ジョン・F・ケネディが暗殺された日のことは、今でも奇妙なほどはっきりと覚えている。そのニュースを知ったのは1963年11月23日(暗殺されたのはアメリカ時間の11月22日)。その日は休日で、家族(8人)全員が家にいた。父、祖母、妹は庭にいて、母は台所で食事の準備をしていた。祖父はもう食卓について、一杯やっていた。晴れた日で、11月にしては暖かく、庭の銀杏の落ち葉を祖母と父が片付けるのを私たちは手伝わされていた。父に命じられて私は郵便受けまで新聞を取りに行き、朝日新聞と毎日新聞の夕刊一面に大きく暗殺事件が報じられているのを見て、庭まで走った。
「ケネディ大統領が暗殺されたんやって!」
父がびっくりして立ち上がり、「なんやて!」と叫んだ。祖父があわててテレビをつけた。 ダラスでの銃撃のシーンはそのとき放映されたかどうか、そこは記憶にない。
この事件に私は生まれて初めてといっていいほど、ずどんとくる衝撃を受けた。それから何週間、何ヶ月にもわたって、私は熱に浮かされたように新聞や雑誌でニュースを追いかけた。
なぜ殺されたのか? 誰が殺したのか?(9歳ではあったが、どうもオズワルドの単独犯行ではなさそうだ、と思っていた。陰謀説がなんかかっこよさげだったし)
半年たっても衝撃が醒めず、学校に提出する作文に暗殺事件のことを書いている私に、母は「いい加減にしなさい。よくわかってもいないのに、ケネディ、ジャッキーって小学生が作文に書くなんておかしいでしょ」と注意されたのも記憶している。
ケネディ大統領はそのころ私のアイドルだった。1961年の大統領就任演説でアメリカ国民に呼びかけた有名なフレーズに、9歳ながらしびれた。
And my fellow Americans: Ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
アメリカ市民ではなくて、日本国民だけれど、そうだ、私も国が自分のために何をしてくれるかを期待するのではなく、自分が国のために何ができるのかを考えよう、とか思った。
長じてからも「会社が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が会社のために何ができるか」とか「夫と家族が私のために何をしてくれるかではなく、私が夫や家族のために何ができるか」とか考え続けて60年足らず。気づいたのは、国も夫も家族もそんなこと知ったこっちゃなかったってことだwwww あ〜〜ケネディ、どないしてくれるねん! 私の報われない自己満足の滅私奉公。
それはともかく、毎晩家庭で強制的に見せられるNHKのニュースで(バラエティが見たいよ〜、「鉄腕アトム」だけは見せて〜とわめいても大人6人におされてダメでした)、耳にたこができるほど聞かされた「鉄のカーテン」「冷戦」「共産主義と戦うアメリカ」「核戦争への恐れ」そして「米ソの宇宙開発競争」とはいったいなんだったのか?
世界はアメリカ陣営とソ連陣営に二分され、どちらの陣営に入るかをほかの国々は選択しなくてはならず、敗戦国日本はアメリカ陣営に組み込まれ、だからソ連は怖い、共産主義は怖いと教え込まれた、ような記憶がある。なんだかわからないけれど、怖い。なんだかわからないから、怖い。たぶん米ソどちらの陣営にいても、政治家以下全員が「相手がわからないから怖い」と思っていたのではないか。そう、よくわからない人や国のことは、まず怖いのだ。怖いから攻撃する。攻撃されるんじゃないかと怖いから、こちらから攻撃する。それが人間の本性なのだろうか?
