Glamorous Life

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2018年05月

乳房文化文化研究会の運営委員になってはや20年以上がすぎました。研究活動にほとんど何も貢献していない運営委員でありますが、10年ほど前に北海道大学で中国の文化、文学、芸術を研究しておられる武田雅哉先生が書かれた「楊貴妃になりたかった男たち〜<衣服の妖怪>の文化史」(講談社選書メチエ)という本を読んですごくおもしろかったので、研究会にお呼びして講演をしていただきました。
武田先生としても、乳房文化なんてものを研究している会があることに刺激を受けられたようで、その後、ご自身でも中国だけでなくロシアや日本の乳房の図像から、歴史、文化、社会を 探っていく研究会を立ち上げられました。
研究会に呼んでいただき、日本のバストについてお話ししたことがきっかけに、中国文学、演劇を専門に研究しておられる田村容子先生に乳房文化研究会でお話しいただいたり、ご縁が深まりました。
そんな長年にわたる研究成果の集大成が、このたび岩波書店から発刊された「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい〜乳房の図像と記憶」です。
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私は「日本のバスト70年〜「身だしなみ」から「自分らしさ」へ」という総論を書いています。
研究、というよりも、私的なバスト観、自分のバストに寄せる愛憎半ばする思いを書きました。身体測定データや統計は極力省き(最初は入れていたのですが、限られた枚数では数字を入れると流れがさえぎられてわずらわしかったのです)、バストを意識しはじめてから50年以上の記憶と、20年以上にわたって乳房文化研究会で聞いてきたいろいろな先生たちのお話を折り込みながら書きました。

私の原稿はともかく、22人の共著者たちが「乳房」をさまざまな視点から取り上げたことにより、乳房の奥行きと幅がぐっと広がった本になっています。乳房というと、つい女性の胸のふくらみを考えてしまいますが、男性にも乳房はあります。それなら男性は自分の乳房をどう見ているのか? 女形の役者はどうなのか? LGBTの人たちにとっての乳房は? とどんどん広がっていく乳房をとことん追いかけまくったのがこの本なのです。
日本での呼び方ひとつとっても、ちぶさ、にゅうぼう、ちち、むね、おっぱいとなんと多様なことか。 それなら中国では? ロシアでは? 政治体制が変わると乳房の見方や呼び方も変わるのか? 興味のある方はぜひ書店で手にとってください。豊富な図版を見ているだけでも、きっとくらくらしてくるはず。
 
「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい〜乳房の図像と記憶」
武田雅哉編 
岩波書店(2800円+税) 

