しばらくガンバのことを頭から追い払いたいし、記事のトップにきのうの完敗が出てくるのがいやなので今日はガンバと関係のない記事で2回目のブログ更新です。
私はTwitterをほとんど利用していません。仕事で持っているアカウントでは、プロジェクト進行中は1日に何度もチェックし、ツィートもするけれど、個人のアカウントではたまーにしかつぶやきません。
Facebookでは10年アカウントを持って毎日のぞいて1週間に1回は書き込んでいますが、友達申請は1)会ったことがあり、信頼できることを確認済み、2)個人的にメールをもらって「友だちになってください」と頼まれた、3)その人のアカウントの書き込みや友だちをチェックして大丈夫と判断した、という3つの条件を満たしたところでの「承認」することにしています。そこまで面倒臭いことをするのがいいのかどうかわからないけれど、「友だち」と言うからには、情報を交換し共有したいと思われる人、とか、話し合いの土壌に乗れる人、であって欲しいからです。
Twitterのフォロワーは選ぶことができないし、そもそもフォロワーであって友だちじゃないので、 こちらのツィートにどう反応するかまったく見当がつかなくて怖いのです。140文字しか書けないから、発言の意図や背景を説明するには私には足りません。でも2,000字書いたとしても、たぶん伝わらない人には伝わらないし、誤読されて人格攻撃までいたるような炎上に巻き込まれるのは時間と労力の無駄遣いと思えるので、ツィートには積極的ではありません。
パソコン通信の草創期、つまり30年以上前からネット上での発信やつながりにわりに熱心だった私ですが、最近のSNSはちょっと怖いな、距離を置きたいな、と思うときがあります。
その一つが「共感への強迫的強要」です。Facebookでの「いいね!」とか、Twitterのハートマークとか、共感を示してくれ〜〜〜と強要されているみたいで気が重くなります。共感はコミュニケーションとしてとてもたいせつではありますが、それが強迫的に強要されてしまうことは、裏返すと反論や反発に対して不寛容になってしまうと思うのです。自分とは意見が違う、というのであれば、違うという点を理論的にちゃんと言葉で説明してほしいし、それに対して発信者も理論的に応えればいい。それが社会生活を送る人のコミュニケーションの基本だと私は思います。人は違う考え方や感性を持っている生き物なんだから、なんでもかんでも他人に共感できるはずがない。でも、どこが自分と違うのか、何に対してその人が反発しているのか、少しは理解したいのです。
ところが、「炎上」とかしているやりとりを見ていると、「おまえの意見は気に入らない。こういうことを言うやつの発言は取り消せ」とか、いきなり好き嫌いの話になってしまう。好き嫌いは誰にでもあって、自分が聞きたいと思っている意見は好きだけれど、聞きたくない意見、見たくない画像には嫌悪感をもよおして、怒りさえおぼえる。すごく当たり前の感情です。でも、それは個人の好き嫌いであって、嫌いだったら無視するとか、ブロックするとか、すればいいのだけれど、なぜか嫌いな意見や画像に過剰なばかりの反応を見せる人がいます。不愉快だ、吐き気がする、こんなことを言う人はどこか精神的におかしい、という相手の人格攻撃まで、いちいち書き込まなくちゃいけないことなんでしょうか? なんてことをここに書いただけで、また反発がきそうですが。
そうはいっても、SNSがなかった時代にはとても知り合えなかった人たちと知り合い、いろいろな話が聞けるし、おもしろい本も教えてもらえるし、私自身も発信の場が広がっていいこともたくさんあります。要するに、つきあいかた、なんだと思います。
私が気をつけているのは、できるかぎりまちがった情報を発信しないこと、できるかぎり特定する個人(政治家や有名人を含む)の人格を攻撃することを書かないこと、そして好きな人の意見でも自分とは違うなと思ったら、何が違うのかを考えてから「反論」すること、そのときに「そういう意見は嫌いだ」とは書かないようにすること、です。嫌いだ、と言ってしまうと、そこで話し合いもできなくなってしまうから。
でも、当たり障りのないトピックにいいね!ばかりしているのもSNSの使い方として私自身は違うんじゃないかと思っています。意見が分かれそうなトピックにも、自分の立場をはっきり示すことも必要で、そこで好悪の感情を招かないようにどうやって発信するか、まだよくわかっていません。
この記事を書こうと思ったのは、以下のブログを読んだから、でもあります。
「物語 オーストリアの歴史」の著者 山之内克子さんの記事です。響きました。
https://note.mu/grossprinzessin/n/nd90a488cb3ed?fbclid=IwAR1HmJivVLIODwKYXqKFF0uZNQlPizvC3B7oFERqqJv-Tfrfs3jP1hXndJg
