ガンバの試合がないと、ブログにご無沙汰するという「悪癖」は治せないのでしょうか? もうすぐ開幕だから、また復活しますね。しかし今年はなんやかんやと忙しくて、どこまで復活できるやら。 さて、予告通りに観た映画のことなど書いていきます。メモ代わり。 正月しょっぱなは、サウジアラビア映画で明けました。 「少女は自転車に乗って」 ハイファ・アル・マンスール監督  サウジアラビアはイスラム圏の中でもとりわけイスラム法に厳格で、女性差別の強い国です(と言っても、女性議員の数は日本の二倍だけれど)。行ったことがある方(女性)から「女性にあれだけ厳しいイスラム国は初めてだった」と聞かされました。成人女性は父親か夫と一緒でないと外も歩けないし、女性は運転免許もとれない。  そんな国で、なんと30代の女性監督、ハイファ・アル・マンスール氏が、全編サウジでロケをして撮ったというからすごい! しかも、元気いっぱい「欲しいものは欲しい!」と突っ走る10歳の少女が主人公です。主人公の女の子はオーディションで選んだシロウトだとか。表情豊かで、生き生きとして、目がキラキラしていて、ちょっと息が詰まる箇所がある台詞やストーリーを明るく変えるパワーがある。真っ黒のチャドルを着ていても、こわーい校長先生にガミガミ叱られても、お父さんが家を出て行っても、それでも周り(特にお母さん)を思わず微笑ませるような力があります。10歳は女性が全人生で一番パワーを持つ年齢、とよく言われますが、ほんとその通りだね、と頷かせる。  ストーリーはタイトル通り、すてきな自転車が売られているのを見て、欲しくてたまらなくなった少女が お母さんにおねだりするも「そんな高いものは買えません!」と一蹴され、ミサンガを売ってお金をためようとするも、先生に見つかって怒られ頓挫。そしたら「コーラン暗唱大会」で優勝したら賞金が出る、なんておいしい話が伝えられ、いきなりコーランクラブに入会しちゃう。持ち前の集中力でしだいに腕(喉かな?)を上げ、見事優勝! ところが「賞金はかわいそうな同胞、シリアの人たちに寄付しましょう」とか先生に強制され、ふてくされて帰宅。家で待っていたのはお父さんで(サウジはどうやら通い婚らしい)、第二夫人と結婚するからもうここには来られない、とか言う。その後の結末はとってもハートウォーミングなのですがネタばれを我慢がまん。 「ハンナ・アーレント」 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督  ハイデッカーの弟子(一時は恋人でもあった)として哲学を学んだドイツ系ユダヤ人、ハンナ・アーレントを主人公にした映画です。もちろん実話が下敷きで、主役のバルバラ・スコヴァは『ローザ・ルクセンブルク』(86年作品)で主役を演じたすばらしい女優です。  ハンナ・アーレントは1906年ドイツ生まれ。両親ともに社会民主主義者だったとか。ナチズムの時代に反ユダヤ主義の資料収集や他国への亡命を助けて逮捕されそうになるが、1933年フランスに亡命。そこで反ナチス運動の活動家となり、フランスがドイツに降伏してから強制収容所に入れられるという過酷な体験もします。同じく活動家であった夫に救われて、アメリカに亡命。以後、アメリカ人哲学者として大学で教鞭をとっていました。  映画は、ユダヤ人を強制収容所に送る役割を担っていたナチス戦犯のアイヒマンが、1960年逃亡先の南米でイスラエル軍に捕らえられ、イスラエルに送られて裁判を受ける、というところから始まります。アイヒマン裁判の取材を米雑誌社から請け、現地で裁判を傍聴したハンナは衝撃を受けます。なぜなら、アイヒマンがあまりにも凡庸な人物だったから。収容所で生き残ったユダヤ人から激しい罵声を浴びせられても、収容所の記録映画を見せられても、顔色を変えずにメモをとり「私は法律に従って、自分に課せられた役割を果たしただけだ」と小役人みたいなことを言う。しかも、ユダヤ人コミュニティでリーダーとなっていたラビや役人が、アイヒマンに協力して仲間を強制収容所に送る手伝いをしていたことを知ったハンナは、それを伝えようとします。  