Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2019年08月

しばらくガンバのことを頭から追い払いたいし、記事のトップにきのうの完敗が出てくるのがいやなので今日はガンバと関係のない記事で2回目のブログ更新です。

私はTwitterをほとんど利用していません。仕事で持っているアカウントでは、プロジェクト進行中は1日に何度もチェックし、ツィートもするけれど、個人のアカウントではたまーにしかつぶやきません。
Facebookでは10年アカウントを持って毎日のぞいて1週間に1回は書き込んでいますが、友達申請は1)会ったことがあり、信頼できることを確認済み、2)個人的にメールをもらって「友だちになってください」と頼まれた、3)その人のアカウントの書き込みや友だちをチェックして大丈夫と判断した、という3つの条件を満たしたところでの「承認」することにしています。そこまで面倒臭いことをするのがいいのかどうかわからないけれど、「友だち」と言うからには、情報を交換し共有したいと思われる人、とか、話し合いの土壌に乗れる人、であって欲しいからです。
Twitterのフォロワーは選ぶことができないし、そもそもフォロワーであって友だちじゃないので、 こちらのツィートにどう反応するかまったく見当がつかなくて怖いのです。140文字しか書けないから、発言の意図や背景を説明するには私には足りません。でも2,000字書いたとしても、たぶん伝わらない人には伝わらないし、誤読されて人格攻撃までいたるような炎上に巻き込まれるのは時間と労力の無駄遣いと思えるので、ツィートには積極的ではありません。
パソコン通信の草創期、つまり30年以上前からネット上での発信やつながりにわりに熱心だった私ですが、最近のSNSはちょっと怖いな、距離を置きたいな、と思うときがあります。
その一つが「共感への強迫的強要」です。Facebookでの「いいね!」とか、Twitterのハートマークとか、共感を示してくれ〜〜〜と強要されているみたいで気が重くなります。共感はコミュニケーションとしてとてもたいせつではありますが、それが強迫的に強要されてしまうことは、裏返すと反論や反発に対して不寛容になってしまうと思うのです。自分とは意見が違う、というのであれば、違うという点を理論的にちゃんと言葉で説明してほしいし、それに対して発信者も理論的に応えればいい。それが社会生活を送る人のコミュニケーションの基本だと私は思います。人は違う考え方や感性を持っている生き物なんだから、なんでもかんでも他人に共感できるはずがない。でも、どこが自分と違うのか、何に対してその人が反発しているのか、少しは理解したいのです。
ところが、「炎上」とかしているやりとりを見ていると、「おまえの意見は気に入らない。こういうことを言うやつの発言は取り消せ」とか、いきなり好き嫌いの話になってしまう。好き嫌いは誰にでもあって、自分が聞きたいと思っている意見は好きだけれど、聞きたくない意見、見たくない画像には嫌悪感をもよおして、怒りさえおぼえる。すごく当たり前の感情です。でも、それは個人の好き嫌いであって、嫌いだったら無視するとか、ブロックするとか、すればいいのだけれど、なぜか嫌いな意見や画像に過剰なばかりの反応を見せる人がいます。不愉快だ、吐き気がする、こんなことを言う人はどこか精神的におかしい、という相手の人格攻撃まで、いちいち書き込まなくちゃいけないことなんでしょうか? なんてことをここに書いただけで、また反発がきそうですが。
そうはいっても、SNSがなかった時代にはとても知り合えなかった人たちと知り合い、いろいろな話が聞けるし、おもしろい本も教えてもらえるし、私自身も発信の場が広がっていいこともたくさんあります。要するに、つきあいかた、なんだと思います。
私が気をつけているのは、できるかぎりまちがった情報を発信しないこと、できるかぎり特定する個人(政治家や有名人を含む)の人格を攻撃することを書かないこと、そして好きな人の意見でも自分とは違うなと思ったら、何が違うのかを考えてから「反論」すること、そのときに「そういう意見は嫌いだ」とは書かないようにすること、です。嫌いだ、と言ってしまうと、そこで話し合いもできなくなってしまうから。
でも、当たり障りのないトピックにいいね!ばかりしているのもSNSの使い方として私自身は違うんじゃないかと思っています。意見が分かれそうなトピックにも、自分の立場をはっきり示すことも必要で、そこで好悪の感情を招かないようにどうやって発信するか、まだよくわかっていません。
この記事を書こうと思ったのは、以下のブログを読んだから、でもあります。
「物語 オーストリアの歴史」の著者 山之内克子さんの記事です。響きました。

https://note.mu/grossprinzessin/n/nd90a488cb3ed?fbclid=IwAR1HmJivVLIODwKYXqKFF0uZNQlPizvC3B7oFERqqJv-Tfrfs3jP1hXndJg


