Glamorous Life

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2018年11月

断捨離に励み、身じまいと老いじたくが今の人生のテーマになっていながら、どうしたらいいかわからなかった私に、どんぴしゃりのアドバイスをあたえてくれる本に出会いました。
「百まで生きる覚悟ー超長寿時代の「身じまい」の作法」
春日キスヨ著 光文社新書 
 著者は家族社会学、福祉社会学を専攻する研究者。私より11歳年上らしい。著者紹介を見ると「父子家庭、不登校、ひきこもり、障害者・高齢者介護の問題などについて、一貫して現場の支援者たちと協働するかたちで研究を続けてきた」とあります。研究のために、高齢者に「老いじたく」と「身じまい」について聞き取りをし、現場の支援者たちの声を反映したのが本書です。
 高齢者の多くが「ピンピンコロリ」を理想とし、70代、80代になっても「健康に気をつけているから大丈夫」「まだ元気で楽しく人生を送っているからこのままいけるところまで行く」「子どもの世話にはならない」と言う。健康のために毎日歩いたり、食べるものに気を配ったりはするし、墓や葬儀の準備や遺言を書いたりという「終活」には励むが、病気や老いで動けなくなったときに誰を頼るか、どこでどのように暮らすか、ということについては何も考えない。つまり「老いじたく」を何もしない。そして「子どもの世話にはなりたくない」と言っている人ほど、いざとなったら子どもにすべてを丸投げする、、、、もうね、このくだりを読んだときに「え? ウチのこと?」と思いましたよ。「あんたたち子どもに迷惑はかけない」とさんざん言ってきたはずなのに、いざとなると「もうね、あんたのいいようにして。私はもうどうしたらいいかわからん」と親に人生を丸投げされた私は右往左往し、よかれと思ったことがたいてい親の気持ちにはそぐわずにお互いいらいらし、ついには喧嘩になって親子関係がぐらぐらとゆがんでいく。今その状態です。
 何年か前からこのブログでも書いてきた「自分のことはできるかぎり自分でやりたい」「自分の人生は自分で決めたい」というのは、老いた親との関係で悩んだ結果のことです。人生百年を覚悟せねばならない時代です。子どもに、周りに、頼らなくてはならない時期は必ず来る。頼るのが嫌いで苦手な私でも、必ず誰かを(もしくは大勢の人たちを)頼らねばならない。でも、誰にどんなことを頼るのか。それまでに自分でやっておかねばならないことはなんなのか、そんな「老いじたく」を教えてくれたのがこの本でした。
 いくらピンピンコロリを理想としても、それができるのは限られたほんの少数の人だけ。いまの高齢者は「ピンピン、ヨロヨロ、ドタリ」を覚悟しなくてはならないそうです。ピンピン期とヨロヨロ期の落差があまりにも大きく、年齢的には十分に老人でも、ピンピン期には自分の老いが実感できない老人が大多数。そう、その通りです。元気老人いっぱいですよね。メディアにもそんな老人が大勢。
 ところがヨロヨロ期がある日突然始まってしまう。「まさか自分がこんなになるなんて!」という時期がまず間違いなくやって来るのです。それなのにヨロヨロ期の自覚がなく、老いを嘆いて周囲を振り回し、そしてドタリと寝込む。でもってドタリと来ても、まだ死ねないのが現代です。ドタリ後にどうするか、すでにそのときには自分で何もできない状態になっています。
 90代に入ると、女性の65%は認知症になるそうです(男性はそれまでに亡くなってしまうことが多い)。私もきっと認知症になります。哀しいけれど。認知症になる前に、認知症になることを予想して身じまいをつけておかねばなりません。
 この本を読んで、今日から実践しようと思った老いじたくをあげておきます(著者が推薦しているわけではなく、私が勝手に思ったことです)
1)100歳まで生きることを予想して、あと35年をどう過ごすか具体的に計画する。ヨロヨロ期に入る前に「終の住処」を比較検討するために今からでも施設の見学など情報収集に励む。ヨロヨロ期の「後見人」を決め、誰に何をしてほしいかを文書にしてその人に相談する。明日倒れても困らないように健康保険証、通帳などのありかを記しておく。
2)老いを恐れずに直視して受け入れる。いま私は親の老いに直面しているのですが、老いていくことを哀しいこと、いやなことだとは極力とらえず、そういうものだ、と受け入れるようにする。また何ができなくなっていくかを、まだまだできるのかを親を見て自分の老いじたくに活かす。
3)自分で自分の老いじたくをする。そのためには老いじたくを「見える化」して、何を人に頼るのかをよく考える。たとえば今の家の整理はできるかぎり自分でして、どうしてもできないことだけを人に頼るようにする。どうしてもできないことは何かを自分にも周囲にも見えるようにする。
 私には夫も子どももいて、信頼して頼れる人がいるからそこまで深刻になる必要がないだろう、という意見もあるでしょう。でもそれは違うと思います。むしろ身寄りがいない人のほうが、老いじたくはある意味簡単かもしれません。覚悟のほども違うでしょうし。私のような家族持ちこそ、腹をくくって老いじたくをしなくてはならないのだと思います。
 健康に気を配って、気力も体力もたくわえて……なんてそんなことは老いじたく以前の話。
 暗くならずに、淡々と、でも元気に老いじたくに励もうと思った本でした。春日キスヨさん、ありがとうございます! 


