Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2018年02月

 世の中(日本の一部限定の「世」だけれど)がオリンピックで盛り上がっているところ、なーんも関係のない自分のからだのことを書き連ねる自分にちょっと呆れている。でもね、行きますよ、太もものつぎは広すぎる肩幅だ!
(毎度いうけれど、私はスポーツ競技を見るのは大好きだが、オリンピックは敬遠しがち。冬季オリンピックではアイスホッケーとボブスレーが好きで録画して見ているのだけれど、それは日本があんまり強くないから。何がいやだって「日本、メダルを惜しくも逃しました!」とか「応援している日本全国民の期待を背負って」とかアナウンサーが絶叫するのがほんとに嫌なんだ。もちろん私は日本選手に期待しているよ。でも、日本人だから、ではなく、その選手だから応援しているんだ。だからアナウンサーが言う「応援している日本全国民」の中に私を入れないでくれ、と思う。スポーツをスポーツとして楽しみたい。でも「国家の威信」とか「国の期待」とかそういうのが入り込んだとたんにげんなりしてしまう。気持ちが悪い。やー、「非国民」発言してすっきり)

 スッキリしたところで、さて、肩幅である。私は肩幅が「標準」より2センチほど広い。身長162センチで40センチある。平均は38センチらしいので、2センチ余分だ。しかも「太もも」で書いたように筋肉もりもり体質なので、腕周りが太く、よけいに肩幅が広く見える。自分の肩幅が平均よりも広いことを痛感させられたのは、「洋裁教室」だった。
 1960年代〜70年代前半にかけて、既製服化率が急上昇したものの、まだ主婦たちは自分や子どもの服を自分でミシンを踏んで作ることが多かった。中でも手先が器用な我が母は、自分の服はもちろん、娘たちの服もほとんどを手作りしていた。実家を片付けた去年、母の家計簿日誌が出てきたのでページを開くと、「洋裁教室」という日が週に1回ある。洋裁教室、と聞いてもピンとこない人たちが多いだろうが、1970年代までは「洋裁教えます」という看板が街のあちこちに見られた。戦後、急速に洋装が普及したとはいえ、おしゃれな既製服が安価に大量に手にはいる時代ではなかったから、ちょっとおしゃれな外出着を着たいと思ったら、自分で作るしかなかったのだ。独学で仕立てられるほど洋服の知識がなかった女性たちに、洋裁学校に通って知識と技術を身につけた人が自宅で教える「洋裁教室」は戦後まもなくから街中のそこいら中にあった。洋裁技術を持った女性の恰好の「内職」だったと言える。とは言っても、洋裁教室が活況を呈した時代は短く、既製服がかなり安価に手にはいるようになった1980年代後半以降は激減し、いまやほとんど消滅したのだが。
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(まだノースリーブが着られた8歳くらいの頃。子どもの頃、お出かけ着はほとんど母の手作りだった。妹お揃いのワンピースはよく作ってくれた)

 母が習っていた先生の「洋裁教室」は、生徒である母や友人たちの自宅が持ち回りで開かれたので、我が家でも「明日は洋裁教室」というときには居間が片付けられ、ミシンが食卓に置かれて前日から準備が整えられた。私が小学生から中学卒業するくらいまで、我が家では月に1回ほど開催されていたように記憶する。午前中に集まった生徒である母や友人たちと先生は、ランチやお茶の時間をはさんでにぎやかに談笑しながら、家族の服を仕立てる。模造紙で型紙を製作し、布地を裁断し、仮縫いをし、ミシンで縫い上げるという工程を、学校から帰ってきておやつを食べながら見るのが眺めるのが好きだった。
