Glamorous Life

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2017年11月

今年は「家事」「育児」にまつわる本をだらだらと読みふけった。私の中で「家事」「育児」って自分にとってなんだったんだろう、という疑問があったからだ。
(以下の文章を書くにあたって影響を受けた本を数冊あげておきます。
「「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす」 佐光紀子著 光文社新書
「お母さんは忙しくなるばかり」ルース・シュウォーツ・コーワン著 高橋雄造訳 法政大学出版
「ワンオペ育児」 藤田結子著 毎日新聞出版)
自分で言うのもなんだが、私は性格がかなり四角四面で真面目な堅物なので、子どものころにすりこまれた「女は家事育児をやってこそ一人前」の呪縛にずーっととらわれてきてしまった。家事をやることが自分の使命で、ある部分私がこの世に存在するのは、家族のために家事をすることにあるとさえ思いこんでいた。だから、家事全般に手を抜かない、というか手が抜けなかった。たとえば子どもたちのお弁当を四半世紀以上作り続けたが、一度も冷凍食品や加工食品を使わなかったのだ。それをつい最近まで「誇り」にしていた。そんなことは誇りにすることじゃなく、むしろ恥ずかしいことじゃないか、と気づいたのはつい最近だ。
私が「家事を重視しすぎたのではないか。家事に時間と労力を割きすぎたのではないか」という疑問を感じるようになったのは、今年、親の家をたたむ作業をしたことが大きい。
母は専業主婦だった。20歳で結婚して21歳で長女の私を生み、その後社会に出て働くことなく、家庭を守ることを第一の使命としてきた。私とちがって手先が器用なので、裁縫も料理もうまかったしまめだった。母がばりばりの「主婦」だった50〜70年代は加工食品が気軽に手に入る時代ではなかったこともあって、梅干しや漬物を漬けたり、佃煮からかまぼこまで手作りだった(おやつももちろん手作り)。そもそも「手作り」するのが当たり前で、「手作り」という言葉さえもなかった時代のことだ。母はたぶん主婦として優等生である自分が誇りだったのだと思う。
ところが、私たちが進学、就職のために家を出た70年代終わりころから、母は家事を手抜きするようになった。掃除は1週間に1回か、それ以下の頻度になったし、お客さんをよんだときこそ腕をふるったが、ふだんは買ってきたものを並べることも多くなった(私はもう実家を出ていたので聞いた話)。 私に「子どもを産んだからといっては仕事をやめてはだめ」と共稼ぎを勧める一方で、「家事なんて適当でいいのよ。いい主婦になることに価値はない。主婦業なんて仕事じゃないからね」と吐き捨てるように言うようになった。
70歳を過ぎたころから「家事は全部面倒臭い」が口癖になり、掃除はダスキンを入れてのアウトソーシング、洗濯も乾燥までの全自動になった。70代半ばで病気をしたことをきっかけに、母の家事放棄はいっそう進んだ。そこで私が1ヶ月に1回、実家に帰って家事を手助けすることになった。東京からやってきては半日がかりで家中の掃除機をかけ、シーツやバスタオルなどの大物の洗濯をし、冷蔵庫の整理をしたのだが、そんな「家事」に精出す私の後ろで、母は「そんなことしなくていいから。もういやめて」と叫び続けていた。そのときは「親が気持ちよく生活する手伝いをするんだから」と「いいこと」をしている気分だったが、今になってそれは母の「主婦としての誇り」を傷つけるどころか、「生き方」さえも否定する行為だったのではないかと後悔している。 
親の家をたたみながら気づいたのは、両親は2人とも人生を謳歌していたことだった。それぞれに趣味に邁進し、趣味の仲間としょっちゅう会食したり旅行に出かけたりして、古臭い言葉でいえば「第二の青春」を満喫していた。「これだけ遊びまわっていたら、家事なんてしている時間も体力もなかったよね」と思うほどに。
おしゃれを楽しみ、食べることを楽しみ、仲間と過ごすことに喜びを見出していた両親の生活に、片付けをしながら気づいて、私は心からホッとしている。同時に、母が言い続けた「家事なんて適当でいいのよ」という言葉の裏にあった母の「本音」にもっと早く気づけなかった自分を少しだけ責めている。
