気がつくと5月も今日で終わり。ここんところ仕事がめずらしく立て込んだせいで、2週間ブログの更新ができませんでした。とりあえず入稿は終わって校正が出るまでちょっと一息。
先日、知り合いの方(友人というほど親しくはない)から電話がかかってきて、平日の昼間の音楽会のチケットが余ってしまったので一緒に行かないか、とお誘いをいただきました。たまたまその日に出張が入っていたので、「ごめんなさい、京都で仕事があるからうかがえない」と言ったら、「え? お仕事していらっしゃるの? まあ、お仕事っていったいどこにお勤め? どんな仕事をしていらっしゃるの?」とえらく驚かれて立て続けに質問が飛んできました。
こういうとき、私はどう答えたらいいのか、本当に困惑するのです。
私の仕事をどう説明したらいいのだろうか?
会社員です、と社名をあかせたら少しは理解も得られるかもしれないけれど、そうはいかない。フリーランスという働き方が世の中にあることを知らない人の方が多く、ともすると「あやしいことをやっている」と思われかねないことをフリーランス歴28年の私はよく知っているのですよ。だから働き方で答えることは避ける。
やむなく「翻訳とか物書きやっています」というと、「まあ、作家さんなの?」と別方向に踏み込まれ、説明がますます面倒になる。翻訳業というのも世間に認知されていないのですよね。説明したところで、「そんなことが仕事になるのか?」と以前にはよく言われました。まだ作家の方が通りがいいみたいです。
そしてそれ以上に私を困惑させるのが、「なぜ働いているのか?」という質問です。
思えば、学校を卒業して働き始めたときから私は「なぜ働かなくちゃいけないのか?」と聞かれまくりました。40年近く働き続けた今も、まだ聞かれます。いまは「還暦過ぎてもまだ働かなくちゃいけないのか?」という質問に変わりましたが。
そして私は自問もします。
私はなぜ働くのだろう? 私にとって仕事とは何だろう?
この2つの質問は私の中では別物です。
まず、私にとって仕事とは何か? という問いかけに対しては、「社会の一構成員としての役割を果たすこと」と自分に言い聞かせています。あ〜〜めんどくさい答えだなあ。こじつけもいいとこ。
日本語大辞典には仕事の定義として「生計を立てるための職業」とありますが、生計を立てるためだけに私は仕事をしていないのです。生計が立てられるのなら仕事をしないか、と自分に問いかけると、いやいや仕事するでしょと答えます。社会の一構成員として認められたい、人の役に立ちたい、そんな気持ちから仕事をしていると思います、
食べていくだけのために仕事をしていないから、たぶん私は「なぜ仕事をしているのか?」と聞かれるのだと思います。会社員の夫が「生計を立てる職業」についているために「ちゃんと働いているご主人がいるのに、なんで仕事するのか?」と言われ続けてきました。卒業した高校の校長に結婚後もまだ仕事を続けていることがバレたときに「いい加減に社会勉強はおやめなさい」と真顔で叱られました。「あなたがやるべき仕事は家庭を守ることでしょう」と諭されましたね。結婚後に仕事をしているだけでもそんな言われようでしたから、子供が生まれてもまだ仕事にしがみつく私には、「いい加減にしろよ!」と非難の声も高かったです。
面と向かって「元子さんのやっている「仕事」って、恵まれた主婦の暇つぶしよね」と年上の専業主婦に言われて相当落ち込んだこともあります。会議の席で反対意見を出したら、部長から「こちらは真剣に仕事しているんだ。遊びで仕事しているきみが正論をくどくど喋ってかき回すな」と言われたこともあります。反論しようにも、「仕事」の概念が食い違っているのだ、と諦めました。そもそもこんなことを自問すること自体、切羽詰まっていないものの戯言なのかも。
それでも私は言いたい。家庭という小さな社会から、世界という大きな社会まで、一構成員として私ができることをする、それが私にとっての「仕事」なのではないか。やはり私は「人の役に立っている」という手応えを得たいのです。役に立っていることの証明として報酬が欲しい。いや、かつては「これをしていったい何になるのだろう?」とどこかで思いながら、それでも依頼があって、報酬が提示されたことでやってきた「仕事」もたくさんありました。そうやってある程度稼いだところで、60歳になったときに、「役に立っている」という手応えのあることを「仕事」にしようと思ったのです。批判や非難は承知の上で。
つぎに、なぜ働くのか?