 成人女性向けに「ミセス」、思春期の娘たちのために「装苑」が毎月配達され、好きなデザインを私たちも眺めては「これ作って!」とリクエストを出した。服飾雑誌、というのは、今のファッション雑誌のように流行を知るために見る/読むという以上に、後ろについている「型紙」を獲得するためのものだった。そして「洋裁」は女性、特に既婚女性にとっては身につけておかねばならない技術であり、母たちの洋裁教室は趣味という以上に、家族の衣生活を支えるために必要な「家事」だったと思う。
 長々と洋裁教室について書いたのは、戦後に洋装が普及し、洋裁教室が活況を呈するようになったその時代に、女性たちは「計測された数値によって身体を知る」ことになったと思うからだ。洋裁教室がすたれたあと、女性たちは既製服サイズによって自分の身体を知るようになるのだが、それは計測数値による身体観よりずっと大雑把な把握だと思う。
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(なで肩の母はノースリーブを自分で仕立ててよく着ていた)

 育ち盛りだった10代の頃、私はしょっちゅう「服を作ってあげる」という母や洋裁教室の先生にからだを計測された。自分のからだがどんどん変化していくことに戸惑い、ときには嫌悪感が芽生える思春期に、数値によってその変化を目の前に突きつけられたわけだ。しかも計測のたびに、ミリ単位で平均との差を目の前に突きつけられる。身長が伸びるのは許容できるとして、胸囲が見る見るうちに大きくなっていき、「あら、先月と比べてもう1センチも胸回りが大きくなっているわ」とか言われると、もう「舌を噛んで死にたくなる」(by庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」)気分になる。
 それ以上に私が悩まされたのが、肩幅である。胸囲以上になぜか肩の成長速度が速かった中学生のころ。骨も伸びているが、それ以上に背中も含めた肩周りにがっつりと筋肉がついて盛り上がり、計測されるたびに、「立派な肩をしてはるわ〜」「いかり肩なんやね」と背中をなでさすられると、自分が憧れている「しとやかでかわいい女の子」には到底なれないという気分になった。
 私が憧れていたのは「なで肩」だった。少女漫画で、男の子にやさしく肩を抱かれるヒロインはみんななで肩だったから。ロマンス小説で「彼の腕の中にすっぽりくるまれる」のはなで肩のほっそりした女の子だったから。いかり肩のがっつり筋肉がついて、平均より2センチも広い肩を抱きたい男の子がいるとはとても思えない。恋愛妄想にふけっている最中、妄想の彼にそっと肩を抱かれる瞬間、「あれ?ずいぶんがっしりしているんだね」と言われることが予測できて、妄想はずーんと暗くなった。
 恋愛は妄想ですむが、現実問題として肩幅が広いとノースリーブが着られないのが悲しい。洋裁教室の先生や母から「元子ちゃんはノースリーブはやめといたほうがいいね。肩幅40センチだとちょっとね」と言われて、その場では「そうだね」と返事をしながら、自分の部屋の鏡の前でいかつい肩甲骨を眺めて涙した(半分嘘)。
 今もノースリーブは着られない。今はさすが39センチ切るほどの肩幅になったし、今では恋愛妄想からも解放されているのだが、二の腕にたっぷり贅肉がついたせいで、ますますノースリーブが似合わなくなった。
 洋裁教室のトラウマをもっと早くに振り切って、「40センチがなんだー!」とノースリーブを着ておけばよかった。
 

 運動がまったくダメダメで、運動コンプレックスにも悩まされ続けた私が唯一「これだけは得意!」と胸を張れる運動、それが水泳だ。なぜか、泳ぐのは得意だった。特に平泳ぎ(と1960年代は言っていたのだよ、若者諸君)は得意中の得意だった。かけっこや縄跳びやゴム弾飛びがどれだけ教えられても努力してもできないのに、なぜ平泳ぎだけは教えられもしないのにできたのかは謎である。ともかく、小学生のときから夏休みになると町営プールが主催する水泳教室に日参した。
