早朝にチャンピオンズリーグ決勝。前夜、早めに寝て3時半に起きてきてテレビをつけたらまだやっていなかったので、いったん消してソファに寝転んで、「あと15分」と思って起きたら......6時でしたw
結果を見ないで、着替えて早朝ランニング。曇っていて、涼しいからとタオルを持っていかなかったら、たかが1時間走っただけで、どろどろに汗をかいちゃいましたよ。また今年も暑い夏が始まるのかな。うんざり。
さて、シャワーを浴びて、さっぱりしたところでCL録画観戦。
この2年ほど、なんかすごいつまらない試合が多かったCL決勝ですが、バイエルンミュンヘンVSドルトムントというドイツ勢同士、つまりお互い手の内を知り尽くしたチーム同士の対決は、まあ、面白いこと面白いこと。
特に何に感動したかっていうと、両GKですよ。バイエルンミュンヘンは、言わずとしれた「史上最高」の呼び声高いマヌエル・ノイアー、ドルトムントはローマン・ヴァイデンフェラー。どちらも好セーブを連発。DFとの連係がすばらしいから、ああいう好セーブが出てくる、とも言えるけれど、2人の身体能力の高さ、メンタル面での強さ、そして統率力、どれもすばらしい。歴史に残る名技だったと思います。
ドルトムントに肩入れしていた私としては、結果は残念だったけれど、実力から考えると順当だったのでしょうか? ロッペンがどうしても好きになれない私には納得いかなかったけれどね。
さて、録画を見ているうちにどうしても生で試合が見たくなり、Jリーグの試合を探したら、なんと柏VS浦和が国立競技場であって、しかも当日券がまだ販売中というのを発見。夜に行なわれる愛媛VSガンバをHUBで一緒に観戦する予定だった同志にメールして、つきあってもらいました。
結果は浦和の圧勝。柏はドミンゲスを欠いているせいか、それともACLの疲労が残っているせいか、切れがなかったです。それよりも、浦和の攻撃がすばらしい。驚異的破壊力って感じがしました。特に原口がすごい! あのスピード、あのテクニック、破壊的です。浦和はGK以外はすごくバランスがとれているいいチームになっていました。
国立競技場から歩いて代々木のHUBへ。愛媛VSガンバ戦を観戦するお客さんも結構いて、ため息と歓声が店中に響いていましたよ。
試合内容は、まったくもう......(怒!)というありえないミスと、なんでそれを決めんのや!(怒×5)のせいで、ヤットの目がさめるようなCKからのゴールの感激も薄れちゃいましたよ。
そうそう、国立では柏木のFKからのゴールも見ました。一日で2回も美しい軌道が見れて幸せ......なはずないでしょ! 流れの中からのチャンスがあれだけあったのに、なんで決められん! 不安です。
と言いつつ、代表2人がいない期間の試合が超楽しみ。なぜって、昨晩みたいな緊張感ミニマムな試合ではなくなるだろう、と予想しているからです。ガチの緊張感で臨んでくれ! CL決勝とまでは言わないけれど、せめてJ1とやるときくらいの緊張感は持って試合に入っていってほしい。誰とは言わないけれどね。
というわけで、サッカー三昧だった1日。気持ちよかったー!