気持ちをなごませたいので(いまささくれだっている私の胸の内)近所の公園の池の蓮の花を投稿しておきます。
IMG_6858

 

暑さ、連戦、新メンバーとの連係、どんな言い訳を並べても虚しくなるほどの完敗でした。
西が丘にキックオフ45分前に到着したら、なんとスタジアムの半周以上先まで待機列が延びていて、キックオフに間に合うのかと不安になったほどです。間に合いましたけれど。4500人強の観客でスタジアムは満杯。その3分の2はガンバのユニを着ている人たちで、平日の夜18:30キックオフで、しかも台風の影響でなんとも蒸し暑い気候だというのに、なんでまたこんなに……といささか呆れました。はい、もちろん私も呆れられるその一人。
キックオフ15分前にようやく入場できたけれど、もう座ることはあきらめて立ち見の場所に陣取りました。背後にはどこかの大学のコーチかマネージャーみたいな人がいらして、プレイの一つひとつを分析してくれたので、まるで解説を聞いているみたいでした。
そしてその人たちがガンバのプレーを「お、いいね」「さすがプロだね」と言ったのは、、、、、1回だけかな。前半開始5分くらいに小野瀬が突破したワンプレーだけでした。でも、クロスをあげても中には渡邊一人しかいなくて2人くらい法政のDFがついているからもちろんチャンスになんかまったくならず。
法政大学はディフェンスも攻撃もやることが整理されていて、ボールの取りどころ、プレッシング、受け渡し、どれもガンバが見習いたいところばかり。組織的なプレーが魅力的でした。
誰がひどかった、とか、監督の采配が、とか、12人も移籍させたフロントが問題、とかそういうことはどれだけ並べてみても不毛です。
今のチームでやっていくしかない。
ただ一つだけ言いたい。
記念試合、とか、新加入選手の起用、とか、なんか試合とは別のところに気を使ったみたいな忖度采配はもうやめてほしいんだな>宮本監督
本人にはそのつもりがないのかもしれないけれど、新人ゆえの自信のなさか、周囲に忖度しているような気がしてならない。忖度が生まれるのは、まわりを身内で固めているからだ、と私は思います。
フロント、スタッフ、選手を若い(というか子ども時代)頃からよく知っている身内で固めてしまった いまのクラブ運営が健全とはどうしても私は思えないのです。家族経営の企業がつぎつぎと不祥事を起こしたり、経営不振に陥ったりしているのと同じ。ましてや結果がすべてのプロのスポーツクラブなのですから、外部の厳しいプロを入れていかないと、チームにもクラブにも発展はない、と私は思います。

平日の夜、汗をふきながら応援していた4500人の熱心なサポーターのブーイングを、どうぞ前向きな力に変えてください。
何度も言うけれど、いま、ガンバ大阪は10年後にクラブがこのまま存続できるかどうかが問われるところまで来ている、と私は見ています。それくらいの危機感を持って、この完敗を受け止めてほしいです。 
 
IMG_6899

(美しかったのは
法政大学のプレーと満月だけ)

朝からカーッと太陽が照りつけるかと思えば、一天にわかにかきくもり、激しく雨が降り出す、という台風の影響らしい天気が続いています。今日は天皇杯 ガンバvs法政大学観戦にいくのですが、このぶんだと久々に雨にうたれる「修行観戦」かなあ〜〜〜

