Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2008年02月

 砂漠ならぬ土漠という言葉を知ったのは、5年前に旅したイラン南部でした。日本にはない灰色がかった土が盛り上がり、またひいていく大波のようにうねってどこまでも続き、土の上に顔を出した時点からかさかさに乾いている褪せた黄土色の灌木が点々と生えている、そんなところでした。湾曲している道路(一応舗装されている)を走るバスから目を凝らすと、ところどころに日干し煉瓦を積み上げた真四角の建物が立ち並ぶ集落があり、土埃でフィルターがかかった太陽の下でゆらゆら揺れて、まるで幻のようにはかない。丘の頂上に、ときおり土団子をもったような丸い建物があり、それは墓だと説明されました。

「ハーフェズ ペルシャの詩」は、そんな土漠のなかの村が舞台です。

ハーフェズは14世紀(西欧年代で表記してしまいます)に、現イランのシーラーズという、テヘラン近郊の街で生まれた詩人です。私もシーラーズで「ハーフェズ廟」を観光してきました。バラが咲き乱れる美しい場所でした。ガイドさんが、朗々と詩を朗読してくれました。

イランを旅すると、あちらこちらでハーフェズの詩にお目にかかります。村の土壁にタイルで装飾された一節が飾られていたり、観光地のレストランのメニューに書かれていたり。まさに国民的詩人ですが、彼が歌っているのは「愛」の詩です。そして、その「愛」はどうやらイスラムと古い因習が残るイラン南部の土漠のなかでは禁忌らしい。そのタブーを破った男女が何もかも失い、ハーフェズの詩のなかでだけ結ばれる、とおおざっぱにストーリーをまとめてはいけません。

ハーフェズは詩人の名前であるだけでなく、コーランを詠唱する神聖な職業につく人も意味しています。

主人公の青年(シャムセディン=ムハンマドという、詩人ハーフェズ(雅号)と同じ本名)は、母親の期待どおりに「ハーフェズ」になり、朗々とコーランを詠う役目についていたのですが、大師の娘(麻生久美子)の家庭教師に任ぜられたところから運命が狂いだします。娘、ナバートは母方の国チベットで育ったので、コーランはおろかペルシャ語もできない、という設定。麻生久美子はそれでも正しい発音でコーランを読んでいました。セリフは極端に少なかったけれど。

ナバートは、青年シャムセディンが詠ずるコーランを、一行ずつ自分も詠じながら覚えていくわけです。でも、壁をへだてての授業なので、お互い顔も見ない。乳母がしっかり見張っていて、「あやしい行為」に及ばないかをチェックしています。

声だけの交わりなのに、それがとてもエロチック。コーランがわからない私も、その言葉の抑揚にひかれます。

やがて詩も勉強しているシャムセディンの詩作ノートをこっそりのぞき見したナバートが、どうやらシャムセディンが自分への思いを歌ったらしい詩を発見する。そこで授業の合間に暗唱してみせる。そのときのナバートのどきどきするような表情が初々しいし、同時にうぶな男をからかうようにも見えてしたたかです。

驚いたシャムセディンは思わず壁から顔を出して「その詩をどこで?」とついナバートと目を合わせてしまいます。その場面を乳母に目撃され、告げ口されてシャムセディンは「裁判(!)」にかけられ、「結婚前の娘の純潔をけがした」という「罪状」で「有罪」に。もちろんハーフェズの称号は取り上げられてしまいます。

それだけでなく、実家は焼き打ちされ、お母さんはショックで死んでしまい、ナバートは大師の弟子と結婚させられてしまう。まさに踏んだり蹴ったりです。ロミオとジュリエットでもこうはいくまい、というくらいの悲劇。

シャムセディンは炎天下に日干し煉瓦をつくる苦役に従事し、それでも断ち切れない思いをなんとか断ち切るために「鏡の誓願」の旅に出ます。7つの村で、7人の処女に鏡をふいてもらい、その願いをかなえたら、自身の願いもかなう、というもの。本来は愛をかなえるためのおまじないなのだけれど、愛を断ち切るために彼はやるのです。

それから艱難辛苦の旅の模様が描かれますが、そこはあらすじよりもすべて詩のようなセリフの一つひとつと、土漠の風景と、ペルシャの楽器の奏でる物悲しい音のほうが心に沁み入る。

鏡、布、煉瓦、そして詩。

隠喩と暗喩。

これは映像による詩なのだ、ということが、つと暗転してタイトルロールが流れ出してようやくわかります。

監督は、イランのアボルファズル・ジャリリ。あの名作「キシュ島の物語」「少年と砂漠とカフェ」を撮った人です。

大雪にめげず、恵比寿まで行ったかいがありました。

 この事件での私の驚きは......

