今年に入ってからなんだかとっても忙しい。毎朝目が覚めてベッドの中でかるーく体操をしながら今日の予定を整理するのだけれど、「今日は予定が何もないから一日ぐだーっとしていよう」という日が、iPhoneのカレンダーで振り返ってみても一日もない。読まねばならない本、書かねばならない原稿、調べなくてはならない資料、出さねばならない企画......仕事のことばかりではない。趣味においても、書道では締切がつぎつぎ襲ってくるし、中国語と太極拳もやめたくないし、最近は9月のロシア旅行のためにロシア語まで勉強している。 ......とここまで書いて、結局は自分で自分の首を絞めているだけではないか、と思えてきた。 要するに、私は忙しくしていることが「習性」であり、マグロじゃないけれど力いっぱい泳いでいないと死んじゃうと自分で思っているのではないか。 だが、ふと思い出すのは中学高校時代の夏休みの私である。 10代のころの私は「なーんにもやる気がしない」と一日中パジャマでごろごろしていることがよくあった。休みの日だけではない。ときには仮病を使って学校をサボり、ただひたすらゴロゴロしていたことさえあった。(本は読んでいたけれど、別に建設的な読書ではなく、暇つぶししていただけ)。休みの日には親から「いい若いものがこんなにいい天気なのに外にも出かけず、パジャマでごろごろなんてありえない」と怒られるので、しかたなく顔を洗って着替えはするが、それでも出かける気にはならずに、ダラダラゴロゴロしていた。中学から高校1年くらいまでの将来の夢は、「本屋の番台(?)に座って一日中お客が来ないことを祈りつつ、本を読むこと」だった。だから私は、ゲームに夢中になってひきこもっちゃう10代のことが笑えないんだわ。 それがどうして忙しく活動的な私になったのか? 一言で言えば、「時間が有限資源であることに気づいたから」。 10代から20代にかけては、1960年代の世界の石油と同じくらい、時間は使っても使っても使い切れないほどある資源のように思えた。だから、一日パジャマでゴロゴロも「休養休養」と言って平気でできた。 ところが30代になって働きながらの子育てが子供2人分となると、時間が恐ろしく足りなくなったのである。朝6時から夜11時まで、一分たりと気が抜けない。自分の時間が持てるなら、1時間1万円払ってもいい、とさえ思えた。でもって、そのとき、はたと気づいたわけですね。「ああ、私に割り当てられた時間には限りがあるんだな」。ダラダラゴロゴロしようかと横になったとたん、「こんなことをしている場合じゃない」と強い自責の念に駆られるようになった。それが高じて、今の回遊魚マグロの習性になったわけである。 60歳を過ぎて、ますます「残された時間はわずかだ」という思いが強くなっている。 若いころから「年をとって時間ができたら読もう」という本を山積みしていたのだが、最近広げたら字が小さすぎてとてもじゃないが読めない。それに、読書は予想外に体力を使う。好きなだけ本が読める、なんて若者の特権だったんだ。 中国語を始めてわかったのだが、若い頃に学んだ言語(英語とフランス語)に比べると、恐ろしく身につかない。4年以上やっているのに、いまだに「とっさの中国語」が出てこない。(反対に、英語やフランス語の新しい言葉はすぐに頭に入る。やっぱり20代までに語学はやっておくべきなんだ)時間がかかる、とか、すぐに忘れる、とかそういうことじゃない。新しいことに取り組むための集中力と柔軟性が失われているのだ。 そんなことに気づいてよけいにあせっている。 やりたいことを思いっきりやれる時間は、もう私にはあまり残されていない。 ダラダラゴロゴロは、30代までの特権だった。 還暦を過ぎたらマグロ体質をいっそう強化せねば。 そう自分に言い聞かせて、今年の夏も過ぎていく。