Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2009年02月

 

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  スリランカの人は7割が仏教徒で、残りがムスリムとヒンズー教徒、ほんの少しキリスト教徒もいる、と聞いた。スリランカにもともといたシンハラ人と、南イ ンドから侵略してきたタミル人との間には千年にわたる対立がある。最近も「タミルの虎」なるテロ組織による自爆テロが起こった。だからコロンボ市内だけで なく、田舎のほうにもそこいらじゅうに兵士が立ち、車を止めて検問があった。(「タミルの虎」は今北のほうに押し込められて、いよいよ最後を迎えようとし ているとか。だから、今はとても安全だ、とスリランカの人たちみんなが念を押してました)

だ が、民族的対立はあっても、宗教的な対立はない。少なくとも、現地の人は「それはないねー」と言っていた。おもしろいのは、首都コロンボ郊外の大きい交差 点で、四つの角にそれぞれ仏像、ガネーシャ像(ヒンズー)、マリア像とモスクが立っていたことだ。こういうのを「宗教の共存」っていうのでしょうかね。

  それはともかく、山の上とか田圃の真中とかに唐突に出現する真っ白な仏像のお顔が、どう見てもシンハラ人にも、お釈迦様のインド人にも見えず、どちらかと いえば中国人に近い容貌に見えることだ。もし仏様のお顔がスリランカの「イケメン基準」とすると、スリランカにはイケメンは一人もいないことになる。

 ガイドのスニルさんに「イケメンがいたら写真を撮りたいので車を停めてください」と頼んだのだが、ついに車は一度も停まらなかったww。

 ビルボードに登場するモデルらしき男性たちは色が白く、どこか西欧人っぽい顔で、スリランカ男子らしさを感じない。なんかすかしている(死語)ので、私の好みじゃない。それじゃどんな顔がいいのか、と言われると困るんだけれど。

 

  成人男性ではよくわからなかったが、アンダー10くらいの男の子たちはかわいかった。とても親日の国なので、誰もが気軽に「ハロー」と声をかけてくれる。 とくに男の子たちはにまにましながら近づいてきて、目が合うとちょっとはにかみながら「ハロー」と元気よく挨拶する。私が「ハーイ!」というと、もう大興 奮。ぱーっと走っていって仲間に「あっちにヤーパンのオンナの人がいて、ハーイって言った!」(想像)というと、10人くらいで駆け戻り、それからは「ハ ロー」「ハロー」「ハロー」の大合唱。かわいい! 私は握手攻めでもみくちゃにされてたいへんだったけれど。

 

 車の窓を開けて写真を撮っていたら、学校帰りの男の子が楽しそうに声をかけてきたのでパチリ。今回の旅で出会った一番のイケメンかも。


 

 
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スリランカにたどり着く前に、モルディブに寄った。モルディブはインド洋に浮かぶ26の環礁と、そこにある1200以上の島からなる「島国」である。空港は首都のマレ市にあり、マレ島とすぐそばにあるヴィンリギ島に行政府がおかれ、そこにはビルも立っている(らしい。空港から見えた)。

国民の約半分が第一次産業である農業(ココナッツヤシや果物栽培)と漁業(カツオ漁だそうだ)に従事しているが、この国の経済を支えているのはなんといっても観光である。エメラルド色の海、真っ青な空、真っ白の砂浜、風にそよぐヤシ、一年を通して30度以上の熱帯。治安もよい(2007年に爆破事件があって、日本人も含めて死亡者が出たそうだが)。リゾート産業が成り立つのにこれ以上の立地はない。国民の99%がムスリムで、ぜったい禁酒。だが、観光客のためにリゾート内限定で販売されている。国が観光客誘致にかける熱意には並々ならぬものがある......ような気がした。

私たちが行ったのはヴァビンファルという北マレ環礁にある小さな島のリゾートだ。一周ゆっくり徒歩でまわって15分。まっすぐ突っ切れば3分。そこに49棟のコテージが立っている。12歳以下は宿泊できないので、全部大人カップル。私たちが滞在していたときには、3分の2が欧米人で、とくに多かったのがフランス人。年齢層は20代後半から30代はじめの新婚と、アッパー50の老人に足を踏み入れた人たちにくっきり分かれていた。

