仕事が一段落すると(どうしても観たい映画のときは締切直前でも)映画を観ることにしています。一昨日、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の「罪の手ざわり」を渋谷で観てどーんと衝撃を受け、「上半期ベスト」と思ったのですが、映画館を出て10分ほど歩くうちに、あれ? こないだも上半期ベストと思った映画があったなあ、なんだったっけ、あ、そうだ、「ある過去の行方」(アスガル・ファルハーディー監督)だった、と思い出すまでにもう10分を要したことで反省。 そこでスウェーデン紀行を書く前に、上半期観た映画をメモっておきます。 「少女は自転車に乗って」 1月 岩波ホールにて観賞 ハイファ・アル=マンスール監督 なんと、イスラム圏内でも一、二を争うほど因習的な国、サウジアラビアの現地ロケで、女性監督が撮ったという映画です。10歳の女の子が、自転車を買うためにコーラン朗唱大会に出る、というストーリー。 男性が女性のもとにやってくる通い婚、男の子が生まれないと第二、第三夫人を持たねばならない、家系図には女の子は入らない、などサウジアラビアの慣習をもとに描かれているのだけれど、それってひどいよね、と声を上げる描き方はしていない。 スニーカーをはいて、ベールをひるがえしながら自転車で疾走する少女の姿に、爽快感とともにちくりと胸が痛み、彼女の人生に幸あれ、と画面に向かって祈りたくなりました。 「ハンナ・アーレント」 2月ユーロスペースにて観賞 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督 この映画については、観てきた直後に書いた感想文があるのでのっけておきます。 ハイデッカーの弟子(一時恋人でもあった)として哲学を学んだドイツ系ユダヤ人のハンナ・アーレントは、ナチスによるユダヤ人迫害が激しくなってフランスに逃げます。しかし、1940年にフランスがドイツに降伏すると、反ナチス運動をしていたアーレントはフランス国内の強制収容所に入れられました。夫であり、活動の仲間であったハインリッヒに救い出されて命からがらアメリカに亡命。 映画は、ユダヤ人を強制収容所に送る役割を担っていたナチス戦犯のアイヒマンが、1960年に南米の逃亡先でイスラエルに捕らえられたところから始まります。彼の裁判を取材したアーレントは、アイヒマンがあまりにも平凡で無力な人間で、ひたすら「自分は役割を果たしただけだ」と主張するのに愕然。しかも、ユダヤ人コミュニティがアイヒマンに協力して仲間を収容所に送る手伝いをしていたことを知り、それを伝える記事を書きました。 当然ながら、ユダヤ人社会からだけでなく、世界中から激しいバッシングを浴びます。それでも屈せず、強く主張します。「悪とは、生まれながらも悪人ではなく、考えることをやめた平凡な人間が行なうものだ」、と。 大学の自分の学生たちを前に行なった講義がすばらしい。 「ヒトは考えることによってのみ、人間となる。アイヒマンは、考えようとしなかったから、平気で悪に加担して、しかも罪の意識を覚えなかった。悪、というのは悪魔のような悪人が行なうものではない。平凡で凡庸なヒトが、自分の目で見て耳で聞いたことを一歩立ち止まって考えようとせず、全体に流されてしまって行なうものだ。考えるのをやめることは、人間であることを放棄することだ」 もう一つ、私がとても感銘を受けた言葉がありました。家族同然に思っているイスラエル在住のユダヤ人から「なんでこんな記事を書いたんだ! 君はユダヤ人を愛していないのか?」と責められて、彼女は絞り出すように答えるのです。 「私は一つの民族、一つの国を愛したことはない。私が愛するのは、友人だけ」 今の日本、だけでなく、世界に必要なのは、アーレントのこの愛、全体主義に屈しない強い精神、そして人間を捨てないために考える頭、ではないでしょうか。 「ローザ・ルクセンブルク」 3月下高井戸シネマにて観賞 マルガレーテ・フォン・トロッタ監督 ハンナ・アーレントに強く感銘を受けたので、同じ監督、同じ主演女優によるこの映画を観てきました。1986年作品で、ドイツ共産党を創設し、1919年にドイツ革命から1月蜂起を組織したことで虐殺される革命家の生涯を描いています。私は1990年代に一回観ているはずなのだけれど、そのときよりも今のほうが強く感じるものがあったのは、今の日本の状況が第一次世界大戦前のドイツにあまりにも重なるからでしょうか。 「デリーに行こう」 2月 オーディトリウム渋谷にて観賞 シャシャーント・シャー監督 ボリウッド映画「きっとうまくいく」があまりに楽しかったので、インドにひかれて観賞。ムンバイの広告会社の女社長が、デリーにいる夫に会いに行くために飛行機に乗ったら別のところでおろされ、「だーいじょうぶ」が口癖の中年男と列車と車と馬車を乗り継いでデリーまで行くロードムービー。身分(社会階級以上に生まれながらの社会属性になっている)によって旅行手段まできっちり分けられていて交わることのない人たちが、うっかり接点を持ってしまったときのチグハグがコミカルに描かれていました。コミカルなんだけれど、コミカルでいいのだろうか〜 「ある過去の行方」 2月 渋谷ル・シネマにて観賞 「別離」でアカデミー外国語映画賞を受賞したアスガル・ファルハーディー監督の次作。 