Glamorous Life

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2019年04月

 ジョン・F・ケネディが暗殺された日のことは、今でも奇妙なほどはっきりと覚えている。そのニュースを知ったのは1963年11月23日(暗殺されたのはアメリカ時間の11月22日)。その日は休日で、家族(8人)全員が家にいた。父、祖母、妹は庭にいて、母は台所で食事の準備をしていた。祖父はもう食卓について、一杯やっていた。晴れた日で、11月にしては暖かく、庭の銀杏の落ち葉を祖母と父が片付けるのを私たちは手伝わされていた。父に命じられて私は郵便受けまで新聞を取りに行き、朝日新聞と毎日新聞の夕刊一面に大きく暗殺事件が報じられているのを見て、庭まで走った。
「ケネディ大統領が暗殺されたんやって!」
 父がびっくりして立ち上がり、「なんやて!」と叫んだ。祖父があわててテレビをつけた。 ダラスでの銃撃のシーンはそのとき放映されたかどうか、そこは記憶にない。
 この事件に私は生まれて初めてといっていいほど、ずどんとくる衝撃を受けた。それから何週間、何ヶ月にもわたって、私は熱に浮かされたように新聞や雑誌でニュースを追いかけた。
なぜ殺されたのか? 誰が殺したのか?(9歳ではあったが、どうもオズワルドの単独犯行ではなさそうだ、と思っていた。陰謀説がなんかかっこよさげだったし)
 半年たっても衝撃が醒めず、学校に提出する作文に暗殺事件のことを書いている私に、母は「いい加減にしなさい。よくわかってもいないのに、ケネディ、ジャッキーって小学生が作文に書くなんておかしいでしょ」と注意されたのも記憶している。
 ケネディ大統領はそのころ私のアイドルだった。1961年の大統領就任演説でアメリカ国民に呼びかけた有名なフレーズに、9歳ながらしびれた。
And my fellow Americans:  Ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
 アメリカ市民ではなくて、日本国民だけれど、そうだ、私も国が自分のために何をしてくれるかを期待するのではなく、自分が国のために何ができるのかを考えよう、とか思った。
 長じてからも「会社が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が会社のために何ができるか」とか「夫と家族が私のために何をしてくれるかではなく、私が夫や家族のために何ができるか」とか考え続けて60年足らず。気づいたのは、国も夫も家族もそんなこと知ったこっちゃなかったってことだwwww あ〜〜ケネディ、どないしてくれるねん! 私の報われない自己満足の滅私奉公。
 それはともかく、毎晩家庭で強制的に見せられるNHKのニュースで(バラエティが見たいよ〜、「鉄腕アトム」だけは見せて〜とわめいても大人6人におされてダメでした)、耳にたこができるほど聞かされた「鉄のカーテン」「冷戦」「共産主義と戦うアメリカ」「核戦争への恐れ」そして「米ソの宇宙開発競争」とはいったいなんだったのか? 
 世界はアメリカ陣営とソ連陣営に二分され、どちらの陣営に入るかをほかの国々は選択しなくてはならず、敗戦国日本はアメリカ陣営に組み込まれ、だからソ連は怖い、共産主義は怖いと教え込まれた、ような記憶がある。なんだかわからないけれど、怖い。なんだかわからないから、怖い。たぶん米ソどちらの陣営にいても、政治家以下全員が「相手がわからないから怖い」と思っていたのではないか。そう、よくわからない人や国のことは、まず怖いのだ。怖いから攻撃する。攻撃されるんじゃないかと怖いから、こちらから攻撃する。それが人間の本性なのだろうか?

