Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2008年09月

前々からここで何回も言っているように、私は声が気になる。

声、そしてしゃべり方には人柄が見える、と私は信じている。

そこで、総裁選に出馬した方々の声&しゃべり方である。

ま、はっきり言えば、しゃべり方が「あやしい」「軽い(浅い)」「見下されているように思わせる」「テンションのコントロールができていない」「こわい」という印象を強くするのであるが(誰がどれなのかは御推察にお任せするとして)、とくに気になるのが石破さんである。

くわしい経歴や政治姿勢はよく知らないが、防衛庁長官だったときから、そのしゃべり方が気になってしかたなかった。

なんかムカツクのだが、しばらくしてから気づいた。

この人、不器用なんだ。というか、unsophisticated personなんだ。

もしかして、それを売りにしているのだろうか?

でも、私はかちんとくる。

総理になって、毎日この声を聞かされたら、つらいなあ。

そんなこと、と言われるかもしれないが、総理になったら記者会見だ、演説だ、と毎日しゃべらなくちゃいけないのだから、発声練習と話し方訓練はやるべきじゃないだろうか? 少なくとも、人に不快感を与えるしゃべり方だけは矯正したほうがいいように思うのだが。

夕飯は野菜カレー、さんまの干物、ピーターコーン、ごはん。

『BOY A』

ジョン・クロウリー監督

マーク・オロウ脚本

ジョナサン・トリゲル原作

キャスト:

アンドリュー・ガーフィールド(ジャック)

ピーター・ミュラン(テリー)

ケイティ・リオンズ(ミシェル)

 

注:一部ネタバレ。

シネカノン試写室にて9月8日観賞。

安倍元首相は「失敗してもやり直せる社会に、そしてリスタートを応援する政治をしたい」(?言葉は不確か)と言った。

その「失敗」にはどこまでふくまれるのだろうか?

幼いときに残酷な殺人事件を犯し、14年間少年院と刑務所に服役していた少年が、名前も経歴もまったく別のものにして人生をやり直そうとイギリスの小さな町にやってきたところから映画は始まる。

保護観察官のテリーは、「過去はもう忘れろ。なかったことにしろ。きみにあるのは、現在と未来だけだ」と、ジャックとしてリスタートする男を励ます。

運送会社に勤めた男(ジャックとしておく)は26歳になっているが、思春期と青年期の前半を隔離された場所で過ごしてきたために、社会的経験が少ない。精神的に成長していない。もっと言えば幼い。

幼いときから、アル中の父親と病気の母親からまったくかまってもらえず、学校でも友だちも一人もいなかった彼にとって、ジャックとして飛び込んだ「社会」は、はじめて人からあたたかい言葉をかけてもらえる天国のような場所だった。友だちができ、恋人までできて、リスタートは驚くほどうまくいっているように見えた。

だが、過去をないものになんかできない。ジャックは過去から自由にされない。新しい人生が幸せなものであるほど、過去は彼を苦しめる。そして......

そのあとは映画を見てください。ぜひぜひ見てほしい。別に犯罪歴ほどすごい過去がある人だけではなく、消してしまいたい過去がある人にとっては誰でも重い問題を突きつけられるはずだから。

ジャック役のアンドリュー・ガーフィールドと、その恋人役のケイティ・リオンズがとてもいい。ベッドシーンに涙を誘われるなんて、はじめてだったかも。

小道具の使い方もうまい。

恋人からプレゼントされた財布。そこに刻まれた文字。

少年のころ、学校をさぼって川で釣りをするときに、釣り竿をつくるために使われたカッターナイフ。

交通事故にあった少女を助けるために使われたカッターナイフ。

そしてもう1本のカッターナイフは......

