Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2008年11月

神奈川県にある県立神田高校で、前校長が金髪や服装の乱れのある生徒を、合格基準点に達していても入学させなかったことが原因で異動させられ、保護者や生徒たちから嘆願書が出た、というニュースを読んだ。

入学試験に外見で判断されることもある、ということを受験者に知らせることなく取り入れた、ということが問題になっているらしい。以前にかなり荒れていて、生徒総数350人中、毎年100人が学校をやめることになる、というような高校だったらしい。それを前校長と前々校長が涙ぐましい努力で立て直した、ということだ。

新聞記事から得た情報しかないので、校長の処分が正しいかどうかの判断はおく。

もしかするとちがう観点の話かもしれないが、私は「人を外見で判断する」ことは大いにありだと思っている。

金髪だろうが、ギャルメイクだろうが、ズリパンだろうが、どんなカッコをしてもかまわないが、そのカッコをした時点で中身は判断される。それをわからなくてはならない。

というか、金髪だのギャルメイクだのは、外に向かっての記号でしょ? 俺は、アタシは、こういう人間なんだよー、わかってんのかー! と言いたいわけでしょ? そのカッコで登場した上で「私はまじめに勉学にはげみ、学校のためにつくし、清く正しい生活を送る高校生なんです。部活が終わればまっすぐ家に帰ります。繁華街なんかこわくていけません」と言ってみたところで、そりゃ誰も信じないわ。根はいい子なのかもしれないが、それをトモダチの輪以外の人間に伝えることができないのは頭が悪い。(だが、服装も外見もさわやか高校生で、学校にはちゃんと通い、陰でえげつなく遊んでいるタチの悪い子どもも多い。タチは悪いが、頭はいい、ということで、これまた困った存在ではある)

私が「外見で判断される」だから「見た目が大事」と痛感するのは、実は高校生をはじめとする若者のわかりやすいカッコを見たときではない。

R50~R70のおじさん、おばさんの集団を目撃したときなのだ。自分もその年齢層に入るので、とかく目に入ってしまうのだが、うーん......もうちょっとどうにかならんのか、と自分のことを棚に上げて思うことが多いです。実用一辺倒の帽子と、運動靴みたいなゴム底靴と、シワだらけのウエストゴムパンツはちょっと......。

おじさんらしいカッコ。おばさんらしいカッコ。その安全圏に逃げ込んでしまうと、たちまち緊張感のない「私、中高年です」と訴えているおじさん、おばさん......と判断せざるを得なくなる。

先日、品川から羽田空港に向かう京急の車内で、前に座った70代くらいの女性にふと目がとまった。

白髪をシニヨンにし、深紅のメンズライクなツイードのジャケットにベージュのワイドクロップドパンツ。深緑のチェック地の薄手で大きなストールをさりげなく首元に巻き、アクセサリーは大ぶりのパールのピアスだけ。足もとはジャケットに合わせたのか琥珀色のカーフ丈ブーツ。大きめのベージュの使い込まれたバッグをななめがけし、単行本を熱心に読みふけっていた。フレームがワインレッドのメガネがまたおしゃれだったなあ。

シワの深さと白髪(そして立ち上がって歩かれたときの足取り)から、たぶん70代半ばくらいの方だろうと推定したのだけれど、世間の70代らしいカッコをいっさい拒否していた。全身から「見られている」緊張感と快感が、そして色気がたちのぼっていて、車内では圧倒的な存在感を放っていた。70代にして、あれだけの色気がかもしだされるんだ、と私は目が離せなかったものね。

外見が大事、というのは、外見によって他人から判断されるから、というだけではない。

自分自身の緊張感をなくさないためにも、外見は大事なんだ。

とまあ、その女性を見送りながら思ったのでした。

何の本を読んでいたのかすごく知りたかったけれど、カバーがかかっていてわからなかったのが残念。

川崎フロンターレ 4-0 ガンバ大阪

得点者:書く気にならない。

 