適当でいい、という適当がどこのあたりにあるか、私にはいまだにわからない。
だが、少なくとも今の私の家事は「適当」ではない。やりすぎだ。
やり過ぎていることで、私は家族にプレッシャーを与えているだけでなく、家族の将来を脅かしてもいる。 
私が家事を「独占」していたために、夫は家事に関してまったく無能無気力になってしまった。何もできない夫にしたのは、たぶん私の責任だ。いま私が死ぬなり家を出るなりしたら、たぶん夫は生活面で明日から非常に困ったことになってしまうだろう。困っている夫を放っておけなくて、子どもたちも困ったことになる。娘たちから「ママ、頼むから、パパよりも長生きしてパパを一人あとに残さないでね。私たちの家庭が崩壊してしまうから」と何回も念を押されている。だから、やむなく私は健康に気を配っているのだけれど、それはちょっと違うような気がする。
家事を適当にすること。もっといい加減になること。他人の手を借りること。そしてもっと人生を楽しむこと。(実はとても楽しんでいるつもりなのだけれど)
それがこれから老いとともに生きる人生への課題だと心している。 

 政治家が口に出してはいけない言葉がある、と私は思っている。その一つが「自己責任」だ。失業した、住む家を失った、病気になった、などなど、困難を抱えた人たちに「それはあなたの努力が足りないからだ。もっと頑張ればよかったのに、頑張らないでそうなったんだから、それはあなたの自己責任だ」ということを、もし政治家が言ってしまったら、それは政治をあずかるものとしての資格がない。それどころか、政治家としての存在理由さえ失ってしまうのではないか。そもそも自己責任がとれない人たちが生きていけるような社会をつくるのが、政治家の仕事ではないか。
 自分で自分の生活に責任がとれる、何が起こっても自己責任で行動できる人たちは、社会的強者だ。教育を受けるチャンスを与えられ、努力ができる、もしくは努力が報われるチャンスにも恵まれ、不当なことや理不尽と思えば声をあげられる、といった力を持っている人は、社会的強者だ。
 そして今の政治家は圧倒的な力を持つ強者の集団になってしまった。ダントツの「勝ち組」だ(勝ち組負け組という言葉も私は大っ嫌いだが、ここではやむなく使う)。そして困ったことに、生まれたときから強者の集団にいて、強者の集団にどっぷりつかって教育を受け、仕事をしている人たちは、自分の価値基準でしか人を判断できない。人は努力すれば報われる、弱者も強者になれる、だから頑張れ、困ったことがあれば声をあげればいい、支援を求めればいい、と平気で言ってしまう。それができないから、困っているというのに。
 努力する、もしくは頑張るチャンスにも力にも恵まれなかった人たちが困窮した姿を見て、手を差し伸べることは、圧倒的強者である政治家の使命だと私は思っている。それなのに、何世代にもわたって強者の価値基準でしか判断してこなかった政治家たちは、弱者を切り捨てる。「自己責任だ」という冷たい(言ってはいけない)ひと言で。
 21世紀に入ってから、いや、バブルの頃からか、政治家がやっていることは社会的強者をもっと強くし、弱者が弱者になったのは「自己責任だ」と突き放すようなことばかりだ。
 これは世界的な傾向らしい。「チャヴ〜弱者を敵視する社会」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳、海と月社)は英国の労働者階級がなぜ英国社会で嘲笑され、敵視されるようになったかについて書かれた本だ。
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 チャヴとは、英国の労働者階級を侮蔑的に呼ぶ言葉だが、もとは(欧州から中東まで差別の対象となってきた)ロマ族の言葉で子どもを指す「チャヴィ」から来ているそうで、つまり激しく差別的な呼称である。ところが英国ではチャヴのファッションや生活をおもしろおかしく取り上げるテレビ番組やサイトが堂々と放送、公開されて人気を博していたり、自身は私立校出身の大金持ちのコメディアンがチャヴの口調を真似して笑いをとったりしているそうだ。
