Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2009年01月

この年齢になると、仕事はもちろんのこと、生きていることそのものがほかの人たちとの支え合いでしかありえないことが身にしみてくる。というか、それを意識しないでは毎日が過ごせない。家族や親しい友人や同僚や仲間じゃなくても、誰かのお世話になって生きていられるわけだし、名も知らぬ誰かのお世話をすることでも生きていけるのだ、というまるで宗教団体か道徳の教科書のような気持ちの悪いことを最近日々痛切に思ってしまう。

なぜ、いまさらそんなことを思うのか、というと、「人を大事にする」という人間社会の基本心得が、この10年ほどの余裕のない社会のなかで、忘れ去られてしまったような気がするから。いや、もしかすると、そういう基本心得はたえず説いていなければ(もしくは教育しなければ)、誰もが意識もしないし、考えてもみないことなのかもしれない。

「人を大事にする」ことは、もちろん気持の上でもだけれど、行動でもあらわしたい、と思って、この年になったからこそできる人のお世話をできるだけしていこうとしている。だから、見知らぬ外国人のホストファミリーになってみたり、仕事やプライベートでお役に立てそうな人同士をお節介にも引き合わせてみたりするのだけれど、そんなときに心がけなくてはならないのは、感謝と見返りはぜったいに期待しない、ということだ。ときには、手ひどいしっぺ返しにあうこともある。自分がよかれと思ってお世話したつもりが、相手にとってはとんでもない迷惑で、苦痛を与えてしまった、ということだってあるわけだ。

実は先日、そんなことがあって、私ははなはだ落ち込んだ。落ち込んだ自分に「感謝を期待していた思いあがりへのしっぺ返しだ」と鞭打ってますます落ち込んだ。

「人を大事にする」ことはもちろん、「人に大事にされる」ことも心に余裕がなければなかなかできない。余裕がないと、下心を勘繰ったり、嫉妬で目がくらんで差し出された手を振り切るばかりか、かみついたりしてしまう。これまでの自分も何回もそんなことをやってきた。

不況は余裕をむしばんでいってしまう。気をつけないといけないな。

昨日は中学・高校時代の友人が来訪したので、今年はじめてのちらし寿司をつくってもてなした。

ちらし寿司、というと、プルーストのマドレーヌのごとく、私の脳はいきなり幼いときにタイムスリップする。

祖母は岡山の出身で、生涯のほとんどを兵庫県で暮らしていたにもかかわらず、「おきゃーま」こそが自分がいるべきところだと信じていた人だった。

だから、食べるものもおきゃーまで幼いころ口にしたものばかりで、そのなかでも「祭り寿司」は彼女にとって最高のごちそうだった。ほとんど料理をしない人だったが、春先からきまって祭り寿司だけはていねいにつくっていて、それがまた美味だったのだ。具を一つひとつつくる祖母のかたわらで、あまずっぱいにおいにつつまれながら、華やかなちらし寿司ができあがっていく光景は、いまも私の五感にしみついている。祭り寿司は、かんぴょうや高野豆腐やにんじんやしいたけや酢バスやふきや細く切ったさやいんげんや錦糸玉子といった通常のちらし寿司の具に加えて、甘酢につけたさわら、さっとゆがいた海老、ままかり、貝類、あなごの煮たのなど海鮮の具がたっぷりのっている、いかにも瀬戸内海沿岸地方らしいはなやかなお寿司だ。いま書いていても、大きな寿司桶にたっぷり盛られた祭り寿司が目に浮かぶし、得意げな祖母の顔や、「もとちゃんの分は海老が抜いてあるからな(私は海老アレルギー)」と別に取り分けてくれたその声までが思い出される。

で、私も春先になるとなんとかその味を再現したい、とちらし寿司に挑戦する。だが、何年つくり続けても、祖母の味にはならない。たぶん、酢も米も具もすべてが昔の岡山のものじゃないからだと思う。ま、腕もちがうんですがね。

きのう来てくれた友人たちの一人は岡山の出身で、やはり祭り寿司は何年かかっても祖母の味が出ない、と私と同じことを言っていた。お母さんがつくってくださるそうだが、それも「ちがう」と思うのだそうだ(心の中でだけ、と言っていた。私と同じだ。私の母のつくる祭り寿司も祖母の味ではない)もう一人は奈良の出身で、かの地のちらしには海鮮などはのらないのだそうだ。

