『愚か者、中国をゆく』
星野博美著 光文社新書
『謝々! チャイニーズ』
星野博美著 文春文庫
本に導かれるように旅をした、という経験が何度かあります。
ロディ・ドイルの本を翻訳したおかげで、アイルランドを旅した、なんていう非常にベタな経験もあれば、井上ひさしの『黄色い鼠』を読んで、どうしてもオーストラリアの砂漠に立ちたいと行ってしまった、という若気の至りのようなこともありました。
そして私の「中国に行きたい!」という気持ちをぱたぱたとあおいで火をつけたのが、新井ひふみさんという若い学生さんが書いた『中国中毒』でした。(『中国中毒 チャイナホリック』新井ひふみ著 三修社)でした。
1984年に出たこの本と、上下2冊の厚手の中国のガイドブックを隅から隅まで暗記するくらい読んで、ああ、行きたい行きたい行きたい中国! とNHK中国語講座を見ていたのは長女が4歳のころ。家族に大迷惑をかけながらあこがれの中国初上陸は1986年春。新井さんと同じ経験がしたくて、上海の駅でチケットを一人で買おうとしたのだけれど、まず人の波に勢いに圧倒されてひよわな日本女性(私)は押しやられ、挙句に(たぶん)親切な中国人に救われて、高いチケット代を払って外国人向けの特権車両で一人のうのうと杭州と蘇州まで行ったのも今となってはいいんだか悪いんだかわからない思い出です。
「何か学びたい病」にかかって、しかも抜群のタイミングで先生と出会ったおかげで20年ぶりに再開した中国語。始めてみるとほんとに楽しくて、まずいことに仕事はさておき状態ではまっています。Zhege yong Zhongwen zenme shuo?(これは中国語でなんといいますか?→Ling zi laoshi, zhe yang xie dui bu dui?) といちいち自分に問いかけ、日中辞典と中日辞典をのぞく日々。なぜ中国(そして中国語)にこんなに魅せられるのか、自分でもふしぎです。中国が好き、中国語が好き、というわけではないから。
これまで西欧列強(笑)の言語習得に励んできた私で、それはそれで楽しいのだけれど、中国語という日本語の源流に影響を及ぼし、また日本と深くかかわるところの言葉を学ぶことには、楽しいだけではないいろいろな感情がまといつきます。その感情は自分でも予想外に強く、しかも複雑。アンビバレントなその気持ちを抱いて本屋を歩いていたとき、ふと目にとまったのが星野博美さんの本でした。
星野さんの『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)は返還時に香港に留学していた体験記で、これはもう名作の域に達した内容なのですが、数年前に読んだときには「おもしろいなあ」ですませていました。
でも、今回読んだ2冊は、おもしろい、とか、鋭い、とか、そういう月並みな感想を越えた、突き刺さってくるものがありました。『愚か者、中国をゆく』は1987年、当時留学していた香港から本土にわたってシルクロードをアメリカ人の恋人と旅をした(そして旅の過酷さが遠因となって別れる)旅行記で、『謝々! チャイニーズ』は1993年と1994年の二度の夏に華南を一人で旅した旅行記です。
2冊にある何が私の胸を刺したのか? 読み終わってから数日間、ずっと頭から離れませんでした。まだ結論は出ていないのですが、一つに「生きていくことの責任の取り方」について、中国と日本のちがいに著者が言及している箇所ではないか、と考えます。
『愚か者~』で著者は行ってみたいという気持ちだけで好きなところに「旅」ができる身分である自分たちと、生きていくためにどうしても「旅」をしなくてはならない中国の人たちが一緒になって切符を奪い合い、席を奪い合う光景を描きます。同じ貧乏旅行であっても、かたや選択肢というとてつもないぜいたくが許される「貧乏」な旅であり、かたや移動できるだけでありがたく非常にぜいたくな旅です。貧乏旅行の学生たちは、お金を払って経験を買ったように思って誇らしげな気持ちになる。中国の人たちは旅の間も商売を忘れず、どうやって旅行費用を稼ぎ出し、しかもそれにまさるカネを得ようかと必死に考えながら旅をする。生きること自体への切実さがまるでちがう。
ちがうのは「旅」に対する考え方だけではありません。家族とか友だち(朋友)という人間関係の解釈も根本的にちがう。『謝々!~』で著者は、周さんという福建省の島の親切な男性とのつきあいで、「朋友」という人間関係が根本的なちがっていることに気づいて愕然とします。「朋友なんだから、自分が日本と商売をするのを助けてたり、自分の朋友を監獄から出す手助けをしてくれてもいいはずだ」という周さん。「朋友なんだから、関係に一線を引いてお互い自分に責任をもって相手に負担をかけないつきあいをするべきだ」という著者。生きていくためにはお互い利用できるところは徹底して利用する人間関係だとするか、それともまず相手に迷惑をかけないような距離でつきあうことこそ本当の友だちだとするか。生き方の根本にもかかわるところでも、中国と日本では大きなちがいがある、ということに著者は気づくわけです。
中国語を学び始めてわかったのは、漢字が理解できるおかげで単語の習得は西欧の言葉よりはるかに楽だ、ということです。書いてあることもなんとなく理解できる。でも、それが大きな落とし穴なのだと思います。
中国と日本は当然のことながら大きくちがう。根本的なところがちがう。しかも中国と一言でいっても、恐ろしいほど広い。いろいろな人がいて、しかもその「いろいろ」のレベルが日本とはけた外れです。言葉にすると「なーんだ」というような月並みなことなのだけれど、そのちがいを自分の目で見て、耳で聴いて、肌で感じないことには、中国は日本にとって戦争とビジネスの相手だけになってしまう。
しっかり中国語(普通語ですが)を学んで、もう一度中国と出会いたい。読後、新井さんの本以上に「どうしても行きたい中国」病にかかっています。その意味で、出会ってしまった本でした。