Jリーグがシーズンオフは落ち着いて本が読める期間です(w)

 年末から読んだ本、印象に残った箇所などを自分のメモ代わりに書いておきます。

村上春樹作品まとめ読み

『ダンス・ダンス・ダンス』(上下)(講談社文庫)

『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)

『1Q84』(1,2,3)(新潮社)

年末から1月半ばまで明けても暮れても村上春樹作品を読んでいたのですが(途中で村上春樹訳のフィッツジェラルドまで読んでしまった)、さすがに3週間読み続けるとやや食傷気味になりました。1Q84の3冊目にいたって「爆発的に売れているのはわかる。でも3冊目まで読む根性がある人はどれくらいいるのだろうか?」と少しふしぎにも思いました。作品の背景(というか遠景?)になっている第二次世界大戦と戦後の「民主主義」なるある意味危険な思想が日本に持ち込まれていく過程での激しい闘争。それが生んだ負の遺産が私にはなんだか重くて、とくに1Qの2巻目はきつかったなあ。ダンス~にはしらじらとした光で目をくらまされたあとでしばらく目が見えなくなり、そのあとようやく闇に慣れてきたらおどろおどろしいものを見せられてしまいました、みたいな結末で、読了後数日落ち込みました。

こういう歴史の暗さとか人の負の部分の描き方とか、相当ダメージを与えられる感があるのですが、村上ファンたちはきっとそこで中毒になるのかな。ほかの作品も読み返そうと思っていたのですが、しばらく(半年くらい)いいや、という気分で置いてあります。

『海炭市叙景』 佐藤泰志著 小学館文庫

映画も見ました。地方のどこにも行けないずんどまりの閉塞感がすごかった。映画で加瀬亮が演じるプロパンガス店の店長がいたすぎて笑えるほどです。

最近(またもや)はまっているのが白川静作品です。『字統』をリビングにおいて、気になる漢字があるとめくって読んでいます。

『文字逍遥』

『文字遊心』(2冊とも平凡社ライブラリー)

いや~もうすごいわ。この2冊のエッセイは、単なる文字学を超えた哲学書ですね。知の巨人の著作を私ごときが語るのはあまりにも恐れ多いので、二カ所だけ、文字遊心の「狂字論」と「真字論」から引用しておきます。

(中国の人ほど狂を愛した民族は他にいないように思える、としたあとで、中国の人の狂とは)「正常とされるものの平凡さとひ弱さとに対して、それは形相の異常のうちに、強烈な意志と、破壊的な論理をもち、新しい創造への行動力にみちた、ある不合理なるものを意味した」

(真とは、実とは何か、ということについて)「人が生きるこの現実を仮にして虚幻なるものとし、真の実在とはこのような現象のうちには存しないで、われわれの知覚を超えた、その背後にかくされているという、実と虚との転換によってもたらされる。有とは限定された現象の世界であり、このように限定されることのない無こそ真の実在であり、実有である」

移動が多かった1月。列車のなかでこういう文章に出会うと(移動中のノマド的存在になっていることもあり)どこか別次元に突き抜けてしまったようなカタルシスを覚えました。

白川静さんの万葉集の解説にも衝撃を受け(これまで斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書)くらいしか解説書を読んだことがなかった)、村上春樹作品の根底にある日本の古典作品にも興味を覚えたので、『雨月物語』(上田秋月)『日本語の古典』(山口仲美著 岩波新書)も現在読書中。

軽い本もあげておきます。

携帯電話をめぐる短編を9つ集めた『名声』(ダニエル・ケールマン著 瀬川裕司訳 三修社)は、ホラーなエンターテインメントです。ケータイの電池が切れて、言葉がまったく通じない見知らぬ異国の地にほうり出された女性の話なんて、ほんとぞっとします。

いまや流行作家(?)となった佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)。インタビューをまとめたものなので講義を聴いている感じで読めます。でも語られていることは過激。「今」をどうとらえるか、そしてそれをどう変える(意志の力を持って変える)のか、ということを突き付けるような内容です。