1)食べたら死ぬかもしれない食べ物が広く売られる可能性があるのだ、ということ

2)日本で販売されている加工食品の(私の思っているよりはるかに)多くが中国でつくられている、ということ

3)食品の安全性だけでなく、食べ物そのものに対する感性に日本人が予想外に鈍くなっている、ということ

 そして報道を見ていて感じる違和感が......

1)すべての非を中国に押しつけるだけでいいのだろうか?

 「中国製品は危ない」→「だから、買わない」というような短絡的な発想では、この問題は少しも解決しない。日本の生活は衣食住全般にわたってすでに中国抜きでは成り立っていかない状態になっている。とくに食糧については、中国との共存の道なくしては危機的状況にある。その自覚をもって、それなら安全な食物を輸入するためにどうすればいいのか、「安全」の基準のすりあわせも含めて議論することが重要なのでは? 一番やってはいけないのは、日本も中国もこの事件を「排斥」「反目」という形で政治問題に発展させることだ。

2)食品の衛生管理についてくわしく報道されればされるほど、衛生「管理」の方向がちがっているのではないか、と首をかしげる。どこがどうちがっているかは、まだ情報が十分でないので私にはいえないのだけれど、少なくとも防腐剤や着色材を吟味することが「管理」にはつながらないのでは? 工場の管理体制だけでなく、流通・販売もふくめて考え直すときにきているのかもしれない。

人にはいろいろ事情があるから、「ファーストフードや加工食品は食べないほうがいい」などと声高に主張するつもりはない。料理が嫌いだ、スペースがない、忙しくて時間がない、だからファーストフードと外食に頼りたい、という人もいるだろう。

それならせめて、自分が口に入れるものについて、ほんの少しでも考えたほうがいいのではないか。せめてコンビニ弁当の製品表示を3回に1回は見てみるとか。賞味期限が何を意味しているのか、ちょっと調べてみるとか。

そしてこの事件が、危機的状態にある日本の食べ物事情と、もっといえば「食べる」ことを考え直すきっかけになればいいのではないだろうか。

ダイエットというのは体重を減らすことではない。おなかまわりを気にするときに、重要なのは腹筋ではなく、まず口に入れるものを吟味することだ。サプリメントと「ダイエットしたい人向け」加工食品を摂って「体重が減った」「ウエストが細くなった」と喜んでいる人が多いと、いつまでたっても日本の「貧しい危険な食べ物を飽食」することによる、食物「偽装」事件はあとを絶たない。

食べる、という行為をないがしろにしていると、とんでもないしっぺがえしがくる。

そういう我が家の夕飯は......

八宝菜(豚ロース肉を下味をつけて片栗粉をまぶし、湯通しして汁はとっておく。白菜、にんじん、たまねぎは切ってゆでる。エリンギをいため、野菜と豚肉を入れ、豚肉をゆでた汁に黒酢、しょうゆ、はちみつをちょっと入れてあんをつくり、まわしかける。下ごしらえでゆでておくので、カロリーが低く、あっさりしていて野菜がたくさん食べられる)、小松菜と油揚げのおひたし、菜の花のマヨネーズあえ、ごはん

「祖母力」(うばぢから)

祖母井秀隆著

光文社

 

一昨年までジェフ千葉のGMをつとめ、現在は、フランス2部リーグのグルノーブル・フット・38というチームで、日本人としては初の海外クラブのGMをつとめている祖母井(うばがい)氏の著書です。祖母井(うばがい)氏の著書です。あのイヴィツァ・オシム氏を招聘し、Jリーグでずっと降格すれすれにあったジェフ市原(当時)を、成績だけでなく、内容もすばらしいチームにした陰の功労者だといったほうがわかりやすいかもしれません。いまのジェフの基盤をつくったといってもいいズデンコ・ベルデニック氏をジェフに呼んできたときから、祖母井さんというGMがいることはなんとなく知ってはいたのですが、オシム氏を連れてきたことで、彼の業績はより注目されました。

