Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2017年04月

スタメンを見た瞬間、悪寒がしました。グループステージ突破のためには、勝つしかない試合のはず。大宮戦の良い流れをつなげよう、という気持ちはなかったのか。
大宮戦のとき、一緒に観戦していた人が言いました。
「ジョンヤはメンタル弱いんや。ミスをしたら、ずっとそれを引きずってボロボロになる」
2点リードで迎えながら、最終ラインのジョンヤが何ということのないロングボールをクリアしようとして足を滑らせ、失点。そこで流れが変わりました。
ジョンヤのプレーはかばいようがない。でも、前半その前からジョンヤは小さなミスを繰り返していて、私はハラハラしていました。今日はジョンヤがあかん日。メンタルがボロボロの日。だから、腹は立ったけれど、まあ、ジョンヤだから仕方ないね、とどこかで諦めがありました。それはもうすんだこと。
私が許せない、と頭に血が上ったのは、長谷川監督です。なぜヤットさんをスタメンに戻した? いや、理由はわかりすぎるくらい分かっています。なぜなら、長谷川監督だから。
私が「また遠藤スタメンか!」と落胆と怒りのメールを送ったら、同志から「今日はヤットのメーターが上がるはず」とポジティブなメールが来ました。同志、いつもながら超ポジポジ。私が「もうあかん、今日はあかん」というときにも、どこかにいいところを見つけようとする。偉い! サポの鏡。
しっかし、いくら気持ちのメーターが上がっても、もはや身体がついていかない37歳のヤットさんがピッチにいました。
ガンバが9つもタイトルを獲れたのは、ヤットさんの功績が大きいです。
長年、日本代表でも中心選手だったおかげで、ガンバの知名度は上がったし、クラブの評価も高まりました。
遠藤保仁選手はガンバのレジェンドです。ヤットさんがガンバの選手であることが、私は本当に誇らしい。今でも「どのクラブのサポーターか?」と聞かれると、「遠藤保仁選手がいるガンバ大阪です」と胸を張って答えますよ。そんなガンバサポは決して私だけじゃないはず。
だから、ヤットさんを大事にしてほしい。敬意を払ってほしい。遠藤シフトみたいな3バックは決して敬意を払っていませんよ。ヤットさんが輝けるような使い方をしてほしい。
ヤットさんがPKを外したとき、チームは誰も慰めにいきませんでした。ヤットさんの肩を叩きにいける選手は、せいぜい今野選手くらい。あとの選手たちは偉大なレジェンドにふれようともしない。みんなビクビク、顔色をうかがいながら、窮屈そうにプレーしていました。大宮戦であれだけ躍動していた井手口選手も鳴りを潜めていた感じ。さすがに倉田選手はあまり変わらないプレーではあったけれど、チームの采配をふるう役割を譲ったせいか、大人しかったです。
ジョンヤが足を滑らせたのはミスだけれど、ヤットさんのボールロストやプレッシングの弱さはミスではない。ミスは監督にあります。勝利のために、チームのためにヤットさんをどう起用するかを考えることをせず、チームの足を引っ張るような形でACLグループリーグほぼ敗退へと導いてしまった監督は、遠藤保仁というレジェンドに対する敬意はもちろん、遠藤保仁を誇りに思い、愛しているサポーターに対する敬意も著しく欠いている、と私は思いました。
ロスタイム、同点に追いつかれた後、呆然としてしばらく同志にメールが送れないほどでしたが、そのあとに泣きたくなるほど哀しくなりました。
また、おもしろく刺激的なサッカーで輝くガンバが見たいです。そんなガンバサッカーの輝きの中心にいるのは、たぶんヤットさんではないでしょう。でも、若い選手たちを輝かせる側にいてほしい。
まちがっても、ガンバをブラックホールに落としていく中心にレジェンドを置かないでほしい。
 