2013年05月
J2 VSザスパクサツ群馬 70分までは完璧
5−1で快勝! 快勝......だよね? 健太監督は「結果は良いけれど、内容は良くない。最後に押し込まれて、2点献上してもおかしくなかった」とご機嫌斜めのコメントでしたが、これは「愛のしばき」ととっておきます。監督だって愛のしばきをするくらいだから、サポの私だって愛の鞭をふるっていいよね。最後の20分の戦い方の選択肢として、「それまでに3点差以上つけておくこと」っていうのは入れないでおいてください。たとえ1点差であっても、きちっと試合を勝って終わらせること。それが今後の課題です。
とかとりあえずの苦言を呈しながらも、実際のところは思わず笑いがこみあげる気持ちのいい内容でした。
この試合を見ながら考えていたこと。
1)攻撃はシンプル・イズ・ベター。ややこしいボール廻し(というかボールをこねくりまわす誰か仕様の遅攻)で相手を崩してからシュートを撃つなんてのは(いまのところ)必要ない。
2)西野、大きなミスをして萎縮したらアカン。君にかぎってはないと信じたい。君(と内田)の成長にガンバの昇格はかかっている。
3)意外性のあるパスからのゴール! やっぱりこれがないとガンバじゃない! フタ、シュウ、パウリーニョ、レアンドロ、ガンバにいてくれてほんとにありがとう。
来週の愛媛戦後にヤットと今野が日本代表に招集され、1ヵ月ほど留守になります。
彼らの不在を不安視する人が多いのだけれど、それはたぶんガンバ関係者ではない人たち。ガンバサポはひそかに思っているんじゃないかな。
「代表組がいないときの、若手中心ガンバが見たい」
もちろん私もその一人。前々から何回も言っているように、つぎのガンバを背負うのは倉田秋だと思っています。ヤットがいない期間、彼が「つぎの世代のガンバ」をどれだけ体現できるか。それを大いに期待したいです。
西野の大チョンボで群馬の平繁(いい選手だけれど、広島を出ちゃったのね)にゴールを決められてから10分ほどして、シュウが貴重な得点をあげました。祝福と「お礼」に行った西野に「(ミスは)気にするな、切り替えろ」とシュウが言ったとか。いやー、しびれるっ! おばさん、完璧にノックアウト(死語)
と言っておきながら、試合の私的MOMは、2点とったパウリーニョと倉田シュウをさしおき、加地さん! 久々に「爆走するタフネス」に惚れました。加地さん、くれぐれも怪我をせずに乗り切ってください。そう、あなたのコンディションにもガンバの昇格はかかっています。
J2 VSアヴィスパ福岡 温情采配に肝冷やす
ええ、ええ、勝ちましたよ。ガンバ側の3点も、福岡側の2点も、どれもビューティフルなゴラッソでした。
しかーし、なんですか? 70分過ぎにパタッと足が止まって(なのかどうかはわからないが)、ライン下がり過ぎ。
この試合のポイント(勝因、とは言わない)は3つあったと思います。
①福岡が攻守のバランスがとれた普通のいいサッカーをした。
②健太監督の温情采配が裏目に出た。
③キャプテン(ヤット)&副キャプテン(倉田)が意地のがんばりを見せた。
J1でもガンバと対戦したことがある福岡は、さすがにホームで14000人以上の観客を集めた手前、ドン引きサッカーはしませんでした。スロベニアのプシュニク監督だって、プライドがあるからそんな作戦はとらない。だから、前半はヤットがかなり高い位置で前を向いてボールを持てたし、藤春が上がれました。
後半は、3点とった気のゆるみと、照りつける日差しのハンパない強さにやられてガンバの足が止まって球際に強くいけなくなったせいで(だって、私も時計のバンドのあとがくっきりつくくらい日に焼けたもん)、福岡の攻撃が活性化。石津大介という選手に見事なゴラッソを決められました。
この試合に向けて、私が着目していた「内田をまたボランチで使うのか?」「家長は遠征に帯同するか(スタメンを外れることはわかっていた)」という2点は、両方ともYESでした。しかも、家長くんったらガンバがヒヤヒヤもんのときにフタに替えて投入。Gマガジンの加地×阿部対談で、加地が「長谷川監督は思っていた以上に選手の気持ちに繊細に対応する」という一言が、本当なんだ、と納得しました。それがいいか悪いかはわかりませんが、西野前監督とは真逆といってもいい采配。練習試合で活躍したら、必ずベンチ入りさせるし、ミスを繰り返しても経験を積ませようとする、というのもスタメンとサブを完璧に切り離していた西野前監督とは大違いです。西野前監督にとって選手は自分がやりたいサッカーをやるための「駒」だったけれど、健太監督にとっては、「会社から預かった将来あるたいせつな若手社員」。独裁君主にしのんVS温情部長けんたのどちらがいいか、サポは究極の選択を突きつけられています。どちらのいいとこもとるってできないの?