当然ながら、ユダヤ人社会からはもちろん、世界中から激しいバッシングを浴びます。親しい友人たちからも弾劾され、かばってくれる夫は心労のあまり倒れ、家族同然だったイスラエル在住の友人はショックで寝込んでしまう。その友人に会いに行っても、友人はそっぽを向いて彼女を責めるばかり。このシーンが泣かせます。 「なんでユダヤ人を貶めるこんな記事を書いたんだ! ユダヤ人を愛していないのか?」という友人に、彼女は絞り出すようにこう言うのです。 「私は一つの民族、一つの国を愛したことはない。私が愛するのは、友人だけ」 どこぞの国の政治家たちに聞かせてやりたいですね、この言葉!!  彼女を辞めさせようとする大学で、もしかすると最後になるかもしれない講義をするのですが、これもまたすばらしい。 「ひとは考えることによってのみ、人間となるのです。アイヒマンは考えようとせず、法律で決まっているから、命令されたから、と行って平気で悪に加担し、しかも罪の意識さえ覚えなかった。悪、というのは悪魔のような悪人が行なうものではない。平凡で凡庸なひとが、自分の目で見て、耳で聞いたことを、一歩立ち止まって考えようとせず、全体に流されてしまって行なうものなのです。考えるのをやめることは、人間であることを放棄するに等しい」  考えることは、ネット社会ではもっと難しくなっています。「危機」の時代こそ、考えること、全体の意見ではなく、自分の意見を持つことが真の人間となるために必要なのだ、とハンナ・アーレントに励まされました。  ただ一つ、タバコ吸い過ぎだよ、ハンナさん。 「隠された記憶」 ミヒャエル・ハネケ監督  ハネケだから心して見ないとね、と思っていたのに、タイトルロールが流れていくシーンでまたもや謎をかけられて、ああ、やっぱりハネケだったとちょっと腹が立つやら頭が痛くなるやら。  まず冒頭から一軒の家を正面から延々と写すシーンが続き、録画が失敗したのかと思いきや、これが「隠された記憶」へのとっかかりであったことを終わり頃に気づかされる、という仕掛け。  テレビキャスターの夫と、出版社につとめる妻、10歳くらいの息子の3人家族。パリのおっしゃれーなアパルタメントで、友人たちと知的会話を楽しむ家族に、ある日自宅を延々と写したビデオが届き、次に口から知を吐いている落書きが送られ、次にどこだかわからない地方のアパートの画像が届く。いったい何なのかわからず、苛立つ夫婦。  しかし、ビデオに実家が写っているのを見た夫は、かつて実家で働いていた使用人の息子があやしいのではないかと思い当たる。ビデオに映っていた南仏のアパートに行ってみたら、案の定その息子(今はおじさん)がいて、ビデオの事なんか全然知らない、という。ところが家に帰ると、そのときの会話が全部録画されているビデオが届いていて、しかも息子が学校から戻ってこず、警察に届けることに。  使用人の息子というのはアルジェリア人で、アルジェリア紛争のこともからんでくるのですが、問題はリベラルで知的なはずの夫婦が、一皮むくとガチガチの保守で人種差別主義者だったってところです。  結局、ビデオを送ってきたのは誰か? いったいテレビキャスターはアルジェリア人の少年に何をしたのか? 謎は謎のまま映画は終わり、タイトルロールが流れる場面では二人の間の息子が通う学校の正門前の階段が延々と映されます。なんだよ、この映画何が言いたいんだよ、とぶつぶつ言いながら見ていると、隅っこのほうにいるのは、アルジェリア人の息子の息子(被差別者)と、キャスターの息子(差別者)の二人ではないですか!  何が言いたいのか見る人が考えろよ、というハネケのメッセージでした。 あと「思秋期」(英映画)「10人の泥棒たち」(韓国映画)「雨が上がったら」(ウルグアイ映画)「ファーザース・トラップ 禁断の家族j」(フィンランド映画)「ハムスン」(スウェーデン映画)などが続きます(いつ書けるかわからないけれど)。こうやって並べると、ハリウッド映画が一つもないことに衝撃。