中高時代の友人とはすでに40年以上のつきあいになり、お互い故郷の関西を離れて35年以上たつ。

それでも、会ってしゃべると関西弁がとびかい、故郷の話で盛り上がる。

そしてなんだかとってもほっとする。

年をとると、ふるさとがぐっと近くなるのかもしれない。

ガンバの象徴、とも言える存在だった宮本恒靖選手が、オーストリア、ザルツブルグからヴィッセル神戸に移籍し、今季からクリムゾン・レッドのユニフォームを着ることになった。

私がガンバサポと知ると、数年前まで必ず言われたのが

「ああ、ミヤモトが好きなんですね(断定)」

だった。

(ちなみに、つい最近私のケータイストラップをめざとく見つけた女性が「ガンバが好きなんですか? 遠藤ですね(断定) 私も遠藤が好きなんです」と言った。「いや、別に遠藤だけじゃなくガンバというチームが好きで...(もごもご)」と答えると、「遠藤じゃない? それじゃ誰ですか? ああ、監督ですね(断定)。監督かっこいいですね。...で、監督、なんて名前ですか?」ww。監督は西野朗氏です、私はとくに際立って好きな選手はいないけれど、強いて言えば二川、倉田、明神、かな、と答えると、「ごめんなさい。誰も知らない」wwそ、そんなもんですね、きっと、世間のガンバ認知度は)

女子(あえて私も仲間入り)で、サッカーが好き......とういだけでも、すでに「ああ、宮本」と決めつけられて、そこにビミョーな空気が流れた。サッカー好きを自認する男性に「ガンバが好き」と告白するのは、もうこりゃ嘲笑を全身に浴びせられる覚悟が必要だった。男子のあのせせら笑いの背後にあるのは、なんですか? ジェラシー、ですか?

だから私は宮本がザルツブルグに移籍する、となったとき、心のどこかでほっと安堵したことは認めなくてはならない。これからは「ガンバが好き」ということが、妙な嘲笑と色眼鏡なしで堂々と言えると思ったから。ガンバが好き、ただ好き、ということが認知される、やれやれ。(それがいまやガンバが好き=遠藤が好き、になっちゃったわけなんだが、遠藤には「嫉妬のメカニズム」はあまり働かないらしく、鼻で笑われることはありません)

ところが、だ。宮本の移籍記者会見をテレビで見たとき、私は泣いてしまったのだ。あれには自分でもビックリした。ガンバがまったく勝てなかった時代(実に長かった)に、ダンブリー(っていう選手がいたんです)とともに最後尾から若い選手たちに必死に声をかけつづけた姿や、ポジションを失ってベンチで複雑な顔をして座っていた姿や、2005年のリーグ優勝が決まった瞬間顔をおおって大泣きしていた姿や、W杯クロアチア戦でPKを与えてしまったときの顔などがつぎつぎ浮かんで(マイナスイメージが多いな、おい!)、私がガンバを追いかけ始めたときから、ツネはいつもいた、ということに気づいたからだ。ツネはまちがいなくガンバの顔だったし、主柱だった。なまじ顔がよくて、インテリで、あらゆる面でかっこいいために、何かと揶揄されてしまうが、いまのガンバの「クリーンで、攻撃のアイデアが豊富で、ラインを割らない守備をして、守りも攻めのスタートと考える」というスタイルの確立にツネが果たした役割の大きさは誰にも否定できない。

そのガンバの象徴が、Jリーグのちがうチームに行くのだという。正直、気持ちは複雑だ。

だが、ツネが移籍したあとのガンバは、スタイルの基本は変わらずとも、新しい段階へとステップを踏み出していることもたしかだ。それはツネが移籍してから4バックに移行した、とかそういう問題じゃない。目線が変わった、というか、意識があきらかに変わった。「あきらかに」と断言できるのは、2007年1月1日天皇杯決勝で、ツネを勝利で送りだせなかったときと、2009年1月1日、今年の天皇杯決勝でACL出場のために死に物狂いで勝利した、その2日を比較したから。今年、対戦した柏の「石崎監督の最後に胴上げしたい」というモチベーションと、2007年に「天皇杯に優勝してツネの花道を飾りたい」というガンバのモチベーションとは似たところがあった。やはりそんなモチベーションで獲れるほど、タイトルは軽くない。