試合前からドキドキしていました。
一つは、同志から「ヤットが先発を外れるらしい」とメールが来たこと。そして「堂安がFWで先発らしい」とも。わ、遠藤、今野、アデミウソンという中心選手を欠いて、いったいどんな試合になるんだろう? でも、このドキドキは楽しみな胸の高まりでした。
もう一つは、ガンバのサポーターグループがナチス親衛隊SSのシンボルマークに酷似したマークを使用し、その旗をセレッソとのダービーマッチで降っていた、というとんでもない出来事を受け、ホームでもアウェイでもスタジアムで当分の間フラッグや弾幕の掲出を禁止する、とクラブ側が通達を出したことによるドキドキです。ゴール裏の雰囲気はどうなのだろう? お客さんは入るだろうか? こちらは不安のドキドキでスタジアム入りしました。
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試合結果はご存知の通り。キックオフ直後から、全員が躍動し前線は藤本を中心に前から追い込んでプレスをかけ、ボールを奪うとほぼ瞬時に前を向いてゴールを目指す、といういいときのガンバの攻撃が機能していました。レフティが3人もいるって(藤本、藤春、堂安)いいもんですね。
守っては井手口が躍動。ちょっと早めに飛び込みすぎなところはあるし、ボールの奪い方も明神さんよりせいてはいたけれど、すばやく奪って、即座に攻撃に移る姿勢は、ガンバのサッカーの進化形を体現していました。先取点はその姿勢が実ってまずは井手口。
そして攻守のバランスをとり、前線とディフェンスラインのつなぎ役として倉田が非常によく効いていた。 いつもの運動量をキープしながら、試合運びの緩急をうまくつけている姿を見てうるうる来ましたよ。4年前に「ガンバの未来は倉田にかかっている」と書いた記憶があるのですが、やっと、やっと、やっと、倉田の時代が来たな、と心震わせました。
この試合は全員にMOMをあげたいところだけれど、私の目に光ったのは泉澤でした。ドリブルで仕掛ける選手が倉田くらいしかいなくてもどかしかったのですが、そうか、倉田とは違うタイプで仕掛ける選手が現れた! と興奮しました。ボールを持つと、何かやってくれそうな期待感がふくらむ選手です。6−0とした後半残り10分。いつものガンバだったら押し込まれているうちにポロっと失点してサポをがっくりさせてしまうのですが、最後の最後までクリアボールを拾ってドリブルしていき、前線に繋げる泉澤に危うく惚れてしまいそうでした。いや、惚れたっていいんだけれどね。
そして翌日にもう一度試合を見直したら、藤本が攻守にものすごく効いていた! ポジショニングよし、パスの展開よし、プレースキックの選択肢もヤットさんにはないものを持っていて、さすが! の一言。移籍して1年半。藤本の進化と真価を見ましたよ。
ほかの選手もみ〜んなよかった。スタメンデビューでJ1初得点の堂安、やはりガンバでのスタメンデビューで精力的に走り回った赤崎。「超惜しい!」チャンスをつぎは決めよう! J1初得点で無失点に押さえた三浦、ほぼノーミスで攻撃参加やフォローもすごくよかったジョンヤ、驚くほどパス精度が上がっていたジェソク、囮になる技も出してきた藤春、 もちろん神セーブ2回の東口。(交代選手は割愛)
ガンバ6得点の平均年齢は21.8歳(20+25+28+18+2+18➗6)。若いですね〜〜〜 世代交代の光が少しだけ見えてきました。
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さて、もう一つのドキドキについても書かねばなりません。それはガンバサポであることを公にしているものの義務だから。
今回SS酷似マークを使用したサポーターグループについて、その存在はもちろん知っていました。スキンヘッドにグラサンのリーダーは目立つし、グループの人数も多くてそろって目立つ外見なので存在は目に入ります。ただ、言い訳に過ぎませんが、問題の旗にもエンブレムにもまったく気づいていませんでした。気づいていないからといって、ガンバサポの一人としてゴル裏にそんな旗が掲出されたことを「私は知らなかった」で済ませてしまうわけにはいかない。
