太極拳の老師に「何を考えるでもなく、外の景色を眺めてぼーっとする時間がありますか?」と聞かれて、「ありませんっ」と即答したら、「そういう時間は必要ですよ」と言われました。
脳の活性化のためにも、何もしないで、ただ全身を弛緩させて、ぼんやりする時間が必要なのだそうです。
でも、私にはぼんやりとすることが、とてもとてもむずかしい。
身体の力を抜くことがなかなかできないのと同じで、 頭の力を抜くことにも困難を覚えるのです。
子どもの頃に親から「ぼんやりしているんじゃないっ❗️」と怒鳴られまくられたからかもしれません。そう、私は少なくとも8歳くらいまではぼーっと空想にふけっている子どもでした。空想の世界に入ってしまうと、まわりの物音も聞こえなくなってしまう。目は開けていても何も見えていない。親は「この子はちょっと足りないんじゃないか」と思っていたそうです。
先日、もうすぐ6歳になる孫1号をしばらく預かったのですが、彼女がときどきどこか違う世界に入り込んで、見えない誰かと会話をしていることがありました。手に持っているのは、人形のための小さなヘアブラシだったり、保育園からの帰り道に拾ったどんぐりだったりするのですが、ごろりと寝転がって、それに向かって、何か小さい声でつぶやいて、ときに笑ったり、怒ったりしている。視線はヘアブラシやどんぐりに向けられていても、私には見えない世界が彼女には見えていて、そこで見えない誰かと会話をしているらしいのです。
その姿をみて、ああそういえば、私もそうだった、と一気に60年前に引き戻されました。
お孫のその姿は、もしかすると親や大人の目からは、ぼんやりしていると見えるかもしれません。「やるべきことをやらないで、ぐずぐずしている」と大人を苛立たせるかもしれない。私もよく「さっさと着替えて、さっさと手を洗いなさい。やるべきことをやってから遊びなさい」とかよく言われましたし、たぶんお孫も言われているに違いない。
でも、心がどこかに行ってしまっているその時間は、きっと子どもにとってはとても大事なのではないか。いや、子どもだけでなく、大人になっても必要な時間なんじゃないか。ぼんやりする時間とは、そういう時間を言うのではないか。
大人になると、子どものころに見えていた世界は見えなくなってしまいます。悲しいし、残念なことだけれど、それは「現実世界」を生きていかねばならない大人である以上しかたない。
でも、その世界が大人になると消えてしまうわけではない。何かふっとしたときに、大人にだってその世界が垣間見えることだってある、はず。それを見えるようになるためには、ぼんやりと空を見ているだけの時間などが必要なのですね、きっと。チコちゃんに怒られても、ぼやーっとしていれば、ある瞬間にふわっとカーテンが開いてその世界がのぞけそうな気がします。
ということを考えながら、洗濯物を干したあとに、久しぶりに晴れ渡った秋空を1時間も眺めてしまいました。
洗濯物を取り込むときにも、またもやぼやーっと空を眺めました。今日は1日、ほんと何もしなかったな。ごはん作って、洗濯して、1個だけ仕事して(1時間ほどだけれど)、あとは本を読んで、ぼーっとしてました。まあ、こういう日も必要ですね。
脳の活性化のためにも、何もしないで、ただ全身を弛緩させて、ぼんやりする時間が必要なのだそうです。
でも、私にはぼんやりとすることが、とてもとてもむずかしい。
身体の力を抜くことがなかなかできないのと同じで、 頭の力を抜くことにも困難を覚えるのです。
子どもの頃に親から「ぼんやりしているんじゃないっ❗️」と怒鳴られまくられたからかもしれません。そう、私は少なくとも8歳くらいまではぼーっと空想にふけっている子どもでした。空想の世界に入ってしまうと、まわりの物音も聞こえなくなってしまう。目は開けていても何も見えていない。親は「この子はちょっと足りないんじゃないか」と思っていたそうです。
先日、もうすぐ6歳になる孫1号をしばらく預かったのですが、彼女がときどきどこか違う世界に入り込んで、見えない誰かと会話をしていることがありました。手に持っているのは、人形のための小さなヘアブラシだったり、保育園からの帰り道に拾ったどんぐりだったりするのですが、ごろりと寝転がって、それに向かって、何か小さい声でつぶやいて、ときに笑ったり、怒ったりしている。視線はヘアブラシやどんぐりに向けられていても、私には見えない世界が彼女には見えていて、そこで見えない誰かと会話をしているらしいのです。
その姿をみて、ああそういえば、私もそうだった、と一気に60年前に引き戻されました。
お孫のその姿は、もしかすると親や大人の目からは、ぼんやりしていると見えるかもしれません。「やるべきことをやらないで、ぐずぐずしている」と大人を苛立たせるかもしれない。私もよく「さっさと着替えて、さっさと手を洗いなさい。やるべきことをやってから遊びなさい」とかよく言われましたし、たぶんお孫も言われているに違いない。
でも、心がどこかに行ってしまっているその時間は、きっと子どもにとってはとても大事なのではないか。いや、子どもだけでなく、大人になっても必要な時間なんじゃないか。ぼんやりする時間とは、そういう時間を言うのではないか。
大人になると、子どものころに見えていた世界は見えなくなってしまいます。悲しいし、残念なことだけれど、それは「現実世界」を生きていかねばならない大人である以上しかたない。
でも、その世界が大人になると消えてしまうわけではない。何かふっとしたときに、大人にだってその世界が垣間見えることだってある、はず。それを見えるようになるためには、ぼんやりと空を見ているだけの時間などが必要なのですね、きっと。チコちゃんに怒られても、ぼやーっとしていれば、ある瞬間にふわっとカーテンが開いてその世界がのぞけそうな気がします。
ということを考えながら、洗濯物を干したあとに、久しぶりに晴れ渡った秋空を1時間も眺めてしまいました。
洗濯物を取り込むときにも、またもやぼやーっと空を眺めました。今日は1日、ほんと何もしなかったな。ごはん作って、洗濯して、1個だけ仕事して(1時間ほどだけれど)、あとは本を読んで、ぼーっとしてました。まあ、こういう日も必要ですね。