「晴れ、ときどきリリー」
後味がいいか、と言われると「いいえ」としか言いようがない映画。だからWOWOWで録画観賞後、しばらくして消去してしまったのだけれど、頭の中にはいくつかのシーンがしっかり刻み込まれていて、ふとしたときにその情景と台詞がよみがえってきます。そんな不思議な映画。
心の成長が12歳くらいで止まっているけれど、身体はしっかり大人の女というリリー。フランスの田園地帯にひっそりとお母さんと一緒に暮らしていたのだけれど、ある日お母さんが突然死してしまう。1人ぼっちになってしまったリリー。頼りになるのは、お姉さんのみ。でも、お姉さんは結婚していて、都会で働いている。「1人でやっていける(それに1人で好きなようにやりたいことをやってみたいもーん)」と気張るリリーだけれど、周囲が放っておいてくれないために問題がいろいろ起こる。とくにうるさいのが隣のおばさん。親切な善意の人は、実はリリーみたいな規格外れな他人に対してものすごくやっかい。
きれいで賢い(ということにされて責任を負わせられる長女タイプの)お姉さんは妹を放っておけなくて、ついに仕事を休んでしばらく一緒に暮らすことにする。おもしろくないのは、たぶん新婚の夫。「ええかげんにせえよ」と妹に切れるのだけれど、リリーちゃんどこ吹く風。私は連れ合いに同情したね。連れ合い、いい男だし。まあ、お姉さんともどもスノッブなんだけれど、ちゃんとした社会人なら当然という対応だと思うよ>義理の妹のやりたい放題に切れるのは。
心の成長は発達中止だけれど、身体は大人の女というのはなかなか始末に負えないと思いました。
「ある秘密」
上の作品の主人公リリーを演じていたリュディヴィーヌ・サニエが、この映画でもまたもや規格外れの女を演じていました。サニエすごいね。規格外れの女性を演じさせたら、たぶん世界一。下に書く作品の主人公を演じるマチュー・アマルリックがこの作品にも登場。もしかして、今フランスで人気の俳優総出演?
映画の感想は私なりには、肉体派の勝利と敗北。ヒトラーが肉体を信奉したことが、映画の伏線になっていると思います。ホロコーストの悲劇、と書かれているけれど、それ以上にユダヤ人という民族と肉体との関係がポイントかな。
水泳のチャンピオンでモデルだった女(セシル・ド・フランス)に夫を奪われておかしくなった妻(サニエ演じてます)。自分とはまったく違うタイプの「健康美あふれる美女」に圧倒される気持ち、ここはわかるわー。ユダヤ人の迫害がフランスでも厳しくなったとき、夫は一家が無事に過ごせる場所を求めて国境を越えます。ようやく見つけた森の中の隠れ家に、一家と近所の人たちを呼び寄せるのだけれど、その道中、妻はわざわざ自分も幼い息子もユダヤ人だと警察に言って、アウシュビッツに送られてしまう。その痛手からなかなか立ち直れない夫だったけれど、モデルの美女と結局は結婚し子供をつくる。でも、その息子はひよわでなかなか愛せず、つい丈夫で賢かった前の妻との間の子供にこだわってしまう......ってその男、身勝手すぎない?