 オーウェン・ジョーンズという英国の歴史学専攻の若者が20代だった2011年に書いたこの本は、世界的ベストセラーとなり、政治運動、社会運動に一石を投じた。著者自身はオックスフォード大学のエリートという社会的強者であるが、強者であることを自覚している。自覚している、と言うのは、強者が持っている力が強者自身の努力で手にしたものでないことをわきまえている、ということだ。だからチャヴという、いまや下層階級になってしまった労働者階級に対する見方が、上から目線ではない。同情とか手を差し伸べなくては、とかいう上からの姿勢ではない。チャヴが困っていること、チャヴの人生の喜びと希望を、チャヴの側に立ってかなり公平に冷静に分析している。
 サッチャー政権時代以来、労働者階級の人々が大切にしてきた価値観はズタズタにされた。英国が厳然とした階級社会であるという現実を無視して、「がんばれば努力が報われる社会にします」(はい、どこかで聞いたことがありますね、このセリフ)とか言って、社会設計を大きく変更した。福祉を大幅に切り捨て、困っている人たちには「がんばれ」とエールだけ送り、自助努力と自己責任という言葉で斬り捨てた。
 階級のトップに立つ人たちにとっての「階級」とは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした仕事につき、まじめに働いて金を稼げれば、すいすいと階段をのぼっていけるような感覚なのだろう。だが、「ちゃんとした」教育や仕事の概念が、中産階級と労働者階級とでは異なることを、政治家たちはまったく気づかなかった。労働者階級の中には、階級の階段をのぼりたくない、いまの生活で十分ハッピーだ、という人たちだって大勢いるのだ。というか、そちらのほうが多数派だ。「自助努力で中産階級に這い上がれ」といくら鼓舞したところで、価値観が根本から違うのだから動かないし動けないし、動く気がまったくない。そういう人たちの仕事(鉱山や工場の閉鎖が1980年代から相次いだ)を奪い、若者たちの人生の選択肢を狭め、「落ちこぼれ」「負け組」とレッテルを貼って嘲笑している。それがチャヴを笑いものにしている今の英国社会だ、と著者は言う。
「労働者階級の人々を悪者扱いすることは、不合理な制度を正当化する恐ろしく合理的な手段である。そうやって彼らを敵視し、彼らの関心事を無視したうえで、いまのはなはだ不公平は富と権力の分配は、人の価値や能力を公平に反映していると正当化する。だが、この敵視には、さらに悪質な意図がある。労働者階級の特定のコミュニティをむしばむ貧困、失業、犯罪といった社会問題全般に、自己責任の原則を当てはめるという意図だ。「ブロークン・ブリテン」においては、被害者はつねに自分を責めるしかない」(引用終わり)
 今年出会ったベスト本の1冊である「子どもたちの階級闘争」(ブレイディみかこ著、岩波書店)で知った本書「チャヴ」であるが、読みながら「え? これって日本の話じゃないのか?」と思う箇所がいくつもあった。と言うか、本書はまさに日本社会に当てはまる内容だ。2011年に英国で現実だったことは、2017年の日本でも現実だ(2017年以前からもちろん現実である)。生活保護受給者へのバッシング、在日外国人(特にアジア)労働者の敵視、難民受け入れの拒否……どれも根っこのところは同じだ。弱者への敵視。弱者になったのは、弱者自身の「自己責任」だとして、その人たちが何を考え、求めているかをちゃんと見ようとしない。
 政治や社会問題なんてむずかしそう。英国は階級社会だろうけれど、日本は一億総中流社会(→いつの時代だ? そもそもそんな社会だった時代が日本にあったのか?)だから関係ない。そう言わないで、ぜひぜひ読んでみてほしい。強者/弱者、富めるもの/貧しいもの、と社会が極端な形で二分されている現実から目を背けて、弱者を敵視(「ああはなりたくない」「お友達になりたくない」という意見も含まれる)しているうちに、自らが敵視される社会になってしまう……かもしれないのだから。

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