もちろん、恥じています。ガンバサポとしても、そしてJリーグファンとしても、サッカーファンとしても、本当に恥ずかしく忌むべきことだと思っています。だから、6得点で盛り上がった試合後もどこか「わーい!」と手放しで喜べませんでした。 
今回の件への対応で、私が違和感を覚えたことが2つあります。
1つはクラブ側からの「掲出したサポーターグループに「い政治的意図はなかった」というコメントです。
え? どういうこと? と目を疑いました。メディアでも、ナチスがどんなことをやったのか知らないという無知ゆえの愚行、とか書いているところがあって、おいおいおい、ちょっと待て、あのマークをエンブレムや旗に使って振り回している時点で、政治的意図もあれば歴史の知識も十分あるでしょ。ナチス親衛隊を「かっこいい」と思って、あのマークを使った。その時点で十分すぎるくらいの政治的意図があり、意図を表明してのあのシンボル使用でしょ。だから「無知ゆえの愚行」では決してない。意図的な犯行です。しかも、クラブ側から再三注意を受けてきたにもかかわらず、使い続けた、とのこと(メディア情報だけれど)。もうどんな言い訳も通用しないし、許されることではありません。
単に人を不愉快にさせた、騒がれてクラブやチームや他サポに迷惑をかけた、罰金や罰則、わーたいへん、とか、そういう次元で話を終わらせないでほしい。今回の事件は「スポーツと差別と政治」の今後を、ガンバだけでなく、またサッカーだけでなく、スポーツファンだけでなく、日本社会全体が話し合って考えていくべき大問題だと思います。
2つ目の違和感は、応援旗や弾幕、ゲーフラがなくなったガンバゴル裏の風景が「さびしい限り」と書いているメディアが多かったこと。枕詞ですか? というくらい「さびしい」の連発。いやいやいやいや、現場にいた私は思いましたよ。「なんだ、旗とかなくても十分に盛り上がるじゃないか」
もちろん応援旗もゲーフラも大好きで、スタジアムを彩るし、選手も励みになるだろう、と思っています。でも、だからと言って、それがスポーツの応援のすべてではない。というか、応援のほんの一部だと思います。ゴル裏は手拍子とチャントで大いに盛り上がったし、とても楽しめました。スタジアムの一体感も少しも薄れていなかった。むしろ、メインやバックのお客さんとの一体感をよけいに感じました。
これまた、応援旗や弾幕を掲出するかしないか、という次元に止めることなく、スポーツ観戦のあり方自体を考えるきっかけとなってほしいです。
よく「スポーツと政治を切り離さねばならない」と言われます。それはスポーツの現場において政治について語らない、ということではないのです。スポーツと政治がどういう関係であれば、スポーツをする人も、見る人も、気持ちよく楽しめるか。そのためにスポーツと政治の関係の「負」の側面についても表に出して、口に出して、議論をしなくてはならない、と私は強く思っています。コアサポ(→なんだよ、その言い方、といつも思う)のやったことだから、ガンバのサポーターって本当によく問題起こすよね、とそんな風に矮小化して、我存ぜぬで済ませていいことじゃない。
今回の「事件」を、一サッカークラブの問題として片付けることなく、深いところまで掘り下げて考え、話し合うことが、これからのスポーツ界、そして大げさかもしれませんが日本社会にとって必要なことではないでしょうか。
事件がガンバ史に汚点を残したことは間違いありませんが、それを少しでもプラス(正)の方向に変えるために、1サポーター、1サッカーファンとして以上の頑張りが必要だな、と心しています。
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ガンバクラップもいつも通り。ヤットさん、見えてますよー、そのやる気なしなしのクラップが。