ひよわでうじうじしているその息子が長じて父母の過去をたどる、という設定なのだけれど、その役を演じているのがマチュー・アマルリック。ぴったり。できればうじうじのダメ息子で終わってもらいたかったけれど、映画は丸くおさまっています。
「さすらいの女神(ディーバ)たち」
マチュー・アマルリック監督、主演作品。
監督と主演を兼ねた映画って、たいてい面白くない。題材はいいし、俳優も一流だし、ストーリー展開も悪くないのに、なぜか退屈で地味な作品になってしまう。「アルゴ」のベン・アフレックしかり、「グッドナイト&グッドラック」のジョージ・クルーニーしかり。意欲はわかるけれど、惜しい。
この映画もふくよかな女性たちのバーレスクをフランスで公演しようというプロデューサーの話なんだけれど、典型的なダメンズ。いくらダメンズを演じさせたら一級のアマルリックでも、ダメっぷりに怒りさえ覚えさせてしまう。バーレスクを演じる女性たちがすごくいいのに、こいつのダメっぷりが映画そのものをダメにしているのではないか。ダメンズって私ダメンズ。
「裏切りのサーカス」
腐女子必見。萌えますよー、これは! 私でさえも、相関図を書いちゃったもん。
ジョン・ルカレの「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」の映画化。東西冷戦中のイギリスで起きた実際のスパイ事件を下敷きにしています。極秘のスパイ活動、男性たちだけの集団、友情と裏切り、秘密と嘘のてんこもり。ここまで題材がそろって、萌えないはずがない。
しかも、しかもですよ、キャストがすごいんだわ。
ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース、ジョン・ハート、キアラン・ハインズ、マーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチ......いやはや、もう今、イギリスで一番萌える俳優たちが一堂に会する、という豪華キャスト。萌えキャラ勢揃いで、しかもこの男たちが萌え萌えシーンを繰り広げちゃう。もうたまらんわ。あらすじ? そんなことはどうでもいいのっ。最後にコリン・ファースが撃たれちゃうシーンにトドメを刺されました。たぶん本格的腐女子なら、1年は萌え続けられるはず。
「戦火の馬」
馬以外、見るところなし。主人公の容姿がストーリーに全然合わない。馬に悪いよ、あの俳優じゃ。あ、馬のためにあの俳優にしたの? ストーリーも陳腐きわまる。さすがスティーヴン・スピルバーグ。期待どおりの外れっぷり。
「キリマンジャロの雪」
ヘミングウェイ原作の同名の映画があるのだけれど、こちらはまったく別の辛口の人情話。
マルセイユが舞台。組合運動委員長をつとめてきた港湾労働者がくじ引きでクビになり、一緒にクビになった青年に強盗に押し入られて蓄えを奪われ、怪我までしてしまう。ある日、偶然にバスで乗り合わせた幼い兄弟が、自分のところから奪われた希少なマンガ本を盛っているのに気づき、後をつけて強盗の一人が彼らの兄であることを突き止めてしまう。しかも、そのとき初めて一緒に働いていた青年だと気づき、ものすごく腹が立って警察に通報し、青年を逮捕させてしまう。
ところが、母親が育児放棄してしまっているために幼い弟2人の面倒を、青年が一人で必死にみていた、と知る。妻もまたそれを知り、こっそり弟たちの食事の世話や洗濯など面倒を見るようになる。夫は服役する青年と面会し、彼から「あんたはいい。退職金もあるし、仲間からプレゼントでキリマンジャロの雪を見に行くチケットまでもらっているではないか。この俺は何もかもなくし、弟たちは施設に入らなくてはならない。最低だ」と激しい言葉を投げつけられ、がっくりくる。キリマンジャロ行きのチケットを解約し、そのお金で弟たちを引き取ろう、と妻に思い切って言うと、妻が「実はもう面倒を見ているのよ」と言う話。
人情話だけれど、単に人徳家の夫婦にほろりとさせるのではなく、マルセイユの労働者がおかれた厳しい現実を描いているところがミソ。
「冬の嵐」
1987年作品というので納得。すべてが古臭すぎる。 映画は時代を映す鏡というけれど、時代を超えて観賞に耐えうる作品にするのは天才にしかできないのかなあ、とふとポランスキー映画を思い出しました。
2013年06月
映画の記録、情景の記憶
