Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2019年10月

 太極拳の老師に「何を考えるでもなく、外の景色を眺めてぼーっとする時間がありますか?」と聞かれて、「ありませんっ」と即答したら、「そういう時間は必要ですよ」と言われました。
 脳の活性化のためにも、何もしないで、ただ全身を弛緩させて、ぼんやりする時間が必要なのだそうです。
 でも、私にはぼんやりとすることが、とてもとてもむずかしい。
 身体の力を抜くことがなかなかできないのと同じで、 頭の力を抜くことにも困難を覚えるのです。
 子どもの頃に親から「ぼんやりしているんじゃないっ❗️」と怒鳴られまくられたからかもしれません。そう、私は少なくとも8歳くらいまではぼーっと空想にふけっている子どもでした。空想の世界に入ってしまうと、まわりの物音も聞こえなくなってしまう。目は開けていても何も見えていない。親は「この子はちょっと足りないんじゃないか」と思っていたそうです。
 先日、もうすぐ6歳になる孫1号をしばらく預かったのですが、彼女がときどきどこか違う世界に入り込んで、見えない誰かと会話をしていることがありました。手に持っているのは、人形のための小さなヘアブラシだったり、保育園からの帰り道に拾ったどんぐりだったりするのですが、ごろりと寝転がって、それに向かって、何か小さい声でつぶやいて、ときに笑ったり、怒ったりしている。視線はヘアブラシやどんぐりに向けられていても、私には見えない世界が彼女には見えていて、そこで見えない誰かと会話をしているらしいのです。
 その姿をみて、ああそういえば、私もそうだった、と一気に60年前に引き戻されました。
 お孫のその姿は、もしかすると親や大人の目からは、ぼんやりしていると見えるかもしれません。「やるべきことをやらないで、ぐずぐずしている」と大人を苛立たせるかもしれない。私もよく「さっさと着替えて、さっさと手を洗いなさい。やるべきことをやってから遊びなさい」とかよく言われましたし、たぶんお孫も言われているに違いない。
 でも、心がどこかに行ってしまっているその時間は、きっと子どもにとってはとても大事なのではないか。いや、子どもだけでなく、大人になっても必要な時間なんじゃないか。ぼんやりする時間とは、そういう時間を言うのではないか。
 大人になると、子どものころに見えていた世界は見えなくなってしまいます。悲しいし、残念なことだけれど、それは「現実世界」を生きていかねばならない大人である以上しかたない。
 でも、その世界が大人になると消えてしまうわけではない。何かふっとしたときに、大人にだってその世界が垣間見えることだってある、はず。それを見えるようになるためには、ぼんやりと空を見ているだけの時間などが必要なのですね、きっと。チコちゃんに怒られても、ぼやーっとしていれば、ある瞬間にふわっとカーテンが開いてその世界がのぞけそうな気がします。
 ということを考えながら、洗濯物を干したあとに、久しぶりに晴れ渡った秋空を1時間も眺めてしまいました。
 
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  洗濯物を取り込むときにも、またもやぼやーっと空を眺めました。今日は1日、ほんと何もしなかったな。ごはん作って、洗濯して、1個だけ仕事して(1時間ほどだけれど)、あとは本を読んで、ぼーっとしてました。まあ、こういう日も必要ですね。
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ガンバサポの方から「元子さん、ラグビーワールドカップは行かないの?」と言われて、にわかにチケット購入に走ったのが昨年2月。チケットは抽選制で「なかなかあたらんみたいだ」と聞いてはチケット争奪戦に燃えないはずがない私です。(でも、オリンピックチケットにはまったく食指がわかなかったけれど)私の年齢を考えると、この機会を逃したらラグビーワールドカップを日本で観戦できるチャンスはもう巡ってこないのは確実です。一生に一度のチャンスを逃してなるものですか!!