 私が中学2年のときに学校にプールができ、「水泳部」が創設されると、迷いなく入部した。対外試合にも「遠征」して、「ブレスト」と名前を変えた平泳ぎ部門ではそこそこの成績をおさめた……という記憶があるが定かではない。成績はともかく、プール開きの7月からプール仕舞いの9月まで、生理のとき以外はほぼ毎日泳いでいたから、もう日焼けで真っ黒で、冬場の筋トレのおかげで筋肉もりもりだった。
 高校1年のある夏の夕暮れ、家族(当時は10人以上いた)で 食卓を囲んでいたところ、父が短パンからむき出しになっていた私の太ももに見て、こう言ったのだ。
「 えっらいたくましいなあ。女の子の太ももやないぞ。水泳選手になるわけやないんやから、ええ加減にしとけや。嫁の貰い手なくなるぞ」
 旧制中学時代に水球の選手だった父だから、娘の水泳も奨励しているにちがいない、と思い込んでいた。だが、そのとき気づいた。父はがっしりした筋肉もりもりの体型の女は好みではないのだ。女はほっそりとたおやかな、つまり母のような体型の女性が好きなのだ。母はまっすぐの細い脚で、お尻も太ももも丸みこそあれ、筋肉なんか見当たらず、まるで竹久夢二が描く女性の「やなぎごし」そのままの足腰だった。つまり、体型だけをとれば私とは似ても似つかなかった。父にとって「女らしさを表す体型」とは、母のような「骨? 筋肉? それなんでございますの? わたしのからだはマシュマロでできていますの、ほほほ」の竹久夢二タイプだったわけだ。
 だが、女の子たちが憧れる体型はちょっとちがったと思う。1964年東京オリンピック後、女性、特に中高生女子の間に空前のスポーツブームが起こっていた。「アタックNo1」「サインはV」というスポ根ドラマを食い入るように見ていた女子は数多く、もちろん私もその一人。部活も体育会系が人気で、からだを鍛えて根性を鍛える、というのが流行りだった、と思う。
 私が憧れた水泳部のI先輩は、細身で背が高かったけれど、筋肉質で全身バネのようだった。顔立ちはもはや思い出せないのだが、引き締まったウエストからお尻と太ももがぐっと張り出し盛り上がっていた後ろ姿は脳裏に刻まれまくっている。たしか上に2人のお兄さんがいる末っ子で、「アニキらにはぜったい負けたくないねん、勉強も運動も」と言っていて、性格は男っぽく親分肌だった。女子校の女子が、擬似男子として憧れる要素を兼ね備えていたI先輩。「ああ、I先輩のような体型になりたい」と私がうさぎ跳び(当時はうさぎ跳び校庭一周とか平気でやっていた)やハシゴ車(両足を持ってもらって腕で歩く)に必死になったのも無理はない。
 父に太ももを全否定されるくらいどうってことなかったが(いや、今も記憶しているくらいだから結構堪えたのだ、ほんとは)、思春期女子にとっては、笑えない否定があった。ジーンズである。1960年代からジーンズが大流行。男性も女性も若者である証明はジーンズをはくこと、といってもいい時代だった。ところが、である。私の太ももは売られているジーンズを受け付けなかった。ジーンズサイズ27が「標準」という中で、私は29でもきつい。無理してはくと太ももの血管が圧迫されて苦しい、という状態。膝まで入っても、それ以上は上がらないジーンズを前に、試着室で人知れず涙を流した(半分嘘)。
 ちょっとここで今の若い人たちには信じられない話をしておくと、1960年代、70年代には「ズボン(今でいうパンツ、ジーンズを含む)をはくのは女らしくない」として娘にパンツ着用禁止令を発布している家庭が多かった。関西の私の家庭は結構リベラルだったと思うのだが、それでも「山登りに行くような格好で街中に出るな」と街に出かけるときには親からパンツを禁止されていた。そんな禁止令は私の時代で終わったかと思いきや、1990年代、制服のない女子校に通っていた娘が「○○ちゃんの家では、お父さんがパンツをはくのを禁止しているからいつもスカートで、痴漢にあって辛いと言っていた」というのを聞いて驚いた。それは例外にしても、そうです、少なくとも1980年代末くらいまでは「ちゃんとした家庭の女の子は街中でパンツなんか履くもんじゃない! レジャー(死語)のときは別にして」というわけのわからない「教え」が日本に流布して居たのですよ、みなさん。
