Glamorous Life

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2008年03月

「聖(セイント)☆おにいさん」 中村 光(モーニングKC)

 

急にマンガが読みたくなって(QMY)、夜、ごはんを食べてからヴィレッジ・ヴァンガードへ。

ときどきのぞくブログで紹介されていたので、このマンガを買っていそいそベッドのなかで読みました......蒲団がずり落ちる勢いで笑ってしまった。

休暇で天界から現代日本の東京におりてきたイエスとブッダの2人が、アパートを借りて摩訶不思議な日本を体験する、というギャグ漫画です。

昼寝をするとつい涅槃の姿勢になって「あ、まずい」と起き上がるブッダ。

ジョニー・デップにまちがえられて女子高生に騒がれるイエス。

手塚治虫の「ブッダ」をマンガ喫茶で読んで、滂沱の涙を流すブッダ。

感動すると頭にまかれた荊にバラの花が咲くイエス。

スキンヘッドを見かけるとつい「あ、アナンダ」と叫んじゃうブッダ。

サウナで隣に座ったやっちゃんから「兄ちゃん、その傷はどこでつけたんか?」と聞かれ「ゴルゴダ」と答えるイエス。

神社でおみくじを引いて「天界からぜったいにツッコミがくるね」という二人。

私としては、ノリがよくておバカなことをするイエスよりも、お人好しのおばさんタイプのブッダのほうがツボにはまりました。

しかし......いいのだろうか。これ、宗教関係者からつるし上げられたりしないのかな。ちょっと不安です。

軽く見逃してやってください。イエスもブッダもとてもいい感じに描かれているのだから。

 

マンガとしては「臨死 江古田ちゃん」と「闇金 うしじまくん」以来のヒットかも。

「愛おしき隣人」

監督:ロイ・アンダーソン

 

 キムラさんに勧めていただき、試写にいってきました。

 北欧の映画の試写にいく、といったら、次女が「それなら私も」と一緒に行くことに。

 なんともふしぎな空気が流れている映画でした。

 ストーリーがあるのか、テーマは何か、そんなことはどうでもよくなる。

 何組もの恋人や夫婦や集団が出てくるのだけれど、誰も相手にとコミュニケーションがとれていない。投げかけた問いに、満足のいく返答をもらえなくて、いらいらと地団駄を踏むのだけれど、いらだっていることさえも理解してもらえない。

 スウェーデンといえばモデルが多くて美男美女がいっぱいでてきそうなものなのに、登場人物が全員ブス&ブオトコ。いやもうそれは見事なくらい。(しいていえばロックスターだけちょっとかっこいいけれど、メイクが濃いために顔の造作まではわからない)

 半分くらいの人たちが「夢を見た」と語り出して、夢のストーリーがそのまま映像化される。わけもわからず裁判にかけられて死刑をいいわたされる怖い夢だったり、憧れのロックスターと結婚する甘い夢だったり、ディナーに呼ばれてテーブルクロスを引き抜く芸をして失敗する突拍子もない夢だったりする。一つ一つの夢が妙に現実にシンクロしていて、どちらが夢でどちらが現実かわからない。でも夢がよけいに現実の哀しさを増幅させる。

 いってみれば、アパートの窓の一つひとつに繰り広げられている人間劇みたいな感じ。外から遠く離れて一棟のアパートで、近寄って見ると滑稽で、いじましくて、でもだからこそ愛おしい人間の悲喜劇が織りなされている。そんな感じ。 一つ一つのエピソードで登場人物が独白のようにつぶやいたり、叫んだり、うめいたりする姿に、思わず笑ったり、どきどきしたりする。

 でも、この映画のすごさは映像にある。カメラはほとんど動かない。たとえば激しい雷雨があがるのを狭いバス停に人々が身を寄せ合っているシーンがある。誰ひとりなにもいわない。目も合わさない。ただ黙って前を見つめているだけ。そこに一人の男がコートをかぶって走ってくる。なんとかそこに入れてもらおうとするのだけれど、バス停のなかの人は相変わらず何もいわず、身ぶりもせず、ただ「ここはもう無理」という目でちらりと男を見るだけ。男はしかたないね、という感じでまたコートをかぶって駆け出してつぎの雨宿りの場所を探しに行く。