映像もふくめて、とてもいい作品だった。

隣に座った女性は、ハンカチをほほに押し当てて泣いてらっしゃいました。

昨日、高円宮杯というU18ユースの大会でガンバVSFC東京の試合を見てきました。ガンバユースは前半、攻められながらも効率よく、ビューティフルな先制ゴールを決めたのですが、後半に入ったとたん、選手全員(GKまでも!)足がつるという状態で2失点。負けました。印象としては、完敗でした。1年生が5人、というのでフィジカルが弱かった、ともいえますが、実際にはGKをはじめ、3年生のサイドの選手が足をつって1年生に交代、という状態だったので、フィジカルに敗因を求めるのはちょっとおかしい。ま、言えば試合運びがへたでした。

一方、FC東京は前半こそガンバにおされぎみでしたが、後半に入っても誰一人足などつる選手はいませんでした。最後まで走り続けて、足を引きずるガンバをかき回していました。

何がいけないのだろう?

そして夜。ナビスコ杯準決勝で、トップチームも清水エスパルスに完敗しました。ガンバ、これで9戦、勝利がありません。

何回も書きますが、今季は一試合たりとまともな試合がありません。

何がいけないのだろう?

ガンバのいいところはどこだったか? 試合に行くたびに、へこんで帰ってきては、ガンバの強みとはなんだったのかを考えこみます。

いまのガンバは弱い。ほんとに弱いです。多ぶん、J1で一番弱い。

真剣にガンバを追いかけ始めてから10年がたちますが、これほど弱いガンバは......いつ以来だろう?

弱い、というか、情けないっていうほうがあたっているかな。

チームの問題はチームに任せておくとして、いま私自身が問われているのは、サポとしていったいこの精神状態をどう処理しhたらいいのか、ということです。

負けると腹が立つ。落ち込む。へこむ。原因を探したくなる。(実際探す)その解決策を求めたくなる(実際求める)

でも、そういう一連の感情の浮沈にすっかり疲れ果ててしまった今、私は「それでもガンバが好きなことをやめられない」ことに気づいています。

ええ、ええ、J2に落ちても、これから負け続けても、私はガンバサポをやめませんよ。っていうか、やめられませんよ。

その昔、1点取るだけで涙が出るほどうれしかったこと。

その昔、1回勝つと、1か月幸せだったこと。

そんなことを忘れてしまっていたことを今思い出しました。

勝たないと許せない、なんて、そんなぜいたくなサポにいつなっちゃったんだろう?(2005年優勝のときからです)

誰に頼まれたわけでもなく、ええ、ええ、私はガンバを応援しつづけますよ。

ユースもトップも全部ひっくるめてね。

ガンバがめざしていくところを、私もサポートしつづけていきたいと思ってます。

ひえぇぇぇ、愛情宣言だったわ。

 

「わたしを離さないで」

カズオ・イシグロ著・土屋政雄訳

早川書房

 

注:これから書くことはネタバレです。未読の方は読まないで! 

 

 衝撃的な小説である。

 時間つぶしや教養づけや娯楽のための娯楽としてではなく、「小説を読む」という本当の楽しみを満喫させてくれた小説だった。ひさびさにそういう小説を読んだ気がする。一ページめくるごとに、読み終わるのがもったいなくなる。数行の文章に書かれた意味を、そこに隠された謎を解き明かそうと、ときどき本を置いて考える。そうやって想像力を思うままはばたたかすことを読者に許し、好き勝手に想像させるスペースをたっぷり与えてくれる。なんてぜいたく!

 そして、この小説の読み方は一人ひとりみんなちがう......ような気がする。いや、ほかの人の意見を聞いたことがないからわからないのだけれど、私の感想と、ほかの人の感想ははっきりちがうだろう。それがわかる。一人ひとり、好きな読み方ができるはずだ。私が見つけた謎解きのカギと、別の人のカギとはまったく異なるものになっているのではないか。それ以上に、私が謎に思うところと、ほかの人の謎ともちがう。そうやって読者の自由裁量に任せてくれる構成になっている。

