Glamorous Life

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2019年05月

同じようなタイトルの、同じような内容の記事を書いた記憶があります。
2010年頃から何回か書いたかもしれません。
監督が代わるたびに「この人こそ、鈴をつけてくれるはず」と思っていました。
宮本恒靖が火中の栗を拾って監督を引き受けたときは、降格がちらついていたので思いませんでしたが、今季始まる前に「もしかして、もしかして、、、」と期待をしていたのだけれど、期待は裏切られ続けて今に至っています。
まず、言い訳をしておきます。
遠藤選手がガンバに移籍してきたときから、現在にいたるまで、監督が代わり続けても、選手構成が変わっても、8冠をとったあとも、J2に行っても、ガンバはずっと「遠藤ガンバ」です。悪いけれど、西野ガンバでも長谷川ガンバでもなく、遠藤ガンバなのです。
そしてガンバがACLで優勝した2008年から、私の不安は「ガンバは遠藤からどうやって脱却できるのだろうか?」でした。できれば軟着陸して欲しい。そう願っていました。でも、軟着陸はできなくてJ2に降格し、J1復帰して三冠とったときも「遠藤ガンバ」はそのまま維持されていました。それはそれでとてもありがたいことだし、ヤットの偉大さをあらためて感じています。ヤットには感謝をしてもしたりないくらいだし、ヤットがいるおかげでガンバがもっと好きになっていったし、ヤットがクラブの顔として今も支え続けけていることは疑いようもありません。
でも、でも、でも……遠藤後のガンバをどうするのか? そもそも「遠藤後」はいつやってくるのか? 遠藤をベンチに追いやるような若手がなぜ育ってこないのか? むしろ、ヤットは不本意でしょうが、ヤットがいるために有望な若手はガンバを敬遠する、のかもしれないとさえ思っています。
宮本が監督になったとき、正直に言うと真っ先に思ったのが「ツネさんならヤットの影響力を抑えてチームが作れるかも」ということでした。
でも、そうではなかった。
ヤットが理想とする「俺たちのサッカー」「ガンバのサッカー」がもうJリーグで通用しなくなって相当な年月がたっています。それなのに、ヤットを「猫」にしてしまい、「不可侵」の存在にしてしまったのは、いったい誰なのか? 少なくともヤット自身ではないことはたしかです。
フロントも、監督も、選手も、もちろんサポも、いまこそ「誰が猫の首に鈴をつけるのか?」を真剣に考える時ではないでしょうか?
もう遠藤後のガンバを「軟着陸」させられる時期はとっくのむかしに過ぎてしまいました。
だから、猫の首に鈴をつけにいく勇気を持った人を、けっして非難してはいけない。誰が鈴をつけても、かならずガンバに激震が走るでしょう。私としては、宮本監督にその役を全うしてもらいたいです。というか、宮本監督にしかそれはできないことです。
あまりに酷い試合に昨晩はあまり眠れず、監督交代を叫びたくなっていましたが、今朝になって思い直しました。
このまま宮本が監督を続けていたら、J2に落ちる可能性はかなり高くなります。でも、もし「遠藤後のガンバ」を示せるのであれば、私は宮本監督を「名将」と称えます。
(この記事を書くのでさえも、ものすごく勇気が必要でした。自分の中にあるヤットへのいろいろな思いが邪魔をしたからです。ヤットへの思いと、ガンバへの思いが混じり合ってしまっていることが、これを書くことを大いに躊躇わせたのですが、勇気を振り絞って書いておきます)

もうね、何か言おうとしてもしばらく言葉が出ないほど酷い試合でした。さすがに「監督交代〜〜」が頭によぎりましたよ。
FC東京戦での球際厳しいがんばりとか、清水戦の若手の躍動とか、まーーーったく見られず、キックオフ直後からだらだらずるずる、走らない走れない、ボールに寄せられない、前にボールが運べない、パス1本目で詰まる、、、、、
昨年、「まさかこのチームが降格するなんて」というチームが降格して、いかにも降格しそうなチームは残留する、と言った方がいましたが、今日みたいな試合をしていれば「いかにも降格しそうで降格した」と言うことになるでしょう。
決起集会とか、精神論とか、もうね、そういうことでごまかしがきくような状態じゃないですね。
キックオフから10分ほどで「これ、なんのビョーキ?」とか思っちゃいました。 
怒りを通り越して、ただただ悲しいです。


