2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが起こったとき、前年にイランを旅したこともあって私はなんとも言えない複雑な思いだった。私が出逢ったイランの人々は、子どもから大人まで笑顔いっぱいでとてもフレンドリーだったし、旅を通して1979年のイラン革命以来持っていたイラン、ひいては中東へのイメージがわりに大きく変わった。そもそもこのブログの最初の記事は、イラン旅行記だったし。
(アーカイブを見てやってください)
それから14、5年たって、グローバル化とインターネットの普及によって、人とモノと情報はそれまでの人類の歴史にはなかったほど大量に短時間で行き交うようになった。直接的であれ間接的であれ、接触が増えれば増えるほど、人と人との関係は複雑になる、というのはどうも人間関係の普遍的な「法則」であるらしい。世界中にきな臭いにおいが立ちこめている原因は、人間関係があまりにも複雑になってしまったからか。
このたびの「イスラーム国」による邦人誘拐事件や、パリのシャルリ・エブド襲撃からの一連のテロ事件のニュースを、メディアで追いかけていて感じるのは、シリア、ヨルダン、イラク、イランといった国々とその出身の人々に対して、または他地域もふくめたムスリムの人たちに対して、それ以外の人たちが持つ「なんとなく恐い」という感情である。テロ事件の犯人や「イスラーム国」の「兵士」たちに対して、もちろん憤りも感じるのだけれど、それと同時に「どんな人たちなのかわからないために、また、なぜそんなことをするのかわからないために、よけいに恐い」と感じてしまう。ネットで展開される「情報(というより噂?)」が、その「なんとなく恐い」という思いをよけいに増幅させているように思ったので、ムスリムとアラブ諸国の政治や社会に通じている人たちの本を読んでみた。
まずは「イスラーム国」の台頭とともにときの人となられた、イスラム政治思想分野研究者である池内恵(いけうち・さとし)氏の話題の新書。
「イスラーム国の衝撃」
池内 恵著 文春新書
「イスラーム国」がなぜ、どのようにイラクからシリアにかけての広範囲の領域を支配するにいたったのか。第一次世界大戦から現在にいたるまで、欧米諸国、つまりキリスト教社会との対抗関係。
アラブ主義からイスラーム主義、ジハード主義までの思想の説明と、それが及ぼしてきた政治的な影響。
アルカーイダから「イスラム国」成立、そしてグローバル・ジハードを2020年に完遂するという描かれたシナリオの実行。
世界規模のグローバル・ジハードを成立させた思想的要因と、「アラブの春」という地域的な政治変動を背景に各国中央政府が揺らいだという政治的要因。
「イスラーム国」の人的、地域的、宗教的、思想的な構成。そして外国人戦闘員をどのように惹きつけ、それが世界都市の「ローンウルフ」的テロとどのように結びついているのか。
背景から現在の状況にいたるまで、おおよその概略がつかめる内容になっている。最終章の「中東秩序の行方」の「イスラーム国は今後広がるか」「遠隔地での呼応と国家分裂の連鎖」「米国覇権の希薄化」は読みながら、うーんとうならされた。あまりにも現実的すぎる予測。
「イスラーム国」は遠いところの日本とは関係のない話、日本人人質事件もほかの地域のもめごとに巻き込まれてしまっただけ……なんていう「他人事」の対応をしている場合ではない、と思い知らされる。
「イスラム国 テロリストが国家をつくる時」
ロレッタ・ナポリオーニ著 村井章子訳 池上彰解説
文藝春秋
テロ組織を研究し、北欧諸国政府の対テロリズムのコンサルタントをつとめる著者が、単なるテロリストの集団ではない「イスラーム国」がどのような組織なのかを分析し、「イスラーム国」が勢力図を広げることによって中東の国々の国境も書き換える、と予測している。
歴史的、思想的背景については池内さんの本と重なる部分も多いのだけれど、この本の一番の読みどころは「イスラエルの建国と何が違うのか?」という第三章。著者は言う。
