今年はしっかり本を読んで映画を観る、と決めています。映画はDVD、TV(とくにWOWOW)でも観ているのですが、あらためて(いまさらながら)思うのは、優れた映画は時代を超えて人を感動させるだけでなく、後世にぜひ残しておくべきだ、という強い気持ちを抱かせることです。何に感動するかは人によって違うのでしょうが、名作は時代を越えて多くの人を感動させるに違いない。名作かそうでないか、は、時代に耐えられるか、ということなのではないでしょうか。 (こんなことを言っちゃなんだが、「テルマエロマエ」「桐島、部活やめるってよ」が50年後に誰かを感動させる、とは思えない(観ちゃったんですよ、うっかり)) 観るべき映画、撮られるべき映画、というのがある。才能と情熱のある監督にしか幸福な映画がある。そういう「名作」に出合えたことに感謝しつつ、記録を残しておきます。 「特別な一日 」 監督:エットーレ・スコラ 主演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ WOWOWで放送。 1977年の映画です。舞台は、ムッソリーニが台頭し、ヒットラーと枢軸同盟を組んだころ。ヒットラーがナチスを率いてローマを訪問した「特別な一日」(la giornata particolare きわだった、普通ではない異常な、という意味かな)。全ローマ市民が参加すべし、と言われた式典に、参加できなかった2人の中年男女が主人公です。 マストロヤンニが演じるのはゲイの元ラジオDJ。ラジオ局をやめさせられて、封筒の宛名書きで糊口を凌ぎつつ、反体制運動に身を投じようとしている。 ソフィア・ローレンは6人の子供のいる生活にくたびれた中年主婦。夫とともにムッソリーニに心酔しているものの、人生にはむなしさを感じている。 男は式典参加を拒まれ、女は生活に追われて参加できない。女の家庭の九官鳥が逃げて男の家のバルコニーに飛んで行ったことがきっかけで、2人は押したり引いたり、追いかけたり逃げたりをしながらしだいに接近して行く。 たぶん、主題は「ファシズムの時代におけるホモセクシュアリティ弾圧への抵抗」とかなんだと思うけれど、それだけじゃない。単にたわいもない会話と、コーヒーを飲んだり、洗濯物を取り込んでたたんだり、ルンバを踊ってみたり、そんなことをしているだけなんだけれど、なんだろう、どのシーンも緊張感にあふれている。バックグラウンドとして流れるヒットラー歓迎式典のラジオ放送、九官鳥のつぶやき、そんな音響までもが緊張感を誘う。 マストロヤンニは自伝で、この映画は傑作中の傑作で、とくに電話のシーンがすごい、と言っています。一つの台詞も、一つのシーン(壁にかかった絵、コーヒーミル、食器、電燈の笠にいたるまで)がすべてに計算され尽くした意味がある。ただの一秒たりと、無駄なシーンがない。余白と沈黙にこそ、映画が伝えるべきことがある、とわからせます。本当にすごい映画です。主演の2人だけでなく、いやらしいすけべな夫や、ムッソリーニに心酔する管理人の女までもが、人の意表をつく、もしくは人が聞きたくない台詞をはき、見たくない表情を見せる。 ラストシーンのあと、深〜いため息をつきました。感動? いや、もうなんていうか、人間ってすごい(すごく怖くて、愛すべき存在)と思いましたよ。エットーレ・スコラ、後世に残る映画を撮ったんだ。ムッソリーニやヒットラーに対する批判を一言も出さずに、強烈痛烈な戦争批判。こういう映画こそ名作と呼べます。 「ブリキの太鼓」 フォルカー・シュレンドルフ監督 ギュンター・グラス原作 1979年 ドイツ映画 映画通の方に「これは必然性があった映画」と言われました。 そう、必然性があります。撮られるべき、もしくは撮られる運命にあった映画。3歳で成長をやめてしまった少年オスカルが主人公で、叫び声でガラスを割ることが特技で、というとストーリーは破天荒と思われるでしょうが、リアルそのものです。現実というのは、角度を変えれば破天荒なんだ、とあらためて思います。 どのシーンも「隠喩」が織り込まれています。芋畑に座るおばあちゃん(この時は若い)が、逃げてきた放火魔(!)のじいちゃんをペチコートの中にかくまうシーンから映画は始まります。もうこの時点で、子宮、性的妄想、大地と火など、隠喩がいっぱい。