簡単です。生きるためです。私にとって働くことは生きることです。
またまた日本語大辞典に登場願います。働くとは「からだを動かす。動く。行動する。努力して事をする。精出して仕事をする。労働する」ことと定義されています。要するに、じっとしていないで動くこと、それが働くということ。仕事、家事、育児、介護、どれをするのも「働く」ことになります。
必死に働いたからといって、生計が立てられる保証はないけれど、働かないと生活はしていけません。だから私は死ぬまでちゃんと動いて、働きたいです。
「仕事」も「働くこと」も今大きな曲がり角に来ています。
AIの発達で、今ある「仕事」の半分以上、いや8割がなくなるだろう、とさえ言われています。残るのは、教育、介護、医療など人を相手にする仕事だけになるかもしれません。
「働き方改革」で、残業をなくし、1日8時間働けば「生計を立てられる」ような労働管理をしようという動きも出ています。週3日、1日3時間しか働かなくていい時代がもうすぐ来る、という記事も読みました。あとの時間は「家族と一緒に過ごす」「趣味に打ち込む」のだそうです。でも、家族がいない人はどうすればいいのでしょうか? 趣味と言ったって、趣味にとどまっている間はそうそう打ち込めるものじゃないです。膨大な時間を「暇つぶし」だけで埋められないのではないでしょうか? 働き方改革は必要ですが、人にとって仕事とは何か、ということを、今一度問い直す時代に入っていると思います。
あと10年もたたないうちに、会社に通勤して一箇所に固まって働く働き方は廃れていくような予感がします。また1つだけでなく、複数の仕事をかけもちする人も増えてくるのではないでしょうか。私のように「翻訳者、ライター、ときどきコーディネーター」と肩書きがいくつかある人間への理解も、今よりは深まるのではないかと期待します。
なぜ仕事するのか?(女性で、主婦で、母親なのに)と質問(非難や称賛)する人も減ってほしい。
しちめんどくさい答えを用意しなくてもいい世の中になってほしい。
心から願っています。
(このテーマに私はいつも頭を悩ませているので、最近読んだ参考図書をあげておきますね)
「人工知能が変える仕事の未来」野村直之著 日本経済新聞出版社
翻訳業はもしかするとあと数年後になくなるかもしれない、という危機感から読んだAI本。「敵」を知らねば話にならないと、読みました。人工知能(Artificial Intelligence)とは何か、どんなことができるのか、それが仕事をどう変えるのか、ということをわかりやすく、ごく基本的なところを押さえて書かれています。そのほかにもAI本は何冊か読んだのですが、この本が一番私にはしっくり来ました。
「なぜ働くのか」
バリー・シュワルツ著 田内万里夫訳 朝日出版社
TED Booksなので、こちらの反応を見ながら話しかけてくるような文体で書かれていて、思わずうなずいたり、首を傾げたりしたくなる本でした。人間にとって仕事とは何か、働くとはどういうことか、という哲学的な問いかけに対して、自分の経験を元に語っています。今回のブログのテーマを書いてみようと思ったのは、実はこの本を読んだのがきっかけ。
「超一極集中社会 アメリカの暴走」 小林由美著 新潮社
朝、ついポチって読み始めたら、気づくと夕方であたりは暗くなっていました。強烈な内容に、しばし呆然として仕事が手につかず。辛いかもしれないけれど、本書にある1%のエリート以外は読むべき本です。アメリカの現状を日本の近い未来にしないために、今、私たちがやるべきことはまずこの本を読むことではないかと。
先日、知り合いの方(友人というほど親しくはない)から電話がかかってきて、平日の昼間の音楽会のチケットが余ってしまったので一緒に行かないか、とお誘いをいただきました。たまたまその日に出張が入っていたので、「ごめんなさい、京都で仕事があるからうかがえない」と言ったら、「え? お仕事していらっしゃるの? まあ、お仕事っていったいどこにお勤め? どんな仕事をしていらっしゃるの?」とえらく驚かれて立て続けに質問が飛んできました。
こういうとき、私はどう答えたらいいのか、本当に困惑するのです。
私の仕事をどう説明したらいいのだろうか?