「ユダヤ人にとって古代イスラエルが『約束の地』であったように、カリフ制国家はムスリムにとって理想の形、完璧な国家であり、そこではついに解放が実現する。何からの解放かーー数世紀におよぶ屈辱、差別、異教徒への屈従からの解放である。この異教徒とは言うまでもなく外国勢力であり、それに加担するムスリムを含む。ユダヤ人は、世界に散らばるユダヤ人のために、古代イスラエルの現代版を建国した。まさにそれと同じように『イスラム国』はスンニ派のすべての人々のために、21世紀のイスラム国家を、それも国家としてしかるべく機能する国を、興そうとしている」
それでは1940年代のシオニストの武闘集団と「イスラーム国」のやり方の何が違うか、といえば、それは巧みな映像技術を用いて制作した動画をソーシャルメディアを通じて発信し、自分たちのプロパガンダと暴力行為を世界中に拡散(宣伝)していること、そしてそのプロパガンダと暴力行為に憧れて世界の他地域の若者を引きつけて戦闘員にしていることだ、という。
え? そこですか、違いは? と言いたくなるのだが、まさに「そこ」なのだ。ネットやSNSという西側世界が開発、発展させた情報技術を駆使してプロパガンダを発信して人材を集め、まっこうから否定している「異教徒の金融システム」にのっとって資金を稼ぎ、理想の「国」を作る。矛盾に満ちている、と思うのは、異教徒の論理なのか。
「こんにちは、ユダヤ人です」
ロジャー・パルバース 四方田犬彦
河出ブックス
ニューヨークに生まれ、ベトナム戦争への批判からアメリカを離れてオーストラリア国籍を取得し、日本滞在歴40年で宮沢賢治や井上ひさしの研究で知られるユダヤ人のロジャー・パルバース。
テルアヴィヴ大学で教鞭をとったことがあり、文学、映画から漫画まで幅広い研究・執筆活動を行っている四方田犬彦。
長い交遊のある2人が「ユダヤ人とは何か?」をテーマに語り合った。
パルバースさんが自分の祖先をたどっていく話がとてもおもしろい。ロシア、ポーランドからアメリカにたどりつくまで、おじいさんたちやおばあさんたちのなれそめや生業なんかの話。「ぼくが考えるには、ユダヤ人には風土がないんですね。風しかない。土がない。風に乗って生きている民族だと思います。『さまよえるユダヤ人』と言われるように、流人、追い出された民族です」というパルバースさんの言葉通り、父方も母方も、そしてご本人も世界をさまよっている。そして居着いた土地で大なり小なり「迫害」される。近代史における最大の迫害はホロコーストだったが、ユダヤ人の長い歴史は迫害史といってもいいほど。
そして1948年に「約束の地」に「イスラエル国」が建国される。だが、2人とも「イスラエルはユダヤ人を代表するわけではない」と言う。パルバースさんはとくに否定的。
それではユダヤ人とは何か? 世界中に散らばり、その土地に何世代も根づいて国籍を取得し、シナゴーグに行くのは一生に数回しかない。つまり言語も国籍も宗教もさまざまなユダヤ人がいる。多種多様なユダヤ人としての共通特性、芯にあるものは何なのかというと、パルバースさんは「自分のことではなくて、相手の苦しみや悲しみ、相手の幸せを先に考えるのが本当のユダヤ人だと思いたい」そういうユダヤ人は過去の歴史の中に大勢いた。そして「愛国心ではなくて、それを超えた普遍性が彼ら(そういうユダヤ人)の存在理由でした」
それに照らし合わせると日本人の芯にあるものって何なのだろう? しばし考えてしまったけれど、まったくわからず。
最後にやはりパルバースさんのつぎの言葉が心に残った。
「国があって民族があって、人はいつまでもその国や民族に帰属している。それがその人のアイデンティティであると思うとき、ディアスポラが出てくる」。だからパルバースさんはディアスポラというものはない、アイデンティティという言葉は使わない、と言う。そして「ディアスポラというのは、まず中心があって、そこから出ていく、あるいは追放される、ということです。それがあるからこそ、ユダヤ人は根無し草とか流人とか、国を思う心がないとか、本当に信用してはいけないとか、悪い意味でのコスモポリタンとか言われるのです」
国や民族といった人がつくったある種の「神話」にとらわれ、そこにこそ自分のアイデンティティ=本質がある、と考えた時点で、人はもしかすると阻害され、追われるディアスポラになる恐怖にとらわれるのかもしれない。そして自分の「アイデンティティ」を脅かしそうなものを、「なんとなく恐い」と言って攻撃するのかも。