 でも、私は別に親から禁止されているからではなく、ジーンズやパンツのほうが私を拒否していたためにパンツが履けなかったのだ。私にも履けるジーンズが市場に出てくるのは、ストレッチ素材が普及した1980年代になってから。筋肉モリモリではなくなったけれど、贅肉はしっかりとついて太さは中高生のころと変わらない私の太ももでも、やさしく包んでくれるジーンズやパンツが市場にあふれてだした1980年代以降、私のワードローブの基本は「パンツ」になった。
 太ももが横に張り出している体型は、実は日本人特有と聞いたことがある。たしかなデータがあるわけではないので、あくまでも伝聞だ。ジーンズを履くとき、どこで引っかかるかというと、日本女性は太もも、欧米女性はお腹と聞いた。そうか、やっぱりね。私だけじゃなかったのだ、この太もも。
 太ももの太さは変わらないのだけれど、最近はこの太ももに感謝もしている。なぜなら、太ももこそからだを支える重要な筋肉の塊、と聞いたから。80歳を過ぎるころから次第に歩行がむずかしくなってきた父の体型で、もっとも顕著に変わったのが太ももだった。水球やゴルフで鍛えてぱんと張っていた太ももが、みるみるうちに細くなり、それとともに歩行が難しくなった。それでも、最後まで自力で歩行し、リハビリにも励み、死ぬ間際までトイレも一人で歩いて行けたのは、昔鍛えた太もものおかげだったのではないか。
 今はときどきスクワットをしながら、太ももをさすって、「もっとがんばって太くなってね」と励ましている。相変わらずジーンズは似合わない原因だけれどね。
(水泳部時代の水着姿の写真がないかと必死に探したのですが、アルバムにはみつかりませんでした。なので、というのではないけれど、20歳のころのジーンズ姿を乗っけておきます。太ももの太さが目立たないなあ、この写真じゃ)
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 自慢じゃないが、私の足は見事なくらいの台形だ。指を広げると、かかとの幅の3倍近くに広がる台形。しかも多少小指のほうに傾いているとはいえ、親指の先端と小指の先端を結ぶとほぼ水平に広がっている。その上、甲が盛り上がっている。足の長さは24センチを切るのだけれど、最低でも24.5センチの靴でないと履けない。靴の形によってはそのサイズでもまったく入らないことがある。ポイントトゥと言われる先端がとんがっているヒールなんて、どれだけサイズをあげようがハナからお呼びじゃないし、繊細なデザインの靴も入らない。つまり、成長してからこのかた、違和感なくはける靴がほんっとに見つからないのである。だから靴屋は大っ嫌いだった。
 バーナード・ルドルフスキーという文化人類学と建築学の研究者が書いた「みっともない人体」という本が、ファッションにかかわっていた1980年代に私の愛読書だったのだけれど、そこでヒトの足の形は靴の形とはちがうという指摘があった。靴(片方だけ)は中指を頂点として左右対称につくられているが、実際の人間の足は小指方向に傾斜している。つまり、形が違うところに無理やり押し込んではくのが靴、という話だった。
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 この本を読んだのは、25歳のとき。目からウロコだった。な〜んだ、靴の形って人間のからだを無視して作られているんだ。そう思うと気が晴れた……わけがない。だって、世の中のファッション性が高い靴は、私にとっては「根性試し」でしかないのだから。星飛雄馬の鉄下駄と共通している。鉄下駄で鍛えられるのは根性とともに足腰だろうが、おしゃれ靴では見栄っぱりに徹する根性は鍛えられても、足腰はボロボロになる。