 22年前、この家に引っ越してきたとき、最寄駅の駅前には小さいながらも書店が1軒ありました。歩くと8分の隣駅にも2軒ありました。今では隣駅の駅ビルの中に1軒あるだけです。本当に寂しい。歩いて20分のところにある書店も昨年閉店しました。書店は生き延びられない運命にあるようです。
 私は書店が好きです。いや、もう「好き」という段階を超えて、愛している、いや、もっとだ、書店なくしては私は生ける屍、と言ってもいいほどです。何を大げさな、と言われるでしょうが、8歳のときから私にとって書店は「第二の自分の部屋」みたいにくつろげて楽しい場所だったし、なくてはならない居場所でした。
 電車通学だった私は、学校からの帰り道に隣駅まで寄り道して書店に立ち寄るのが楽しみでした。15歳まではお小遣いが少ないので、買うでもなく、立ち読みするでもなく、ただ、本の背表紙を眺め、ぱらぱらとめくり、あああ、大きくなったら本屋さんになろう、と思うだけでしたが、高校生になると「何を買おう」と思ってよけいに心躍る場所になりました。
 お小遣いはほぼ本に消えました。「大人の本」として初めて自分で買った箱入りの単行本は、安部公房の「無関係な死」でした。値段は覚えていないけれど、1ヶ月分のお小遣いはすっ飛びました。いや、足りなかったかも。でも、うれしかった。「幽霊はここにいる」の舞台(田中邦衛主演)を見てから、安部公房に取り憑かれていたから、どうしても彼の本が欲しかった。「図書館で借りなさい」と言われても、それじゃダメなんだと思いました。そして文庫本しか並んでいなかった自分の書棚に、赤い函に入って、薄紙のカバーがついた憧れの作家の本が並んだときは、もう誇らしくて身震いしました。
 私が通いつめた「宝盛館」という阪神芦屋駅前の書店は、今もあります。実家に帰省したとき、たまに立ち寄って存在を確かめたりしていました。
 書店ラブな話を書こうと思ったのは、昨日の日経最終面の文化ページに、作家の小野正嗣さんが寄稿なさった「書店という文芸共和国」という文章を読んだからです。
 胸、どころか、胃袋にまでしみわたるようないい文章で、最後の数行に私はとくに感動しました。ちょっと長いけれど、引用します。
「自己や他者、そして世界とよりよく向き合うために、書物を、とりわけ異国で書かれた作品を読むことを必要とする人々が確実に存在する。既知に安住することなく、異なるものへたえず好奇心を向ける読者たちが、本への愛と情熱を共有する場所としての書店。そこには、国家間の力関係からは自由な、想像力と共感を紐帯に人々が平等に交流しあう<文芸共和国>が開かれている」
 記事の内容は、出版総数に翻訳書が占める割合が3%にすぎないアメリカにあって、翻訳書を中心に扱っている書店が全国にあちこちある、という話です。うらやましい。「異なるものへたえず好奇心を向ける読者」がそれだけ存在していることがうらやましいだけではありません。そういう読者を発掘しようとする書店員の努力があり、異国の作家を呼んで読書の夕べを開く文化があること、それがうらやましいのです。
 日本の書店も相当の努力をなさっています。それでも、<文芸共和国>として経営が成り立っていく書店が、いったい日本に何軒あるでしょう? いや、それ以上に、学校帰りに子どもが気軽に立ち寄って、見知らぬ世界に存分にふれる機会をあたえてくれる書店は全国にどれくらい残っているのでしょうか?
 本は勉強のため、知識を得るための道具ではない、と私は思います。そして書店は、情報や知識や時間つぶしのための消費財を置いているスーパーではないのです。少なくとも、私にとって書店は、昔も今もワンダーランドです。何に出会えるのかわからなくて、でもきっとすてきな経験へと導いてくれる予感でわくわくと胸が高まる不思議の国、それが書店です。行ったことがない国、食べたことがない食べ物、味わったことがない感動、そんなものに出会えるワンダーランド。
 書店のない国には住みたくないです。  