相変わらず映画を観ています。映画っていったん観始めると観るつぎつぎ観たくなるのだけれど、観なくなると観るエネルギーがなくなる。忙しいから、気力がないから、と言い訳して観なくなる前に、しっかり観て、記録しておきます。
記録すること、そして印象的なシーンを記憶にとどめること。映画とのおつきあいはそういう形がいい、と私は思う。
この2ヵ月で結構いっぱい観たので、何回かに分けて記録と記憶をアップします。
「海と大陸」
シチリアの地中海側に浮かぶリノーサ島が舞台。昨年暮れにシチリアに行って知ったのですが、驚くほどアフリカに近いんですよね。シチリアそのものがイタリア本土(つまりは欧州本土)と距離的には近いとはいえ、文化的、歴史的に遠いところにある。しかもその周辺の離島は、「イタリア」と一括りするのはむずかしい「距離感」。
父を亡くした20歳のフィリッポが主人公。漁師のおじいちゃんが父親がわりで一緒に暮らしながら何かと面倒を見ている。お母さんは家を改造して、夏の間だけ観光客に貸して生計を立てようとしているけれど、同時に離島で暮らすことの限界を強く感じている。できることならイタリア本土にわたって、一旗上げたい。女としても、まだこれから一花咲かせたい。「離島で後家さんやっているのは厳しいだろうな」と思わせるほど、このお母さんが若くて美人すぎ。ちょっとそこにひっかかった。あんなに美人で色っぽかったら、リノーサ島でそもそもお父さんとうまくやっていたのかどうか疑問。でも、フィリッポはおじいちゃんのあとをついで漁師をやりたい。観光業で一儲けをたくらむおじちゃんは、そんなフィリッポを「子供っぽい」という。
シチリアからまた船で渡らねばならない離島。距離だけではなく、文化文明の面から閉鎖的な場所。そこにやってくる観光客とアフリカからの難民。イタリアの官憲は、観光客はWelcomeだけれど、難民は徹底的に取り締まるぜ、という姿勢。難民をかくまったりしたら、それだけで罰金。
でも、そもそもアフリカのほうが近いくらいの島なんだから、難民お断りといったって無理がある。現に、ナイジェリアの内戦で故郷を追われ、ボートで漂流していた難民にフィリッポとおじいちゃんは遭遇してしまう。漁船を見た難民たちは、海に飛び込んで必死に助けを求める。乗せたら船が没収されるとわかっていても、目の前で溺れそうになっていた妊婦と幼い子供を救わないでいられないじいちゃんと孫。だが、このアフリカ難民2人をかくまったことから、フィリッポたちの運命は大きく変わる。
自然も人も、カネを落としてくれるならば歓迎するけれど、一銭にもならないとなると、厄介なお荷物になりそうだからと徹底的に切り捨てる(破壊する)というその姿勢。ともに生きよう、活かそうとする発想はゼロ。海が与えてくれる資源も、それが育んできた文化もたいしてカネにならないからあっさり捨てようとする島の人たち。でも、彼らをおろかだと笑うことなんかできっこない。離島だらけの日本で暮らす私たちも、そうやって「経済効率」の名目で、どんどん切り捨て破壊してきたではないか。しかも、人間としての掟さえも捨てようとする。じいちゃんが言う「海の掟を守るべきだ。溺れている人が目の前にいるのに、救うなというのはもう人間として終わっているだろう」という言葉に、言い返す言葉はない。(考えると、尖閣問題の底辺に流れる問題にも、この映画の主題は通じている)
ネタばれになるから結末は書かないが、フィリッポ一家と難民の親子には、けっして明るい未来は待っていないだろう。でも、自然の持つ力を信じている限り、あの人たちは生き抜いていきそうだ。
「セデック・バレ」
ユーロスペースで一部だけ観賞。二部は9月に下北沢シネマで観よう。
台湾が日本に支配されていたとき起きた、原住民(という言い方は非常にひっかかるが、要するに大陸から渡ってきた中国人ではなく、もともと台湾に住んでいた山岳民族、という意味)による日本人虐殺を発端とする霧社事件。その後、蜂起した人々はは日本軍に逆に虐殺されてしまうのだけれど、この事件は一見仲良く共存していたように見えた台湾と日本との間にあった緊張関係を一気に表面かさせ、噴出させた。