 そんなことすべてが、この小説を読む「楽しさ」につながっていく。

 舞台も時代も、架空だ。イギリスの地名が使われていて、人物の名前も英語名で、どうやら二○世紀の話と読めないでもないけれど、未来SFのようでもある。

 ヘールシャムという名前の田園地帯にある小さな学校らしきところから話は始まる。幼児から15,6歳までの子どもたちが、外部とは隔絶された場所で寄宿生活を送っている。ふつうの学校のように算数や地理や国語を先生が教えているが、とくに力を入れているのが、絵画や彫刻、詩作といった創造的な授業だ。優秀な作品は選ばれて、「マダム」と呼ばれる人の「展示室」に保存される、と子どもたちはいわれる。「展示室」がどこにあって、誰がそんな作品を見るのか、子どもたちはふしぎがるが、先生たちをあえて問い詰めようとしない。

 問い詰めることがはばかられることはほかにもたくさんある。

 なぜ自分たちは隔離されているのか?

 「親」はどこにいるのか?

 「マダム」とはいったい何者なのか?

 なぜ「マダム」は、おぞましいものを見るような恐怖のまなざしで子どもたちを見るのか?

 子どもの一人、キャシー・Hの一人称で語られる小説のなかで、一枚ずつ薄皮をはぐようにその謎があきらかにされていく。

 セックスは許されるが、子どもをつくることはできない、と性教育の授業で先生たちにきっぱりいわれる子どもたち。

 15、6歳になると、先生たちに保護されていたヘールシャムを出て、「外の世界」に連れていかれ、「介護人」と「提供者」という役割を割り当てられる「ルール」。

 優秀な「介護人」となったキャシー・Hは、ヘールシャムで一緒に育った仲間で、「提供者」となったトミーとルースの2人の介護をしながら、その「ルール」に例外は認められないのかと必死にあがく。

 ......

 生殖行為なくして生まれ、生殖ができず、短い生を義務付けられ、あらゆる「人間的な」生活を禁じられた人間に創造的な営みは可能なのだろうか?

 そもそも人間とは何なのだろう?

 最後の一ページを読み終わった今朝、明けていく空を見ながらしばし余韻にひたった小説だった。

 

20代、30代のころ、私の強烈な願望は「自立したい!」だった。

経済的自立、精神的自立、生活面での自立、あらゆる面での自立、ジリツ、independense......で、from what?

親から? 夫から? うーん、それがよくわからないまま「とにかく自立したい!」だったんだなあ。

肩肘はって、何もかも自分でやってみようと必死だった。

言ってみれば「ひとりでできるもん!」がやりたかったんだと思う。2歳児といっしょ。

いま振り返ってみると、あれは「マイブーム」(&社会的ブーム)だったらしい、とわかる。

何もあそこまでマナジリ決して、ひとりで何もかもがんばらなくてもよかったのにね。もう少し上手に「やって!」とお願いすればよかったのにね。

でも、マイ自立ブームのおかげで得られたこともある。

何よりも、働き続けるエネルギーを得られた。く、くるしい、と思っても、い、いやだ、と泣きたくなっても、とりあえず起き上がって目の前の仕事をする力は得られた。なぜなら「経済的に自立した私」が、そのときの私のアイデンティティ=依って立つべき位置だと思っていたから。

それと、生活の自立は自信を与えてくれた。家事ができる、というのは、健康や社会生活をおくる上での自信につながっていく。

でもこの年齢まで生きてくるとよくよくわかる。

完璧な自立なんてありえない。他人に依存することで、やっと生きていけるんだってことだ。そして、依存することをみっともない、情けないと恥じるなんておかしい、ということも。依存し、依存されるのがたぶんまっとうな生き方なんだと思う。

それに気づくことができたのも、マイ自立ブームがあったからこそ、なんだろうけれどね。

画像は、屈斜路湖近くのひまわり畑。市営のひまわり畑で、中の通路は迷路になっていて、クイズに答えると正しい道が示される、というゲームつき。

たとえば――

白と黒のブチの牛の毛を刈り取ると、皮膚はどうなっているでしょう?

1)肌色の皮膚

2)白黒のブチ

わかったかたは、コメント欄でどうぞ。答えは明日のブログで。

ひまわり.JPG

 

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