気持ちをなごませたいので(いまささくれだっている私の胸の内)近所の公園の池の蓮の花を投稿しておきます。
私はTwitterをほとんど利用していません。仕事で持っているアカウントでは、プロジェクト進行中は1日に何度もチェックし、ツィートもするけれど、個人のアカウントではたまーにしかつぶやきません。
Facebookでは10年アカウントを持って毎日のぞいて1週間に1回は書き込んでいますが、友達申請は1)会ったことがあり、信頼できることを確認済み、2)個人的にメールをもらって「友だちになってください」と頼まれた、3)その人のアカウントの書き込みや友だちをチェックして大丈夫と判断した、という3つの条件を満たしたところでの「承認」することにしています。そこまで面倒臭いことをするのがいいのかどうかわからないけれど、「友だち」と言うからには、情報を交換し共有したいと思われる人、とか、話し合いの土壌に乗れる人、であって欲しいからです。
Twitterのフォロワーは選ぶことができないし、そもそもフォロワーであって友だちじゃないので、 こちらのツィートにどう反応するかまったく見当がつかなくて怖いのです。140文字しか書けないから、発言の意図や背景を説明するには私には足りません。でも2,000字書いたとしても、たぶん伝わらない人には伝わらないし、誤読されて人格攻撃までいたるような炎上に巻き込まれるのは時間と労力の無駄遣いと思えるので、ツィートには積極的ではありません。
パソコン通信の草創期、つまり30年以上前からネット上での発信やつながりにわりに熱心だった私ですが、最近のSNSはちょっと怖いな、距離を置きたいな、と思うときがあります。
その一つが「共感への強迫的強要」です。Facebookでの「いいね!」とか、Twitterのハートマークとか、共感を示してくれ〜〜〜と強要されているみたいで気が重くなります。共感はコミュニケーションとしてとてもたいせつではありますが、それが強迫的に強要されてしまうことは、裏返すと反論や反発に対して不寛容になってしまうと思うのです。自分とは意見が違う、というのであれば、違うという点を理論的にちゃんと言葉で説明してほしいし、それに対して発信者も理論的に応えればいい。それが社会生活を送る人のコミュニケーションの基本だと私は思います。人は違う考え方や感性を持っている生き物なんだから、なんでもかんでも他人に共感できるはずがない。でも、どこが自分と違うのか、何に対してその人が反発しているのか、少しは理解したいのです。
ところが、「炎上」とかしているやりとりを見ていると、「おまえの意見は気に入らない。こういうことを言うやつの発言は取り消せ」とか、いきなり好き嫌いの話になってしまう。好き嫌いは誰にでもあって、自分が聞きたいと思っている意見は好きだけれど、聞きたくない意見、見たくない画像には嫌悪感をもよおして、怒りさえおぼえる。すごく当たり前の感情です。でも、それは個人の好き嫌いであって、嫌いだったら無視するとか、ブロックするとか、すればいいのだけれど、なぜか嫌いな意見や画像に過剰なばかりの反応を見せる人がいます。不愉快だ、吐き気がする、こんなことを言う人はどこか精神的におかしい、という相手の人格攻撃まで、いちいち書き込まなくちゃいけないことなんでしょうか? なんてことをここに書いただけで、また反発がきそうですが。
そうはいっても、SNSがなかった時代にはとても知り合えなかった人たちと知り合い、いろいろな話が聞けるし、おもしろい本も教えてもらえるし、私自身も発信の場が広がっていいこともたくさんあります。要するに、つきあいかた、なんだと思います。
私が気をつけているのは、できるかぎりまちがった情報を発信しないこと、できるかぎり特定する個人(政治家や有名人を含む)の人格を攻撃することを書かないこと、そして好きな人の意見でも自分とは違うなと思ったら、何が違うのかを考えてから「反論」すること、そのときに「そういう意見は嫌いだ」とは書かないようにすること、です。嫌いだ、と言ってしまうと、そこで話し合いもできなくなってしまうから。
でも、当たり障りのないトピックにいいね!ばかりしているのもSNSの使い方として私自身は違うんじゃないかと思っています。意見が分かれそうなトピックにも、自分の立場をはっきり示すことも必要で、そこで好悪の感情を招かないようにどうやって発信するか、まだよくわかっていません。
この記事を書こうと思ったのは、以下のブログを読んだから、でもあります。
「物語 オーストリアの歴史」の著者 山之内克子さんの記事です。響きました。
https://note.mu/grossprinzessin/n/nd90a488cb3ed?fbclid=IwAR1HmJivVLIODwKYXqKFF0uZNQlPizvC3B7oFERqqJv-Tfrfs3jP1hXndJg
気持ちをなごませたいので(いまささくれだっている私の胸の内)近所の公園の池の蓮の花を投稿しておきます。