「なんとなく恐い」を突き詰めていくと、いろんな恐いものに突き当たる。
だからこそ、それゆえに「なんとなく恐い」が一番恐い。
(アーカイブを見てやってください)
それから14、5年たって、グローバル化とインターネットの普及によって、人とモノと情報はそれまでの人類の歴史にはなかったほど大量に短時間で行き交うようになった。直接的であれ間接的であれ、接触が増えれば増えるほど、人と人との関係は複雑になる、というのはどうも人間関係の普遍的な「法則」であるらしい。世界中にきな臭いにおいが立ちこめている原因は、人間関係があまりにも複雑になってしまったからか。
このたびの「イスラーム国」による邦人誘拐事件や、パリのシャルリ・エブド襲撃からの一連のテロ事件のニュースを、メディアで追いかけていて感じるのは、シリア、ヨルダン、イラク、イランといった国々とその出身の人々に対して、または他地域もふくめたムスリムの人たちに対して、それ以外の人たちが持つ「なんとなく恐い」という感情である。テロ事件の犯人や「イスラーム国」の「兵士」たちに対して、もちろん憤りも感じるのだけれど、それと同時に「どんな人たちなのかわからないために、また、なぜそんなことをするのかわからないために、よけいに恐い」と感じてしまう。ネットで展開される「情報(というより噂?)」が、その「なんとなく恐い」という思いをよけいに増幅させているように思ったので、ムスリムとアラブ諸国の政治や社会に通じている人たちの本を読んでみた。
まずは「イスラーム国」の台頭とともにときの人となられた、イスラム政治思想分野研究者である池内恵(いけうち・さとし)氏の話題の新書。
「イスラーム国の衝撃」
池内 恵著 文春新書
「イスラーム国」がなぜ、どのようにイラクからシリアにかけての広範囲の領域を支配するにいたったのか。第一次世界大戦から現在にいたるまで、欧米諸国、つまりキリスト教社会との対抗関係。
アラブ主義からイスラーム主義、ジハード主義までの思想の説明と、それが及ぼしてきた政治的な影響。
アルカーイダから「イスラム国」成立、そしてグローバル・ジハードを2020年に完遂するという描かれたシナリオの実行。
世界規模のグローバル・ジハードを成立させた思想的要因と、「アラブの春」という地域的な政治変動を背景に各国中央政府が揺らいだという政治的要因。
「イスラーム国」の人的、地域的、宗教的、思想的な構成。そして外国人戦闘員をどのように惹きつけ、それが世界都市の「ローンウルフ」的テロとどのように結びついているのか。
背景から現在の状況にいたるまで、おおよその概略がつかめる内容になっている。最終章の「中東秩序の行方」の「イスラーム国は今後広がるか」「遠隔地での呼応と国家分裂の連鎖」「米国覇権の希薄化」は読みながら、うーんとうならされた。あまりにも現実的すぎる予測。
「イスラーム国」は遠いところの日本とは関係のない話、日本人人質事件もほかの地域のもめごとに巻き込まれてしまっただけ……なんていう「他人事」の対応をしている場合ではない、と思い知らされる。
「イスラム国 テロリストが国家をつくる時」
ロレッタ・ナポリオーニ著 村井章子訳 池上彰解説
文藝春秋
テロ組織を研究し、北欧諸国政府の対テロリズムのコンサルタントをつとめる著者が、単なるテロリストの集団ではない「イスラーム国」がどのような組織なのかを分析し、「イスラーム国」が勢力図を広げることによって中東の国々の国境も書き換える、と予測している。
歴史的、思想的背景については池内さんの本と重なる部分も多いのだけれど、この本の一番の読みどころは「イスラエルの建国と何が違うのか?」という第三章。著者は言う。
「ユダヤ人にとって古代イスラエルが『約束の地』であったように、カリフ制国家はムスリムにとって理想の形、完璧な国家であり、そこではついに解放が実現する。何からの解放かーー数世紀におよぶ屈辱、差別、異教徒への屈従からの解放である。この異教徒とは言うまでもなく外国勢力であり、それに加担するムスリムを含む。ユダヤ人は、世界に散らばるユダヤ人のために、古代イスラエルの現代版を建国した。まさにそれと同じように『イスラム国』はスンニ派のすべての人々のために、21世紀のイスラム国家を、それも国家としてしかるべく機能する国を、興そうとしている」