食野選手、ありがとう。そしておめでとう! きみのあの1撃がなければ、私はもう今日家出していたかもしれません。 

MOMは矢島選手です。
ほんと失礼かもしれないけれど、まさか矢島選手をMOMに選ぶ日がやってくるとは2年前には、いや、今季ガンバに復帰したと聞いたときにさえ思ってもみませんでした。
とくに前半、キラーパスってこういうパスのことを言うのね、というパスを出しまくる矢島選手。それも自分がパスを受けてからたいていワンタッチ、ツータッチで出す。あやつられるように走る田中、アデミウソン、食野(選手を省略します)気持ちよかったー! 矢島もいきいきと楽しそうだったし、あやつられる選手たちもみんな溌剌としていて、画面越しに見ている私もその表情で元気になりました。 
三浦の飛び込んでいってのヘディングも、ウィジョの技ありゴールも、そして敬斗のスーパーなゴールもすべて気持ちよかった!!
で、ふと思い出したのですよ。FC東京戦の矢島選手はこんなに生き生きしていたかなあ、と。とてもよかったのだけれど、表情がね、ちょっと違ったんですよね。
リーグ戦ではなぜあんなにみんな表情がこわばっているのでしょうか。
 ウィジョなんて、余裕さえ感じさせる表情でシュートにパスに大活躍。リーグ戦とはすごく違う。
カップ戦で若手をはじめみんながハツラツとして楽しそうであるほどに、あ〜〜〜鳥栖戦がすごい不安 です!
でも、しばらくは昨晩の試合の余韻に浸っておきます。
 

実はGWのしょっぱなで私事でいろいろとあって、とてもブログを更新する気にならなかったのですが、ようやくちょっと気持ちが落ち着いてきたので忘れないうちに最近読んだ本と観た映画について一言ずつ書いておきます。

観た映画
『幸福なラザロ』
Bunkamuraにて鑑賞。アリーチェ・ロルヴァケル監督。イタリア映画。カンヌ映画祭で脚本賞を獲得したそうです。20世紀後半、北イタリアの山奥で、すでに政府によって小作人制度が廃止されたことも知らずに、タバコの葉栽培でせっせと「侯爵夫人」の小作人として働く小さな村の人たち。その中に一人、ラザロという気のいい働き者の青年が、みんなにいいように使われています。そこに事件が起こって警察が山奥まで駆けつけ、侯爵夫人は詐欺を働いていたことが発覚して逮捕。村人たちはみんな都会に連れて行かれますが、ラザロだけは直前に崖から転落して山中に取り残されます。20年以上たってラザロは「復活」し、村人たちを追いかけて都会に出ていき……という内容。まあなんというか、現実とファンタジーがないまぜになった内容で、私は正直あまりおもしろくなかった。でも連休中は毎回満席。うーん。

『希望の灯り』
Bunkamuraにて鑑賞。旧東ドイツ、ライプツィヒ郊外のスーパーマーケットが舞台。若いころにギャングに入っていた青年が、更生して業務用スーパーの在庫管理係として雇われ、先輩や同僚たちにしだいに心を開いてとけこんでいく、というただそれだけのストーリー。もちろんちょっとした事件も起こるし、恋もあるし、東西統合されたあとに取り残された人々という社会問題もバックにはあるけれど、 たぶんテーマも主役もそこじゃなくて「スーパーマーケット」です。原題は「通路にて」。まさにその通り。消費社会の象徴のような巨大スーパーの通路で行き交う人たちを淡々と描いた、なんというか、ニュアンスとしては「ロードムービー」みたいな内容と私は感じました。だから「希望の灯り」っていうタイトルはちょっとどうかと思う。なぜか空席いっぱいでしたが、隣で上映されていた『幸福なラザロ』よりも私の頭の中には余韻が残りました。