 

親の家をたたむんだ、と話すと、10人中5人から「植木はどうするの?」と聞かれます。実家に庭があるみなさんは、自分が生まれたころから一緒に育ってきた、もしくは成長を見守ってきた樹木がきになるんですね。
実は私もなんです。まだ決まったわけではないけれど、おそらく家だけでなく庭もつぶされ、土地になって売られることになるでしょう。
今、親の家にある樹木は、半分ほどは両親が植えたものですが、私が子どものころ、いや、そのもっとずっと前から植わっていた樹木もあるのです。いちじく、紫陽花、もみじ、などなど。祖父母の代から大事にしてきた樹木が引っこ抜かれてしまうのはとても哀しい。でも、東京に持ってくるわけにもいかず、そもそも土が違うのだから元気に育つはずもなく、諦めるしかない。
祖母がもしも生きていたら、どれほど悲しむだろうと思います。

祖母は植物が大好きでした。お天気さえ許せば、ほぼ1日中外で庭の手入れをし、畑を耕して何かを植えたり肥料をやったりしていました。明治時代に生まれた人なので、化学肥料や殺虫剤を使うなんてとんでもない、と一蹴。枯葉を埋めて堆肥を作ったり、飼っていた鶏(幼いころ、私は母方の祖母を「こっこばあちゃん」と呼んでいました)の糞を乾燥させたものを使ったりしていたし、虫対策には炭やら酢を使い、雑草をそれはこまめに抜いていました。
初夏になると、今も利用している井戸を汲み上げた水を撒きながら、樹木や草花を見回って、少しでも異常を見つけると、出入りの植木屋さんに相談していました。
祖母が好きな樹木、それは庭の隅にあったイチョウの大木、裏庭にそびえ立っていた楠の大木(くすの木が思い出せず、昨日は楡なんて書いちゃいました、すみません)、庭の中心的存在だったサルスベリ、玄関脇で四季折々に表情があったモミジでした。
嫌いな木もあって、椿や卯の花などは「好かん」と裏庭の隅に押しやられていたような。
花の中で贔屓されていたのが、石楠花、馬酔木、芙蓉、スミレ、オダマキ、ツリガネソウ、浦島草、桔梗、鶏頭、シュウメイギクなど和物、山草系。反対に毛嫌いされていたのが、チューリップ、バラ、牡丹、ラッパスイセンなどの洋風のものや派手なものでした。
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祖母のお葬式のとき、お棺にバラや百合など入れながら、母が「おばあちゃんはこういう花は嫌いだった。庭の花を摘んでくればよかった」と言って悔やんでいました。たしかに百合もバラも嫌いだった祖母は不本意だったかもしれません。 
祖母が丹精していた庭では、春になると各種のスミレがあちこちに顔を覗かせ、踊り子草、トキソウがひっそりと咲きだし、祖母の庭滞在時間が長くなります。
夏の宵、隣の田んぼからカエルの合唱が聞こえてきて、庭の奥は群生していたヒメシャガでぼんやり白く見え、大輪の夕顔と芙蓉が風に揺れるのを縁側の座椅子から眺めているとき、祖母はとても幸せそうでした。
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「中国では、絶世の美女は芙蓉みたいと言われるんじゃ。元ちゃん、あんた、芙蓉のような女の人になりんさい」とよく言われました。「芙蓉みたいて、そんな花、おばさんみたいで嫌だ。バラの花みたいと言われたい」と私が口を尖らして口答えすると、「そげな派手な女はロクな人生は送らん」と叱られたり。
シュウメイギクと萩の花で秋の訪れを知り、玄関先のモミジの紅葉が冬がそこまで来ていることを教えます。
祖母が好んだ樹木や草花を植えている庭をあまり見たことがありません。地味だからでしょうか。そういう私も、春の花というとついパンジーやヒヤシンスを植えてしまうし、百合といえばカサブランカだったりします。祖母が見たら、嘆くかも。
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それにしても実家の樹木、やっぱり名残惜しいです。
 

今朝(2017年4月16日)の日経文化面に、作家の平野啓一郎さんが「「カミナリおやじ」は誰?」というエッセイを寄せられている。それを読みながら、私は不意に母方の祖父を思い出して、胸が締めつけられた。祖父は平野さんが書いているように、まさに戦争によるPTSDに苦しめられた一人だったのだ。

母方の祖父は1904年に生まれた。日露戦争が勃発した年である。亡くなったのは1998年、大量破壊兵器を所有しているという名目で、イラクを米英が攻撃した年である。なぜ戦争のことで生年と死亡年を記すかというと、祖父の生涯に、戦争が大きな影を落としていたからだ。
私は5歳から18歳まで祖父母と暮らした。私の記憶にある祖父は、今の言葉で言えば「キレる」人だった。いつ何時怒りを爆発させるかわからない。その怒りたるやすさまじく、青筋を立てていきなり物を投げる、テーブルをバンバン叩く、怒鳴り散らし、ちゃぶ台ならぬテーブルの上をムチャクチャにすることもしばしばだった。まれではあったが、私たち孫に怒りを向けることもあった。祖父が大事にしている陶器や置物を割ったりしたときだ。
もちろん、祖母や母、叔父たちが怒鳴り返したり、なだめたりしていたが、私の目から見ると「なぜそんなにおじいちゃんに甘いんだ」というなまぬるいなだめ方だった。親や学校の先生は「癇癪を起こしてはいけない」「暴力をふるうのは絶対にだめだ」とあれほど言い聞かせて子どもをしつけるのに、なぜ祖父の怒りの暴発が許されるのか、と歯がゆかった。
なまぬるさの理由がはっきりわかったのは、ずいぶん後になってからだ。