たぶん、健太監督には「ガンバの若返り」という使命が課せられているのだ、と思います。もちろんそれはJ2にいる今こそやらなくちゃいけないし、肝を据えて取り組まねばならない課題だと思っています。思っているんだけれどね〜〜〜〜でも〜〜〜〜家長くんと内田くん、とくに家長くんには愛の説教部屋やスタメン外しくらいではない、何らかの鞭が必要だと思うなあ。内田のメンタルの弱さは、ちょっとプロじゃないしね。
だからどうしても、昨日(だけでなくここのところの)健太監督の采配には「温情」というプロらしからぬ2文字がついてしまうんだなあ。明神さん投入は、1点目とられたあとに内田に替えたらよかったと思うし、家長はあと2試合くらい愛の監禁部屋じゃなかった、説教部屋でいいような気がする。プシュニク監督がどんな監督なのかわからないけれど、少なくとも交代で出た石津はすばらしかった。この辺が監督の経験の違いかな。
最後に、今年のヤットはまた進化しているし、倉田にいたってはもう去年までのあまちゃん(甘え体質のほうね)の影はなし。2点奪われてからの、2人の必死のチェイシングと走りには、本当に頭が下がりました。ロスタイムにガンバ側でまだ走るシュウ倉田に、昨日購入した倉田マフを握りしめながらおばさんは涙が出そうでしたよ。
ま、そういうわけで2点取ったレアンドロもすばらしかったが、やはりここは「この1点がなければ泣きながら福岡から帰るところだった」という意味で、MOMは倉田秋!
観た映画のことなど--名作は長く残るからこそ名作
今年はしっかり本を読んで映画を観る、と決めています。映画はDVD、TV(とくにWOWOW)でも観ているのですが、あらためて(いまさらながら)思うのは、優れた映画は時代を超えて人を感動させるだけでなく、後世にぜひ残しておくべきだ、という強い気持ちを抱かせることです。何に感動するかは人によって違うのでしょうが、名作は時代を越えて多くの人を感動させるに違いない。名作かそうでないか、は、時代に耐えられるか、ということなのではないでしょうか。
(こんなことを言っちゃなんだが、「テルマエロマエ」「桐島、部活やめるってよ」が50年後に誰かを感動させる、とは思えない(観ちゃったんですよ、うっかり))
観るべき映画、撮られるべき映画、というのがある。才能と情熱のある監督にしか幸福な映画がある。そういう「名作」に出合えたことに感謝しつつ、記録を残しておきます。
「特別な一日 」
監督:エットーレ・スコラ
主演:ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ
WOWOWで放送。
1977年の映画です。舞台は、ムッソリーニが台頭し、ヒットラーと枢軸同盟を組んだころ。ヒットラーがナチスを率いてローマを訪問した「特別な一日」(la giornata particolare きわだった、普通ではない異常な、という意味かな)。全ローマ市民が参加すべし、と言われた式典に、参加できなかった2人の中年男女が主人公です。
マストロヤンニが演じるのはゲイの元ラジオDJ。ラジオ局をやめさせられて、封筒の宛名書きで糊口を凌ぎつつ、反体制運動に身を投じようとしている。
ソフィア・ローレンは6人の子供のいる生活にくたびれた中年主婦。夫とともにムッソリーニに心酔しているものの、人生にはむなしさを感じている。
男は式典参加を拒まれ、女は生活に追われて参加できない。女の家庭の九官鳥が逃げて男の家のバルコニーに飛んで行ったことがきっかけで、2人は押したり引いたり、追いかけたり逃げたりをしながらしだいに接近して行く。
たぶん、主題は「ファシズムの時代におけるホモセクシュアリティ弾圧への抵抗」とかなんだと思うけれど、それだけじゃない。単にたわいもない会話と、コーヒーを飲んだり、洗濯物を取り込んでたたんだり、ルンバを踊ってみたり、そんなことをしているだけなんだけれど、なんだろう、どのシーンも緊張感にあふれている。バックグラウンドとして流れるヒットラー歓迎式典のラジオ放送、九官鳥のつぶやき、そんな音響までもが緊張感を誘う。
マストロヤンニは自伝で、この映画は傑作中の傑作で、とくに電話のシーンがすごい、と言っています。一つの台詞も、一つのシーン(壁にかかった絵、コーヒーミル、食器、電燈の笠にいたるまで)がすべてに計算され尽くした意味がある。ただの一秒たりと、無駄なシーンがない。余白と沈黙にこそ、映画が伝えるべきことがある、とわからせます。本当にすごい映画です。主演の2人だけでなく、いやらしいすけべな夫や、ムッソリーニに心酔する管理人の女までもが、人の意表をつく、もしくは人が聞きたくない台詞をはき、見たくない表情を見せる。