台湾中部の山岳地帯で、何百年にもわたって狩猟採集で自給自足の暮らしをいとなんできたセデック族。近代文明の尺度にあてはまると、決して発達しているとか豊かですとは言えないけれど、一つの社会としては規律が守られかなり安定していて、風土にふさわしい豊かな文化が育まれてきた。周辺部族との争いも、ときに首狩りにいたる激しいものになるけれど、縄張りと共通の掟さえ守られていれば、それなりに共存が可能だった。
だが、外部の「近代文明」が入り込むと彼らの暮らしは一気に破壊される。狩猟生活は禁止され、日本軍に雇われて賃金を得る暮らしとなると、次世代に自分たちの文化が継承できなくなり、ひいては部族として、一個人としてのアイデンティティも失ってしまう。子供たちは日本の学校に通い、近代化という名目の教育を強制され、言葉さえも失われようとする。霧社事件の直接のきっかけとなったのは、日本軍の下品な兵士が部族の女性にちょっかいを出したことだけれど、それがなくても蜂起は必然だったのではないか。日本人が山間の村で「学校も作った。病院も作ってやった。原始人を文明化してやったんだ」と言うシーンと、蜂起の先頭に立ったセデック族頭首、モーナ・ルダオが蜂起に際して叫ぶ「原始の力を見せてやる」というシーン。迫力と説得力は、モーナのシーンのほうでした。
一つひっかかったのが、全編に流れる甘ったるい音楽。JPOPみたいなその甘さにちょっと辟易しました。それと、主人公モーナ・ルダオをはじめ、中心人物を演じた人たちがセデック族で、しかもシロウト俳優だと聞いてびっくり。考えてみたら日本の圧政に苦しめられた記憶がなければ、あの演技はできなかっただろうと思いつつも、全員がイケメンでガタイがすごくよい。要するにかっこいい。ところが、日本人が全員かっこうわるくて貧相。しかも唯一かっこいい将校(安藤政信)が部族よりで理解があるっていうのも、ちょっとどうよ。
それを差し引いても、観てよかった作品でした。二部を観なくちゃ。
「水の中のナイフ」
ロマン・ポランスキーが1962年、27歳のときに撮った作品。若い監督のデビュー作というだけでなく、当時社会主義国家だったポーランドで制作したというからすごい。アカデミー外国語映画賞にノミネートされたとか。
休暇をとって、湖にヨット遊びにやってきた夫婦が、高級車で田舎の道を走っているとき、いきなり飛び出してヒッチハイクしようとした青年(22、3歳)を車に乗せる。湖まで来て「それじゃ」と去ろうとする青年を無理やり誘い、「これも経験だよ」とかなんとか上から目線な言い方でヨットに乗せる。青年は風来坊(死語?)で、野宿しながらさまよっているらしい。夫婦はたぶん結婚5、6年目か、もしくは男のほうが年上なので、不倫相手と結婚したのかも。とにかくこの男が骨の髄までスノッブ。妻に対してだけでなく、青年にも自分のほうがかっこよくて大人で金持ちだということを誇示したがる。かっこいいんだけれど、自分大好きで、自分に対する客観的視点がいっさいない。そんな夫に、妻は無表情に、でも一応従順にしたがっている。
撮影場所のほとんどが高級車の車内(冒頭と結末の5分ずつくらい)で、あとはヨット船上という実に狭いスペース。限られた空間で、互いの距離が非常に近いために、3人の感情や思惑が必要以上にからみあい、ほどけ、またからみあい......。なんということのない会話にもかかわらず、ものすごい緊張感をはらむ。
ポランスキーの「おとなのけんか」も似たような緊張感だった。スノッブの競い合い、みたいな。自分のほうが上、を必死につかみあっているみたいな。人間の愚かさ、滑稽さをシリアスに描かせたらこの人に右に出る映画監督はまだいない。
PCってやっぱり相棒でいてほしい
新しいパソコンを購入しました。
iMacです。
じゃじゃーん! 今日届きました! いらっっしゃーい!(手前はMacBook Air)
これで私は一気に全面的Macユーザーになりましたです。20年以上Windowsと連れ添ってきて(というかそれしか知らないできて)、いきなりのMacに乗り換えることに。Windowsと離婚し、Macと再婚って感じか。やっぱりきっかけ(紹介者)はiPhoneでしたね。3年前にiPhoneを購入して、それまでの携帯にはない面白さ、便利さにすっかりはまり、iPhoneとの相性の良さを考えて2年前にMacBook Airを購入。それでも仕事ではDELLを使っていたのですが、対Mac比で便利さ、速さ、面白さがあまりにも劣っているために昨年あたりから次第に仕事もMacBook Airですますようになり、どうしてもという場合でないかぎり、Macしか開かない日も多くなりました。