祖父は第二次世界大戦のとき、将校として中国戦線に送られた。すでに結婚して子供がいたし、戦争にはぜったいに行きたくないとひそかに思っていたし、よもや自分が行くことはないだろうとたかをくくっていた((祖父から聞いた)のに、あれよあれよという間に万歳で送り出されてしまった。しかも、読書を通じて自分が敬愛する国、中国に。
「日本軍や日本人が、どれだけ中国人にひどいことをしたか。人間はあそこまで残酷になれるんやと思い知らされた」と祖父は後年よく言っていた。そして自分が残酷なことをする側に立ってしまったことで、自分を許すことができなかった。
だから、中国での戦場で病んだ。病んで日本に送り返され、療養生活を送った。後ろめたく思いながらも少し安堵して、ようやく自宅に帰ってきた祖父を待っていたのは、なんと特攻隊の基地への赴任命令だった。終戦の前年である。そこで自分の息子たちの年代の青年を、死にに行かせる役目を負った。
祖父の何かがあのとき壊れたのだ、と後年になって母たちは言う。父の思いを知っていた祖母をはじめとする家族は、だから祖父がキレてもどこか許していた。PTSDという言葉はなかったけれど、祖父がどれほど戦争で傷ついていたのか、よくわかっていて、だから「カミナリおやじ」も許していたのだ。

戦後、祖父は強烈な反戦論者になった。
「人間として最低なのは、金儲けしようと戦争を企てるヤツらだ。そしてそれに加担する政治家は、極悪人じゃ!!」と言っていた。
今、文章にするとぬるく聞こえるだろうが、青筋を立てて、手をぶるぶる震わせて反戦の言葉を吐く祖父の口調は、地獄の底から響いてくるほどの迫力で、子供心にも本当に恐ろしかった。そしてその祖父に「おまえが極悪人じゃ!!」と名指しされ、登場するとテレビ画面に盃を投げつけられる政治家たち(思えばそのほとんどが、現政権の父親や祖父たちだ)には、軽く同情さえ覚えたほどだ。

私はずっと祖父が怖かった。今のおじいさんが孫をかわいがるようにかわいがってもらった記憶がほとんどない。それでも祖父に連れられてよく旅行したし、元ちゃん、元ちゃんと呼ばれた声は今も記憶しているのだから、疎まれてはいなかったと思う。でも旅行中も、私はいつ何時祖父がキレるかとヒヤヒヤしていて、一緒にいてあまり楽しめなかった。ほぼアル中、ニコチン中の祖父が酒を飲みまくりタバコを吸い続けて、それを祖母が注意したときに、いよいよ「カミナリ」が落ちるかなと身をすくませたら、祖父が不承不承タバコを消したので驚いたくらいしか覚えていない。旅行中で人目があるときは、祖父も自制がきいたのだ。
ところが、家の片付けをしていて見つけたアルバムの中で、私と一緒に旅行中に写っている祖父は笑顔を浮かべているではないか。それどころか、青年時代の祖父はなかなかの美男子で、はつらつとしている。新婚時代に、祖母とえらく仲良さそうに寄り添っている写真もある。母たちが幼いときに、とろけそうな父親の顔をしている家族写真もあった。
いきいき、はつらつとした笑顔が消えるのは、やはり軍服を着た写真のころからだ。終戦後には、いつも不機嫌なしかめ面で、憂鬱そうにうつむき、カメラのレンズを睨みつけている写真が増える。
晩年になり、ようやく笑顔が戻ってきたときにも、祖父の表情はどこか虚ろだ。少なくとも私にはそう映る。