そんなおばあちゃんの1人娘、アグネスはハンサムな従兄弟と、金持ちの男とのあらわな三角関係を堂々とわたっていきます。彼女の美しさと性欲が、実になまなましく、でも美しく描かれ、悲劇というより喜劇を生む。 お母さんのアグネスが、カード遊びをする間にテーブルの下で男を巧みに誘い、性的に興奮しながらも表情はいっさい変えないシーンがすごい。おぞましい、というよりも、滑稽です。大人たちのそんな駆け引きというか、やりとりにうんざりしたオスカルが、自ら成長を止めるために地下室の階段を転げ落ちるシーン。なんかあれは「楽園を追い出される天使(母親もしくは子供)」、つまり堕天使の隠喩に思えます。うがちすぎ? ブリキの太鼓はたぶん神の国を護る兵士が知らせる審判の報せ、ガラスを割る叫び声は懲罰、という隠喩でしょうか。もっとうがちすぎ? 私がとても好きなシーンは、オスカルがサーカスの小人たちに加わって巡業するところです。何歳だかわからない小さな恋人とのラブシーンは、涙が出るほど美しい。不倫に苦しみ、生のにしんをむしゃむしゃ食べることで自分を罰していた母親アグネスの性欲の「愚」が、小さい人たちの美しい恋愛で救われます。 普通ではない姿でいることで、オスカルには「普通の人」には見えなものが見え、聞こえない音が聞こえます。ある意味では、神に近い存在です。その哀しみと孤独を理解し、癒すのは、同じように神に近いところにいる人たちだけなのです。そして「普通」の大人たちは、神に背を向ける行為ばかりをする。 キリスト教社会の道徳観、社会観、人間観に、痛烈な一撃を加える作品。そう、言うまでもなく名作です。 実は私、この映画をずいぶん前に観ていました。振り返れば30代のころ。そのときは映画をおもしろいとは思いつつも、深いところまで理解ができなかった。30年近くたってあらためて観ると、年齢を重ね、知識だけでなく体験を積み重ねれば、名作を名作と判断する力が養われる、という手応えを感じました。無駄に年とっていたわけではない、とひそかな自己満足。映画を観る楽しみ、読書の楽しみ、どちらも年齢を増すごとに増えていく気がします。若いときの感動とはちがう、深く、しみいってくるような感動。それを知ることを作品に出合う、もしくは再会することで、陳腐な言い方ではありますが、生きていて本当によかった、と思えます。 「ぼくたちのムッシュラザール」 監督:フィリップ・フェラルドー 主役:フェラッグ カナダ映画 2011年 主役のラザール先生を演じるモハメド(ムハンマド?)フェラッグのすばらしさが輝いています。子供たちよりもはるかにくたびれた地味ーな中年男が輝いている。 どうしようもなくつらいストーリーです。カナダのフランス語が話される地域での小学校。たぶん小学4年生くらいの子供の担任が、よりにもよって教室で首を吊っているところを子供たちが見つける。大きなショックを受ける子供たち。動揺が広がる中で、新聞でそのニュースを読んで力になりたい、と1人のアルジェリア移民の男性がやってきます。 ラザール先生は古臭い教え方しかできないし、ぼくとつで地味です。でも、子供のことを真摯に考え、一人ひとりに真剣に向き合う。少しずつだけれど、子供たちも、また同僚教師も先生のことを受け入れるようになっていく。 でも、ラザール先生には謎が多い。故郷アルジェリアで何かあったらしい。そのことを話すようにと促されても、かたくなに拒むラザール先生。実は先生の妻(教師)も子供たちも、反体制派と見なされて官憲に暗殺されていた......。 叙情詩のような映画です。しかも残酷な叙情詩。誰にも救いがない。というか、人生というのは、もしかすると理不尽な暴力に対して、救いなんてないのかもしれません。 それでも、子供の笑顔は美しいし、親の愛情も美しい。 最後のシーンに涙が止まりませんでした。 「音のない世界で」以来の学校もの映画の感動。いろいろな見方ができる映画です。テーマも一つに絞れない。強いて言えば、抵抗ができないものに対して権力を持つ「強者」がふるう暴力こそ、「悪」である、ということ。 子供は純粋無垢で、無邪気に未来を信じられて、子供時代は楽園だ、と言われるけれど、それは大人の「言い訳」と「嘘」だと思います。この映画を観たあと、あらためて子供に大人が暴力をふるうのは、人間として許せない罪だと思いました。