 「おしゃれ(女)やめますか? 血豆作って腰痛に耐えますか?」の二者択一を迫られて、25歳の私が選んだのは、当然「女を貫き血豆まみれ」の道である。というか、1980年代初頭には、そもそも靴屋に「女やめてもいいですよ」の靴は並んでなかった。年頃の女は当然のように「血豆、腰痛」を選ぶものと決めつけられていた。
 その後、ファッションがどんどんカジュアルになっていって、「着心地」がファッション性につながる時代がやってきた。80年代後半からは日本人デザイナーが世界(といっても西欧のパリとかミラノ)に認められるようになり、日本人の体型にあった(でもこのころには日本の女性の体型は見事に欧米化していたのだが)服がブームになった。それにともない、何も無理してヒール履く必要ないじゃん、脚が短くたっていいじゃん、ということでローヒール、もしくはスニーカータイプの「履きやすい」靴がどんどん市場に出回るようになり、私の足もしだいに血豆から解放されていったのだった。
 1980年代からは市民マラソンに参加する人が増加するなどランニングブームがやってきて、その影響かスーツにスニーカーで通勤しても許されるようになった。私が1982年にニューヨークを訪れた際、ウォール・ストリートを歩いている「私、ばりばりキャリアウーマンどすえ(なぜか舞妓口調)」という女性たちが、スニーカーにスーツだったことに驚いた記憶がある。たぶん会社の中ではヒールに履き替えていたのだろうが、少なくとも通勤中は当時からスニーカーOKだったのだ。
 1980年に第一子が生まれ、抱っこ紐とバギーで通勤途中に子どもを保育園に預ける生活が始まっていた私は、そのさっそうとしたキャリアウーマン(今となっては死語)にお墨付きをもらった気がした。今は女より母と仕事だ。何も痛くて危ない靴を履くことはない。ダサいと言われたらこう胸を張ろう! 「ニューヨークの女性はね、スニーカーで出勤していたよ」。鼻息荒く「ではのうみ」となって寄り切り、寄り切ったのはいいが、私の靴はどんどん草履か長靴に近くなっていった。
 あのころ私が履いていた24.5センチのローファーは男物の無骨な靴と変わらない。そのうち男女区別無しのブランドで購入したワーキングブーツなんか履いちゃったりもした。マンションの狭い玄関に脱ぎ捨てたそのワーキングブーツを見て、遊びに来た娘の友だちが「お父さん、消防士さんなの?」と聞いたのも、今となっては、笑い話……いや、今も笑えないね。
 世の中には私のような「デカ足の悩み」を抱えている女性が大勢いるんだ、ということに気づいたのは、遅まきながら次女が中学に進学したときだった。次女、かわいそうに私とまったく同じ甲高段広。しかも25センチも危ういというデカ足なのだ。中学入学と同時に、体育館履き用にダンスシューズを買わされたのだが、サイズお試し用に並んでいた中に娘が履ける靴はなかった(涙)。そこでうっかり私が「あら、サイズがない、25センチか25.5センチのお取り寄せお願いします」とか大声で口走ったことが、思春期の次女を大いに傷つけてしまった。
 ところがある日、次女が顔を輝かせて学校から帰ってくるなり私に報告した。
「○○ちゃんも、△△ちゃんも25センチ以上なんだって! みんな履く靴がなくて困っているって。今度みんなで大きめの靴を買いに行くことにした!」
 そして私は娘に教えられた。クラスの4分の1が24.5センチ以上であって、いまやデカ足は「標準サイズ」になりつつある、と。25センチサイズでも、探せば「かわいい」靴があるのだ、と。
 それでも甲高段広のデカ足に合う「かわいい」靴には巡り合わないものらしい。娘も「かわいい靴」を履く誘惑にまけて「血豆と腰痛」を選択し、かつ外反母趾も併発(?)しているとか。 
 靴で悩み続けたせいかどうか、ここ10年ほど私はすっかり「靴フェチ」となっている。「かわいい靴」を見て、とりあえず足が入ったら、もうね、買っちゃうの。女はとっくの昔(5年くらい前)に捨てたけれど、残り少ない人生、かわいい靴が履ける体力と気力がある間に履いちゃうの。
