世の中(日本の一部限定の「世」だけれど)がオリンピックで盛り上がっているところ、なーんも関係のない自分のからだのことを書き連ねる自分にちょっと呆れている。でもね、行きますよ、太もものつぎは広すぎる肩幅だ!
(毎度いうけれど、私はスポーツ競技を見るのは大好きだが、オリンピックは敬遠しがち。冬季オリンピックではアイスホッケーとボブスレーが好きで録画して見ているのだけれど、それは日本があんまり強くないから。何がいやだって「日本、メダルを惜しくも逃しました!」とか「応援している日本全国民の期待を背負って」とかアナウンサーが絶叫するのがほんとに嫌なんだ。もちろん私は日本選手に期待しているよ。でも、日本人だから、ではなく、その選手だから応援しているんだ。だからアナウンサーが言う「応援している日本全国民」の中に私を入れないでくれ、と思う。スポーツをスポーツとして楽しみたい。でも「国家の威信」とか「国の期待」とかそういうのが入り込んだとたんにげんなりしてしまう。気持ちが悪い。やー、「非国民」発言してすっきり)
スッキリしたところで、さて、肩幅である。私は肩幅が「標準」より2センチほど広い。身長162センチで40センチある。平均は38センチらしいので、2センチ余分だ。しかも「太もも」で書いたように筋肉もりもり体質なので、腕周りが太く、よけいに肩幅が広く見える。自分の肩幅が平均よりも広いことを痛感させられたのは、「洋裁教室」だった。
1960年代〜70年代前半にかけて、既製服化率が急上昇したものの、まだ主婦たちは自分や子どもの服を自分でミシンを踏んで作ることが多かった。中でも手先が器用な我が母は、自分の服はもちろん、娘たちの服もほとんどを手作りしていた。実家を片付けた去年、母の家計簿日誌が出てきたのでページを開くと、「洋裁教室」という日が週に1回ある。洋裁教室、と聞いてもピンとこない人たちが多いだろうが、1970年代までは「洋裁教えます」という看板が街のあちこちに見られた。戦後、急速に洋装が普及したとはいえ、おしゃれな既製服が安価に大量に手にはいる時代ではなかったから、ちょっとおしゃれな外出着を着たいと思ったら、自分で作るしかなかったのだ。独学で仕立てられるほど洋服の知識がなかった女性たちに、洋裁学校に通って知識と技術を身につけた人が自宅で教える「洋裁教室」は戦後まもなくから街中のそこいら中にあった。洋裁技術を持った女性の恰好の「内職」だったと言える。とは言っても、洋裁教室が活況を呈した時代は短く、既製服がかなり安価に手にはいるようになった1980年代後半以降は激減し、いまやほとんど消滅したのだが。
(まだノースリーブが着られた8歳くらいの頃。子どもの頃、お出かけ着はほとんど母の手作りだった。妹お揃いのワンピースはよく作ってくれた)
母が習っていた先生の「洋裁教室」は、生徒である母や友人たちの自宅が持ち回りで開かれたので、我が家でも「明日は洋裁教室」というときには居間が片付けられ、ミシンが食卓に置かれて前日から準備が整えられた。私が小学生から中学卒業するくらいまで、我が家では月に1回ほど開催されていたように記憶する。午前中に集まった生徒である母や友人たちと先生は、ランチやお茶の時間をはさんでにぎやかに談笑しながら、家族の服を仕立てる。模造紙で型紙を製作し、布地を裁断し、仮縫いをし、ミシンで縫い上げるという工程を、学校から帰ってきておやつを食べながら見るのが眺めるのが好きだった。
成人女性向けに「ミセス」、思春期の娘たちのために「装苑」が毎月配達され、好きなデザインを私たちも眺めては「これ作って!」とリクエストを出した。服飾雑誌、というのは、今のファッション雑誌のように流行を知るために見る/読むという以上に、後ろについている「型紙」を獲得するためのものだった。そして「洋裁」は女性、特に既婚女性にとっては身につけておかねばならない技術であり、母たちの洋裁教室は趣味という以上に、家族の衣生活を支えるために必要な「家事」だったと思う。
長々と洋裁教室について書いたのは、戦後に洋装が普及し、洋裁教室が活況を呈するようになったその時代に、女性たちは「計測された数値によって身体を知る」ことになったと思うからだ。洋裁教室がすたれたあと、女性たちは既製服サイズによって自分の身体を知るようになるのだが、それは計測数値による身体観よりずっと大雑把な把握だと思う。
(なで肩の母はノースリーブを自分で仕立ててよく着ていた)