先日、オリバー・ストーン&ピーター・カズニックが書いた「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」と、ソ連研究の第一人者である下斗米伸夫さんの「ソビエト連邦史1917ー1991」を並行して読んだ。どちらにも「そうだったのか!」唸らされるところがいっぱいだったのだが、読み進むうちに「冷戦だ、核軍備だとか、要するに米ソが違いに妄想にかられて戦争ごっこをしていただけではないのか?」と腹が立ってきた。
(ほかの本も読んだわけです。図書館で借りてw)
戦略空軍(SAC)司令官のトーマス・パワー大将は、1960年当時アメリカが保有していた核兵器の数が、ソ連の10倍だという事実を知らされてSACの予算が削られるのではないかと危機感を抱き、「なぜわれわれの活動を制限しようとするのか! やつらを殺すのがわれわれの使命だ」と怒ったそうだ。(オリバー・ストーンのアメリカ史より)そして核を使用すれば人類が滅びることになりかねない、と言われても「戦争が終わった時点で、アメリカ人が二人、ロシア人が一人生き残っていたとしたら、アメリカの勝ちなんだ」と言い放ったという。いま知ると「あんた、それ、狂ってます!」としか言いようがないが、おそらく当時のアメリカ(そしてソ連)の軍人たちはそう信じ込んでいたのだと思う。たとえ人類の大半が滅びて地球に生命体がなくなる危険があっても、相手よりも一人多く生き残って勝ちたい、とね。大国の大将が本気でそう思っていたのなら、あのころの「核戦争による人類滅亡」も妄想で終わらなかったかもしれないのだ。おそろしや。そんなこともわかってなくて、ケネディかっこいい、アメリカ強いとか言っていた自分がバカすぎる。
恐怖の独裁政治を展開したスターリンを批判したフルシチョフと、冷戦をいっそう推し進めたアイゼンハワーのあとに大統領となったケネディは、そんな「妄想の戦争ごっこ」をやめようと互いにゆっくりと歩み寄ろうとするのだが、ケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚する。
(パリ会談では米ソの距離はあまり縮まらなかった。表情がどちらも固い)
そしてアメリカはベトナム戦争の泥沼にずぶずぶになるまでつかって抜き差しならなくなり、ソ連は軍備を増強して独裁を強めていく。
ケネディが殺されずに8年大統領だったら核軍縮は進んでいたのだろうか?
フルシチョフが失脚しなかったら鉄のカーテンはもう少し早く上がっていたのだろうか?
そんなことを空想したくなる60年後の今なのだけれど、たとえ2人が健在でもあまり変わっていなかった可能性が高い。何しろ、妄想の戦争ごっこは誰がトップになろうと、誰が主導権を持とうと、続いていってしまうことを今の世界が証明している。
ケネディは「アイドル」になったリーダー第一号だと思う。少なくとも私にとっては、アイドルだった。アイドルだったからこそ、小学生の私は作文のテーマに取り上げたのだ。
ヒーローは完全無欠や絶対的な強さを求められて近寄りがたいけれど、アイドルは少しは弱みを見せて人間味があるから親しみやすい。その人間味をかわいいととるか、それともかわいくないととるか、それを決めるのも大衆。もしいまケネディが生きていたとしたら、核軍縮を進めた業績があったとしても#Me Tooで叩かれていたのかもしれない。
時代はますますヒーローを求めなくなっている。祭り上げてもてはやし、何か意に沿わないことをするとバッシングできるアイドルのほうが求められる。
思えば1960年代からその傾向は始まっていたのだ。
「ケネディ大統領が暗殺されたんやって!」
父がびっくりして立ち上がり、「なんやて!」と叫んだ。祖父があわててテレビをつけた。 ダラスでの銃撃のシーンはそのとき放映されたかどうか、そこは記憶にない。
この事件に私は生まれて初めてといっていいほど、ずどんとくる衝撃を受けた。それから何週間、何ヶ月にもわたって、私は熱に浮かされたように新聞や雑誌でニュースを追いかけた。
なぜ殺されたのか? 誰が殺したのか?(9歳ではあったが、どうもオズワルドの単独犯行ではなさそうだ、と思っていた。陰謀説がなんかかっこよさげだったし)
半年たっても衝撃が醒めず、学校に提出する作文に暗殺事件のことを書いている私に、母は「いい加減にしなさい。よくわかってもいないのに、ケネディ、ジャッキーって小学生が作文に書くなんておかしいでしょ」と注意されたのも記憶している。
ケネディ大統領はそのころ私のアイドルだった。1961年の大統領就任演説でアメリカ国民に呼びかけた有名なフレーズに、9歳ながらしびれた。
And my fellow Americans: Ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
アメリカ市民ではなくて、日本国民だけれど、そうだ、私も国が自分のために何をしてくれるかを期待するのではなく、自分が国のために何ができるのかを考えよう、とか思った。
長じてからも「会社が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が会社のために何ができるか」とか「夫と家族が私のために何をしてくれるかではなく、私が夫や家族のために何ができるか」とか考え続けて60年足らず。気づいたのは、国も夫も家族もそんなこと知ったこっちゃなかったってことだwwww あ〜〜ケネディ、どないしてくれるねん! 私の報われない自己満足の滅私奉公。
それはともかく、毎晩家庭で強制的に見せられるNHKのニュースで(バラエティが見たいよ〜、「鉄腕アトム」だけは見せて〜とわめいても大人6人におされてダメでした)、耳にたこができるほど聞かされた「鉄のカーテン」「冷戦」「共産主義と戦うアメリカ」「核戦争への恐れ」そして「米ソの宇宙開発競争」とはいったいなんだったのか?