Macを使う時間が長くなるにつれて、DELLの使いにくさと、しばしば起こる不具合による面倒臭さがますます鼻についてくるように。決定的だったのは、サポートセンターのお粗末さでした。ある日、どうしてもわからないことがあってDELLのサポートセンターに電話をかけたら、日本語がおかしい人が出てきて、さっぱり埒があかず、1日棒に振ったことがあったのです。何か聞くたびに「ちょとまてくだしゃい」と言って3分間帰ってこない。電話口にやっと出て「もしゅもしゅ。おきゃくしゃまもごようけんがわかりしぇん。もういちどいってくだしゃい」と言われるのに愕然。あまりにも日本語で話が通じ合わないので、業を煮やして「英語が話せるか?」と英語で聞いたらしばらく黙ってから「にほんごだけでしゅ」と言われて脱力しました。
そのときにやっと悟りました。
「安いというだけで、毎日8時間から10時間向き合わざるをえない道具を選択してはいけない」
まわりの人たちに「個人としてどんなPCを使っている?」(会社で使うのはDELLが多い)と聞いてまわり、ネットで調べていくうちに、自分が今PCに求めていることがはっきりしてきました。
それは「生活の相棒となるマシン」
否でも応でも1年365日、1日少なくとも6時間はいじっていなくてはならないもの、それが私に取ってのPC。
結婚生活でもそうですが、つきあわなくてはならない相手に一番求めたいのは「ストレスが少ないこと」ではないでしょうか。
空気のような存在、とまでは言いませんが、少なくとも私のやりたいこと、やらなくてはならないことの邪魔はしてほしくない。
もう1歩進んで、一緒に過ごしたいと少しはわくわくした気持ちにしてくれるマシンであってほしい。
そんなわけで選んだ再婚相手がiMac。デザイン(外見)も優れているし、ちょっとツンデレなところもいい感じ。できれば長く寄り添っていきたいです。
J2 VS岡山 つぎのステップに踏み出すチャンス
「プレスが半端ない」「後半に強い」という噂しか知らなかった岡山。関係ないけれど、岡山は私の母方の故郷です。母も岡山で育った。その母が6年ぶりに上京していた時期にあたった岡山戦。何か因縁があるのでしょうか(ない)
開始早々、リズムがまったくつかめないうちにあっさり先制を許したガンバさん。なぜか右サイドの加地さんのところが狙われていました。というか、あとでわかったことですが、岡山は左サイド(つまりガンバの右サイド)のウィングに位置する選手がクロスをあげて攻撃の形をつくる、というのが定番のようです。あとはカウンターしかないのかな? 少なくとも、この試合では「田口選手」が終始起点となっていました。
ヤットさんたちがいない中で、初めて許した先制点。
でも、慌てることなく、というか、相変わらずぐでぐでしたままボールポゼッションだけ高めるガンバさん。その中で、パウリーニョ→レアンドロ→倉田で同点に追いつきました。さっそく現地観戦の同志に「パス回しはいらん。とにかく手数を少なく」とメール。監督ですか、私は? 選手ですか、同志は?(苦笑)
後半に入って、いい形になるものの、ぐでぐで細かいパス回しをしているうちにボールを奪われてカウンター、ということの繰り返し。しかもレアンドロと家長がしっかりイエローをもらって(J2他チーム、とくに徳島から何か送られたと勘ぐりたくなりましたよ)次節出場停止でさようなら試合に。2人に得点が生まれる気配はなく、試合終了。
倉田選手がシーズンが始まる前に「ガンバは変わらなくてはならない」と言っていましたが、その言葉をいよいよ実現する日がやってきます。つまり、前のガンバの形を引きずっていたレアンドロという強力外国人助っ人がいなくなり、前の「超ユース級」だった生え抜きの家長も去り、マスターオブガンバの遠藤選手がいない中で、新しいガンバの形を模索する試合、それがつぎの徳島戦です。
引き分けに終わった岡山戦のグデグデぶりを払拭し、新しいガンバの形をぜひ見せてほしい。
「監督ですか?(笑)」として、一応希望スタメンを書いておきます。
倉田 阿部
二川 オジェソク
内田 岡崎
藤春 岩下 西野 加地
藤ヶ谷
サブ:木村、丹羽、稲森、明神、大森、平井、佐藤
ワクワクするわー。
つぎの徳島戦こそ、監督の力量の見せ所。
頼みます、長谷川健太監督!!!
