今朝の朝日新聞朝刊に、作家の平野啓一郎氏が「ことばの力で伝えよう」という記事のなかで語っていることに、私が深く同意する一言があった。
「ことばなんて通じなくても酒を飲めばわかり合える、という話が嫌いなんです。そこでわかり合える内容は、楽しかった、ということぐらい。体験こそ大事だと話す人もいますが、体験を自分のものとして回収するには、言葉が必要です(以下略)」
話が少しずれる。
昨日、留学生派遣団体の会議に出席したのだが、そこでショックな話を聞かされた。
留学を希望し(つまり意欲があり)、筆記試験と面接試験に合格しても(つまり適性もあるはずなのに)、アメリカ合衆国がビザ取得のために設けている語学テストで不合格になって留学できなくなる、という高校生が多いのだそうだ。学校で英語の成績が上位にあっても、テストに合格できない。これだけ英語の成績が悪いのは世界でも日本とタイだけだとか。
日本の学校の英語教育はどうなってるんだ、と憤る前に、私は日本人(とひとくくりにすることには抵抗があるのだけれど、それはさておき)が他人に何かを伝えようとするとき、「ことばを軽視していること」が問題なのではないか、と思う。
「ことばに出しては言わないけれど、わかるだろ、な?」とか、「空気読めよ」とか、「ことばは通じなくても身振り手振りでコミュニケーションはとれる」とか、そういう言い方、考え方(私は単なる甘えだと思っとります)がこの国には蔓延している。平野氏が言うように「酒を飲んでわかり合う」ということが、ことばで伝えることよりも重視されているのではないか。「楽しかったね」「つまんなかったね」「たいへんだったね」というだけで、体験をインターネット上のつぶやきごときのもので終わらせてしまっている。陸山会についての報道を読んだときにも、企業の会議に部外者として参加したときにも、自分自身が家庭で家族に接しているときにも、海外旅行に行ったときにも、自戒をこめて痛感する。ことばの持つ力が侮られている。
コミュニケーションはまずことばから始まる。ことばを軽視(無視)して、人に何かを伝えるのはもちろん、人に伝えたいことを自分の頭で考えることさえ無理だ。
「日本人なんだから日本語ができればいい。外国語なんてできなくても別にかまやしない」という人がいる。でも、そういう人にかぎって、日本語の使い方もうまくないし、自らの日本語語学力を磨くべく努力しているようには思えない。(まあ、多分に偏見が入っていますが)。それはさておき、望むと望まないとにかかわらず、異なる言語でコミュニケーションをとり、異なる文化・社会で生きている人たちと接しないでは生きていけなくなっているのがこの時代だ。「外国語なんてできなくてもいい」と本気で思っている人は、ごく少数ではないだろうか? 自分はともかく、我が子にはぜひ外国語を身につけさせたい、と願っている親がたぶん大半だろう、と推測する。
ただ、外国語を習得する目的と、その目的に達するための道筋を明確に描けていないことが、日本人は外国語が使えないといまだに言われている原因なのではないだろうか。
目的の第一はずばり「コミュニケーションをとるため」である。なーんだ、そんなことわかっているよ、と思われるだろう。だが先ほども言ったように、日本人が考えている「コミュニケーション」のなかには「言わなくてもわかってくれるよね」「身振り手振りでもコミュニケーションはとれる」「一緒に酒を飲めばわかり合える」という甘えが多分に入っている。それに加えて「学校のテストでいい成績をとるため」とか「会社に言われてTOEICの点数をあげるために」とか、そんな目的での外国語習得に終始するから、伝わらないことばが飛び交ってしまう。異言語異文化の人(必ずしも外国人とは限らない)に自分の意志を伝え、相手の意志を理解しようとするなら、身振り手振りやあうんの呼吸ではぜったいに不可能だ。ことばを習得すること。何よりも、伝わることばを身につけること、これが肝心。