今年のガンバは、はっきり目線が世界をむいている。ツネが今のガンバと同じ目線を共有しながらピッチで戦えるか、といえば、3年間をともにしてこなかったために、それはなかなかむずかしいところがある。ツネ自身に、ではなく、どちらかといえばチーム、クラブのほうが困難を感じたがゆえに、ツネ側から秋に、ガンバに戻りたいと打診されたときに断りを入れたのではないだろうか(あくまでも推測ですが)

残念ながら、ちがう色のユニフォームを着た宮本とJの試合で対戦することになるわけだが、私はブーイングも拍手もしないだろうな。そのどちらも宮本にも神戸にもガンバにも失礼にあたると思うから。ガンバがつぎのステップに踏み出したのと同じように、宮本もつぎのステップに進んでいるのだ。元ガンバの選手としての興味は持ち続けるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。

............

とまあ、それはさておき。

今、Jのチームがつぎつぎ新体制と今季の目標についての記者会見を行っているのだが、横浜Fマリノスの木村監督、大宮アルディージャの張監督、神戸のカイオ・ジュニオール監督、全員が「目標はACL出場権獲得」と言っているのが興味深い。

2006年ガンバがACLに初参戦したときには「優勝した罰ゲーム」と言われていたのに、2007年浦和がACL優勝をはたし、2008年ガンバが制覇したとたん、あきらかにJの空気が変わった。Jチームの軸足は、J以上にアジア制覇、そして世界クラブ杯出場へと変わりつつある。上で私が書いた「目線」の変化は、何もガンバだけでなく、Jチーム全体に起こっている変化なのかもしれない。そういや、宮本も移籍記者会見で「神戸をACLに連れていく」とか言っていたなあ。

 

 

100歳人生設計(小).jpg「100歳までの人生戦略」

Dr.エリック・プラスカー著

実川元子訳

WAVE出版

新刊が出ました。

タイトルもですが、サブタイトルと帯がスゴイ!

「50歳なんてまだ昼の12時」「人生70年なんてひと昔前の常識!」

これで(よく?)わかるように、栄養状態・衛生状態・高レベルの教育を受けられる環境にある人は、かる~く100年生きられてしまう。ところが、その認識がない人が多すぎる。それに「100歳まで生きられますよ」と聞かされると、誰もが「え~! 100年も生きたくない」「ボケて病気になって迷惑をかけてまで長生きはごめんだ」「だいたいおカネが続かない。どうやって100年も暮せというのか」と言うそうです。いや、私も言いますね。っていうか、ずっと言ってますね。

そこでプラスカー先生が、それなら「元気で、楽しく、人の役にも立てて、孤独に陥らず、貧困に悩まず、100年生きるために、今から準備を始めようではないか!」と、「健康」「経済」「人間関係」「社会生活」の各分野にわたってアドバイスする、という内容です。

いま54歳の私は「75歳で死ぬから、ま、あと20年ほどの人生設計でいいや」とか思っていたのですが、これがあと四半世紀延びるとなると、こりゃたいへん。根本からこれからの生き方を見直さなくてはなりません。訳しながら、そうか、50歳からの人生は「収束」するためにあるのではなく、「発展」のためにあるのだ、と見方を変えましたよ。

まずは歯を治して、筋トレしなくちゃ、と実践してるんですがね。

でも、一番役立った提案は、時間の使い方かな。生産的なことに費やす時間、将来の準備にあてる時間、リラックスする時間の3つに分けて、カレンダーに色別に分けよう、というアドバイス。それも曜日ごとではなく、一日、一週間、一ヵ月、ときには一年単位で分けよう、と言ってます。うん、これはね、役立ちそうです。近いところだけでなく、これから半世紀(100歳まで生きるなら)、いったい自分がどうしたいのかが少し見えてくる気がするから。

たぶん、人生半ばを過ぎて、たとえば定年を迎えたり、子どもが成人したり、親の介護にかかわったりしている人は、「私は(これから)いったい何のための、どう生きていきゃいいんだ?」と悩むことが多いのではないか、と想像します。(っていうか、私がまさにそうなんだが)そういうときにページを開くと、多少なりとも力がわいてくるかな? いや、まだまだ人生これからだよ、という気になるから。

100歳人生設計(smallest).jpg
先進諸国では100歳人生は当たり前になる!100年も生きられる!とポジティブに発想を切り替えて、100年間を元気に充実した時間にするための健康、 人間関係、仕事と経済力について、カイロプラクターの著者がアドバイス。長寿はやはりめでたいことなのだ、と思いなおせるはず!




 

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