 先日、オリバー・ストーン&ピーター・カズニックが書いた「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」と、ソ連研究の第一人者である下斗米伸夫さんの「ソビエト連邦史1917ー1991」を並行して読んだ。どちらにも「そうだったのか!」唸らされるところがいっぱいだったのだが、読み進むうちに「冷戦だ、核軍備だとか、要するに米ソが違いに妄想にかられて戦争ごっこをしていただけではないのか?」と腹が立ってきた。
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(ほかの本も読んだわけです。図書館で借りてw)

 戦略空軍(SAC)司令官のトーマス・パワー大将は、1960年当時アメリカが保有していた核兵器の数が、ソ連の10倍だという事実を知らされてSACの予算が削られるのではないかと危機感を抱き、「なぜわれわれの活動を制限しようとするのか! やつらを殺すのがわれわれの使命だ」と怒ったそうだ。(オリバー・ストーンのアメリカ史より)そして核を使用すれば人類が滅びることになりかねない、と言われても「戦争が終わった時点で、アメリカ人が二人、ロシア人が一人生き残っていたとしたら、アメリカの勝ちなんだ」と言い放ったという。いま知ると「あんた、それ、狂ってます!」としか言いようがないが、おそらく当時のアメリカ(そしてソ連)の軍人たちはそう信じ込んでいたのだと思う。たとえ人類の大半が滅びて地球に生命体がなくなる危険があっても、相手よりも一人多く生き残って勝ちたい、とね。大国の大将が本気でそう思っていたのなら、あのころの「核戦争による人類滅亡」も妄想で終わらなかったかもしれないのだ。おそろしや。そんなこともわかってなくて、ケネディかっこいい、アメリカ強いとか言っていた自分がバカすぎる。
 恐怖の独裁政治を展開したスターリンを批判したフルシチョフと、冷戦をいっそう推し進めたアイゼンハワーのあとに大統領となったケネディは、そんな「妄想の戦争ごっこ」をやめようと互いにゆっくりと歩み寄ろうとするのだが、ケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚する。
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(パリ会談では米ソの距離はあまり縮まらなかった。表情がどちらも固い)

 そしてアメリカはベトナム戦争の泥沼にずぶずぶになるまでつかって抜き差しならなくなり、ソ連は軍備を増強して独裁を強めていく。
 ケネディが殺されずに8年大統領だったら核軍縮は進んでいたのだろうか?
 フルシチョフが失脚しなかったら鉄のカーテンはもう少し早く上がっていたのだろうか?
 そんなことを空想したくなる60年後の今なのだけれど、たとえ2人が健在でもあまり変わっていなかった可能性が高い。何しろ、妄想の戦争ごっこは誰がトップになろうと、誰が主導権を持とうと、続いていってしまうことを今の世界が証明している。
 ケネディは「アイドル」になったリーダー第一号だと思う。少なくとも私にとっては、アイドルだった。アイドルだったからこそ、小学生の私は作文のテーマに取り上げたのだ。
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 ヒーローは完全無欠や絶対的な強さを求められて近寄りがたいけれど、アイドルは少しは弱みを見せて人間味があるから親しみやすい。その人間味をかわいいととるか、それともかわいくないととるか、それを決めるのも大衆。もしいまケネディが生きていたとしたら、核軍縮を進めた業績があったとしても#Me Tooで叩かれていたのかもしれない。
 時代はますますヒーローを求めなくなっている。祭り上げてもてはやし、何か意に沿わないことをするとバッシングできるアイドルのほうが求められる。
 思えば1960年代からその傾向は始まっていたのだ。
  


敗戦や引き分けの試合だと、ネットをいっさい見ないのに、昨日の快勝後は、ネットを探し回って動画を見つけてほくそ笑んでいます。
もちろんこの試合はリーグ戦ではないので、若手でこのままリーグ戦を戦って同じような試合ができるわけではありませんが、それでも宮本監督が8人もメンツを入れ替えて、若手や新人、また強化指定選手にまでチャンスを与え、全員が期待に応えて結果を出したことが、これ以上ないほど嬉しいです。 今季始まってから一番の嬉しさかもしれない。
どのゴールも素晴らしかったけど、私は食野の3点目に唸りました。高江がクリアしたボールを受けた中村が、球速と方向をはかって食野に出したパスにもうなったし、それをループで決めた食野もすごい!昨日から10回くらい見たけど、すごい。
もちろん、ウィジョのゴールも、タナタツJ1初ゴールも、中村のゴールもすべてよかった!
現地観戦したサポからは、「米倉がすごくよかった。さすがだった」と聞いたし、黒川にいたってはワールドクラスですって(それはちょっと褒めすぎ?)
またこのメンツで戦う試合を観たいし、レギュラーも安穏としていられない、ということを見せたこともこの先につながりますね。
しばらく余韻に浸ります。 

