です。ちらかった汚い部屋にいると精神がささくれだつし、くさい湿った布団には寝たくない。それは私の生理的欲求です。私の目から見て散らかり放題の家のほうが居心地がいい、という人の生理的感覚もよくわかるし、そういう人の家で私はゆったりくつろいじゃったりするのですね。
人それぞれ生理的欲求の在り方はちがう。たとえ家族でもちがう。私の清潔・整理整頓の許容レベルは、夫や子供たちとちがう。私の「おいしいものをきちんと食べたい」という欲求も、ほかの家族から必ずしも賛同を得られているとは言えません(たとえば、私は加工食品が苦手で自分ではつくって食べないが、娘たちは私がいないときにいそいそラーメンをつくっている)。だから自分の許容できる範囲で、家事は各自がやったらいいのだと私は思いますね。
そもそも家族のなかで家事を担うのが妻や母親であって、彼女たちが苦手としていることをやらないからといって「怠慢だ」とか「日本の家族は崩壊する」っていうのはどんなものなのだろうか。シュフ=女性とは言っていない、と著者は何回も強調しているけれど、読んでいるとそれが大前提になっているみたいで、そこも気になるところです。
家事は誰か(家族)のためにやることじゃなくて、自分が生きていくためにやることだ、と私は思っています。ここまではやっておかないと気持ち悪い、という程度までを、家族一人ひとりがやるべきじゃないでしょうか、ほんとは。シュフ一人がやるべきことじゃないんですよね。
ふだんの家事以上のこと、たとえばおせちをつくったり、年末の大掃除をしないといけない、というのなら、「いけない」と考える人がやればいい。お父さんがおせちが食べたいというのあら、お父さんがつくったらいい。(うちではここ数年は長女が中心になっておせちをつくっています)。なんなら買ってきたものをお重に詰める(か皿に並べるのだっていい)のだって十分。大掃除をアウトソーシングしたってまったく問題ない。それで崩壊する家族なら、別の理由でとっくに崩壊しているでしょ。
もうひとつ、家事は毎日のことです。今日やって明日やらない、とか、そういうことはできない。やらなかった家事は、いずれしっぺ返しがきてしまう。どんな形でくるかはわかりませんが(それこそ人それぞれ)。いま、仕事部屋の掃除という「家事」をやらなかったしっぺ返しを受けている私。モノ(とくにすぐに読みたい資料)がつねにブラックホールのなかに吸い込まれて消えていき、二度と出てこない、というしっぺ返しですね。いやはや家事の神様はこわい。
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