 そんな私の、デカ足コンプレックスに端を発した「靴フェチ」心を刺激した靴を何足か披露しておきます。お気に入りの靴には男性の名前をつけることにしています。履くたびに、「グレゴリー、今日はどない?(ぐりぐり)」とか「アントニオ、今日も私と踊ってね(どたどた)」と声をかけて、ちょっと淫靡な気分に浸ったりして。
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 お気に入りの靴の一足、グレゴリーです。「トーガ・プッラ」というブランド。
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こちらがアントニオ。「ユナイテッド・ヌード」というブランドです。 

 私は年がら年中、四六時中「からだ」のことを考えています。
 とは言っても、健康に気を配っているというのではありません(健康オタクを自認してはいますが)。鏡の前に立つたびに「太ったかな?」と怯えと焦りに苛まれ、「痩せたかな?」とほくそ笑むのは、すでに半世紀にわたって私の日常的「思考習慣」となっています。思えば私は、自分のからだに満足したことがありません。太っている・痩せているというだけの問題ではなく、からだの隅々までが気に入らない。四六時中考えているといっても、「あそこがいやだ」「ここが嫌いだ」とマイナス思考に悩まされているというのが本当のところ。
 思えば物心ついたころから、私はずーーーっとからだのコンプレックスに悩まされてきました。だんご鼻、広い肩幅、手足の太さ、バストとヒップのでかさ、すぐに出るじんましんやニキビ、でか足(24.5センチ)、毛深さ……からだの隅々まで嫌なところばっかり。「神さまはなぜこの(微妙に醜い)からだを私に与えられたのか?」と若いころは真剣に悩み、「お金を稼いで整形したい」と結構本気で思っていました。
 ところが、昨年実家を片付けたときに出てきた昔のアルバムを見ると、私はどの年代でも太ってはいないのです。63歳の視点で13歳(からだコンプレックスに悩み始めていたころ)や20歳(デブ真っ盛りと思っていたころ)の私を見ると、「あれ? 結構イケてる(死語)じゃないか」と拍子抜け。なんだかとっても時間と労力を損した気になってきました。(ここでお恥ずかしながらそのころの私の写真を公開しておきます。14歳と20歳のころです)
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 なぜあんなにも自分の「からだ」が嫌いだったのでしょうか? うじうじと悩み続けた「からだコンプレックス」とはいったい何だったのか? お尻が大きいから、脚が太いから、毛深いから、ダンゴ鼻だから、ニキビが出ているから、だからだから私は男の子にモテないんだ〜〜〜!!! と思い込んでいたけれど、違いましたね。からだコンプレックスに苛まれて暗かったから、モテなかったんです。
 と前置きが長くなりましたが、これから何回かに分けて「からだ」のことを書いてみたいと思います。あとどれくらいでこのからだとのつきあいが終わるかわかりませんが、これまでのコンプレックスを清算して、これからは自分のからだをもっと好きになって、仲良くしていきたいのです。
 私の思春期はフェミニズム=女性解放運動の幕開けと同じくらいの時期(1960年代後半)に始まりました。「女性が自分のからだを自分でコントロールするようになった時代」です。それから半世紀。女性たちは自分のからだから解放されたはずです。でも、娘たちを見ていて思うのは、女の子の「からだコンプレックス」は私の時代とあまり変わっていない。なぜなんだろう? なぜもっと自分のからだと素直に向き合えないのだろう? そんな歯がゆさも含めて、からだを振り返ってみたいと思います。
 

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