スタメンを見た瞬間に思ったこと。
「えええ? いったいどんなフォーメーション? まさかまさかの5バック?」
戦術のことを何もわかっていない私がいうのもなんですが、5バック、嫌いです。守備的にいく=5人後ろに並べる、という発想でのぞんで、いい結果が出たのってあまり記憶にないです。せいぜい2017年の柏戦くらい? 
たしかにガンバの守備にはおおいに問題はあります。でもね、だからといって人数をかけて「まずは守りから入って」いいことってあります? DFとFWの距離が広がるばかりで、得点のにおいがまったくしなくなる。そんなサッカー、そんなガンバはあんまり見たくないんだなあ。ほかに守備をよくする戦術はないんでしょうか? ないんですか(ため息)そうですか(ため息2)
ということで、前半はため息ばかりついていました。ハーフウェイラインのうしろに引きこもったガンバの前を、パスをつなぎまくってじわりじわりと押し込んでいく大分。たまーーーにガンバがボールを持っても、前にボールを運ぶのは倉田と田中達也くらい。田中、はじめてのスタメンで私は実物初見だったんだけれど、いいじゃないですか、あのドリブル、あのスピード。もっと見たかったなあ。どちらかといえば交代は藤本→アデミウソンのほうがよかった。
5バック戦術のキモとも言える、ワントップの渡辺千真が前半途中で怪我で交代。早くも宮本監督のプランが崩れます。できれば後半からたたみかけるときにアデミウソンと一緒に入れたかったであろうファン・ウィジョ投入。プランが崩れちゃうとあたふたしたのか、右サイドをあっさり抜かれて大分の松本にクロスを上げられ、それを東口がパンチングしたら、飛んで行った先にいたオナイウの腕だか肩だかにあたってあっさりゴール! ハンドやろう、とガンバは主審に迫り、大分も喜んでいいのかどうかわからないみたいな時間が数分あり、でもゴールは認められました。
プランまたもや崩れます。ガラガラ。
ところが後半、アデミウソンが入り、4バックに戻し、倉田が下がってボランチ、遠藤があがってFW、となると、あらあら、いきなり前へ前へ、推進力が大いに高まりました。60分過ぎに藤本(ガンバ)に代わって小野瀬が入り、そうなるともうやりたい放題といっていいほど。でも、ウィジョのシュートはバーを叩くわ、三浦のヘディングはキーパーの好セーブにあうわ、小野瀬の絶好機は相手DFに防がれるわ、で決められず。結局遠藤のころころシュートが相手DFにあたって入る、というラッキーゴールでガンバ追いつきました。ヤットさん、22年連続ゴールだそうです。すごいなあ。多分、この記録は当分破られませんね。
で、猛攻で1点しかとれず、その後攻め疲れで運動量が落ちたところから大分ペースになり、タイムアップ。
引き分けという結果といい、前半のぐでぐでに神の腕ゴールで失点といい、うーんうーんうーん、とっても中途半端気分でスタジアムを後にしましたよ。
そんな試合でしたが、チームを牽引し続けたのは倉田選手でした。だからMOMは倉田。藤春の復帰まではしばらくかかりそうだから、中堅と呼ばれる世代の代表として、しばらくはしっかりとチームを支えてもらわなくちゃ。
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(なんとも言えない表情でメインスタンドに挨拶に来た選手たち)

つぎの生観戦はダービーです。
とにかく、勝ちましょう。
ああああ、勝ちたい勝ちたい勝ち星欲しい!!

昨日、試合が終わった後から私は自分にずーっと言い聞かせています。
「がまん、がまん、がまん、がまん……」
今シーズンが始まる前、いや、宮本監督になったときに私は「すぐに結果は出ないだろう。順風満帆とはいかないシーズンになるだろう。でも、ダメだからってすぐに監督の首をすげかえるようなことはして欲しくないし、そもそもクラブのレジェンドみたいな人を監督にしてしまったらそう簡単にさよならはできない。うまくいかなくても、がまんして見守るしかない」とか思ったものです。

ガンバ、うまくいっていません。
リーグでこの時期に3連敗はきつい。
ホームスタジアムで勝てていないのもきつい。
でも、監督を代えるわけにはいかない。
あと、打てる手は何があるのか?
考えなくてはならないのは、監督自身はもちろんだけれど、フロントじゃないでしょうか。
私としては、優秀な参謀を連れてきてほしい。
長谷川(元)監督が三冠を成し得たのは、片野坂さんという優秀な参謀がいたからこそ。
監督を孤立させちゃいけない。監督だけに責任を押し付けてはいけない。
打つ手は早めに打っていってほしい。

とにかく、勝利が見たいです!