エメラルドの海と白い砂浜を眺めながら、ヤシの木陰でハンモックに揺られて読書した。こう書くと「わー、ステキ」と思われるかもしれない。ところが、私がそのとき感じていたのは、おしりがむずむずするような気恥かしさである。

いやはや、完璧なリゾートってなんでまたこう気恥ずかしいんでしょうね。もっと言えば、こっぱずかしい。いたたまれない。1日目はまだいい。だが、2日目に夕陽を見ながらシャンパンを飲む、なんていう企画にのっかっている自分が、たまらなく恥ずかしい。

しかも、だ。こちらがハンモックに揺られながら「チャイルド44」というスターリン圧政下で起きた大量殺人事件のミステリーなんかを読んでいると、隣のコテージの新婚カップルが、浜辺を2人で走り、水をかけあって「キャーやめてよ」「そらそら」「もうイヤーン」キャッキャッキャッとはしゃぐ。韓国ドラマも真っ青なロマンチック・シーンだ。思わず目をそむけてちがう方を見ると、水着がたるんだ肉の間に埋もれてしまって、一見裸みたいな老年カップルが、ふーふーと鼻息荒くのしのし歩いている。これまた、別の意味で目のやり場に困る。

昼時、舞台背景のような、というか、風呂屋の書き割りのような景色のなかで、話すこともなくなった中高年夫婦(→私らのこと)は、ひたすらメシ(これは毎回うまかった!)を食い、周囲の会話に耳をそばだてる。

ある日、隣のテーブルに座ったフランス人の美形カップルに思わず注目した。なんせ、その島ではめずらしく美しく、サマになっている2人なのだ。日焼けした肌を黒のバミューダに白いシャツ、ホルターネックのミニドレスなんかでキメたりしてね。ところが、この2人、あきあきした様子で(フランス人だからか?)、周囲の人たちのようにはしゃぐことがない。飽きているのはお互いに? それともリゾートに? 会話はほとんどなく、目を合わすこともなく、海を見ることすらなく、ひたすら食っている。

男(美形)が女の方に目を向けもせず、皿に向かってぼそっと聞いた。

「今日の午後、何する?」

女(超美形)が焼肉を切りながらそっけなく答えた。

「私、本読む」

男、しばらくつけあわせの野菜をフォークでいじくりまわした挙句「ほんじゃオレ、寝るわ」

女、おもいっきりそっけなく「あ、そ」

 その後席を立つまで、2人は口をきくことがなかった。

 わかるなぁ、その感じ。気押されちゃったんだよね、海と空に。そしてこれでもかと迫ってくるリゾート演出に。

 でも、たぶん思いっきりはしゃいじゃうか、ひきこもって読書や昼寝に走るのが、リゾートの正しい2方向の過ごし方なんだと思う。

 私たち? 夫は部屋のなかでパソコンをいじくりまわして過ごし、私は本を読んでました。日本にいるときとまったく変わらない。うん、まあ、スキューバダイビングやシュノーケリングもやりましたけれどね。クマノミかわいかったけれどね。

 気恥ずかしいなんて言ってられない情熱的カップルか、気恥ずかしさなど超越して天上の楽園のほうが間近に迫ってきている老人か。モルディブはどっちかじゃないとこっぱずかしいところだ。そのこっぱずかしさをじっくり味わうのも、ま、オツなもんですが。

「自然体――自分のサッカーを貫けば、道は開ける」

遠藤保仁著

小学館101新書

 

遠藤保仁(敬称略)はいまやサッカーファンならずと名前を知っている超有名サッカー選手である。私にとっては、彼(と山口智)の加入がガンバの大きな転機になった、という意味で偉大な選手である。