会社員です、と社名をあかせたら少しは理解も得られるかもしれないけれど、そうはいかない。フリーランスという働き方が世の中にあることを知らない人の方が多く、ともすると「あやしいことをやっている」と思われかねないことをフリーランス歴28年の私はよく知っているのですよ。だから働き方で答えることは避ける。
やむなく「翻訳とか物書きやっています」というと、「まあ、作家さんなの?」と別方向に踏み込まれ、説明がますます面倒になる。翻訳業というのも世間に認知されていないのですよね。説明したところで、「そんなことが仕事になるのか?」と以前にはよく言われました。まだ作家の方が通りがいいみたいです。
そしてそれ以上に私を困惑させるのが、「なぜ働いているのか?」という質問です。
思えば、学校を卒業して働き始めたときから私は「なぜ働かなくちゃいけないのか?」と聞かれまくりました。40年近く働き続けた今も、まだ聞かれます。いまは「還暦過ぎてもまだ働かなくちゃいけないのか?」という質問に変わりましたが。
そして私は自問もします。
私はなぜ働くのだろう? 私にとって仕事とは何だろう?
この2つの質問は私の中では別物です。
まず、私にとって仕事とは何か? という問いかけに対しては、「社会の一構成員としての役割を果たすこと」と自分に言い聞かせています。あ〜〜めんどくさい答えだなあ。こじつけもいいとこ。
日本語大辞典には仕事の定義として「生計を立てるための職業」とありますが、生計を立てるためだけに私は仕事をしていないのです。生計が立てられるのなら仕事をしないか、と自分に問いかけると、いやいや仕事するでしょと答えます。社会の一構成員として認められたい、人の役に立ちたい、そんな気持ちから仕事をしていると思います、
食べていくだけのために仕事をしていないから、たぶん私は「なぜ仕事をしているのか?」と聞かれるのだと思います。会社員の夫が「生計を立てる職業」についているために「ちゃんと働いているご主人がいるのに、なんで仕事するのか?」と言われ続けてきました。卒業した高校の校長に結婚後もまだ仕事を続けていることがバレたときに「いい加減に社会勉強はおやめなさい」と真顔で叱られました。「あなたがやるべき仕事は家庭を守ることでしょう」と諭されましたね。結婚後に仕事をしているだけでもそんな言われようでしたから、子供が生まれてもまだ仕事にしがみつく私には、「いい加減にしろよ!」と非難の声も高かったです。
面と向かって「元子さんのやっている「仕事」って、恵まれた主婦の暇つぶしよね」と年上の専業主婦に言われて相当落ち込んだこともあります。会議の席で反対意見を出したら、部長から「こちらは真剣に仕事しているんだ。遊びで仕事しているきみが正論をくどくど喋ってかき回すな」と言われたこともあります。反論しようにも、「仕事」の概念が食い違っているのだ、と諦めました。そもそもこんなことを自問すること自体、切羽詰まっていないものの戯言なのかも。
それでも私は言いたい。家庭という小さな社会から、世界という大きな社会まで、一構成員として私ができることをする、それが私にとっての「仕事」なのではないか。やはり私は「人の役に立っている」という手応えを得たいのです。役に立っていることの証明として報酬が欲しい。いや、かつては「これをしていったい何になるのだろう?」とどこかで思いながら、それでも依頼があって、報酬が提示されたことでやってきた「仕事」もたくさんありました。そうやってある程度稼いだところで、60歳になったときに、「役に立っている」という手応えのあることを「仕事」にしようと思ったのです。批判や非難は承知の上で。
つぎに、なぜ働くのか?