ラストシーンのあと、深〜いため息をつきました。感動? いや、もうなんていうか、人間ってすごい(すごく怖くて、愛すべき存在)と思いましたよ。エットーレ・スコラ、後世に残る映画を撮ったんだ。ムッソリーニやヒットラーに対する批判を一言も出さずに、強烈痛烈な戦争批判。こういう映画こそ名作と呼べます。
「ブリキの太鼓」
フォルカー・シュレンドルフ監督
ギュンター・グラス原作
1979年 ドイツ映画
映画通の方に「これは必然性があった映画」と言われました。
そう、必然性があります。撮られるべき、もしくは撮られる運命にあった映画。3歳で成長をやめてしまった少年オスカルが主人公で、叫び声でガラスを割ることが特技で、というとストーリーは破天荒と思われるでしょうが、リアルそのものです。現実というのは、角度を変えれば破天荒なんだ、とあらためて思います。
どのシーンも「隠喩」が織り込まれています。芋畑に座るおばあちゃん(この時は若い)が、逃げてきた放火魔(!)のじいちゃんをペチコートの中にかくまうシーンから映画は始まります。もうこの時点で、子宮、性的妄想、大地と火など、隠喩がいっぱい。そんなおばあちゃんの1人娘、アグネスはハンサムな従兄弟と、金持ちの男とのあらわな三角関係を堂々とわたっていきます。彼女の美しさと性欲が、実になまなましく、でも美しく描かれ、悲劇というより喜劇を生む。
お母さんのアグネスが、カード遊びをする間にテーブルの下で男を巧みに誘い、性的に興奮しながらも表情はいっさい変えないシーンがすごい。おぞましい、というよりも、滑稽です。大人たちのそんな駆け引きというか、やりとりにうんざりしたオスカルが、自ら成長を止めるために地下室の階段を転げ落ちるシーン。なんかあれは「楽園を追い出される天使(母親もしくは子供)」、つまり堕天使の隠喩に思えます。うがちすぎ?
ブリキの太鼓はたぶん神の国を護る兵士が知らせる審判の報せ、ガラスを割る叫び声は懲罰、という隠喩でしょうか。もっとうがちすぎ?
私がとても好きなシーンは、オスカルがサーカスの小人たちに加わって巡業するところです。何歳だかわからない小さな恋人とのラブシーンは、涙が出るほど美しい。不倫に苦しみ、生のにしんをむしゃむしゃ食べることで自分を罰していた母親アグネスの性欲の「愚」が、小さい人たちの美しい恋愛で救われます。
普通ではない姿でいることで、オスカルには「普通の人」には見えなものが見え、聞こえない音が聞こえます。ある意味では、神に近い存在です。その哀しみと孤独を理解し、癒すのは、同じように神に近いところにいる人たちだけなのです。そして「普通」の大人たちは、神に背を向ける行為ばかりをする。
キリスト教社会の道徳観、社会観、人間観に、痛烈な一撃を加える作品。そう、言うまでもなく名作です。
実は私、この映画をずいぶん前に観ていました。振り返れば30代のころ。そのときは映画をおもしろいとは思いつつも、深いところまで理解ができなかった。30年近くたってあらためて観ると、年齢を重ね、知識だけでなく体験を積み重ねれば、名作を名作と判断する力が養われる、という手応えを感じました。無駄に年とっていたわけではない、とひそかな自己満足。映画を観る楽しみ、読書の楽しみ、どちらも年齢を増すごとに増えていく気がします。若いときの感動とはちがう、深く、しみいってくるような感動。それを知ることを作品に出合う、もしくは再会することで、陳腐な言い方ではありますが、生きていて本当によかった、と思えます。
「ぼくたちのムッシュラザール」
監督:フィリップ・フェラルドー
主役:フェラッグ
カナダ映画 2011年
主役のラザール先生を演じるモハメド(ムハンマド?)フェラッグのすばらしさが輝いています。子供たちよりもはるかにくたびれた地味ーな中年男が輝いている。
どうしようもなくつらいストーリーです。カナダのフランス語が話される地域での小学校。たぶん小学4年生くらいの子供の担任が、よりにもよって教室で首を吊っているところを子供たちが見つける。大きなショックを受ける子供たち。動揺が広がる中で、新聞でそのニュースを読んで力になりたい、と1人のアルジェリア移民の男性がやってきます。
ラザール先生は古臭い教え方しかできないし、ぼくとつで地味です。でも、子供のことを真摯に考え、一人ひとりに真剣に向き合う。少しずつだけれど、子供たちも、また同僚教師も先生のことを受け入れるようになっていく。