さて、サッカーのチケットをゲットするときもそうですが、抽選制のチケットを個人が確保するためには作戦が必要です。倍率の高い日本戦はまず当たらないとみました。にわかファンとしては、別に日本戦が見たいわけではなく、ただラグビーの試合を楽しみたいのだから、倍率が低いところで十分。それに日本のグループチケットは、一番安いカテゴリーでも10万円以上します。ラグビーファンなら十分に出せる金額でしょうが、にわかファンのふところには厳しい価格です。
そして日本全国で開催されるとあっては、交通費と宿泊代も考えなくてはなりません。チケット価格表と対戦スケジュールをじっくりと眺め、かつラグビー情報を調べて選んだのが、「南アフリカグループチケット」でした。4試合観戦で25,000円。もちろん一番安いカテゴリーです。一枚6,250円。安いとは言わないが、「一生に一度」体験には十分出せる金額。しかも世界ランキング4位(そのときは)の強豪チームのグループチケットとしては破格に安いと思いましたね。
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しかも、南アフリカのグループにはニュージーランドという世界ランキング1位(そのときは)がいて、あとはイタリア、ナミビア、カナダ。このグループでベスト8に進出するのは、NZと南アで決まり!と思いましたもん。ガンバサポの方なんか「決勝で対戦する可能性が高いチームを予選リーグで見られる!!」とはしゃいでました。 
そして9月21日に横浜での対ニュージーランド戦生観戦から1ヶ月超、私はすっかりラグビー漬けになってしまいました。まだにわかではありますが、毎朝毎晩、録画した試合を見て楽しんでいます。最初はとっつきにくいと思ったルールも、今では「意外と単純じゃないか」と思えるまでになってきました。ラグビー、楽しいわ。(ガンバの低迷から目をそらすことができるから、というところもあるけれど)
先日はあらためてチケットを購入して、10月26日に開催された準決勝南アフリカvsウェールズの観戦にも行ってきました。大接戦でしたが、レベルが高くておもしろかった。
あ〜〜〜あと2試合しか残ってないなんて……すでにラグビーロスになって心の中に穴が開きつつありますよ。
でもって、南アフリカの試合を見続けたせいで、私はスクラムハーフのファフ・デクラーク選手にときめいてしまい、ここのところ夢にまで出てくるほどに惚れ込んでいます。惚れっぽいよね、私。惚れホルモンがまだ枯れていないのかもしれない。
日本代表のベスト4進出を阻んだ、とも言われているらしく、準決勝ではデクラーク選手へのヤジまで聞こえて、私のまわりではウェールズ応援の声が大きかったのですが、その中で1人デクラークを望遠レンズで連写していた私です。 28歳、今回が初のワールドカップとのことですが、そうとは思えないほどの試合巧者ぶりです。
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もう1人、フルバックのチェスリン・コルビー選手も大好きになりました。イタリア戦ではPlayer of the Matchに選ばれる大活躍でしたが、怪我してしまったのか、カナダ戦は出場せず。日本戦でもあまり目立たなかったし、ウェールズ戦も欠場でしたが、きっと決勝では復活してくるでしょう。 
ラグビーはこれからもっと進化していき、もっと選手層が厚くなって、もっとファンを増やしていくのではないかという予感がします。日本でも、今回のワールドカップ開催でにわかファンが増えたことが少しはプラスになるはず。
毎年1月から開催される欧州選手権、シックス・ネイションズをWOWOWで見ているのですが、来年は生観戦のおかげでもっと楽しめそうです。楽しいことが増えていくのって、ほんと楽しい。
 

 倉田選手は脳震盪と頬骨骨折という重傷であることがクラブより発表がありました。攻守の要ともいえる倉田選手のこの段階での離脱は痛い、という論調でメディアは報じていますし、サポとしてもそれはもちろんそうだとも思うのですが、一方で、問題はそこじゃないだろうと叫びたくなる私です。
 この件にかぎらず、サッカー界、だけじゃなくスポーツの世界全体で、スポーツによる怪我や病気について真剣に考えたほうがいいのではないでしょうか。サッカーに怪我はつきもの。防げない怪我もある。その意見もわからないでもない。でも、防げる怪我のほうがずっと多いのではないか。
 防ぐために、まず目を向けるべきなのが、監督、指導者、コーチと呼ばれる上に立つ人、絶対の権力を持つ人たちが、選手たちにかける言葉だと私は思っています。