1999年のワールドユースで大活躍したものの、遠藤選手の日本代表選手としてのキャリアはけっして順調ではなかった。トルシエ元監督にはどうも嫌われていたらしく、(その理由についても、ヤット=遠藤選手はちゃんと本書のなかで自分なりに分析して書いている)シドニーオリンピックではサブにさえも入らず観客席で観戦した。2002年のワールドカップにも選にもれた。北京オリンピックは、病気で辞退せざるをえなかった。

私はヤットがジーコ元代表監督のもとではじめて代表戦に出たときのことをとてもよく覚えている。国立競技場で19番の背番号で出場したヤットに、やたらと興奮した。これで彼が代表に定着するに違いない、と期待した。その後アジア杯やコンフェデでもレギュラーで出場していたが、2006年のワールドカップではフィールドプレーヤーで唯一、ピッチに立てなかった。その理由についても、ヤットはまた自分なりに分析して書いている。

オシム元代表監督のもとでは主軸の選手となり、いまや代表は遠藤選手抜きには試合にならないほどだ。遅咲き、とか、運が回ってきた、とか、いまのヤットについていろいろ周囲は言うけれど、この本を読むと、彼は自分なりに「どうしたら試合に出られるだろうか?」と分析し、考え、努力して今のステータスを勝ち取ったのだとわかる。

ヤットは「がんばる」とか「(代表やスタメンに)くらいつく」とか、そういう言葉も態度も「自分らしくない」と思っている、と口に出しても言っていたし、態度にも出していた。よく言えばクール、悪く言えば淡泊だった。2006年まで、ガンバの試合でもいいときと悪いときの差があって(チームとしての出来不出来の問題が大きかったが)、悪いときには運動量がなくて、「がんばらない」ヤットに私はずいぶんいらついた。だが、2007年ごろから出来不出来の差がなくなってきた。とくに昨年、病気で倒れたあとからはプレイが変わった。球際が厳しくなったし、がんがんシュートを打つようになったし、得点したあとにものすごく喜ぶし、はしゃぐし、そういうヤットを見て変わったなあ、と思っていた。

何が彼を変えたのか? ヤットは本書のなかで病気をしたことや人との出会いやつらかった経験などいろいろ挙げているのだが、なんといってもイビツァ・オシム前代表監督だ、という。走ることもたいせつさ、考えること、そしてサッカーは「気持ち」が決めてとなること。それをオシム前監督から教わった、のだと言っている。その部分を読んで、ヤットはクレバーなだけでなく、感性が豊かで、ふところが深い人なのだなあ、と思った。なぜなら、オシムさんは「(こういうときに)走れ」とか「気持ちを出せ」とか、直接的な言葉でアドバイスする人ではないし、ほかの監督のように露骨ながむしゃらさを買うような人ではけっしてないから。オシムさんが伝えたかったことを、たぶんヤットは非常に的確につかんで、自分のなかで消化して変わった。そこが彼の人間性なのだと思う。

息子といってもいいほどの年齢の人が書いていることだけれど、私は教えられたことがあった。「成長したい」(もっとうまくなりたい、もっと強くなりたいなど)という気持ちを失ってしまったら、その時点で人は退歩していく、ということ。年齢や置かれた環境や自分の能力の見極めなど、「成長する」ことをあきらめるいいわけは山ほどある。でも「今の自分よりもっと上の人間になりたい」という気持ちをけっして失ってはいけない、ということ。あたりまえなのだけれど、10年間わりに間近で見続けてきた選手に言われると、ああ、ほんとにそのとおりだ、と勇気をもらった。

素朴な言葉で訥々と語られているのだけれど、遠藤保仁という人を少しでも知っている人にとっては、きっと興味深いはずだ。ガンバサポなら、即本屋に走るべき。

しばしスリランカに行っていました。(あと、ナイショで(→誰に? 何のために? という件についてはのちほどいいわけするとして)モルディブにも)

スリランカといえば、カレーです。というか、スリランカの人たちはカレーをどうやって毎日朝昼晩飽きないようにバラエティ豊かに食べるか、というために必死に工夫を凝らしている、といってもけっして言いすぎではありません。