 これまで、負けた試合については無視する(なかったことにする)方向でやってきたのですが、こればかりは書いておかねばならないと自分をふるいたたせました(→ガンバのことになると、他人が嗤うほど真剣になってしまうジツカワです)

 ひどい試合でした。後半は声も出なかった。

 けれど、Jリーグでは(ACLでも実は)ひどい試合を今年はずっとやってきているガンバです。

 西野監督が「このチーム力では(リーグ優勝はおろか3位にも入れそうにない、とか、ACL決勝リーグを戦えない)......」と嘆くのも無理はないです。

 奇跡的にACL優勝できましたし、それはすばらしいことですが、でも、ガンバ大阪はけっして「強豪」なんかではない。つねに脆さと背中合わせで、だから好きなんですけれどね。(「いとおしい」と書きそうになって、ぐっと抑えました)きのうはその脆さ、弱さを露呈してしまいました。

 それでもこの試合を見ながら、私はガンバの将来に明るい希望の光を見てしまったのです。少なくとも、シーズン初めよりは、シーズンが終わろうとする今のチームと姿勢にこそ、ガンバの希望がある、と思いました。もちろんその希望を支えている一つがACL優勝ではあるのですが、それ以上に惨敗した近々の3試合、清水戦といい、FC東京戦といい、川崎戦といい、ガンバは性懲りもなくパスサッカーをやろうとしていました。そこに私は希望の光を見るのです。

 メディアは「DFラインが崩壊」「決定力のあるFWがいない」「遠藤、二川がいないからパスの出し手がいない」とか勝手なことを敗因にあげています。

 モチロンそれもあるでしょうが、でも、リーグ戦でうまくいっていない原因の根本はちがいます!(きっぱり)

 どうしてもパスをつなぐ。ポゼッションにこだわる。アクションサッカーをする。それがガンバのスタイルだから。

 でも、相手によってそのスタイルは読まれてしまいます。相手チームにフィジカルなりテクニックなりずば抜けた選手が1人か2人いれば、あっさり破られる、ということもある。ましてやサッカーはパスだけではすまない場面も多く、1対1で負けてボールを奪われたらパスも何もあったもんじゃないし、ボールのスピードとか方向などが少しでもずれたらパスサッカーは成立しません。

 つまり、チームとして戦術がきっちり浸透していて、個々の能力があるレベル以上でないと、そのスタイルは脆さを露呈してしまう。できもしないのにスタイルにこだわりすぎて、柔軟性をなくすことにもなる。きのうはまさにそれでした。

 でも、昨日、シーズンの初めと比較してやっと戦術が浸透しつつあることがわかりました。また個々の能力も徐々にではありますが上がってきつつあります。今のメンツにピンポイントで選手をプラスし、個々の選手の能力があと10%アップすれば、きっとすごくおもしろくて強いサッカーができるはずです。

 そのためには、来年はACLはあっさりあきらめて、これから5年計画くらいで本当に強いチームをつくっていってもらう元年としてもらいたいです。もう「戦術:(マグロンやバレーといった)一人で持てるFW」でゴリ押しして点をとるのではなく、アラウージョやマグノアウベスみたいなスピードとテクニックを兼ね備え、パスを完成させてくれる点取り屋を育成するなり補強するなりしてガンバ・スタイルを熟成させてください。

 きのうの敗戦で、もうそれしか道はないし、その道はきっと楽しくておもしろいはずだ、と超楽観的に私は思いましたです。

 またまた熱く語ってしまった。

 この程度の惨敗で凹んでいたら、ガンバサポはやっていられませんし。

今年は2月に歯痛→4回にわたる歯の手術と歯医者通い、8月に頚椎炎→整体通いと定期的運動、と体の不調から健康維持のための努力をする、という1年だった。たぶん、定期的メンテナンスが必要な年齢になった、ということなのだ。

