Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2008年01月



いま代々木の国立第一体育館にいます。これから始まる、北京オリンピック予選を兼ねた試合を観戦します。韓国のテーハミングッを久しぶりに聞きました。人数では勝っても、応援では完全に負けている日本。いい試合になりますように。(改めて送ってみます。)

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昨晩、国立第一体育館から試合前に記事を送ったつもりだったのですが、どうやらケータイからの操作に失敗したみたいです。うーん、なんでかな。あとでもう一度トライしてみます。

さて、かつてハンドボール協会の仕事をしていた友人のおかげで、北京オリンピック出場をかけた「日本VS韓国」戦を観戦してきました。結論からいうと、本当におもしろかった。そして悔しかった。試合に負けてあんなに「あああ!」とへたりこみそうだったのは、2006年のガンバJリーグ最終戦以来です(爆)。ありがとう!!

以前に駒沢体育館でハンドボール日本リーグの試合は見たことがありますが、そのときとは比べものにならない熱気。でもその熱気の50%は韓国チームの息のそろったすばらしい応援がかもしだし、30%は宮崎大輔選手目当てのギャルたちのピンク色の歓声が、そして残りの20%が日本の応援でした。きのうの会場を見ていると、スポーツ競技の応援というのは、一朝一夕にできるものではない、とよくわかります。サッカー日本代表の熱い応援は、やはりドーハの悲劇(→悲劇だとはちっとも思わないが)あたりから徐々に育成されて、2002年あたりで完成されたのだとよくわかる。とにかく、日本はまず応援で韓国に5歩くらい負けていて、それがハンドボールという競技の日本における立ち位置を示しているように思いました。

ハンドボールはスピーディーでタクティカルで、個人の技術とフィジカルが如実に出る競技だな、とあらためて思いました。

そして日本は残念ながら、チームとしても、選手一人ひとりも韓国より劣っていました。もちろん日本にもすばらしい才能と技術とパワーをもった選手はいるし、個人能力として劣っているところをカバーしていこうという戦術も見えましたが、韓国のほうが数倍上だったかな。

決めるべきところできちっと決められたのが韓国で、惜しいシュートを何回も外していたのが日本。

真中からだけじゃなく、サイドも有効に使って得点を重ねていたのが韓国で、どうしても真中中心で、速攻ができなかったのが日本。

ディフェンスも重要だろうけれど、得点数から考えると、ハンドボールは攻撃が主になる競技だと思いました(ちがっていたらごめんなさい)。どう攻めるか? 何が得点機をつくりだすのか? そのアイデアは韓国のほうが豊かだったように思います。

(私の目に)目立っていたのは、韓国の7番。7番はエース番号だということですが(日本は宮崎大輔選手がつけている)、韓国の7番は小憎らしいほどうまかったです。彼が持つとチャンスが増える。どう回していくか、どこに相手チームの穴があるかを見極める鋭さがありました。もっとも多く(9点)得点をあげたのは18番の選手でしたが、7番が入っているときに(選手交代は自由)攻撃のいっそうの冴えが見られました。

「日本が韓国に負けたのは、力が足りなかったからだ」とはっきりしたことで、かえってすっきりしたのかどうか。できればオリンピックに行ってほしいな。むずかしいだろうけれど。

うーん、なんでか時間がない。

またもやブログで言い訳するのは気が引けますが、メールのお返事も出すべきお手紙もお礼状も来月5日過ぎまでお待ちください。そのときになったらきっとまわりを見回す時間が出てくる......はず。

ふ~。

ゆっくりのんびり過ごす「正月」とか「盆」とか「ヴァケーション」とかいう時間がない、ほんまもんのビンボー生活はもういやだ。

株価の暴落(予兆はずーっとあったが)とか、ハシモト大阪府知事誕生とか、米大統領選挙とか、横目で見ながらとりあえずゲラに朱入れしております。

そういいながら、ご飯はつくる。掃除も洗濯もする。やけくその気晴らしに。

夕飯は、アマチュアとプロが闘っているみたいなハンドボール日本VS韓国戦を見ながら、白菜のクリーム煮、豆腐となすの味噌汁、切干大根の煮付け、手羽先の焼き鳥。

最近の若者はあまりお酒を飲まない、といいます。ほんとか?と疑いながらも、たしかにぐでぐでに酔っ払っている若者はぐっと減った気がする、というのは私があまり若者が行く繁華街に行かないせいでしょうが、同時に酔うことをみっともないとする緊張感が強い社会になっているせいかも。
私自身も思い切り飲むということがなくなりました。少し飲むと、気持ちよく酔う前に自己制御してしまう。羽目がはずせない。その上少しでも過ごすと具合が悪くなる。寂しいです。楽しく酔っ払って、笑いころげていられたのは40歳でおしまいだったかな?
と、こんなことを書いてケータイから投稿しているのは京都からの帰りの車中です。なんとまだ9時すぎなのに酔っ払いがいるのです。くだまいている人やら、大声でしゃべっている人やら。久々にそこまで酔っ払っている集団を見ました。大阪にはまだ酒に酔うという、ある意味ぜいたくを味わえるおおらかさが残しているのかもしれません。