それでは1940年代のシオニストの武闘集団と「イスラーム国」のやり方の何が違うか、といえば、それは巧みな映像技術を用いて制作した動画をソーシャルメディアを通じて発信し、自分たちのプロパガンダと暴力行為を世界中に拡散(宣伝)していること、そしてそのプロパガンダと暴力行為に憧れて世界の他地域の若者を引きつけて戦闘員にしていることだ、という。
え? そこですか、違いは? と言いたくなるのだが、まさに「そこ」なのだ。ネットやSNSという西側世界が開発、発展させた情報技術を駆使してプロパガンダを発信して人材を集め、まっこうから否定している「異教徒の金融システム」にのっとって資金を稼ぎ、理想の「国」を作る。矛盾に満ちている、と思うのは、異教徒の論理なのか。
「こんにちは、ユダヤ人です」
ロジャー・パルバース 四方田犬彦
河出ブックス
ニューヨークに生まれ、ベトナム戦争への批判からアメリカを離れてオーストラリア国籍を取得し、日本滞在歴40年で宮沢賢治や井上ひさしの研究で知られるユダヤ人のロジャー・パルバース。
テルアヴィヴ大学で教鞭をとったことがあり、文学、映画から漫画まで幅広い研究・執筆活動を行っている四方田犬彦。
長い交遊のある2人が「ユダヤ人とは何か?」をテーマに語り合った。
パルバースさんが自分の祖先をたどっていく話がとてもおもしろい。ロシア、ポーランドからアメリカにたどりつくまで、おじいさんたちやおばあさんたちのなれそめや生業なんかの話。「ぼくが考えるには、ユダヤ人には風土がないんですね。風しかない。土がない。風に乗って生きている民族だと思います。『さまよえるユダヤ人』と言われるように、流人、追い出された民族です」というパルバースさんの言葉通り、父方も母方も、そしてご本人も世界をさまよっている。そして居着いた土地で大なり小なり「迫害」される。近代史における最大の迫害はホロコーストだったが、ユダヤ人の長い歴史は迫害史といってもいいほど。
そして1948年に「約束の地」に「イスラエル国」が建国される。だが、2人とも「イスラエルはユダヤ人を代表するわけではない」と言う。パルバースさんはとくに否定的。
それではユダヤ人とは何か? 世界中に散らばり、その土地に何世代も根づいて国籍を取得し、シナゴーグに行くのは一生に数回しかない。つまり言語も国籍も宗教もさまざまなユダヤ人がいる。多種多様なユダヤ人としての共通特性、芯にあるものは何なのかというと、パルバースさんは「自分のことではなくて、相手の苦しみや悲しみ、相手の幸せを先に考えるのが本当のユダヤ人だと思いたい」そういうユダヤ人は過去の歴史の中に大勢いた。そして「愛国心ではなくて、それを超えた普遍性が彼ら(そういうユダヤ人)の存在理由でした」
それに照らし合わせると日本人の芯にあるものって何なのだろう? しばし考えてしまったけれど、まったくわからず。
最後にやはりパルバースさんのつぎの言葉が心に残った。
「国があって民族があって、人はいつまでもその国や民族に帰属している。それがその人のアイデンティティであると思うとき、ディアスポラが出てくる」。だからパルバースさんはディアスポラというものはない、アイデンティティという言葉は使わない、と言う。そして「ディアスポラというのは、まず中心があって、そこから出ていく、あるいは追放される、ということです。それがあるからこそ、ユダヤ人は根無し草とか流人とか、国を思う心がないとか、本当に信用してはいけないとか、悪い意味でのコスモポリタンとか言われるのです」
国や民族といった人がつくったある種の「神話」にとらわれ、そこにこそ自分のアイデンティティ=本質がある、と考えた時点で、人はもしかすると阻害され、追われるディアスポラになる恐怖にとらわれるのかもしれない。そして自分の「アイデンティティ」を脅かしそうなものを、「なんとなく恐い」と言って攻撃するのかも。
「なんとなく恐い」を突き詰めていくと、いろんな恐いものに突き当たる。
だからこそ、それゆえに「なんとなく恐い」が一番恐い。