世界はアメリカ陣営とソ連陣営に二分され、どちらの陣営に入るかをほかの国々は選択しなくてはならず、敗戦国日本はアメリカ陣営に組み込まれ、だからソ連は怖い、共産主義は怖いと教え込まれた、ような記憶がある。なんだかわからないけれど、怖い。なんだかわからないから、怖い。たぶん米ソどちらの陣営にいても、政治家以下全員が「相手がわからないから怖い」と思っていたのではないか。そう、よくわからない人や国のことは、まず怖いのだ。怖いから攻撃する。攻撃されるんじゃないかと怖いから、こちらから攻撃する。それが人間の本性なのだろうか?
先日、オリバー・ストーン&ピーター・カズニックが書いた「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」と、ソ連研究の第一人者である下斗米伸夫さんの「ソビエト連邦史1917ー1991」を並行して読んだ。どちらにも「そうだったのか!」唸らされるところがいっぱいだったのだが、読み進むうちに「冷戦だ、核軍備だとか、要するに米ソが違いに妄想にかられて戦争ごっこをしていただけではないのか?」と腹が立ってきた。
(ほかの本も読んだわけです。図書館で借りてw)
戦略空軍(SAC)司令官のトーマス・パワー大将は、1960年当時アメリカが保有していた核兵器の数が、ソ連の10倍だという事実を知らされてSACの予算が削られるのではないかと危機感を抱き、「なぜわれわれの活動を制限しようとするのか! やつらを殺すのがわれわれの使命だ」と怒ったそうだ。(オリバー・ストーンのアメリカ史より)そして核を使用すれば人類が滅びることになりかねない、と言われても「戦争が終わった時点で、アメリカ人が二人、ロシア人が一人生き残っていたとしたら、アメリカの勝ちなんだ」と言い放ったという。いま知ると「あんた、それ、狂ってます!」としか言いようがないが、おそらく当時のアメリカ(そしてソ連)の軍人たちはそう信じ込んでいたのだと思う。たとえ人類の大半が滅びて地球に生命体がなくなる危険があっても、相手よりも一人多く生き残って勝ちたい、とね。大国の大将が本気でそう思っていたのなら、あのころの「核戦争による人類滅亡」も妄想で終わらなかったかもしれないのだ。おそろしや。そんなこともわかってなくて、ケネディかっこいい、アメリカ強いとか言っていた自分がバカすぎる。
恐怖の独裁政治を展開したスターリンを批判したフルシチョフと、冷戦をいっそう推し進めたアイゼンハワーのあとに大統領となったケネディは、そんな「妄想の戦争ごっこ」をやめようと互いにゆっくりと歩み寄ろうとするのだが、ケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚する。
(パリ会談では米ソの距離はあまり縮まらなかった。表情がどちらも固い)
そしてアメリカはベトナム戦争の泥沼にずぶずぶになるまでつかって抜き差しならなくなり、ソ連は軍備を増強して独裁を強めていく。
ケネディが殺されずに8年大統領だったら核軍縮は進んでいたのだろうか?
フルシチョフが失脚しなかったら鉄のカーテンはもう少し早く上がっていたのだろうか?
そんなことを空想したくなる60年後の今なのだけれど、たとえ2人が健在でもあまり変わっていなかった可能性が高い。何しろ、妄想の戦争ごっこは誰がトップになろうと、誰が主導権を持とうと、続いていってしまうことを今の世界が証明している。
ケネディは「アイドル」になったリーダー第一号だと思う。少なくとも私にとっては、アイドルだった。アイドルだったからこそ、小学生の私は作文のテーマに取り上げたのだ。
ヒーローは完全無欠や絶対的な強さを求められて近寄りがたいけれど、アイドルは少しは弱みを見せて人間味があるから親しみやすい。その人間味をかわいいととるか、それともかわいくないととるか、それを決めるのも大衆。もしいまケネディが生きていたとしたら、核軍縮を進めた業績があったとしても#Me Tooで叩かれていたのかもしれない。
時代はますますヒーローを求めなくなっている。祭り上げてもてはやし、何か意に沿わないことをするとバッシングできるアイドルのほうが求められる。
思えば1960年代からその傾向は始まっていたのだ。