でも、ラザール先生には謎が多い。故郷アルジェリアで何かあったらしい。そのことを話すようにと促されても、かたくなに拒むラザール先生。実は先生の妻(教師)も子供たちも、反体制派と見なされて官憲に暗殺されていた......。
叙情詩のような映画です。しかも残酷な叙情詩。誰にも救いがない。というか、人生というのは、もしかすると理不尽な暴力に対して、救いなんてないのかもしれません。
それでも、子供の笑顔は美しいし、親の愛情も美しい。
最後のシーンに涙が止まりませんでした。
「音のない世界で」以来の学校もの映画の感動。いろいろな見方ができる映画です。テーマも一つに絞れない。強いて言えば、抵抗ができないものに対して権力を持つ「強者」がふるう暴力こそ、「悪」である、ということ。
子供は純粋無垢で、無邪気に未来を信じられて、子供時代は楽園だ、と言われるけれど、それは大人の「言い訳」と「嘘」だと思います。この映画を観たあと、あらためて子供に大人が暴力をふるうのは、人間として許せない罪だと思いました。
ファンタジーは大人にこそ生き方を問いかける
いまさらですが、上原菜穂子さんの「守り人シリーズ」と、荻原規子さんの「勾玉」三部作、そしてローズマリー・サトクリフさんの「ローマン・ブリテン」三部作にすっかりはまってしまい、GWは1日1冊の勢いで読み続けました。5駅先(乗り換え1回)の図書館まで8キロジョギングし、本を借りては早足で帰ってきて読書、ということを繰り返したGW。頭の中は、新ヨゴ皇国やカンバル王国(守り人シリーズ)、神話時代の日本(勾玉シリーズ)、そしてローマ帝国に支配されるブリテンをぐるぐるジョギング。楽しいですわー。充実していましたわー。
どのシリーズも名作で、サトクリフさんのはもはや古典の名著であるのは言うまでもなく、日本の作品は海外で翻訳されて静かなベストセラーになっています。守り人シリーズも勾玉シリーズもNHKでアニメも放映されていたらしいから、聞いたことがある人も多いはず。
これらのファンタジー名作の基本テーマは「少年少女の成長」です。それも10歳から13歳までの年代に限られる。なぜその年代なのかというと、7歳までの子供はまだ神の世界のほうにいて人間としての生命が不安定であり、14歳以上になると、人間として次世代を作ることの方に一生懸命になってしまい、つまり人間世界だけで生きようとしてしまう。つまり日々の生活と自分のことだけで精一杯になってしまう。
でも10歳から13歳までは、神の世界(想像世界)と人間世界(現実世界)を行ったり来たりする力を持っている、と神話の時代から考えられていたからだそうです。
自分のことを振り返っても、中学に入る前後あたりは、想像と現実との間の境界があいまいで、夢で見たことを本当かと思い込んでしまったり、現実の手触りがしかとつかめずにふわふわしてよく「現実の自分を見なさい」と叱られていた記憶があります。大人でもない、子供でもない、というのはそういうふうに境界を行ったり来たりすることなんですね。
ファンタジーシリーズで主人公たちが成長する過程では、現実世界をしっかり認識しながらも、想像世界の豊かさを自分のうちに育んで行くことの大切さが強調されています。空想しているだけの夢見る夢子(男)ちゃんの幼さは捨てなくてはならないのだけれど、それに代わって他人の痛みや、世界の多様性について、知識だけでなく想像力をふくらませていく力を養うこと、そのたいせつさが強調される。
これは、今大人たちにこそ求められているのではないでしょうか。
自分が見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞き、信じたいことだけ信じている人を、この世の中はとかく「大人」だと言いたがります。
でも、そうではない、ということをファンタジーの名作は教えています。
どれほど過酷な「現実」も、豊かな想像世界を自分の中に持っている人は、しっかり見て、聞いて、自分の信じる道を歩んでいくことができる。逃避するのではなく、見方を替え、いやなことを聞いても消化し、自分にとって信じられる真実を追求できる。
ファンタジーは大人にこそ、生き方を問いかけている分野だと思います。
最近読んだ本たちを、記憶かわりに画像でのっけておきます。
「驚きの介護民族学」六車由美著 医学書院
「男は邪魔! 「性差」をめぐる探求」 高橋秀実著 光文社新書
についてはまた書きます。