今シーズンのホーム最終戦はvs湘南ベルマーレ戦でした。
結果はいまさら書くまでもなく、2−1でガンバの勝利。小野瀬選手、中村選手の若手2人の得点でついに9連勝! 昨年の今頃、「あーあーあーあー、勝てましぇーん」と泣いていた私に「来季は辛いことも多いけれど、最後は笑えるよ」と教えてあげたいです。昨年、また一昨年のホーム最終戦は「来季がこわい」と笑顔が浮かびませんでしたが、今年は「来季が楽しみ〜〜」です。ま、その前に降格が決まってしまった柏との最終戦がありますが、その後にガンバの試合が何もないまま2ヶ月以上を過ごさねばならないことを思い、リーグ最終節前の今はガンバロスを思ってちょっと寂しい。

ホーム最終戦後のセレモニーで話題になっているのが、宮本監督の挨拶です。
書き起こしがツイッターなどにあがっているので興味のある方はそれを見ていただくとして、私がじーんときたのは「選手、スタッフ、クラブ、サポーター全部が同じ方向を向いて戦った」と「9連勝できた要因」の一つに一体感をあげたことです。
これはね、私も試合に行くたびに感じていました。宮本監督が就任後もなかなか勝てなかったのだけれど、それでもスタンドからは試合後に「次だ次!」「また頑張ろう!」「下を向くな!」という声援が選手たち、またベンチの監督やスタッフに飛んでいて、「あ、同じ勝てなかった時期とは違うな」と感じました。
そしてFC東京戦でのアデミウソン選手の劇的ゴールでの勝利。あの瞬間は本当に泣けた。86分に追いつかれたのだけれど、ピッチにもスタジアムにも「ああ、またか」と下を向く感じがなくて、それどころかもっと応援の声は高まっていき、そしてあのゴール! ゴールにもだけれど、スタジアム全体の弾け様に泣けた。だって、まだ17位なのに、まだ降格ゾーンどっぷりなのに、みんな優勝したみたいだったんですよね。宮本監督がいう「一体感」をあのとき感じましたよ。
その後もまだ勝てなかったりしたのですが、パナスタでの一体感はどんどん強まっていき、先制されても、追いつかれても、ますます高く大きく激しくなるチャントに私も盛り上がりましたよ。あの雰囲気がたぶん、3つ目の要因として宮本監督があげた「スタジアムの圧」なんでしょうね。
振り返り画像もアップしておきますね。アデミウソン選手のゴールシーンで何回も泣いてしまう私。

そろそろ出ていく人、入ってくる人の噂が出ているけれど、来季は宮本監督を軸にした「新生ガンバ」がきっと見られると期待しています。
でも、そうそううまくいかない時期もあるだろうし、成績はもしかするとそれほど上の方ではないかもしれない。そんなときこそ、今季終盤の「一体感」を思い出して、もっともっと「圧」がかけられるようにまた応援を頑張ろう!


  

 さて、理想のマイキッチンができてまず招待したのは、娘たち家族です。
 娘たちの第一声。「いったいここどこ? っていうくらい変わったね。私たちが知っている「実家」のかげはもうない。別の場所だよ」
 その意見が聞きたかった。「別の場所」、そうなんです。もうかつてのキッチンではありません。だから私の労力は以前の半分、とまでは言わなくても、3分の2くらいですみました。

 娘たち家族を呼んで囲んだ食卓のメニューは、でも、いつもお誕生日や祝い事で作っていたのと同じ。鯛の姿焼き、ローストビーフ、カラフル温野菜、イチジクと春菊のサラダ、利久ナス(長女の大好物)、豚バラれんこん(お孫1号のリクエスト)など。

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娘たち家族を招待したときは、長女が大好きな「あんず」の絵を壁にかけました。父の作品です。