ということはさておき、2004年に購入したテレビの調子が悪くて、そろそろ買い替え時期なのではないか、とBCASカードを抜いたりさしたりしています。
2年前にまったく映らなくなって修理に来てくれた電気屋さんが、「この型はもう製造中止になっていて部品がありません。今回は幸いうちに在庫があったからいいけれど、つぎに映らなくなったら買い替え時期じゃないでしょうか?」と言われました。それでもまだ買い替えていない。買い替えようかな〜〜と思いつつ、腰が上がらない。なぜなら、我が家はテレビをほとんど観ないから。
という言い方は正しくないな。
テレビ局が放映している番組をほとんど見ない、というほうが当たっている。
NHKの国民的人気(ってなんだよ?)の朝ドラや大河ドラマも、民放のお笑いやドラマも、歌番組(というのはまだあるのでしょうか?)も、ワイドショー(まだそういう番組はあります?)もこの20年間ほとんど見たことがない。
子どもたちが家にいたときにはそういう番組も見ていたらしいが、私はそのころは仕事が忙しくて、夕飯食べたら仕事に戻っていたのでよく知らないのです。
私がテレビ受像機をつけて視聴するのは、WOWOWでやっている映画の録画と、たまにリーガやテニスの試合と、Jリーグ開催時期にBSでやっているサッカーの試合や日本代表の試合、それくらいかな。1日に1回はつけるようにしているけれど、休憩時間中に30分程度録画してあるものを観るくらいです。
 最近は映像をタブレットで一人で見ることが多いのです。サッカーの試合はDAZNで、映画やドラマはWOWOWやプライムで、お気に入りのNHKドキュメンタリーもオンデマンドで視聴します。夫がサッカーだけでなくスポーツが全部好きでないので、嫌がる夫の前でスポーツの試合を観る気にはなりません。食事時間中だとタブレットを隣の椅子の上においてこっそり盗み見しながら一人観戦。ゴール決まっても騒げないので、つらいわ〜〜〜。夫は映画にもドラマにもお笑いにもいっさい興味がないし、私もドラマやお笑いは観ない。というわけで、私自身の「観る」という行為はタブレットのほうが中心になっています。
そんな我が家なので、吉本の芸人をおそらく2人くらいしか知らないし(夫は今回騒動になっていた宮迫も田村なんたらも知らなかった。というよりも、テレビでこの2人を見たことがなかったそうだ)、誰がジャニーズで誰がK-POPなのか区別がつかない。
高齢者に入る私でさえもこれだけテレビ番組をテレビで観ることがなくなっているのだから、今後、テレビ放送はすたれていくのでしょうか? それとも我が家はテレビ視聴における平均家庭ではないのか?
いや、そんなことより、我が家はテレビ受像機を買い替えるべきなのでしょうか? その前にNetFlixに加入を検討したほうがよさそうだな。
 

6歳のときに一人で本が読めるようになって以来現在にいたるまで、私には本を読まないで1日が終わるという日は数えるほどしかありません。出産の時でさえも、陣痛の合間に本を開いて看護師さんに叱られてしぶしぶやめたくらいです。
病的に本が好きです。就寝前に最低でも15分は本を読まないと眠れないし、朝起きてまず本をしばらく読んでから着替えをするのが日課です。その時間を確保するために、起床時間を調整したりします。
1週間に1回は本屋に立ち寄って、立ち寄った以上はと本を買ってしまう。PCを立ち上げたら電子書籍をあさってしまう。図書館にも行くから、読みたい本、読まなくちゃいけない本が、タブレットにダウンロードした電子書籍も含めて常時10冊以上、私に読んで読んでと呼びかけています。
旅行に出かける理由の半分くらいは本が心おきなくゆっくり読めるからで、できればどこかにこもって1週間くらい誰にも会わずにひとりきりでゆっくり読書にひたっていたいです。
本を読むことを仕事にできて、これこそまさに天職だろうと幸せに包まれます(→7割本気) 
そんな私がいま不安でたまらないこと。
目の不調や頭の不調で、本が読めなくなる日がくるのではないか。
それも差し迫っているのではないか、ということ。
できれば臨終の枕元でも、誰かにおもしろい本を朗読してもらいたいくらいだけれど、もはや聞こえない可能性大。
本とのお別れこそ、人生とのお別れ、という状態になってほしいけれど、たぶんそれは無理でしょう。
認知症に関して、自分の力でなんとか食い止められるのは35%で、65%は遺伝と自然の老化でどうしても避けられないそうです。(「老いと記憶」増本康平著 中公新書より)86歳以上では約半数が認知症になるとのことだし、そうなると思いっきり本が読めるのもあと10年くらいかもしれません。何かの役に立つからとか、仕事に必要だから、と言うのでなく、ただただ本が読みたいから読む。そんなことができるのもたぶんあと10年。
10年ではとても読みきれないよ、読みたい本全部は。
あたりまえか……

実は家庭でいろいろとあって、ライブ視聴できず。
DAZNでなんとか前半まで見ました。
前半だけの感想だと、「え! ガンバ、なかなかいいじゃない!」です。 
みんな(宇佐美以外)動けているし、連動もだんだんさまになってきました。
でも結果を知っているから、「いいじゃない」とは言えない。
後半を見るのがこわいです。
89分に得点して、90+2分に失点、、、、、、、
何があったのか見るのがこわい。
ドロー沼にずるずるとひきずりこまれていく感じ。

水曜日の天皇杯はどうするのだろう?
おそるおそる西が丘に行ってきます。 

↑このページのトップヘ