 

自分の過去を振り返ってみて、あのとき(本当のところ)何があったのか、を検証しよう、という試み第一弾です。
第一回目、記憶として鮮明に残っている一番古いころの話から始めます。幼稚園年長組にいた1959年から60年にかけてのことです。なぜそのころの記憶が残っているのかとここ数日考えていて思いついた理由の1つ目は5歳になって字が読めるようになったこと、2つ目に家にテレビがやってきたことです。文字と映像は記憶をあとあとまで鮮明に残すんじゃないでしょうか。脳科学者ではないからしかとはわからないけれど。
生まれたのは尼崎市でしたが、1958年私が4歳、妹が2歳のときに、両親が母方の祖父母に私たちを預けて外国に行ったために、芦屋市に引っ越しました。前にも書きましたが、母方の祖父が非常に癇性な人で、ちょっと何か気に触ることがあると額に文字通り青筋を立てて怒鳴りまくり、ものは投げるは、机を叩くは、食卓をひっくり返すは(卓袱台返し、ですね)、で子どもの私はとても恐れていました。
 だから、芦屋の家に連れてこられたとき、玄関に出迎えた祖父の顔を見たとたん、恐怖におののいて、泣いてわめいて暴れて手がつけられなかった……ということも覚えています。家の玄関前にかえでの大木(子どもの目には大木に思えた)があり、そこにしがみついて家の中に入ることを断固抵抗した、という記憶まで残っています。親においていかれて不憫だと思ったのでしょうか、今にも祖父が切れそうになるところを、祖母が必死に「子どもは泣くだけ泣いたら気がすむんじゃけえ、放っておきなせえ」(岡山弁)ととりなしてくれました。
 両親はどこに行ったのか? アメリカです。なぜかというと、医者の父が奨学金をもらって(だか、給費生か何かに選ばれたのかも)アメリカの大学で学ぶことになったからです。為替レートは固定制で1ドル360円、外貨持ち出し制限がある時代でした。だから幼い子どもを日本に残して、何も母まで一緒に行かなくても、と今の私は思いますが、父が「どうしても連れて行きたい」と母なしでは行かないとごね、せっかくのチャンスをふりかねなかったのと、母も母で「何もかも日本より進んでいる(らしい)アメリカに行ってみたい」と思ったのでしょう。
ちなみに父と母の出会いの場は「英会話教室」でした。英語を学ぶ動機は父の場合は留学でしたが、母はアメリカへの憧れからでした。「戦争中は英語がいっさい使えなくて、ちょっとでも英語っぽい言葉をしゃべったら『おまえ、非国民や』とそしられたのに、戦争が終わったとたんにハロー、イングリッシュ、カモンカモンやったからなあ」と言っていたのは父です。(えーっと、両親ともに英会話はいま一つでした。一緒に海外旅行に行くと、ガイド役も交渉役も私か夫でした。親には悪いけれど、留学しても英語がぺらぺらになるわけではないのだなあ、と思ったりして)
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(こんな船でアメリカはニューヨークに渡ったのです。片道7日間。中央で手を振っているのが父です)
 当時はとくに医学に限ったことなく、工学、法学、文学なんでも「アメリカに留学せんと使い物にならん」(祖父の弁)と考えられていたのです。箔をつける、というだけでなく、何事もアメリカさまに学ばなくては日本の戦後復興はありえない、という時代でした。アメリカは日本人みんなの憧れ、アメリカ人は賢くて金持ち、アメリカは進んでいる、だから英語が話せなくてはこれから日本で生きていけない、というくらいアメリカ信奉が大人から子どもまで蔓延していた、ように思います。少なくとも幼い私の周囲では。