『万引き家族』
WOWOWにて鑑賞。是枝裕和監督作品の中では、息苦しい路線のトップに躍り出た作品。『誰も知らない』よりも重い。で、この作品はなんといっても「安藤サクラ」がすばらしい。安藤サクラが出てくるシーンだけ、数回見直したくらいの迫力。泣けるとか笑えるとかいうシーンはほとんどないのですが、警察で取り調べを受ける安藤サクラの表情を長回しで撮ったシーンは2回観て2回とも一緒に泣きました。このシーンだけでも、安藤サクラは映画史に残る俳優になった、と私は思います。安藤サクラの演技なしでは、作品はちょっとベタな内容に堕してしまったかも。すみません、生意気言います。

読んだ本
『父が子に語る近現代史』トランスヴュー
『靖国史観〜日本思想を読みなおす』ちくま学芸文庫 
ともに思想史家の小島毅さんの著書。
平成から令和に変わるそのときに読むのにふさわしい2冊でした。2冊とも小島さんの歴史観、日本史観が明快に述べられている本です。歴史を読むとはどういうことかをあらためて問いかけられました。大河ドラマや司馬遼太郎をはじめとする歴史「小説」と、歴史とは別物であることをもう一度自分に言い聞かしています。思想史ではありますが、わかりやすくまとめられていて、しかも教科書的ではない。こういう書き方で学んでいれば、歴史がもっと身近に、そして自分に惹きつけられて読めたのに、と思いました。
上記の本、第4章「世襲」を支える「忠義」の理屈、は必読かも。
「しかし、将軍が代々世襲されるようになると、当主の器量は小さくなってきます。僕は、これは人類史上の普遍的な真理だと思います。政治は世襲でできるものではありません。ではどうするか。古来、そのための言い訳、凡庸な人物でも世襲で政治権力を継げる理由が考案されてきました。「忠」というのも、その一つです」 

『私の名前はルーシー・バートン』
『何があってもおかしくない』
早川書房 
エリザベス・ストラウト著 小川高義訳。
『オリーヴ・キタリッジの生活』を読んで以来、エリザベス・ストラウトのファンになって、どちらも読んでいたはずなのに印象が薄かったので再読。ストーリーテラーとしてはもちろん、作品構成、人物描写、どれも気を衒わず、技巧的でなく、それなのにすばらしくうまい。登場人物の人生に、じんわりと同化していける不思議な小説です。

『ある男』
平野啓一郎著。
ほぼ一晩で一気読み。「私とは何か?」を問い続ける平野啓一郎の真骨頂。推理小説とも言えるし、哲学小説みたいでもある。井戸まさえさんのご自身の体験を踏まえての『無国籍の日本人』の衝撃とは別物の衝撃ではありましたが、名前や生まれ、家族、仕事などで枠組みを作られない「自分」を考え直しました。
(失礼しました! タイトルを桜庭一樹さんの『私の男』と取り違えてしまいました。ご指摘ありがとうございます。で、ついでみたいで申し訳ないのですが、『私の男』も実におもしろかった。この本、ちょうどチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』、『ヒョンナムオッパへ』(韓国フェミニズム小説)、姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』を読んで、強い共感とともに、この(男性)社会への無神経さと強欲への苛立ちと嫌悪感に包まれていたときでした。これらの小説をひとまとめに「フェミニズム小説」としてくくるのは抵抗がありますが、やはりフェミニズムについては避けて通ってはいけない女65歳だと思うので、気持ちを落ち着けて一度「フェミニズム小説」について書きます)

アンデシュ・ルースルンド;ベリエ・ヘルソトレムの3冊
『三秒間の死角』
『制裁』
『地下道の少女』

どれも面白くて一気読みでしたが(ただし『地下道の少女』は中だるみして、しかも読み終わって「え? これでいいわけ?」でしたが)一番残ったのは『制裁』でした。人を殺してはいけない、という法律を条件付きで「殺してもしかたなかった」としたとたんに起こる社会の無秩序。死刑制度についてもあらためて問いかける内容でした。

