Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2009年04月

もうすぐ出る本のゲラと、ひたひたと迫ってくるつぎの本の締切と、そのつぎの本の準備に追われてあわあわしております。でも、今日でまず1冊は校了だ! その勢いで、つぎも仕上げるぞ(とはなかなかいかない)

その合間にいろいろ仕事やら雑務が入ってきて、しかも図々しくも書道のグループ展に出展させてもらうことになり、お稽古にも通うので、とかく気持は焦りがちです。いらいらしちゃいけないいけないいけない、と自分に言い聞かして、一日に何回も深呼吸しています。

深呼吸のやり方をおぼえたのは、やはりヨガのおかげです。

仕事でいきづまったり、家のなかでいらいらすることが積み重なると、深呼吸して、5分だけヨガのポーズ。

気持が少しだけ落ち着きます。

だからって、仕事がはかどるわけじゃないですが。

今日から大学の授業が始まりました。

今季のテーマは「日本人の身体観」......というとたいそうなものに聞こえますが、「なぜ日本でこんなにファッションが盛り上がってしまうのか?」を考えてみましょう、という話です。

世界の大都市でも、おしゃれに敏感で、おしゃれしたーいと思う人口がそれなりにいて、しかもそのおしゃれであることをプラスに評価する都市っていうのは、たぶんニューヨーク、パリ、ミラノ、東京(大阪や博多もあるかな?)くらいだと思います。しかも日本がすごいのは、西欧的な要素に、きわめて日本的な感覚を取り入れて、独自のファッションをつくりだすところ。あと、ファッションのコードがちがう、というのを最近よく考えます。

まあ、そういう私が大好きな分野のお話を学生さんたちと一緒に考えていきましょう、という数か月なのですが、資料にあたっていてかなり強烈に思うのが、日本の産業化・大衆化したファッションが始まったのが、1967年あたりではないか、ということです。

1967年 ミニスカート全盛 ツイッギー来日 総理夫人までミニスカートをはいてしまう。

      昭和元禄と言われる好況でカラーテレビ、クーラー、車が大いに売れる。

      ピーコック・レボリューションという男性が色ものを着るファッションが始まる。

      資生堂イメージガールに前田美波里が登場し、ポスターが盗まれまくる(コスメの時代の始まり)

そういう年なんです。

私は中学生。もちろんミニスカートをはいていました。いまでも覚えています。ジャージー素材のローウェストのワンピースで、上が赤/白ボーダー、スカートが赤のプリーツ。なつかしいなあ。鈴屋で買いました。いや、マミーナだったかな? とにかく専門店で購入した、というのがポイントです。つまりデパートではなく、ファッション専門店というのが隆盛していったのがこの年前後だったのです。

ユース・クエイクと言われる若者パワーが世界中を席捲していました。若いということが、ファッションと結びつけられるようになったのも、この年からだと思われます。

とまあ、そういうことを調べたり、今どうなっているかを考えたりするのは楽しい。

ファッションがものすごく勢いがあったころ。あんな時代は少なくとも日本では二度とないような気がします。     

今をときめく勝間和代さんの文春新書。

いただいたので、読んでみました。

自己啓発本かな? 感想は差し控えます。

が、このタイトルで私は思ったことがありました。

私は自分がフェミニストだと思っているのですが、実はぜんぜんイケてない、突破も何もできていないうじうじとした前近代的男尊女卑文化の残党ではないか、と思うことがあって、それはどうしても夫に素直に「家事をして」と言えないことです。

夫は団塊の世代生まれなので、「男の子も家事をする」という育てられ方をしてこなかったこともあり、家事がたぶん苦手なんだと思います。でも、団塊の世代で、それなりにフェミニズムの影響は受けているので、「やって」と頼まれればやらないこともないわけです。だから「やって」と言えばいいのですが、それが私は言えない。非常に抵抗がある。黙ってやってもらったらものすごくうれしいくせして、「やって」と言ってやってもらっても全然うれしくなく、後ろめたさと苦さがじんわり残って、3日くらいもんもんとしてしまうのです。

これはいったい何?

子どもたちが小さくて手がかかり、仕事もほんと忙しくて時間がまったくなくていらいらしがちだったときも、私はどうしても夫にストレートに「やって」と言えなくて(「お願いします。すみません。ほんと申し訳ない」とかくでくで言ってしまい、やって「いただいた」ときには、盛大にお礼を言う。めんどくさいし、ある意味屈辱なので頼めなくなる。夫は何もそういうことを期待していないと思う)、ただ胸の奥にふつふつと「なんでやってくれないんだ」「なんで私ばかり」と怒りだけがたまって、夫に対してつねに不機嫌で、洗濯とか掃除とかそういうツマラナイことでつんけんする自分に自己嫌悪でほんといやでした。いや、今もまったく同じですが。

そのとき、家事のアウトソーシングをしていて、一週間に一回、掃除と洗濯をお願いしていたのですが、そのおカネを自分の給料から支払っている、ということを自分に対する言い訳にしていました。つまり、働く私ですが、夫には家事をしないことによる負担をかけていない、と。今から考えると、フェミニストを名乗っていて、まったくの論理矛盾なのですが、ま、若くて頭がまわらなかったのだと思います。

ごはんをつくっていて、たとえば肉でも魚でも、一番大きくて立派なのは「それはパパのにして」と盛りつける娘に言い、娘もそれを当たり前と思い、「今日は夫がいるから、3品はつくらないとな」と思って1時間かけるのに、娘と自分だけのときは「簡単にすませちゃおう」と2人(か3人)で15分くらいで適当につくる。夜、部屋が散らかっていると「パパが帰る前に片付けなさい。早く」と娘たちに命令する。何なんでしょう、この心理は。何なんでしょう、この矛盾は。