監督の「彼女が消えた浜辺」や「別離」と同様、この映画も普通に生活しているときにはそれほど意識しない(もしくはあえて意識にのぼらせない)人間関係の歪みが、「外部」の人間が入り込んでくることによって明らかになっていき、やがて破滅につながるという心理サスペンスドラマでした。 今回の舞台はパリ。娘2人と暮らすフランス人(でも移民2世らしい)の妻のところに、イランから元の夫(ただし妻は再婚で、彼の子供ではない)が離婚手続きのために4年ぶりにやってくるところからストーリーは始まります。家にやってくると、元妻には結婚する予定の彼がいて、彼の息子と一緒に暮らしているのがわかります。結婚予定の彼もイラン系移民2世で、妻は意識不明で入院しているので、すぐには結婚できないらしい、ということもわかります。 しかし、妻の病気については誰一人ふれようとしない。元夫と暮らしていたときには素直で明るい子で彼になついていた長女が、暗い表情で反抗的なのは思春期だけのせいなのか? 元夫が入り込んだことによって、「真実」が明らかになり、そして危ないところで均衡を保っていた世界が崩れいく......。 この映画がすごいのは、謎解きがストーリーを支えているにもかかわらず、誰も何も言葉で説明をしないこと。それなのに、カメラがほんの2秒ほど長くとらえる表情、小道具や風景、ときには暗闇の中の光線だけにすべてを「語らせる」ことです。ストーリーや心理の核心にふれるような台詞はいっさいなし。部屋の改装でペンキを何色にしてタンスをどこに動かすかを会話するシーン。みんなで食卓を囲んで一日のことを話すシーン。髪を洗って乾かすシーン。そんなシーンの一つひとつ、その場では何と言う事のない台詞の一言ひとことの下から、うめくような声で「真実」が語られます。 そしてすべてのシーンが伏線となっている。タイトルロールが流れる中で、ああ、冒頭の空港での再会のシーン、何回も映される特急列車のシーン、車にシャンデリアを積み込むシーン、それらにはこんな意味が込められていたのか、と気づかされます。(乗り物、がこの映画の語り手といってもいい)。監督が意図してかどうか「仕込んだ」ことが、映画館を出てからじわじわと効いてくる。 あらためて、すごい映画でした。やっぱり上半期NO1かな。 「ワレサ 連帯の男」 5月 岩波ホールにて観賞 アンジェイ・ワイダ監督 ポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」の初代委員長、ワレサについて、ドキュメンタリーのように描いた作品。「連帯」の闘いが引き金となって、ソ連邦が崩壊したわけなので、レフ・ワレサは歴史的人物なわけですが、ワイダ監督はさすがで、田舎の普通のおっちゃんとして描いています。なぜ(インテリでも権力者でもない)普通のおっちゃんがカリスマ性を持って人々を率いてストライキを実行し、自分たちの要求を当局に呑ませることができたのか。そこにワレサが愛してやまない、そして頭があがらない妻を配することによって、「連帯」の歴史的意義が明らかになる、のではないでしょうか。 歴史を変えるような「英雄」は、同時代に生きた人たちの目から見ると、ものすごく頭がよかったり、ものすごく勇気があったりするような非凡な人物ではなく、むしろ平凡で素朴な人物なんじゃないか、と思ったりしました。 「罪の手ざわり」 6月 ル・シネマにて観賞 賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督 中国で最近実際にあった4件の犯罪を、オムニバスで描いた作品。ここで言葉にすると暴力的なことこの上もないシーンになるのですが、そこは映像作家ジャ・ジャンクー。美術、カメラワークによって、抒情的なシーンに変え、犯罪者の心理を描写しています。 たとえば冒頭、トラックがひっくり返って積み荷のトマトが散乱しているのをオートバイにまたがって眺めている男(山西省の第一のストーリーの主人公)の傍らを、自分を襲おうとした3人の青年をピストルであっさり殺して逃げてくる男(重慶近郊の農家出身だが、出稼ぎと称して強盗を働いている第二話の主人公)が走り抜けて行くシーン。トマトの赤と、2人の男たちの黒い服との対比が妙に美しい。トマトとわかっているのだけれど、その赤がその後の殺人シーンの血と重なるようで、とてもなまなましい。 そんなシーンをつないでいくことで、4件のおぞましく、残酷で醜悪な犯罪を犯した人たちの事情と心情が語られていきます。 中国の格差社会のゆがみが......急速な経済発展のひずみが......という見方だけでこの映画をくくってしまうのはもったいない。 ジャ・ジャンクーのすごさは、人が犯罪へと転んでしまう道程を、犯罪を犯したものの視点で描いていることです。映画に登場する4人の犯罪者は、全員が社会的弱者ですが、人に嫌われていたり、ましてや憎まれている人たちではない。むしろ愛され、頼りにされ、必要とさえされている人たちです。そして彼らの目は美しいものやいとおしいものをちゃんととらえている。でも彼らの目に映る社会は、ゆがんで、醜悪で、残酷です。犯罪者=悪、醜い、残酷、とする発想を逆転している。 だから、銀行から出てきた金持ちらしい女性と、その部下らしい男性を重慶の男が撃ち殺したシーンでも、撃ち殺されたほうが醜く見えてしまう。 ジャ・ジャンクーあなどれず。「四川のうた」を超えた映画でした。