 ところが、前のエントリーで書いたように、ある日私は祖母と一緒にバスに乗っているとき「安保反対!」と叫ぶデモ隊に出会うのです。そういえば、家にやってきたブラウン管テレビのニュースでも、「あんぽはんたいうんどう」と盛んに言っています。祖母は「あんぽんたんのエラい人が、あんぽんたんの国の言いなりになっとるんじゃ」と吐き捨てるように言いましたが、祖父などはテレビに岸信介首相が出てきて安保について何か話し始めると、きききーと歯ぎしりをして、額に浮き出るほど青筋を立て、手にしていた盃を大事な大事なテレビの画面に向かって投げつけ、「あほんだらが! アメリカの言いなりになって日本をどないしよるんじゃ!」と喚くのです。(盃はなぜかたいていテレビ画面から明後日の方向に外れて飛んでいったし、盃に酒は一滴も入っていませんでした。テレビは「家宝」だったし、酒も貴重品だったから)その時点で私はもう恐くて涙目になってしまいます。早く「あんぽ」の話が終わってほしい。心底そう願いました。
 そしてもう一つ子ども心に不思議に思ったこと。あれほど「アメリカは進んでいる、アメリカにはなんでもある、アメリカはすごい、日本が戦争に負けたのも当然じゃ」とアメリカを信じ奉っている祖父母なのに、なぜか「安保」の話になるとアメリカを罵り、アメリカを信じたら日本は潰されてしまう、というのか? パパやママが行っている国なのに、大丈夫か?
 長じて「日米安保体制」とはいかなるものかがわかったとき、戦争を経験し、米軍占領時代を経てきた祖父母のアメリカに対するアンビバレントな気持ちがようやくわかったように思いました。祖父母ともに死ぬまで強烈な戦争反対主義者でした。とくに祖父は少しでも戦争の気配を感じると、それだけで恐怖を感じていたようです。子どものときの記憶が日露戦争から始まり、第二次世界大戦では満州で戦い、病気になって内地に戻ってきたものの、そのまま特攻隊の基地に送られて終戦を迎えた祖父にとって、戦争は憎むべきもの、何もかも破壊してしまう怪物のようなものだったのでしょう。
 自分が生まれたときから戦争をしていた日本が、さあこれから軍隊を持たない、2度と戦争をしない国になるよう憲法で定めた、といっても祖父はすんなりと信じられなかったのかもしれません。だから朝鮮戦争をきっかけに日本の「再軍備」がアメリカ主導で始まり、アメリカ軍の基地が日本のあちこちに置かれている現状に、大いに危機感を募らせていました。55年体制になったとはいえ、同じ党の中でも派閥があり、護憲派と改憲派で揺れていて、テレビで流れる国会中継はつねに怒鳴り合い罵り合いで何一つ決まらないのを見るたびに、祖父はぶるぶるとからだをふるわせ「そげなことばっかりやっとって、また戦争に巻き込まれたらどないするんじゃ!」と政治家に怒りを爆発させました。
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(「日本20世紀館」小学館より。このデモの前、全学連主流派が国会に乱入し、警官隊と大乱闘になって樺美智子さんが犠牲になりました。私は今でも「安保」と聞いた瞬間に、樺さんの遺影を掲げたデモが頭に浮かびます)


 そして岸首相がアメリカに行って、吉田茂首相が1951年にアメリカの言うままに結んできた日米安全保障条約を、今度は「日米が対等の立場で結び直した」と言っても、祖父たちはまったく信じられなかったに違いありません。あらたにとは言っても、基地はこのままアメリカに貸すし、アメリカに協力する(日米地位協定ですね)といい、何かあったらアメリカは日本をぜったいに守ってくださいね、という内容だと知ったとき、不安が一気に高まったのではないでしょうか。「アメリカは日本に原爆を落とした国やぞ。なんでその国が護ってくれると思うんじゃ! このどあほうが!」。祖父の怒りがこちらに向かないうちに、私はそそくさとごはんをかきこんで、逃げたものです。
  アメリカは憧れの国。アメリカは進んだ国。アメリカは自由の国。
 でも、アメリカは日本に原爆を落とした国。
 あのころの私の家では、というか私の中では、アメリカの存在はとても複雑でした。

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