朝はビーフンにかけて。

昼はまぜごはんにかけて。

夜は白ごはんにかけて。

メインとなるのは、チキン、ポーク、ビーフ、マトン(マトンという名前のヤギ肉だということが判明)、あらゆるベジタブル(ナス、カボチャ、豆が三大頻度で出てきます)、めずらしいところでバナナの花、ネギ(ワケギみたいなの)、ハス(すりおろしたり、そのままだったり)などもあり。

トッピングというか、付け合わせに高菜づけのような炒め物、ゆでじゃがいもをとうがらしであえたもの、レンズ豆を水牛ヨーグルトとターメリックなどの香辛料で煮込んだもの、などが一緒に出てきます。

いろいろなところで、いろいろなカレーを食べましたが、それぞれ味がちがいました。たぶん、地域や家庭によっても味がちがうのだと思います。

スリランカではカレー以外の料理も食べたのですが、これが、まあ、なんというのか......価格がカレーより高いくせして、食べると健康を害しそう。カレーには工夫をこらして、味には幅も深みもあるのに、ほかの料理はただ塩辛いだけ、とか、ただ甘いだけってのはどういうんでしょうね。

一番「おい!」とツッコミったくなったのが、一流ホテル(のはず)で出た「セットメニュー」でした。前菜はきゅうりとにんじんをきざんだ上にツナ缶の中身をそのまま出し、あまったるいドレッシングをかけた「カクテル」。スープはあきらかにキャンベルのコーンスープをあたためただけのもの。メインには「どうしたらこれだけカスカスになるまで火を通せるのだろう?」と首をかしげざるをえないチキンやポークがかならず骨付きでごろんと転がり、周囲には冷凍をそのまま解凍したにちがいないぐにゃぐにゃしたにんじんやフライドポテトが皿の縁からはみださんばかりにもられたもの。デザートは食べると舌が赤くなりそうなゼリーとか、口に入れると3秒いないに飲み込まないと歯のエナメル質が溶けていきそうなプリンとかケーキ。これが数日続いたときには、さすがに見ただけでもう口が開きませんでした。なんかこういう食べ物見たことがあるなあと思ったら、そう、機内食なんですよ。

たぶんね、「外国人にはいいものを食べさせなくちゃ」という心遣いが間違った方向に行っちゃったんだと思うんですね。すべてにおいて、いい意味でも悪い意味でもunsophisticatedな国だから。

つまり何が言いたいかというと、スリランカではカレーを食えっつーことですね。もっと言えば、カレー以外食うな。

ただし、スリランカのカレーはハンパなく「うまい!!」どっさりスパイスを買ってきたので、今年の夏はカレー三昧、の予定です。

写真を撮るのがおそろしくヘタな私も、デジカメで適当に数を撮って、あとで加工とかしてごまかしてここにアップしたりしています。でも基本的に写真を撮るのは嫌いです。撮られるのも好きではないけれど、いやだいやだと逃げ回るほどではありません。

デジカメつきケータイが当然の仕様になり、高性能高機能のデジカメが比較的お手頃価格で手に入るようになり、それこそ誰も彼もが何かと写真に撮ったり撮られたりするようになり、私もご多分にもれずデジカメを持ち歩くようになり......はっきりわかったのは、写真つきケータイとかデジカメとかは、私から「見る力」をうばってしまった、ということです。見ることだけでなく、五感のすべてが安直カメラのせいで感度が落ちています。そうでない人もいるのでしょうが、私はダメだなあ。

それにまた、よほどのことがないかぎり私は撮影した画像をほとんど見返しません。先日、ケータイを機種変更したのですが、カメラ機能がこわれて1年近く使えなくなっていても何の不自由もありませんでした。

五感を働かせること。意識的に働かせること。カメラのレンズではなく、自分の目で見ること。

所詮、デジカメばかりでなく、カメラには写せない、残せないものを私は見たり、聞いたり、かいだり、感じたり、考えたりしたいはずなのだから。

記録より、記憶に残さないと、経験なんつーのは何の意味もないだろうなあ。

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