この年齢になると、仕事はもちろんのこと、生きていることそのものがほかの人たちとの支え合いでしかありえないことが身にしみてくる。というか、それを意識しないでは毎日が過ごせない。家族や親しい友人や同僚や仲間じゃなくても、誰かのお世話になって生きていられるわけだし、名も知らぬ誰かのお世話をすることでも生きていけるのだ、というまるで宗教団体か道徳の教科書のような気持ちの悪いことを最近日々痛切に思ってしまう。
なぜ、いまさらそんなことを思うのか、というと、「人を大事にする」という人間社会の基本心得が、この10年ほどの余裕のない社会のなかで、忘れ去られてしまったような気がするから。いや、もしかすると、そういう基本心得はたえず説いていなければ(もしくは教育しなければ)、誰もが意識もしないし、考えてもみないことなのかもしれない。
「人を大事にする」ことは、もちろん気持の上でもだけれど、行動でもあらわしたい、と思って、この年になったからこそできる人のお世話をできるだけしていこうとしている。だから、見知らぬ外国人のホストファミリーになってみたり、仕事やプライベートでお役に立てそうな人同士をお節介にも引き合わせてみたりするのだけれど、そんなときに心がけなくてはならないのは、感謝と見返りはぜったいに期待しない、ということだ。ときには、手ひどいしっぺ返しにあうこともある。自分がよかれと思ってお世話したつもりが、相手にとってはとんでもない迷惑で、苦痛を与えてしまった、ということだってあるわけだ。
実は先日、そんなことがあって、私ははなはだ落ち込んだ。落ち込んだ自分に「感謝を期待していた思いあがりへのしっぺ返しだ」と鞭打ってますます落ち込んだ。
「人を大事にする」ことはもちろん、「人に大事にされる」ことも心に余裕がなければなかなかできない。余裕がないと、下心を勘繰ったり、嫉妬で目がくらんで差し出された手を振り切るばかりか、かみついたりしてしまう。これまでの自分も何回もそんなことをやってきた。
不況は余裕をむしばんでいってしまう。気をつけないといけないな。