(ちょっとここで具体的な話。これはあくまで私の体験からでしかないが、コミュニケーションのために語学力を身につけるには、身も蓋もないが、たくさん聴いて、たくさん読んで、たくさん話してみることしか道はない。語学に王道なし。語学的な才能がない、とか嘆く人がいるが、才能云々を言う前の段階で、「無理」とあきらめてしまっている人のほうが多いと思う。量は質(才能)を凌駕するのですよ、こと語学習得においては。
世界各国で放映されているニュース番組と映画をできるだけ字幕なしで視聴して、「そうか、自爆テロが起こったときにはこういう言い回しで衝撃を伝えるのか!」とか、「体よく相手をふるときにはこの言い回しが使える」とか、実生活でも役立ちそうな単語や表現を覚えておく。私は以前、書きとめたメモを冷蔵庫の扉に張って、冷蔵庫を開けるたびに口に出して言ってみることをやっていた。そうやって覚えた単語や言い回しは、実際に会話するときに実に役立っている。
読むのはさておき、話す、というのはついネイティブとお話ししなくちゃ、とか思われるだろうけれど、そう簡単にネイティブスピーカーが見つかるわけではないから、私は「音読」がいいと思っている。その昔、高校時代に私は試験前にひたすら英語の教科書を音読し、丸暗記して書いてみるのをやっていた。あのテスト勉強は非常に役立った。テストの成績がよかった、というだけでなく、語学の習得は「口に出して言ってみて、それを自分の耳で聴くことから始まる」ってことがわかった、という意味で役立った。)
そして第二の目的。外国語を習得するのは、外国人とコミュニケーションをとるためだけではない、と私は思っている。異なる思考方法、異なる社会、異なる文化、異なる精神性を知ることは、まずことばを知ることから始まる。ことばを手がかりにして、自分とどこが異質であり、どこが共通しているかが初めてわかり、「異なる者」への理解が始まる。そしてことばを通じて「自分とは異なる考え方がある」ということを意識し、理解していく過程で出会うのは、異なる者たち以上に、「自分」ではないか。
つまり、自分が母語としている以外の言語を学ぶことは、自分が何者であるかを知るための重要な手だてとなる。私はそう考えている。日本人である自分、高度成長期後に成長した自分、母親である自分、仕事をする自分、一応女性である自分、そういう自分をどう表現して伝えるか? 私の場合だけなのかもしれないが、外国語を学ぶことで、世界における自分の立ち位置とか、自分の在り様が実感を持ってつかめているような気がする。
「40歳をすぎてから新しい外国語を習得するのは、時間と労力がかかりすぎる(だからやらない)」と言ったことをたしか村上春樹氏が言っておられて、そうかーと思ったことがある。村上さんでもそう思われるのだから、私なんかやめといたほうがいいなとね。と言いつつも、40歳をはるかに過ぎてからイタリア語とスペイン語を学び、50歳をはるかに過ぎている今は中国語習得に自分でもちょっとおかしいんじゃないかというくらい時間と労力を注ぎ込んでいる私。先日イタリアを旅行して、10年前に2年ほど学んだイタリア語が、旅行で使う程度であればまだ十分役立つことを知って、異言語習得に遅すぎるということはないのだ、とあらためて思った。
何歳からでも始められるし、一度獲得した語学力はほそぼそながらでもブラッシュアップを続けていけば、失われることはない。そして目的と手段をまちがわず、時間と労力をかけさえすれば、かならず進歩しつづけるのが語学力だ。
日本語も含めて、ことばの持つ力をもう一度見直し、伝わることばを獲得するための手段と努力を始める時期に来ているのではないだろうか。
コメント
コメント一覧 (4)
元子さんも書かれていらっしゃるように、「なあなあ」じゃだめです。こちらでは一般人でも、政治、経済、スポーツとあらゆる面で「私はこう思う」と主張できる。経済が苦手な私はいつも冷や汗ですけど。
筆記で落ちる日本人学生が多いという事実に驚愕しています。私が英語を勉強していた頃は、皆、聞き取りが苦手、ですんでいたんですけどね。英語に接する機会が増えたこの時代に、なぜ??? 学校では何を教えているのでしょうか。