だんだん疲れてきたので、あとは感想抜きでタイトルのみ。
『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』ヤニス・パルファキス著(タイトルが大げさすぎるし、長すぎる。うっかりポチってしまって、あっという間に読んでしまったが、「とんでもなくわかりやすい」というタイトルをつけた本を読むんじゃなかった、とストレスを感じた)
『償いの雪が降る』アレン・エスケンス著 創元推理文庫(おもしろく読んだのだが、主人公の青年がいい人すぎてだんだんイライラしてきた。ま、ファンタジーとして読めばいいんだけれどね)
『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』 仲正昌樹著 NHK出版新書(哲学書なのになぜか一気読み。新幹線、品川で読み始めて気がつくと新大阪終点でした。あまりにおもしろかったので、同じ著者の『今こそアーレントを読み直す』もポチってしまいました。が、ちょっと重複するところが多くて、一気読みとはいかず)
 
ほかにも書評用に何冊か読んだのですが、それはまた今度。 

〜力、っていう言葉はもう手垢どころか泥まみれ、汗まみれになっている感じがするので本来なら使いたくないのですが、あえて言います。
未来が不透明で、選択肢がいろいろとある時代に必要なのは、「決める力」ではないか、と私は最近強く思っています。そしてその力をつけるためには、日常生活でのこまかいことを自分で考えて、判断することから始まるのではないか、と。
朝ごはんはコーヒーか紅茶か。
洗濯するかどうか。
壊れた時計を修理に出すか、新しく買うか。
今日の夕飯は何を作るか、何を食べるか。
そんなことを決め、決めたことを実行し、たとえ失敗しても反省はしても後悔しない。そんな訓練を重ねることが、もっと大きな決断を迫られたときの「決める力」につながっているのではないか、と最近とくに強く感じています。
というのは、私の周りだけかもしれませんが、アッパー50歳の男性たちにこの「決める力」がとくに不足しているように思えてならないのです。
たとえば旅行。どこに行くか、いつ行くか、誰と行くか、何をしたいか、グループに男性が一人入るとまったく決まらない。
調べた情報は提供する。でも、その情報は自分の意見ではない。「どこそこはその時期雨が多いらしいよ。SNSに書いてあった」とかね。私が聞きたいのは、その人がそこに行きたいのか、行きたくないのか、そこなんだけれど、なぜか男性(おじさん)は「行きたくない」とかは言わないで、否定的情報のみを提供する。「それじゃそこはいやなのね」と聞くと、「いや、いやってわけじゃないけれど、むにゃむにゃ」とごまかす。たぶん行きたいかどうか決める力がないが、それを認めたくないから「○○さんが行きたいっていうならそこでいいよ」とか言う。
まあ旅行程度だったら、勝手にこちらが決めて「行きたいなら仲間に入れてあげる。いやならいま断って」と迫るか、もしくは途中で仲間から外してしまえばいいことです。
でも、そういう人っておそらくもっと大きなことも自分では決められないのではないか、と私は疑っています。たとえば結婚とか、転職とか、転居とか、もっと言えばどんな死に方をしたいか、というところまで他人に判断(決断)をあおいでしまう。そういう人にかぎって、どんな結果が出てもあとでぐちぐち悔やんだり悩んだりしてしまう。
なぜそういう人に男性が多いのかを考えていて思いついたのが、日常生活での小さなことを自分で決めてこなかったからではないかと勝手に思い至りました。親や奥さんが用意したものを食べ、用意してくれた服を着て、会社で上司に言われた仕事をして、部下や同僚や上司とのつきあい方もマニュアルが教えてくれるとおりにこなしていたら、そりゃ「決める力」はつかないです。
もちろん、女性にも決める力がない人がいるのだけれど、比べてみたら圧倒的に男性のほうに多い、というのが65年生きてきた私の感想です。はい、統計取ったわけでもないので、あくまで個人の感想です。
まあね、私はいつもあっという間に決断して、すぐに行動して、半分くらいの確率であちゃーーーーってことになっちゃうんですけれどね。でも、ま、少なくとも失敗してもそれを誰かのせいにするひまもなく、つぎの決断と行動に移ってしまうか忘れてしまうので、あとはひかない。そういう私に言われたくないわ、という男性が多いことも認めましょう。
おっちょこちょいと言われてもまあ仕方ないけれど、おっちょこちょいでそそっかしくて粗忽だからこそ、得てきたものも多いかなと思う今日このごろ(締めまで手垢がついている)

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