85歳をすぎると半数の人が認知症になるのだそうです。認知症……(深いため息)に恐怖心を抱いている私は、本を読みまくり、すでに認知症になった気分でいるのですが、いやまだこの程度じゃすまないのが認知症らしいです。
85歳というと、あと21年。西暦2039年です。「未来の年表」(河合雅司著)によると、「深刻な火葬場不足に陥る」そうです。つまり、死ぬ人が増えすぎて、火葬場が追いつかないという状態に。日本の人口は1億を切るくらいのところまで減少し、子どもはますます希少で貴重な存在になっているとのこと。
2039年、85歳になる私の認知症元年まであと21年。世の中はどう変わっていくのでしょうか?
そもそもこの20年、44歳のときから現在まで、私の生活も、取り巻く環境も、どれほど大きく変わったことか!!
1954年生まれの私は、なんという激動の時代を生きているのか、と考えるとおそろしいような気分です。
1985年、長女が保育園の年長さんだったとき、アルビン・トフラーの「第3の波」を読んで衝撃を受けました。この子(長女)が成人するころ、私の20歳のときとは環境も社会も激変しているにちがいない、それなのに教育は戦後からほとんど変わらず、変化に対応していない。この子は20歳になったときに社会人としてまっとうに生きていけるのだろうか、と結構深刻に将来を憂えたのを覚えています。 
その後、我が家にもトフラーの予言通りITの波が押し寄せました。長女はポケベルからケータイが生活必需品となり、次女は中学生のときから父親に買ってもらったパソコンでホームページを作り、 2人とも大学の論文はワープロではなくパソコンで製作し、IT化という情報化の波に自ら楽々とのっかって今に至っています。
先日、85歳の母が「あんたの持っているほら、あれ、なんか電話のようなカメラみたいなの、あれ、私は使えんかねー」とまたもや言い出しました。実はスマホが出始めたころから、同じことをときおり突発的に言い出すのです。78歳くらいのとき、ある日突然購入してきたこともあります。(Do✖︎Mo年寄りだますのもええ加減にせい!)結局、初期設定から私に丸投げで、2回ほどさわっただけで「無理」となり、お蔵入りとなりました。解約の手間とか、ほんと無駄だったわ。
母(父もですが)はもう第3の波は乗れなかったし、乗らないですみそうです。
でも、母と21歳違いの私は乗らないと社会人として生きてこられなかった、だろうと思います。
そして私と24歳違いの娘は、物心ついたころからなんということなく第3の波に乗り、今では第4、5、6くらいの波に乗っかっています。私と31歳ちがいの次女は中学のときに父親にもらったノートパソコンで、なんなくホームページを作り、パソコンの機能を家族の誰よりも(父親よりも)駆使しました。
長女も次女も、モノを欲しがりません。流行を追いかけることにもさして興味はない。服や靴も安いファストファッションで十分、と言います。ブランド品に高いお金を払いたいとは、2人ともまったく思わないらしい。グルメな外食にも興味なし。いまだにファッション雑誌を読み、服や化粧にお金をかけている私に「遅れてるね」と言います。つまり、モノに対する姿勢、というか、価値観が私と大きく異なる。
次世代とはこれだけ価値観やものの見方が違うのだな、と思うことが、娘たちと話していて驚かされます。
そしてあと21年後、2039年、認知症元年を迎える私は、娘たち世代の価値観をどれくらい理解できるのでしょうか?
もう一度言います。
私の世代は激動の時代を生きています。これからもっと世の中は大きく変わります。
その中で、どうやって生き延びていくか。
真剣に考えて日々過ごさなければならない、と身震いしています。

いやな予感がしたら、見事に命中した昨晩の名古屋戦。いったい何回同じミスをするんだ?>クルピ(今日は呼び捨て)
中2日、3日で1軍スタメンはいかんのよ。っていうか、もう1軍はチームの体をなしていないのだから、この際思い切って若手を1軍にしたらどうですか?
私の高江くんとか、私の食野くんとか、私の中村くんとかでチーム構成してもらったら、きのうみたいなひどい試合にはならないと思いますよ。

というところで、いま現実逃避中。
さっき、所用で出かけたときに、1年に数回しか食べないソフトクリームを食っちゃったよ。 
きのうの試合も、今日のソフトクリームも、みんなヴァーチャルだからってことにしておこう。 

 え〜〜〜すでに4日もたってしまいましたが、いまだに横浜戦のことを書く気になりません。
 アウェイ無勝記録更新中。東のチームにアウェイで戦うとロクでもない試合になってしまう、という悪癖はいったいいつになったら改善されるんですか?
 そもそもガンバらしいサッカーって、いつまで言い続けるんですか? それ、ないものねだりだから。「ガンバらしいサッカー」っていうの、ないから。
 5バックにして(3バックじゃなかったですよ、ときっぱり言っておこう)前線との距離をひろーーーくとるのがガンバらしいサッカー??? 得点のにおいがまーーーーったくしないのがガンバらしいサッカー? セカンドボールを拾うことができず、プレスをかけてもボールが取れず、相手に好きなようにボールを回され、苦し紛れのクリアをまた拾われて滅多打ちにされる。それがガンバらしいサッカー???
 とどんどん落ち込みがひどくなっていく。
 いま、ガンバのサッカーについてどうしても書く気力がわいてこないこと、これ以上書くと自分もガンバも、ガンバサポも傷つけることを言ってしまいそうなので、画像をおいて終わりにします。 
 
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