酒シリーズ
毎日書道展、漢字2部という部門で入選しました。今回は「樽を開く柏葉の酒」という漢詩です。柏葉の酒というのはとてもおめでたいお酒だそうです。昨年は娘の結婚があり、おめでたい言葉を書いてみたいな、というところから選びました。
ほかにも何種類か漢詩を書いたのですが、共通しているのが「酒」の文字。酒が書きたかったんだわ。やっぱりね、好きなものを書かないと。
で、実はこちらの白居易の琵琶行の作品も「酒」シリーズの1点。出品はしなかったけれど、自分では気持ちよく書けた印象深い作品なので、記念に残しておきます。
書道を始めて4年半。もともと何事にも前のめりに突き進む私ですが、最初はぼちぼち歩いていたはずの書道も、今やジャングルの中を駆け足で突っ走っているような感じになってきました。あれも書いてみたい、こういうことにも挑戦してみたい、と書けば書くほど書きたくなる状態。目標は「書きたいものが書きたいように書けること」なんですが、今のところは書きたいもののイメージが頭に浮かぶところにようやく手がかかったところで、とてもじゃないがそれを筆と紙で表現できるところまでいきません。一生無理かもしれない。「こんな風に書きたいんです」と口で説明し、先生に草稿をつくってをもらって「ほほー、こういう書き方かー」と感心して真似っこするだけ。
私は「量で質をねじふせられる」と信じています。というか、量(かける時間とエネルギー)に質がある程度比例していくことが好き。(天才型じゃなくて、どんくさい努力型だから)翻訳や語学って、まさにそういう分野です。(だから「100時間で英語が話せる」なんてまったく信じていない。100時間で語学がマスターできるんだったら、これだけ語学学校が繁盛するはずがない)。書道もきっと時間とエネルギーの量に、比例とは言わないまでも必ずいくらかは質がついてくるはずだ、と信じて書くしかありません。
書道に魅かれるのは、「言葉『を』表現する」創作だから。本を書いたり、電子空間に飛び交う文字を書くのは、「言葉『で』表現する」もの。それはそれでとてもやりがいがあるし、世界を表現するのに魅力的な方法ではあるのですが、書道は同じ文字と言葉による表現としても何か根本的なところが違う。書道を始めて、初めて言葉、というか、文字そのもので世界が表現できるのだ、ということを知りました。だから、おもしろいし、どこまで踏み込んでも底が見えないくらい奥が深い。中国をはじめ、日本でも何千年にもわたって書がたしなまれてきたわけがちょっとわかってきました。いくらワープロが発達しても、文字を筆で書く、という表現方法はすたれないと思います。
技術を磨くのももちろんですが、漢字、かな、カタカナ、アルファベット等々、文字そのものの世界をもっと探検してみたい。書に出合ってよかったな、とつくづく思う今日この頃。
あ、書道展に入選したからじゃなくてね。