 そして「ペルシャの夕べ」と称して、親しい女性たちをおよびしての女子会を開きました。友人のダリア・アナビアンさんが書かれた「千夜一夜のおもてなし」を参考にして作ったペルシャ料理は、舌の肥えた友人たちにも好評でした。
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このときは壁には父が描いた「イランの娘たち」というタイトルの絵をかけました。2000年に両親と一緒に旅したイランとのご縁はまだ続いています。
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私の予想に反して、とくに好評だったのがバスマティライスというインディカ米をたくさんのハーブやサフランと炊き込んだチェロというお米料理でした。後ろにあるのは5種類の豆をほうれん草やニラなどと煮込んだホレーショ

 そして中国からの留学生と中国人の先生ご一家を招待してお茶をしました。お子さんたちもいるので、テーブルセッティングも少し変えて。
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 これからも「ウチにいらして!」と気軽に友人や家族をお誘いしたい! とテンションが上がっています。

 断捨離第一段階終わりました。キッチンの改装も終わり、その使いやすさに毎日うきうきしています。「キッチンを改装したい」と私が言ったときに「子どもたちも独立して2人暮らしになったんだから、今さら家の改装なんて必要ない」と言い張っていた夫も、きれいになったキッチンには満足そうです。
 改装してみてあらためて実感したのですが、家電製品、そしてシステムキッチンのこの10年の進化はすごいです。節電、節水、節ガスはものすごく進んでいるし、かつ、安全対策がそりゃもう「ここまでやりますか!」というくらい念入りにされている。高齢化社会を見越して、なのか、お年寄り(私も含む)には安心して便利に使える設計になっています。(この話、何回も書いていますね。それくらい感動したのです)
 思えばここ数年、冷蔵庫壊れた、洗濯機壊れた、食器洗い機の調子が悪い、ガスコンロが使えなくなった、とそのたびに修理を呼び、結構高額の出張修理費をとられ、あげくに「つぎに故障したら買い替えをご検討ください」と言われてきました。ついに「これ以上は無理」と言われて買い換えようとしたら、階段があがらないから一人暮らし用の小さい冷蔵庫しか無理、今の洗濯機の機種にするなら排水管から取り替えてください、いまのスペースにお望みのコンロは入りません、などなどいちいちダメ出しをされてストレスがたまっていました。ガスコンロが4口中1〜2口しか使えなくなったのが改装への最後の後押しとなったのですが、その期に及んでも夫は「コンロだけを変えればいいことじゃないか」と主張。コンロを変えるだけではすまない、ガスの配管までやり直さなくては新しい機種はつかないのだ、と言ってもまだぶつぶつ言っていました。
 でも、料理というものを生まれてから3回くらいしかやったことがない、つまりキッチンを日常的に使うわけではない夫ですから、家電にはいっさい興味なし。ましてやシステムキッチンがなんたるものかもわかってないから「自分の意見」というのがない。PCやIT機器みたいに情報収集研究して、「これがいいんじゃないの?」などと意見することはありえないわけです。そのことにほんと助けられて、私は自分がやりたいように改装できました。 そして出来上がったのが、実家から独立して以来ずっと夢見てきた「理想のマイキッチン」です。毎朝、キッチンの窓から差し込む朝日に窓辺に並べた観葉植物がきらきら輝くのを見て、幸福感でいっぱいになっています。こんなことでこんなに幸福になっていいのか、と自分をいさめたくなるほど。
 マイキッチンができて一番に思ったこと。それは「お客さまを招待したい」ということです。このキッチンを使って、おもてなしをしたい! 思いっきり料理を作ってみたい! 頭の中で思い描いていたテーブルセッティングを実行してみたい! ただし、今持っているものだけでやりたい、ということ。
 断捨離のとき、食器、カトラリー、テーブルクロス、ランチョンマット、鍋釜包丁などキッチン用品を全部出してリビングの床に並べどれを残し、どれを娘たちに譲り、どれを捨てるかで分けました。そのとき「これを使ってどんな料理を作り、どう盛り付け、どんな人に食べてもらいたいか?」というイメージが湧くものだけを手元に残しました。あとは娘たちの判断に任せ、娘たちもいらないといったものは処分。
 手元に残したものは、どれも「料理したい欲」をそそるものばかり。おかげでキッチン完成からすでに3回もお客さまを招待! そこでどんなテーブルを作ったかが続きます。