「ある家族の会話」

ナタリア・ギンズブルグ著

須賀敦子訳

白水Uブックス

 

 何回も読み返したい本というのは少ないけれど、この本は読むたびに感動があらたになる。思わず声を出して笑い、同じ行を何回も読んで涙し、幸せな気持ちで本を閉じることができる稀有な本だ。

 ナタリア・ギンズブルグは1916年、イタリア北部の街、トリノで生まれた。父はユダヤ系イタリア人でトリノ大学医学部解剖学教授だったジュゼッペ・レーヴィ。母はミラノ生まれのリディア。ジーノ、マリオ、アルベルトの3人の兄と姉のパオラがいる5人兄弟の末っ子だった。本書は、17歳のころから小説家を志していたナタリアが、人生の円熟期に書いた自分の家族の回想記である。Lessico Famigliareという原題にあるように、家族間、とくに両親の間での会話が中心である。

 語られていることは、子どもたちの話が7割で、あとの3割が友人や使用人たちのこと。お父さんはすぐにキレる人で、子どもたちが粗相をすると「ぶざまなことをするなっ!」と怒鳴り、気に入らないことをすると「愚かものが!」「なんというロバだ、おまえは!」とわめく。

お母さんは子どもたちが何をやっても「私の○○」と呼んで目を細め、お父さんからかばう。たとえばアルベルトという3男は、サッカーと女の子にしか興味がなくてちっとも勉強しないし、すぐに二男のマリオととっくみあいの喧嘩をするしで、お父さんが気に入らないことこの上ない。「アルベルトはロバだ。あいつはどうしようもない愚かものだ」とお父さんがこきおろすと、「あら、私のアルベルトはいい友だちがいっぱいいるのよ。あの子は勉強がよくできる、しっかりした友だちをつくる才能があるの」とかばうのだ。

一方で、お母さんは子どもたちにかまってもらえないとすねて、とくに長女のパオラが友だちと出かけたりすると「私とちっとも遊んでくれない」とむくれたりする。次女で末っ子のナタリアについては「あの子はちっとも私に話してくれない。なんでも勝手にやっている」と嘆く。

お父さんが家族全員を引き連れて山歩きをし(長男以外はこれが苦痛で、二男と三男はぜったいに行かない)、お母さんがショッピングに出かけ、使用人が家事を取り仕切るブルジョワの家庭が描かれるのだが、3分の1を過ぎるころから、レーヴィ家の上に戦争の暗い影が落ちてくる。イタリア北部で1930年代にユダヤ系として生きること、しかも反ファシストの社会主義者を表明することの危険が、日常の会話のなかからも緊張感をもって伝わってくる。政治には何も関係なさそうだった二男のマリオが、勤務先のスイスから社会主義的な文書をイタリアに持ち込もうとして逮捕され、危機一髪で川に飛び込んで逃げて助かるくだり。息子たちの友人がつぎつぎ投獄され、家族の親しい友人だった社会主義者のトゥーラティが偽名でレーヴィ家にひそみ、亡命していく場面。そして息子たちを釈放してもらおうとかけあっているうちにお父さんも投獄され、なんとなくそれが自慢げだった様子が語られる。

ナタリアは出版社勤務のロシアからの移民のユダヤ人、レオーネ・ギンズブルグと結婚し、子どもが生まれる。しかしレオーネは当局に目をつけられて何回も投獄され、挙句に南部の寒村に家族全員で流刑された。やがてドイツ軍がイタリアに侵攻し、ローマに逃げて地下運動を行っていたレオーネは、ナタリアたちがローマで合流してから20日後に逮捕され、拷問を受けて獄死する。

この箇所を書くのはナタリアは相当つらかったのだと思う。何回も読み返して、ようやくレオーネの死の模様が私は理解できた。

 

何回読んでも私が涙する箇所がある。

流刑地で幼い子どもとともに、心細い日々を送っていたナタリアのもとに、両親は何回も訪ねてきては励まし、生活を援助し、なんとかしてやりたいと一生懸命やってくれる。でも当局ににらまれているレオーネはたえず逮捕されているし、自分たちの息子たちもあちこちに流刑されたり、投獄されていて、助けるにも限度がある。

そんなとき、ナタリアは気づくのだ。

「母もどうすれば私たちを助けられるのかわからず、おびえきっていた。そのとき私は生まれてはじめて、だれももう自分を守ってくれることはできないのだと、自分で道を切りひらく以外方法はないのだということに気づいた。そのときはじめて私の母にたいする愛情の中には、私が困っていればかならず母が私を守ってくれ、助けてくれるという確信が深く根ざしていたことに気がついた。そしていま私の中には、それまで自分が持っていた保護への願望と期待がさっぱりと消え去ったあとの純粋な愛情だけが残っていた」

この文章に何か言うのは野暮なこと。それこそジュゼッペ父さんに「なんというロバだ」と怒鳴られそうなので何も言わない。

この本はまた何回も読み返しそうな予感がする。

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