「断る力」――そんなになにもかも一人でできない。それにやりたくない。あなたもやって。それが言えたら、もっと笑顔で生活できる気がします。ただ、もう私は無理だな。身に沁みついてしまったものがあるから。

でも、娘には上手にそれが言える知恵と力を授けておかないと、将来、私の二の舞だな、と思います。

ガンバ大阪 2-3 大宮

得点者:大宮はよくわからない。PKを蹴ったのはマト? あとFW市川とかいう人? 最後がデニス・マルケスだというのはわかった。

     ガンバはチョ・ジェジンとレアンドロ

 

前半はガンバ側サポもふくめて、ピッチ上も寝ていた。うとうと。春の眠り。ただし心地よくない悪夢。

後半はいきなり目覚めるガンバ。でも攻めていくのが大宮側なので、ガンバゴル裏にいるサポたちはいったい何がどうなっているのかがわからない。チョジェジンとレアンドロのゴールのときも「え? 入ったの? あ、入ったみたい」3テンポ遅れてやったーやったーって感じ。

いろいろ言う人はいるでしょうが(とくにエルゴラのガンバのレポートを書いている永田という人。この試合についても、腹の立つことをずらずら書きそうだ。この人のレポートはガンバが勝ったときも、読むと神経が逆なでされ、2日くらい気持ちがささくれる。あまりに気分が悪くなるので、もうこの人がガンバの担当であるかぎり、エルゴラは買わないことにした。ガンバに対する愛がない人が、ガンバの担当ではいけないよ! とカッコ内が長い)ガンバは大丈夫です。

なぜなら、私が大丈夫だというから(笑)。私が今日の試合のあと、あまり落ち込まなかったから。広島戦の引き分けよりかは、明るい気持ちでいられたから。

負けた原因ははっきりしている。マスコミやらブログが書きたてるだろうから、先に私が書いておく。

①守備がうまくいかない。それは、新しいCBコンビであるパク・ドンヒョクー山口がうまくいっていないから。(おまけに下平ホラーまでついてくるし)なんかね、去年も今頃、中澤ー山口になって、とんでもないミスをいっぱいやらかしていたけれど、今年も同じことをやっている。それは慣れていけばぜったいにうまくいくようになるので、心配ない。加地がもどれば、もっと大丈夫、のはず。

②チョ・ジェジンとレアンドロがうまく中盤からボールを引き出せない。それはガンバの一番のストロングポイントである中盤がうまくいっていない。でも、これについても、ひいてくる相手には、今日みたいに相手によって遠藤を一列上にあげて、ボランチを橋本と明神でしっかり支えればOKなことがわかった。

それではつぎに、ポジティブに今日の試合のいいところを探してみよう。

①前半、あまりにも酷かったルーカスをついににしのんが下げた。去年はどんなにダメダメでも、他に誰も代われる選手がいなかったので、ルーカスは下げられなかったけれど、今年は下げることができた。しかも、下げたあとにチームは驚くほど機能するようになった。去年と比べると、選手層が厚くなっているのを感じた。

②チョ・ジェジンのパスがうまいことを発見した。レアンドロへのスルーパスって、あれ、今まではフタくらいしか出せなかったけれど、タイミングといい、角度といい、エロイじゃないっすか! 

③人を変え、システムを変えることで、ちがうサッカーができることが証明された。できればそれを試合中に、すばやくやってもらいたいものだけれど、まあ、そうもいかないのかな。

ということで、負けたけれど、私は、うん、大丈夫、ガンバはあと少しで「2009年版ガンバスタイル」を見出す、と確信が持てるところまできた。

いまのこのぐでぐではいったい何なのかって? いまはね、ガンバはJリーグに関してはまだプレシーズン・モードなんです。とりあえず一試合も負けが許されないACLに力を入れているんで、そこのところよろしく。

    

The Road

コーマック・マッカーシー

黒原敏行訳

早川書房

 

映画「ノーカントリー」の原作「血と暴力の国」で有名な作者だが、私は本書と同じ訳者による「すべての美しい馬」が好きだ。これはあるブログで絶賛されていたのですぐに読んだのだが、2日くらいストーリーに酔った。いい小説を読んだ、という満足感がひたひたと胸をひたした。いまでも「すべての美しい馬」は私のたいせつな本の一冊だ。

そして本書。父と息子の哀しい、でも美しい物語だ。

舞台は、核戦争か何かで人類がほろびかけている地球のどこか。

どこにいってもすべてが焼けただれ、生命のしるしも見えない荒野が広がるばかり。寒さを逃れて、南にいこうとカートをひいていく父と息子。周囲にいるのは、生命あるものは、子どもだろうが、親だろうが、殺して食べてしまうという人間ばかり。なぜ生きていかねばならないのかわからないような状況のなかで、父はひたすら息子を守り、息子を生かすことを自分が生きていくための力とする。実は息子もそうだ。もう死んでしまいたい。死んだほうがずっとらくだし、生きていくことの意味が見いだせないという状況でも、息子はひたすら父のために生きようとする。

父と息子の会話が主柱となるこの小説は、よけいな説明がない。父子が本当のところは心のなかでどんなことを思っているのか。2人の間に流れるものが何であるか。そういう言葉は一言もない。ただひたすら生きること。いまこの瞬間を生き延びること。その瞬間、2人がお互いを生かすこと。それだけが短い会話のなかで語られる。そういう言葉は強い。そして、哀しい。

涙が流れるようなシーンはない。でも、ずしんと響くものがある小説だ。

こういう小説はすばらしい。もしかすると、認める人は少ないし、何がすごいのかわかる人も少ないだろうけれど、でもすばらしい小説だ。

そして訳文のすばらしい。

けずりとって、芯のところだけがしっかり残っている言葉が並んでいる。美しい。

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