砂漠ならぬ土漠という言葉を知ったのは、5年前に旅したイラン南部でした。日本にはない灰色がかった土が盛り上がり、またひいていく大波のようにうねってどこまでも続き、土の上に顔を出した時点からかさかさに乾いている褪せた黄土色の灌木が点々と生えている、そんなところでした。湾曲している道路(一応舗装されている)を走るバスから目を凝らすと、ところどころに日干し煉瓦を積み上げた真四角の建物が立ち並ぶ集落があり、土埃でフィルターがかかった太陽の下でゆらゆら揺れて、まるで幻のようにはかない。丘の頂上に、ときおり土団子をもったような丸い建物があり、それは墓だと説明されました。
「ハーフェズ ペルシャの詩」は、そんな土漠のなかの村が舞台です。
ハーフェズは14世紀(西欧年代で表記してしまいます)に、現イランのシーラーズという、テヘラン近郊の街で生まれた詩人です。私もシーラーズで「ハーフェズ廟」を観光してきました。バラが咲き乱れる美しい場所でした。ガイドさんが、朗々と詩を朗読してくれました。
イランを旅すると、あちらこちらでハーフェズの詩にお目にかかります。村の土壁にタイルで装飾された一節が飾られていたり、観光地のレストランのメニューに書かれていたり。まさに国民的詩人ですが、彼が歌っているのは「愛」の詩です。そして、その「愛」はどうやらイスラムと古い因習が残るイラン南部の土漠のなかでは禁忌らしい。そのタブーを破った男女が何もかも失い、ハーフェズの詩のなかでだけ結ばれる、とおおざっぱにストーリーをまとめてはいけません。
ハーフェズは詩人の名前であるだけでなく、コーランを詠唱する神聖な職業につく人も意味しています。
主人公の青年(シャムセディン=ムハンマドという、詩人ハーフェズ(雅号)と同じ本名)は、母親の期待どおりに「ハーフェズ」になり、朗々とコーランを詠う役目についていたのですが、大師の娘(麻生久美子)の家庭教師に任ぜられたところから運命が狂いだします。娘、ナバートは母方の国チベットで育ったので、コーランはおろかペルシャ語もできない、という設定。麻生久美子はそれでも正しい発音でコーランを読んでいました。セリフは極端に少なかったけれど。
ナバートは、青年シャムセディンが詠ずるコーランを、一行ずつ自分も詠じながら覚えていくわけです。でも、壁をへだてての授業なので、お互い顔も見ない。乳母がしっかり見張っていて、「あやしい行為」に及ばないかをチェックしています。
声だけの交わりなのに、それがとてもエロチック。コーランがわからない私も、その言葉の抑揚にひかれます。
やがて詩も勉強しているシャムセディンの詩作ノートをこっそりのぞき見したナバートが、どうやらシャムセディンが自分への思いを歌ったらしい詩を発見する。そこで授業の合間に暗唱してみせる。そのときのナバートのどきどきするような表情が初々しいし、同時にうぶな男をからかうようにも見えてしたたかです。
驚いたシャムセディンは思わず壁から顔を出して「その詩をどこで?」とついナバートと目を合わせてしまいます。その場面を乳母に目撃され、告げ口されてシャムセディンは「裁判(!)」にかけられ、「結婚前の娘の純潔をけがした」という「罪状」で「有罪」に。もちろんハーフェズの称号は取り上げられてしまいます。
それだけでなく、実家は焼き打ちされ、お母さんはショックで死んでしまい、ナバートは大師の弟子と結婚させられてしまう。まさに踏んだり蹴ったりです。ロミオとジュリエットでもこうはいくまい、というくらいの悲劇。
シャムセディンは炎天下に日干し煉瓦をつくる苦役に従事し、それでも断ち切れない思いをなんとか断ち切るために「鏡の誓願」の旅に出ます。7つの村で、7人の処女に鏡をふいてもらい、その願いをかなえたら、自身の願いもかなう、というもの。本来は愛をかなえるためのおまじないなのだけれど、愛を断ち切るために彼はやるのです。
それから艱難辛苦の旅の模様が描かれますが、そこはあらすじよりもすべて詩のようなセリフの一つひとつと、土漠の風景と、ペルシャの楽器の奏でる物悲しい音のほうが心に沁み入る。
鏡、布、煉瓦、そして詩。
隠喩と暗喩。
これは映像による詩なのだ、ということが、つと暗転してタイトルロールが流れ出してようやくわかります。
監督は、イランのアボルファズル・ジャリリ。あの名作「キシュ島の物語」「少年と砂漠とカフェ」を撮った人です。
大雪にめげず、恵比寿まで行ったかいがありました。