昨年から始めた中国語にまだまだハマっています。まだ初級段階ではありますが、中国語(だけではありませんが)は学ぶうちにいろいろな発見があってほんとおもしろい。
今は文章を覚えて繰り返し発声してみる、もしくは書いてみることを続けています。基本文型の本を1冊終え、今は単語学習中。今週より副詞を始めました。
そこで発見その1。名詞、動詞、助動詞、形容詞とここまでは単語を使った中国語の短文とその日本語訳に私の感覚としてさほどちがいがなかったのですが、副詞になったとたんにとまどいが生じています。
たとえば「すぐに」という副詞。
中国語には「忽然,立刻,马上,赶快,眼看」といった表現があります。これをどう使い分けるのか。時間の長さ(5秒後なのか1日くらい待てるのか)、気持ちのちがい(今やっていることをやめるくらい急を要すると感じているのか、それともできるかぎり早くという感じか)その使い分けがむずかしい。中国語辞典を引きながらその感覚をつかもうとするのだけれど、それだけではなかなか。やはり多说,多听,多看汉语,我能抓住这样的感觉。
それでは英語でそういうニュアンスをつかむのに苦労するのは何かと言うと、私の場合は冠詞と時制です。とくに冠詞には苦労させられてるわ、ったく。aがついたものをどう日本語にするか? どうしてここでtheが使われているのか? 悩まされます。日本語でそのまま置き換えられる言葉ではないから、翻訳するときには何かしら言葉をおぎなわなくてはならない。どんな言葉にするのが一番感覚としてしっくりくるのか。そこに悩む。
そして時制。時制の感覚をつかみそこねると、話がまったくちがう方向に走っていってしまう。時制のとおりに訳すと、とってもぎくしゃくした日本語になってしまう。日本語と英語では時間のとらえ方がちがいます。「ちょっと待って」の長さは、英語でWait a momentと言われたときとちょっとちがうし、an instantを「一瞬」と訳するのをためらうことも多い。
言葉を学ぶ目的は人それぞれでしょうが、私の場合はそういった「発想と感覚の違いの発見」が楽しいっていうのがあります。自分が当然だと受け止めている時間の感覚や、感情の流れ、人に対する思いなどが、実は普遍的ではないと知る驚きとおもしろさ。もし地球上みんな同じ言葉を話し、同じ感覚を共有していたら、かえって人類は発展もせず、むしろいがみあってだらだら滅びて行ったかもしれないな、とバベルの塔の神話と反対のことを想像します。
コメント
コメント一覧 (3)
言葉を学ぶ目的と言えば、中国旅行した友人が「次回中国に行ったらちゃんと中国語で喧嘩したいから、中国語を勉強する」と言っていました。観光客だからって騙されそうになったかふっかけられたかしたようです。「こないだも負けてなかったけどこっちは英語だから悔しかった」、そうで…。
私はイタリア人アーティスト招聘の仕事が震災の影響でポシャったのを機に(?)イタリア語を勉強し直しています。当分仕事では不必要だけど…悔しいから、この悔しさをバネに。それに、仕事無くなったら時間が出来ちゃったんですよね…笑えないけど。おいしいもの食べられる毎日があるだけで幸せです。
ところでイタリア語。私も2年間ほど勉強していました。目的はW杯のときイタリアチームを応援するため。でもそれにはまったく役立たず、かわりにイタリアの田舎を車でまわったときに予想外に役立ちました。イタリア、ちょっと地方に行くと(ミラノ以外では、といってもいいかもしれない)まったく英語が通じなかったので、たとえ片言であってもイタリア語が話せないと目的地に到達することさえできないところでした。英語が通じない観光地って世界中に相当ありますよね。東京もそうかもしれないが。
きゃ、たとえ嘘でも光栄です。サイトはずっと拝読しているのですが、サッカーネタにはコメントしようがなく(苦笑)。
習字は最近、書くのが苦しくて(って生意気ですが…読み方がわからない字を書くのが辛い)自主練放棄していた後ろめたさ?から、習字ネタにもコメントできませんでした。先生に「書きたいものは特にない」と言いつつ、渡される課題は「なんかぁ、書いていて気持ち悪い」とごねていましたが、やっと心を入れ替え今週から自主練再開したら、以前にもまして自分の下手さが目に沁みます。ただただ面白くて書いていた時よりも、ある意味で進歩したのかな?!と思いたいです。