簡単です。生きるためです。私にとって働くことは生きることです。
またまた日本語大辞典に登場願います。働くとは「からだを動かす。動く。行動する。努力して事をする。精出して仕事をする。労働する」ことと定義されています。要するに、じっとしていないで動くこと、それが働くということ。仕事、家事、育児、介護、どれをするのも「働く」ことになります。
必死に働いたからといって、生計が立てられる保証はないけれど、働かないと生活はしていけません。だから私は死ぬまでちゃんと動いて、働きたいです。
「仕事」も「働くこと」も今大きな曲がり角に来ています。
AIの発達で、今ある「仕事」の半分以上、いや8割がなくなるだろう、とさえ言われています。残るのは、教育、介護、医療など人を相手にする仕事だけになるかもしれません。
「働き方改革」で、残業をなくし、1日8時間働けば「生計を立てられる」ような労働管理をしようという動きも出ています。週3日、1日3時間しか働かなくていい時代がもうすぐ来る、という記事も読みました。あとの時間は「家族と一緒に過ごす」「趣味に打ち込む」のだそうです。でも、家族がいない人はどうすればいいのでしょうか? 趣味と言ったって、趣味にとどまっている間はそうそう打ち込めるものじゃないです。膨大な時間を「暇つぶし」だけで埋められないのではないでしょうか? 働き方改革は必要ですが、人にとって仕事とは何か、ということを、今一度問い直す時代に入っていると思います。
あと10年もたたないうちに、会社に通勤して一箇所に固まって働く働き方は廃れていくような予感がします。また1つだけでなく、複数の仕事をかけもちする人も増えてくるのではないでしょうか。私のように「翻訳者、ライター、ときどきコーディネーター」と肩書きがいくつかある人間への理解も、今よりは深まるのではないかと期待します。
なぜ仕事するのか?(女性で、主婦で、母親なのに)と質問(非難や称賛)する人も減ってほしい。
しちめんどくさい答えを用意しなくてもいい世の中になってほしい。
心から願っています。
(このテーマに私はいつも頭を悩ませているので、最近読んだ参考図書をあげておきますね)
「人工知能が変える仕事の未来」野村直之著 日本経済新聞出版社
翻訳業はもしかするとあと数年後になくなるかもしれない、という危機感から読んだAI本。「敵」を知らねば話にならないと、読みました。人工知能(Artificial Intelligence)とは何か、どんなことができるのか、それが仕事をどう変えるのか、ということをわかりやすく、ごく基本的なところを押さえて書かれています。そのほかにもAI本は何冊か読んだのですが、この本が一番私にはしっくり来ました。
「なぜ働くのか」
バリー・シュワルツ著 田内万里夫訳 朝日出版社
TED Booksなので、こちらの反応を見ながら話しかけてくるような文体で書かれていて、思わずうなずいたり、首を傾げたりしたくなる本でした。人間にとって仕事とは何か、働くとはどういうことか、という哲学的な問いかけに対して、自分の経験を元に語っています。今回のブログのテーマを書いてみようと思ったのは、実はこの本を読んだのがきっかけ。
「超一極集中社会 アメリカの暴走」 小林由美著 新潮社
朝、ついポチって読み始めたら、気づくと夕方であたりは暗くなっていました。強烈な内容に、しばし呆然として仕事が手につかず。辛いかもしれないけれど、本書にある1%のエリート以外は読むべき本です。アメリカの現状を日本の近い未来にしないために、今、私たちがやるべきことはまずこの本を読むことではないかと。