祖父は教養の人だった。自分でも書画を描き、俳句を詠み、驚くほどの読書家で、歴史や文学に通じていた。美術品の目利きでもあり、まださほど有名ではない若手作家の絵や陶器を収集していた。自分の家に飾って「映える」絵を選ぶ眼識があった。私が新居に引っ越したとき、部屋の広さや間取りを聞いて贈ってくれた絵は、今も我が家の「家宝」だ。
そして食通だった。日本各地の美味を訪ねる旅にもよく出かけた。関西の料亭やレストランでも「顔」で、何かお祝い事があると私たちもよく祖父に連れて行ってもらって下へも置かぬ接待を受けた。行った先はどこも一流だったことを後で知る。そもそも中学生で京都の有名なすっぽん料亭に行ったなんて、とんでもなかったかもしれない。
そして旅行先では陶器や掛け軸を購入した(そして届いた請求書の額に祖母がキレた)。集めた美術品を、祖父は惜しげもなく人にあげた。ときおり、祖母たちが「なんであないに高いもんを、人にあげてしまうんですか!」と怒っていた。相変わらず「うるさい!」と祖父が一喝して終わったが、今思うと、自分が美しいと思うものをわかる人たちと共有したかったのだろう。
今両親の家を片付けてみて気づいたのは、祖父のコレクションが見事に何も残っていないことだ。祖父は子孫に、いわゆる金目のものを残さなかった。

祖父が今生きていたら、きっと怒り狂う毎日だろう、と思う。盃をテレビに投げつけるくらいではすまないほど怒って、私たちはビクビクしながら過ごしているに違いない。
「政治家が何をさておいても一番にやらないけんのは、戦争をせんことじゃ。若いもんを戦場に送らんことじゃ。それを日本に原爆を落としたアメリカと一緒になって、基地じゃ軍備じゃて何事じゃ!」そして祖父が吐く罵り言葉の中でも最高位となる罵倒が響きわたる。
「おまえらは、ドアホウじゃ!!」
「今、生きていたら祖父が言ったであろう言葉」ではない。安保闘争、基地問題、原子力空母の寄港のニュースが流れたときの言葉である。
時代が変わったから憲法を改正する? 違うだろう! 時代は変わっても変えてはいけないものがある。死守しなくてはならないことがあるはずだ。
祖父が残したのは、 そんな教えだった。大事にしなくてはならない。

ワコールスタディホールにてこんな講座が開催されます。
「運動ギライでも続けられるエクササイズのススメ〜元ラグビー日本代表。平尾剛さんに学ぶ、楽しくからだを動かすコツ」

http://www.wacoal.jp/studyhall/school/event/article70592

 
とき:5月25日(木)19時〜21時
ところ:ワコールスタディホール(京都駅 南口より徒歩7分くらい。新幹線側の改札から近いです)

平尾さんの著書 「近くて遠いこの身体」(ミシマ社刊)や、内田樹さんとの対談「ぼくらの身体修行」(朝日文庫)を読んで、それまでの運動感、というのか、身体感がひっくり返りました。
一言で言うと「あれ? もしかして私、運動好きかも、得意かも」です。
自慢じゃないですが、小学校から「あんたは運動神経が悪い」と罵られ続け(親に)、 体育の成績は10段階でずっと6。運動会が大っ嫌いでした。っていうか、体育の授業は積極的に仮病使って見学していました。
でも、大人になってから気づいたのは、スポーツが好きってことです。からだを動かすのが決して嫌いじゃない、むしろ好き、動かしたい。でも、ジムも筋トレやジョギングもなかなか 続かない。楽しくないから。
そしたら平尾さんはこうおっしゃったのです。
「学校の体育なんて、人の身体能力のほんの一部だけしかはかっていませんよ。体育の成績なんて、身体能力とほとんど関係ない」
そしてこうも言われました。
筋トレは今すぐやめましょう。からだを痛めるだけです」
ジョギングなんて必要ないです。日常生活の中でちょっとした工夫をするだけで運動は十分なんですよ」 
そう、運動しろしろって医者も世間もものすごくうるさいですよね。
でも、運動がめんどくさい、嫌いっていう人はいっぱいいる。
そんな人たちにオススメしたいのが、平尾流のエクササイズ。
座る、立ち上がる、歩く、そんな日常動作で「運動」は十分なんですって。
やらざるを得ないその動作を「運動」に変えるためには、ちょっとしたコツが必要です。
それを実践していただこう、という講座です。
ご参加いただければ翌日から、いや、その日の夜からきっとからだを動かすのが楽しくなるはずです。
 

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