本書には、オシム氏招聘にまつわる話や、オシム氏が日本代表監督になった経緯、病に倒れたときのエピソードなどが書かれていて、たぶんそれが本を宣伝するときの目玉になっているのだと思います。

でも、この本で私が感動したのは、そういうネタ話ではない。

祖母井さんのすばらしい行動力です。ご本人は自分の行動が「規格外」だといっておられるけれど、私には祖母井さんが自分で自分の規格(信念、といってもいいかもしれない)をつくりだすことができる稀有な人間に思いました。とかく人がつくった規格に自分をあてはめようと汲々としてしまう人が多いなかで、この人は自分があらたに器をつくれるタイプなんだと思います。

高校生のとき、サッカーが好きだ、サッカーをやりたい、と思ったら、マンチェスター・ユナイテッドに「練習生にしてください」と手紙を書いてしまいます。ていねいに「残念ながら...」と断りの返事が来るのですが、手紙を書いたと聞いたサッカーのコーチは爆笑するし、周囲も笑うばかり。そのなかで、ただ一人、おばあさんだけは励ましてくれて、それどころか海外サッカーにくわしい人に話を聞むくために、大分まで祖母井さんを連れていってくれたりするのです。「規格外」が自信をもって規格外を通すためには、やはり無条件に認めてくれる人が必要なんですね。

その後、どうしても海外、それもヨーロッパに行きたい一心で、通訳として10万円だけもってドイツにわたり、港でアルバイトしながら、4部リーグでプレイをします。そのときも練習を見ていたらたまらなくなって、「セレクション!」と叫びながら駆け寄って、いきなり練習に参加して認めさせてしまう、という行動力がものをいいます。

3年たってノイローゼ寸前になって日本に帰国したものの、どうしても海外への夢が断ちがたく、ドイツの大学で本格的にサッカーの指導の勉強をするために再び渡欧。留学中も、この指導者に会いたい、指導を受けたい、と思ったら、またもや熱い手紙を書いて頼み込み、たいていはかなえられるのです。そして結局10年もの間、ドイツでサッカーにかかわる仕事をして実績をつみます。帰国後は大学で教鞭をとるかたわら学生チームのコーチなどを経て、95年にジェフの育成部長→GMになった、という経歴です。

高校のときのチームメートが「サッカーバカだった」ということを書かれていますが、世間の規格内にいる人から見れば「アホちゃう」といわれるタイプなんだと思います。いい意味で、巨人の星。「思い込んだら、試練の道を~」...というか、祖母井さん自身は「試練」なんて思っていない。なぜなら、一見「思い込み」に向ってがむしゃらに突っ走っているように見えるその行動力は、実は10年先、20年先まで見据えて、その上でいま何をすればいいか、という祖母井さんなりの考えがあるからです。だから「試練」なんかではなく、目標に向かっての一歩にすぎないのです。でもその目標が、世間的には「規格外」だし、とてつもなく大きい。実現するためには、「規格内」のことをやっていたのでは、10年どころか100年でも足りない。だからその行動力もとてつもないものになるのでしょう。

ハタから「アホちゃうか」といわれるそのがむしゃらな突っ走りを支えているのは、第一に祖母井さんにとっての大きな目標であり、第二にサッカーにかける熱い思いであり(そういう情熱こそ、「愛」と呼ぶにふさわしい)、第三に、人に対する深い信頼と愛情だと思います。自分が責任を持つチームに対して、選手や監督やスタッフに対して、もちろん家族に対しての一直線な信頼と愛情には頭が下がります。とくにオシム氏とその家族に対する思いには、思わず涙が出てくるほど。

こういうスケールの大きい人が日本にもいて、海外で活躍しているのだなと思うと励まされます。

自分で言うのもなんだけれど、私もアホぶりと行動力はちょっと自慢だと思っていたのですが、何が足りないって立てる目標のスケールがぜんぜんちがうと思い知らされました。

「なにもトライしていないのに「できない」は言ってはいけないのです」

「安住するより、ピリピリした緊張感の中で生きていたいのです」

という祖母井語録をエネルギーにしていきたいなと思いました。

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