 たかが2分程度の映像なのだけれど、セリフの一つもなく、人の演技も何もないのに、観る人の想像力を刺激してドラマをつくらせる力がある。

 どれだけセリフをつめこんでも、どれだけ迫力のある動きや演技を見せても、何も伝わってこない映画が多いなかで、これはすごいことだと思う。

 いや~、おもしろかったです。

 ただ、北欧スウェーデンらんらんらん、と一緒にいった次女は、見終わって「うーん、お願い、何がいいたかったのか説明して」といいました(汗)焼き鳥を食べながら感想を話し合ったんだけれど、私がまったく見ていないものを彼女が見て「あそこがポイントでしょ?」といったり、私の解釈とまったくちがったりして、この映画は観る人によってちがう感想をもつんだなと思いました。監督が何がいいたかったのかを私がここでぐだぐだいうことは、もしかすると無駄なことかもしれません。

 ま、とにかく観て。ぜったいにソンはないから。

 GWに恵比寿ガーデンシネマで公開です。

 

 

「日本語の歴史」

山口仲美著

岩波新書

 

 石垣から戻ってきました。

 石垣の人たちが地元の言葉で話されると、さっぱりわかりません。Welcomeが「おーりそーり」の意味だといわれても、は~それ私が知っている日本語じゃないし、と方言の域を越えた言葉のちがいにため息が出ます。

 でも、日本語とはそもそも何? という疑問に応えてくれたのが、石垣島への往復で読んだこの本。同行者に「まあ、むずかしそうな本を読んで」と言われましたが、タイトルよりもずっとやさしく、わかりやすく書かれた日本語の歴史入門エッセイです。

 この本で私が注目したのは、現在「日本」とされている土地のなかで、「日本語」として「日本人」に通用する言語とするまでに何を統一しなければならなかったか、という点です。実際に「日本語」が成立するのは、明治時代が終わるころというから、たかだか100年ほどの歴史しかないのです。日本のなかで言語のちがいを生じさせていたのは3つでした。

その1。地域。沖縄県で使われている言葉が、現在の日本語とは大きく異なるのを見てもわかるように、方言ですませられないほど地域によって使用言語はちがっていたし、いまもちがう。

その2。性別と社会階層。男言葉と女言葉は江戸時代近くまで分離していたし、農民と武士とでは江戸時代においても別言語といっていいほどちがう言葉を使っていた。

その3。話し言葉と書き言葉。

著者はとくにその3について詳しく書いています。その1とその2も、その3のちがい(そして統一)が日本語という共通言語を成立させるのに大きな意味をもっていたからです。

江戸時代まで話し言葉が書きとめられることはめったになかったので、それぞれの地域でどんな言葉で人々が日常会話をしていたのかはなかなかわかりずらいのですが、それでも物語や説話に書かれた会話から推測することができます。そしてそれは明治が終わるころまで、書き言葉と大きくちがっていました。

書き言葉の変遷は、どんな文字を使うかで歴史をたどることができます。文字をもたなかった日本人(と仮にしておきます)は、中国の漢字を流用して、自分たちの言葉(やまと言葉)を漢字の意味に関係なく音だけに頼って書きあらわしました。万葉仮名と呼ばれるこの書き方にはかなり無理があったし、画数の多い漢字を延々と書かなくてはならなかったのでずいぶん面倒でした。

それじゃ中国語の漢字の使い方(漢字の一つひとつにこめられた意味を利用する)で書けばいいじゃないかというと、やまと言葉は助詞や助動詞という中国語にはない文法上の語があるし、文法がちがうのでややこしい。そこで私たちが漢文の授業で習った返り点を使って、いわゆる訓読をする漢式和文が発達し、そのうち送り仮名や助詞を補うために漢字を略式にしたカタカナが生まれました。