 20代後半から30代前半まで勤めていた会社で、隣の課の課長(当時40代男性)が言った。
「俺は体力を気力でカバーするタイプだから」
 そして続けて私に向かって
「実川さんは気力を体力でカバーするタイプだね」
 課長、スポーツ好きだったけれど細身で華奢な体型。すぐに風邪をひくし、忘れてしまったけれど何か持病があったように記憶する。何かと言うと「男はこうすべき」「女はこうあるべき」とか言う人で、決していやな人ではなかったけれど、男性社会の価値観にどっぷりつかって生きる典型的な演歌オヤジだった。だから「男は強くなくてはならない」という彼の確固たる信念に基づいて、体力を気力でカバーしてがんばっていたのだと思う。
 一方の私は、当時まだ幼い子育てと仕事の両立でアップアップしていた。がんがん仕事をしたい、と一応思ってはいても、現実には子育てのほうに気持ちがいっていた時期だ。4時45分くらいになるとすでに保育園のお迎え時間が気になってやっていた仕事は上の空。そんなだから職場で私は半人前扱いで、会議にも入れてもらえなかったし、雑用しか頼まれなかった。ただ、めったに風邪もひかないし、少なくとも自分の体調不良で会社を休むことはなく、子どもも丈夫で、1年に1回くらい熱を出す程度ですんでいたから、そこは評価されていたのだと思う。
 だから課長の「気力を体力でカバーするタイプ」と言うのは、褒め言葉と受け取った。もしかすると課長はたいして褒めたつもりはなかったかもしれないのだが、私自身はたいへんにありがたく、今にいたるまで覚えているのだ。そうだ、私には体力がある!! 気力や能力では劣るかもしれないが、この体力があればきっとこの修羅場(今振り返ると修羅場でもなんでもなかったが)乗り越えられる! その自信がが湧いてきて、お迎えに行ったときに子どもを抱きしめて、自分と子どもの体力に感謝した。私がはっきりと体力自慢に切り替わった日である。
 子ども時代から思春期、そして20代まで、私は自分の丈夫さに屈折した思いを抱いていた。子ども時代に夢中になって読んだ「世界少年少女文学全集」で、体力自慢、健康自慢の女の子はほとんどが田舎育ちでダサく描かれていた。都会的でほっそりと美しい少女は、体力なしで病気がちと決まっていた。すぐに失神したり、貧血を起こしたりするけれど、そのたびにたくましいお父さんや少年がお姫様抱っこをして介抱してくれる。「アルプスの少女ハイジ」のハイジvsクララが典型だろう。「風とともに去りぬ」でスカーレット・オハラははちきれんばかりに健康だったために、メラニーに恋で負けた(と私は解釈した)。そして私は、貧血気味で、色白で、ときたま頬にうっすらと赤みがさすような「深窓の令嬢」「薄幸の美少女」にいたく憧れた。すりきれるまで読んだ愛読書「赤毛のアン」でも、アンは気を失うことに憧れていたのだから。
 私はめったに風邪もひかず、食欲は旺盛で、たとえ食べ過ぎてもおなかを壊したりしなかった。「気持ちが悪い」というのがどういうことかを知ったのは、20歳過ぎて二日酔いになったときが初めてだ。貧血は今にいたるまで経験していない。甲殻類アレルギーが私の唯一の「持病」で、私はレストランに行くと、やや自慢げに「私、エビカニのアレルギーなの」といって周囲の同情を引いた(まわりは迷惑がっていただけだた)
 運動神経はなかったけれど、長距離走や水泳(遠泳)など体力勝負の競技ならば女子には、ときには男子にさえも勝てた。でも、そんなもので勝てる女子を男子は敬遠しがちだ。10代、20代に男子にモテるのは、「ぼくがかばってあげたくなる女の子」と決まっていた。つまり華奢で、今にも倒れそうなくらい体力がなさそうな女の子だ。肩幅が広く、腕も太ももも筋肉隆々、何時間でも歩けるし、重いものも軽々持つような女子(私)に、「女の子だから」と特別サービスしてくれる男子はいない。どつかれないように遠巻きにするだけだ。
 だから私は体力が自慢できなかった。できるだけ体力にまつわる話題を避けてきた。だが、育児と仕事の両立をはかる上で、体力ほど重要な資源はない、と30代になって気づいた。
 そして今、老化が進んでいることは自覚しているし、体力も30代のころとは大違いだと気付かされることが多くなってきたとはいえ、それでも私はまだ気力をカバーできる体力があることに感謝している。
 ただし、体力にメンテナンスが必要だということも痛感している。睡眠、規則正しい生活、食事、そして運動。そんなものに気を配らなくては、気力をカバーできるだけの体力は維持できない。
 もう男子の目をまったく気にしなくてよくなった今、筋肉量を落とさず、というかもっとたくましく筋肉をつけて、最後まで体力自慢で走り抜きたいと思っている。
  

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