頚椎炎になる前から、夏バテしてしまって、うーん体も頭も重くてしかたない、となってしまい、朝起きると頭痛だったりしたので、9月から本気で生活改善に励むことにした。

その1つ目が禁酒(ま、お酒を断ったのはほかにも理由があるのですが)。

その2つ目が、夕ご飯を早めに食べて、その後ジムに行くなり仕事するなりしてさっさと寝ること。

おかげで体調ばっちりです、と胸を張って言い切れるところまではいっていないが、でも、かなり改善されたと思う。少なくとも、腕があがらない、なんてことはなくなった。

何より、3キロ減量できて、体脂肪も3%減ったのはうれしいかも。具体的に数値で結果が出ると、達成感なんておぼえたりして。

さあ、ダイエットをしよう、という気持ちで始めたわけではないけれど、体調管理に気を使ったらそれがダイエットになった、ということはやはり体重と体脂肪は体調のバロメーターなのかも。

と言っておきながら、きのうはアップルパイを焼いてもくもくと食べました。紅玉が出たら、アップルパイかアップルケーキを食べないとね。あとで写真をアップします。

 

仕事で必要なことがあったので、ケータイ小説を読んでみた。

映画やTVドラマにもなった「恋空」ほかいくつか。

いやはや......いやはやと首を振るしかない。私はビョーキのように活字につねに飢えているのだが、読むのがこれほどつらい活字はなかったな。

ケータイ小説は、小説と銘打ってあるが小説ではない。少なくとも、私が定義する「小説」のジャンルには入らない。だってプロットってものが皆無なんだから。プロットってなんだったっけ? としばし考えてしまった。

もっと言えば、日本語の文章としても首をかしげざるを得ない。絵文字を使うのは許す(五十歩下がるが)。しかし「............」と言いよどめば、お互いの気持ちがすぐに通じ合ってコトに及ぶっていう定石はいかがなものか。

「ぼくは......」

「でも、あたし......」

〇〇(男)は××(女)を抱きしめて押し倒した。

という表現が何回も出てくると、私はたたらを踏んで百歩下がってまっさかさまに落ちるぞ。落ちた先がどこかわからないが。

しかも誤字だらけ。愛の告白で一番盛り上がるときに「ケータイが振るえる」とか出てくると、脱力するしかない。

ツッコミどころが満載、というのを超えている。いや、ツッコメないな。どこにもツッコミようがない。ずぼずぼ。

これ読んで、ハーレークイーンはエライと思いましたね。少なくともハーレークイーンというジャンルは成立しうる。水戸黄門のようなものだ。だが、ケータイ小説というジャンルは成立しえない。

水村美苗さんじゃないけれど、「日本語は亡びる」と頭を抱えたくなった。

明日にでも書くけれど、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」は、翻訳をやっている私にとってこれ以上ないほど耳の痛い、でも、心にしみる本だった。今年のNO1かな、これが。

『かつてノルマンディーで』

監督:ニコラ・フィリベール

出演者:ノルマンディの村の人たち

 

 『ぼくの好きな先生』以来、すっかりこのドキュメンタリーの巨匠(と言われるのはいやだろうなあ、ご本人は)の作品にはまっているのですが、いかにも、なフィリベール節が見えながら、これまでとちがって自分が前面に出てきている作品でした。

 大学在学中にルネ・アリオ監督が撮影した『Les Camisards』という映画の助手をつとめ、フィリベールはアリオ監督に傾倒します。結局、それがきっかけで彼はのちにドキュメンタリーを撮る映画監督になるわけです。そのアリオ監督は、ノルマンディーで19世紀初頭に起きた殺人事件に材をとった映画を30年前の1975年に撮影し、彼が助手をつとめました。