それじゃひらがなはというと、漢字を崩してうまれたそうです。安→あ、以→い、といった具合。

法律や政治的文書を書くために生まれたカタカナに対し、ひらがなは和歌のために発達しました。つまりひらがなとカタカナは同じように漢字から発達したとはいえ、生まれも育ちもまるでちがう。しかも、漢式和文→漢字→カタカナ→男性が使うもの、崩し字→和歌→ひらがな→女性が使うもの、という使う人まで分離していました。書くものによって、文字までちがっていた、というところがおもしろいですね。女は漢字を使うものではないとされ、男がひらがなを使うことは恥ずかしいことだったのです。

漢字とひらがなとカタカナを駆使した日本語の書き表し方にどういう風に変遷していったかは本を読んでもらうことにして、私が興味深かったのは日本語のなかに「外来語」がどう導入されていったかの部分。これには残念ながら、明治時代の言文一致の章のなかにさらりとしかふれられていません。それでも、日本にはなかった概念(たとえば哲学、科学、社会、思考、人格、必要など)を、西周をはじめとする明治時代の思想家たちが言葉を漢字でつくっていった、というくだりは興味深い。日本人がつくった西欧「外来語」を表現した漢字は、中国や韓国でいまでも使われているそうです。万葉仮名→漢式和文→ひらがな・漢字まじり文の変遷のなかで、日本は独自の和式漢字とでも呼びたいものを発達させてきたことがうかがえます。

翻訳をしているとき、頭の片隅にいつもひっかかっているのが、アルファベットで表現された言葉と、漢字とひらがな、カタカナを使って書き表す言葉の間にある深い溝のようなもの。溝というよりも、むしろ肌ざわりといったほうがいいような皮膚感覚的に近いものかもしれません。(でも溝という距離感でもある)言葉や文法の違いとともに、使用する文字の違いにときどき(しょっちゅう)いらだちます。

この本は、そのいらだちがどこから来るのかを少しだけ教えてくれると同時に、いま使っている言葉に甘えてはいけないといさめてくれました。「日本語」という言葉に絶対はない。「これこそが日本語だ」といいきるのは傲慢だというものです。いま大手メディアが使っている標準語(この言葉は嫌いだけれど)に絶対的に依存することのあやうさを自分のなかでいさめる意味でも、つねに「日本語とは何か?」を問いながら翻訳していきたい、と思いました。

ところで。本日、また一つ年をとりました。

お誕生日にメッセージをいただき、とても喜んでいます。私はなかなか誕生日が覚えられないので、お祝いをくださった方の誕生日にメッセージを送っていない失礼を重ねています。ごめんなさい。そういいながら、自分の誕生日を覚えていてくださるのはとてもうれしい! 今年一年、また元気に過ごしていきたいです。

石垣島最終日にやっと晴れました。海の色がトパーズ色に輝いています。暑くもなく寒くもなく、湿度もほどほどで気持ちがよいのですが、気温天候ともに石垣の春先らしさが感じられるのは、なんと1ヵ月半ぶりだそうです。一昨年からここでキャンプをはるようになった千葉ロッテは、結局4日間しか外のグラウンドでの練習ができなかったとか。それくらい雨の多い、寒い冬だったのです。地元の人が二言目にいうのが内地から移住してくる人の増加。石垣島の人口は4万人強ですが、住民登録をしていない居住者がもう1万人いると言われていて、島は不動産の値上がりが著しい。マンションの建設も相次いでいます。ちなみに島なので輸送費が上積みされるため、ガソリンも生活物資も1ー2割高い。でも娯楽も少ないのであまりお金を使うこともなく暮らしていけるそうです。気になるのは、移住してきた人たちがどんな暮らしをしているかということ。生活を大きく変えてただけでなく、島独特の人間関係やしきたりを受け入れるのはたいへんなはず。満足しているのでしょうか?



昨日間違っておかしなエントリーをケータイから送信したみたいです。すみません。いま石垣島にいます。天気はよくないけれど、雨は降ってないのが幸い。気温15度。花粉はとんでません。昨晩は念願かなって「やまもと」という店で石垣牛を堪能しました。石垣ビールもうまい〓やってることが食べることばかりって自分でもどうよ、です。八重山は日本のなかで独特の島文化です。写真は竹富島のコンドイビーチで。海の色が美しい。

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