育ち盛りだった10代の頃、私はしょっちゅう「服を作ってあげる」という母や洋裁教室の先生にからだを計測された。自分のからだがどんどん変化していくことに戸惑い、ときには嫌悪感が芽生える思春期に、数値によってその変化を目の前に突きつけられたわけだ。しかも計測のたびに、ミリ単位で平均との差を目の前に突きつけられる。身長が伸びるのは許容できるとして、胸囲が見る見るうちに大きくなっていき、「あら、先月と比べてもう1センチも胸回りが大きくなっているわ」とか言われると、もう「舌を噛んで死にたくなる」(by庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」)気分になる。
それ以上に私が悩まされたのが、肩幅である。胸囲以上になぜか肩の成長速度が速かった中学生のころ。骨も伸びているが、それ以上に背中も含めた肩周りにがっつりと筋肉がついて盛り上がり、計測されるたびに、「立派な肩をしてはるわ〜」「いかり肩なんやね」と背中をなでさすられると、自分が憧れている「しとやかでかわいい女の子」には到底なれないという気分になった。
私が憧れていたのは「なで肩」だった。少女漫画で、男の子にやさしく肩を抱かれるヒロインはみんななで肩だったから。ロマンス小説で「彼の腕の中にすっぽりくるまれる」のはなで肩のほっそりした女の子だったから。いかり肩のがっつり筋肉がついて、平均より2センチも広い肩を抱きたい男の子がいるとはとても思えない。恋愛妄想にふけっている最中、妄想の彼にそっと肩を抱かれる瞬間、「あれ?ずいぶんがっしりしているんだね」と言われることが予測できて、妄想はずーんと暗くなった。
恋愛は妄想ですむが、現実問題として肩幅が広いとノースリーブが着られないのが悲しい。洋裁教室の先生や母から「元子ちゃんはノースリーブはやめといたほうがいいね。肩幅40センチだとちょっとね」と言われて、その場では「そうだね」と返事をしながら、自分の部屋の鏡の前でいかつい肩甲骨を眺めて涙した(半分嘘)。
今もノースリーブは着られない。今はさすが39センチ切るほどの肩幅になったし、今では恋愛妄想からも解放されているのだが、二の腕にたっぷり贅肉がついたせいで、ますますノースリーブが似合わなくなった。
洋裁教室のトラウマをもっと早くに振り切って、「40センチがなんだー!」とノースリーブを着ておけばよかった。
(毎度いうけれど、私はスポーツ競技を見るのは大好きだが、オリンピックは敬遠しがち。冬季オリンピックではアイスホッケーとボブスレーが好きで録画して見ているのだけれど、それは日本があんまり強くないから。何がいやだって「日本、メダルを惜しくも逃しました!」とか「応援している日本全国民の期待を背負って」とかアナウンサーが絶叫するのがほんとに嫌なんだ。もちろん私は日本選手に期待しているよ。でも、日本人だから、ではなく、その選手だから応援しているんだ。だからアナウンサーが言う「応援している日本全国民」の中に私を入れないでくれ、と思う。スポーツをスポーツとして楽しみたい。でも「国家の威信」とか「国の期待」とかそういうのが入り込んだとたんにげんなりしてしまう。気持ちが悪い。やー、「非国民」発言してすっきり)
スッキリしたところで、さて、肩幅である。私は肩幅が「標準」より2センチほど広い。身長162センチで40センチある。平均は38センチらしいので、2センチ余分だ。しかも「太もも」で書いたように筋肉もりもり体質なので、腕周りが太く、よけいに肩幅が広く見える。自分の肩幅が平均よりも広いことを痛感させられたのは、「洋裁教室」だった。
1960年代〜70年代前半にかけて、既製服化率が急上昇したものの、まだ主婦たちは自分や子どもの服を自分でミシンを踏んで作ることが多かった。中でも手先が器用な我が母は、自分の服はもちろん、娘たちの服もほとんどを手作りしていた。実家を片付けた去年、母の家計簿日誌が出てきたのでページを開くと、「洋裁教室」という日が週に1回ある。洋裁教室、と聞いてもピンとこない人たちが多いだろうが、1970年代までは「洋裁教えます」という看板が街のあちこちに見られた。戦後、急速に洋装が普及したとはいえ、おしゃれな既製服が安価に大量に手にはいる時代ではなかったから、ちょっとおしゃれな外出着を着たいと思ったら、自分で作るしかなかったのだ。独学で仕立てられるほど洋服の知識がなかった女性たちに、洋裁学校に通って知識と技術を身につけた人が自宅で教える「洋裁教室」は戦後まもなくから街中のそこいら中にあった。洋裁技術を持った女性の恰好の「内職」だったと言える。とは言っても、洋裁教室が活況を呈した時代は短く、既製服がかなり安価に手にはいるようになった1980年代後半以降は激減し、いまやほとんど消滅したのだが。
