また今年も書道展に作品を提出したものの、賞はとれず。2010年からずっと入選はするが入賞はしないまま、10年がたとうとしています。入選して飾ってもらえてるんだからおこがましい、と言われるけれど、本人は「うーんうーん、なんで入賞しないんだろう」とやっぱりくやしい。というようなことを言うから、負けず嫌いとか言われるんでしょうが。
また賞がとれなかったとわかって一番に思ってしまったのは、「やっぱりなー、私は才能がないんだよ」ということです。
でも、先生に言わせると「書道に才能なんて関係ない!」です。以前には「才能のあるなしを(賞がとれる・とれないことの)言い訳にするな!」とも言われました。 才能をセンスと言い換えてもいい、といったら「もっと関係ない!」と叱られましたね。
それなら努力だけで賞がとれるか、と言えば、そうじゃないような気もする。
観る人に何か感じさせる作品が制作できるか否か、それは「精進」(仏語ではひたすら仏道修行に励むこと。また、その心のはたらき。転じて一所懸命に努力すること)すればおのずと「できる」ことなのか。
一つ言えるのは、賞をとるためには「他人が観たいもの」のことも考えないといけないってことですね。独りよがりの作品は、観る人の共感を呼ばなない。ある種のコミュニケーション能力といってもいい。
もちろん技術的水準がある一定のところに達していることが前提で、ああ、そうか、私はまだそこに達していないのかもしれないな。これは「精進」するしかない。
評価ばかりを追い求めてもろくなものはできないけれど、評価されないときに、自分には何かが足りない(それも決定的に)ということに思い至る謙虚さも必要なのかも。
これは何も書道をはじめとする芸の道だけのことじゃない。
ほかの人に認めてもらいたい、観る人、聴く人を、読む人の心を動かしたい、そういうものを作りたい、やりたい、といういのであれば、まずは精進して技術水準を上げること、そして独りよがりにならない、ということがたいせつなのかもしれません。
あふれるほどの才能がある人ももちろんいるけれど、それが(とくに同時代人の)評価につながるかどうかはまた別の問題です。
いきなりサッカーに話が飛ぶけれど、「俺たちは俺たちのサッカーをするだけ」っていうチームの成績が振るわなくて、そのサッカーがあまり観る人を喜ばさないっていうのもありますからね〜
また賞がとれなかったとわかって一番に思ってしまったのは、「やっぱりなー、私は才能がないんだよ」ということです。
でも、先生に言わせると「書道に才能なんて関係ない!」です。以前には「才能のあるなしを(賞がとれる・とれないことの)言い訳にするな!」とも言われました。 才能をセンスと言い換えてもいい、といったら「もっと関係ない!」と叱られましたね。
それなら努力だけで賞がとれるか、と言えば、そうじゃないような気もする。
観る人に何か感じさせる作品が制作できるか否か、それは「精進」(仏語ではひたすら仏道修行に励むこと。また、その心のはたらき。転じて一所懸命に努力すること)すればおのずと「できる」ことなのか。
一つ言えるのは、賞をとるためには「他人が観たいもの」のことも考えないといけないってことですね。独りよがりの作品は、観る人の共感を呼ばなない。ある種のコミュニケーション能力といってもいい。
もちろん技術的水準がある一定のところに達していることが前提で、ああ、そうか、私はまだそこに達していないのかもしれないな。これは「精進」するしかない。
評価ばかりを追い求めてもろくなものはできないけれど、評価されないときに、自分には何かが足りない(それも決定的に)ということに思い至る謙虚さも必要なのかも。
これは何も書道をはじめとする芸の道だけのことじゃない。
ほかの人に認めてもらいたい、観る人、聴く人を、読む人の心を動かしたい、そういうものを作りたい、やりたい、といういのであれば、まずは精進して技術水準を上げること、そして独りよがりにならない、ということがたいせつなのかもしれません。
あふれるほどの才能がある人ももちろんいるけれど、それが(とくに同時代人の)評価につながるかどうかはまた別の問題です。
いきなりサッカーに話が飛ぶけれど、「俺たちは俺たちのサッカーをするだけ」っていうチームの成績が振るわなくて、そのサッカーがあまり観る人を喜ばさないっていうのもありますからね〜