あーえーいーおーうー。きのうの試合はどーんと重く胸にこたえたけれど、かるーくスルーして今日は別の話題にしていいですか?(いいよ、いいよ、とガンバサポならきっと言ってくれるはず。後半の川西選手のゴールだけ見て脳裏にそれだけを刻みました)まだJリーグは2試合目。まだまだこれからですよ。それにしてもなぁ。ホラーな守備をなんとかしてください。

さて、今日はまったく別のトピックスです。

この2カ月ほど、つまり大震災前後からジツカワがエネルギーと時間を注入していたのは......書道でした。すみませんすみません、世の中がこんなにたいへんな時期になーにやってんだか、というお叱りは覚悟の上です。某書道展の応募作品締切が昨日だったもんで。制作期間2カ月。予定されていた合宿や練成会が震災の影響で(当然ながら)中止になり、自主練を中心に書いて乗り切った今回でした。

書道展の応募は今回で4回目。漢字と近代詩文書の2部門で応募したのですが、どちらも自分で探してきた素材で書くことにしました。しかも漢字は先生にお手本をもらわないで草稿を手直ししていただきながら書きます、というずうずうしさ。

そしたらですね、これが楽しかったのです。とはいっても、どんな素材にしたら作品になるかがわからず、まわりの先輩たちに教えてもらってだいたい見当をつけて詩文を選んでも、今度はどう書いたらいいのやら見当がつか。草稿みたいなもの(小さな紙に書いていくんだけれど、これがまたヘタなんだわ。草稿のために練習したりして)をつくって先生に見てもらうことも繰り返しでした。実際に書き出すまでにえらく時間がかかり、ああ、早く筆をとりたい、原寸大の紙に書きたい、と焦燥感にかられたときもありました。締切まで1カ月を切るころにまだ悶々としていて「お手本をもらっておけばもっとらくらくだったのになあ」と内心、自分の怖いもの知らずに舌打ちしたくなったりもして。

いくつか題材を選んで、先生に草稿を書いてもらって原寸大の紙に書くと......これがまたうまくいかない。題材が悪いんだか、それとも書き方が悪いんだか。いやなんてたって腕がついていかないから、自分で見ても笑っちゃうくらいつまんないものしかできあがらない。もどかしい。いらいらする。何がいけないのかって、自分のなかに「こういう作品にする」というイメージが浮かばないままに書いているのがいけない。一番ストレスがたまる。

そんなときに教室で先生から勧められて「金子鷗亭――墨ニュークラシック 次世代に伝える21世紀新古典」なる本を手に取りました。アマゾンにある本の紹介をそのまま引き写します。「中国・日本の古典文学を原文のまま書くのが「書」であった時代に、時代と共にあるべき書の姿を模索し、書の概念までを動かした一人の人物の存在があった。「近代詩文書」の生みの親にして、創玄書道会の創始者、金子鷗亭。その存在自体が、いまや現代の私たちを導く「21世紀の新古典」と呼ぶにふさわしい」

この本を読んで、というか、観賞して、あー、書とはそういうことか、と自分なりに腑に落ちるところがありました。腑に落ちるどころか、私はちょっと感動したね。 中野北溟さんという書家の方が解説をしているのだけれど、その文章がまたいい。書かれた線から読み取る呼吸、姿勢、身体の開き方、紙の上だけにとどまらない空間の作り方、時間を超えていく書を書くための古典との向き合い方といった話がとてもわかりやすくておもしろい。しかも(実際に筆を持っている自分としてはおこがましくも)作品に添えられた解説の一つ一つの話に納得がいく。人を感動させる書とはどういうものなのか。あくまでも言葉のうえだけでの理解ですが、少しだけイメージができた気がしました。(臆面もなく言っちゃうと、私はそういう書をめざしたいよ)

この本と、何冊かの古典の法帖を毎晩眠る前に眺めてイメージをふくらませ、今の自分の技量の範囲で、自分が書きたいものに近づける方法をいろいろ考えました。ってエラソーに言いながら、最終的にはぜーんぜん具体化しなかったんだけれどね。技術も経験もあまりにも不足していることを痛感しましたわん。

まあそんなこんなの試行錯誤がすごく楽しかった。学ぶことがあまりにも多いとわかって、かえってやる気も出た。始めてからまだ2年ちょっとだけれど、あらためて趣味として書を選んでほんとよかった、と思いましたです。

まだまだこれから、やることは山のようにあるな。ガンバも、私も(いきなりそこか?)