(まだノースリーブが着られた8歳くらいの頃。子どもの頃、お出かけ着はほとんど母の手作りだった。妹お揃いのワンピースはよく作ってくれた)
母が習っていた先生の「洋裁教室」は、生徒である母や友人たちの自宅が持ち回りで開かれたので、我が家でも「明日は洋裁教室」というときには居間が片付けられ、ミシンが食卓に置かれて前日から準備が整えられた。私が小学生から中学卒業するくらいまで、我が家では月に1回ほど開催されていたように記憶する。午前中に集まった生徒である母や友人たちと先生は、ランチやお茶の時間をはさんでにぎやかに談笑しながら、家族の服を仕立てる。模造紙で型紙を製作し、布地を裁断し、仮縫いをし、ミシンで縫い上げるという工程を、学校から帰ってきておやつを食べながら見るのが眺めるのが好きだった。
成人女性向けに「ミセス」、思春期の娘たちのために「装苑」が毎月配達され、好きなデザインを私たちも眺めては「これ作って!」とリクエストを出した。服飾雑誌、というのは、今のファッション雑誌のように流行を知るために見る/読むという以上に、後ろについている「型紙」を獲得するためのものだった。そして「洋裁」は女性、特に既婚女性にとっては身につけておかねばならない技術であり、母たちの洋裁教室は趣味という以上に、家族の衣生活を支えるために必要な「家事」だったと思う。
長々と洋裁教室について書いたのは、戦後に洋装が普及し、洋裁教室が活況を呈するようになったその時代に、女性たちは「計測された数値によって身体を知る」ことになったと思うからだ。洋裁教室がすたれたあと、女性たちは既製服サイズによって自分の身体を知るようになるのだが、それは計測数値による身体観よりずっと大雑把な把握だと思う。
(なで肩の母はノースリーブを自分で仕立ててよく着ていた)
育ち盛りだった10代の頃、私はしょっちゅう「服を作ってあげる」という母や洋裁教室の先生にからだを計測された。自分のからだがどんどん変化していくことに戸惑い、ときには嫌悪感が芽生える思春期に、数値によってその変化を目の前に突きつけられたわけだ。しかも計測のたびに、ミリ単位で平均との差を目の前に突きつけられる。身長が伸びるのは許容できるとして、胸囲が見る見るうちに大きくなっていき、「あら、先月と比べてもう1センチも胸回りが大きくなっているわ」とか言われると、もう「舌を噛んで死にたくなる」(by庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」)気分になる。
それ以上に私が悩まされたのが、肩幅である。胸囲以上になぜか肩の成長速度が速かった中学生のころ。骨も伸びているが、それ以上に背中も含めた肩周りにがっつりと筋肉がついて盛り上がり、計測されるたびに、「立派な肩をしてはるわ〜」「いかり肩なんやね」と背中をなでさすられると、自分が憧れている「しとやかでかわいい女の子」には到底なれないという気分になった。
私が憧れていたのは「なで肩」だった。少女漫画で、男の子にやさしく肩を抱かれるヒロインはみんななで肩だったから。ロマンス小説で「彼の腕の中にすっぽりくるまれる」のはなで肩のほっそりした女の子だったから。いかり肩のがっつり筋肉がついて、平均より2センチも広い肩を抱きたい男の子がいるとはとても思えない。恋愛妄想にふけっている最中、妄想の彼にそっと肩を抱かれる瞬間、「あれ?ずいぶんがっしりしているんだね」と言われることが予測できて、妄想はずーんと暗くなった。
恋愛は妄想ですむが、現実問題として肩幅が広いとノースリーブが着られないのが悲しい。洋裁教室の先生や母から「元子ちゃんはノースリーブはやめといたほうがいいね。肩幅40センチだとちょっとね」と言われて、その場では「そうだね」と返事をしながら、自分の部屋の鏡の前でいかつい肩甲骨を眺めて涙した(半分嘘)。
今もノースリーブは着られない。今はさすが39センチ切るほどの肩幅になったし、今では恋愛妄想からも解放されているのだが、二の腕にたっぷり贅肉がついたせいで、ますますノースリーブが似合わなくなった。
洋裁教室のトラウマをもっと早くに振り切って、「40センチがなんだー!」とノースリーブを着ておけばよかった。