 ノルマンディー地方の農家の息子が、母親と妹と弟を殺し、1か月森を放浪したのち逮捕され、裁判にかけられ、精神鑑定もされるのですが、結局死刑宣告を受けます。(のちに国王から恩赦を受けて終身刑に。5年後に刑務所で自殺)裁判を受けているときから、彼は自分の罪を事細かに書き記し、心境などもつづったメモを残しました。それを読んだミシェル・フーコーがいたく刺激を受けて本を著し、その本に啓発されてルネ・アリオが脚本を起こして映画を制作しました。

 映画の出演者は、裁判官や法務関係者以外、主人公となる犯人も含めてすべて地元の村人を俳優として起用。ドシロウトの村人たちは、1世紀前の事件の関係者たちを見事に演じきって評判になったそうです。

 フィリベールはそのときの出演者たちに会ってインタビューするために、ノルマンディーを訪れます。30年前にティーンエイジャーだった犯人の妹役(殺される人と殺されなかった人の両方)2人、殺された母親役、父親役、母親の愛人役(このおじさんとその家族がすごくおもしろかった! 娘から「なんでパパが愛人役なの? その顔は愛人顔じゃないでしょう!」とかさんざんツッコマレ、いかにも人の好さそうな小太りのおっさんが「たまたまだよぉ」とか苦笑いするのです。奥さんが後ろ向いてしゃべると「ほらほら、カメラ目線じゃないとカットされちゃうよ」とか言うし)。最後に主人公の犯人を演じた男性も登場(昔はかわいかったのに、48歳になった今はオタク顔のおじさん)。

 当時のことを語らせる以上に、フィリベールは「その後、どんな人生を歩んできたか」を追いかけます。ずっと独身を通して、今は引退しているというおじさんは「独身だけど、女にはふしぎと不自由しない。いつも女がいる」とか堂々と言っちゃう。養豚業者の男性を追いかけるシーンでは、豚の出産から解体まで事細かに映像はとらえます(豚を殺すシーンはちょっと見られなかった)。リンゴの木の枝をゆすって実を落とし、圧搾機械にかけてシードルをつくっていくおじさんもいれば、50代になって結婚する人の結婚式も出てきます。映画撮影が終わってから10年して、娘が精神の重い病にかかり、その後の20年は絶望のぎりぎりのところをさまよった夫婦が語る言葉は、一言一言が本当に重かった。脳溢血で2週間意識不明の状態から復活したら、言葉を失って苦しんだ、という女性(元左翼のパン屋さんで、議論好きだった)が、必死に言葉を探しながらしゃべる表情は、もどかしいながらも緊張感があってとてもよかった。

 牧畜業や農業やパン屋や工場労働者や知的障害施設で働く人たちは、若いころに「映画出演」という「ハレ」の場に立ったことを誇りにし、数か月の撮影で見たこと聞いたことをなつかしがりながら、でも、地元で地に足のついた生活を30年続けてきていました。主人公役の男性以外。彼はパリに出て俳優になり、映画出演をはたしたものの、映画になじめずカナダに移住。宗教団体に入って、今ではハイチで布教活動をしているそうです。

 ところどころにルネ・アリオの映画の断片がはさまり、インタビューがあり、映画撮影時のエピソードを語るフィリベールのモノローグがあり、人々の生活シーンがある、という編集なので、最初はちょっと入り込みにくかったのですが、そのうちじっと見入ってしまいました。働く人々の姿を一箇所に据えられたカメラが追いかけていく、セリフが一言もないシーンが美しい。「働くことは、生きることだ」という言葉が、地に足がついた人々の表情から実感として迫ってきます。

 賛否両論ありそうなドキュメンタリーですが、私にはじわじわと胸にしみるものがありました。「ときの重み」なんてものが、どんときました。

 

......とまあ、今日は歯の手術だったので、DVD鑑賞して麻酔が切れたあとの痛みに耐えていたわけです。手術あとになまなましいソーセージづくりの映像を見るのはまちがいだった、とあとで気づきましたが。

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