 その昔、私は水泳をしていました。昔懐かし水練学校というのに通っていたのです。タイムがよかったので地域の大会に出場することになり、通常の練習のあとに追い込みで二部練をしていました。これがきつかった。最後のダウンまでタイムを計り、決められたタイムを超過するともう50メートル、100メートルの「罰泳」があるのです。1960年代です。前の東京オリンピックのあとで、「根性」と呼ばれるめちゃくちゃな精神論が、根拠のある理論よりはるかに幅を利かせていた時代です。タイムが届かないと「根性が足りない」と言われ、挙句に「ふざけんな」「死ぬ気で泳げ」とプールに沈められました。
 いつまでも帰ってこない娘を心配した父親が迎えにきて、その言葉を聞いたとき顔色を変えました。 
 コーチに詰め寄ることはしなかったけれど、迎えの車に私が乗ると開口一番「もうやめろ」と言いました。「え? いやだ! こんなに練習したのに大会出られないのはいやだ」と大泣きしたのですが、 口元を引き結んだ父は「とにかくやめろ」の一点張り。
 そのときは「またパパの横暴だ! 女の子がスポーツをするのに反対なんだ!」と怒りしか覚えなかったのですが、大人になって父親と一対一で話ができるようになってから、やっとそのときの父の思いがわかりました。
 戦前、10代のころ、父は水球の選手でした。 戦争が始まってからもしばらくはまだ続けていたそうですが、すぐに水球も水泳も日常から消えました。でも開戦前から試合も練習も殺伐とした雰囲気になり、コーチは二言目には「死ぬ気でやれ!」と過酷な練習を課したといいます。
 「死ぬ気でやれ、なんてことを平気で口にするようなコーチは、本当に人を殺しかねんから。勝つために人を殺せ、自分を殺せ、というのは軍隊の発想、戦争の発想だ」というのが父の言い分でした。 
 振り返れば、スポーツ界には軍隊の発想、戦争の発想が今も幅を利かせているのではないでしょうか?
 度重なる高校野球部の暴力や不祥事。
 大阪の高校バスケ部の部長の自殺。
 日大アメフト部の事件。
 湘南ベルマーレの元監督のパワハラ。
 もっと言えば、日中35度を超える酷暑の中で、マラソンや競歩を選手に強いるオリンピック開催だってその延長線上にあると私には思えるのです。
 「死ぬ気でやれ」
 上に立つ人、力を握る人たちが決して言ってはいけない言葉だと思います。
 死をスポーツと並列に並べないでほしい。
 怪我を精神論にすりかえないでほしい。
 スポーツを擬似戦争にしないでほしい。
  

 先に言っておきます。昨日は私用で現地観戦はおろか途中までライブで見るのもかなわず、電車の中で後半から見て、帰宅後録画で試合を見ただけの「感想」です。
 アデミウソンと宇佐美を故障で欠き、なんと小野瀬をFW起用して渡邊と組ませるというまたもやスクランブル布陣でのぞんだ王者・川崎戦でした。なんたって相手は王者で強いチームだし、我らがガンバは札幌のアウェイ戦であっさりルヴァン杯決勝への道を閉ざされて、残るミッションは残留のみというチームです。 正直、勝てる勝てないというよりも、どうかみじめな大敗、完敗はやめてね、と祈る気持ちでした。
 ところが試合は思わぬ展開となります。
 FW起用があたったのか、小野瀬のミドルシュートがバーにあたり、跳ね返ったところを千真がちょんとつついて入れてあっさり先制(あの、あくまでも私の目視にすぎませんが、バーにあたったボールはゴールラインを超えたところに落ちていたように見えました。あくまでも私の目視ね)
 開始5分の先制に、いやーーーな予感が漂います。王者・川崎がこの先制点で圧力かけてくるに違いない、という予感ね。でもってその予感は当たるのですが、昨日のガンバは王者のパス回しに食らいつく食らいつく、とくに食らいつき方が激しかったのが言うまでもなく井手口ですが、そこを冷静にさばいていたのが矢島でした。
 と言うわけで、前半は1−0で折り返します。
 でもこの前半でちょっと気になったのが(後出しジャンケン発言ですけれどね)、ガンバもフロンターレもプレーが荒い。ちょっとそれ、危ないんじゃないの? というタックル、体当たり、競り合いがそこここで発生ですが、主審は笛を吹いたり吹かなかったり。後半に入るとその「ちょっと危ない競り合い」が加速しますが、そこで異次元存在感を放っていたのが川崎のレアンドロダミアンと、ガンバの小野瀬でした。と言っても、レアンドロダミアンの凄さは「うまい!」と言うところで、小野瀬の凄さは「気が利いて献身的」と言うところです。
 ともかく、レアンドロダミアン様のピッチの中では異次元巧みなプレーであっさり逆転。あっさりしすぎてましたね。え?! やられると思ったらやっぱりやられてしまっていいわけ? みたいな。とくに2点目なんて、背中に目が付いているのか、と思わせる反転逆コースシュート。敵ながら惚れ惚れしますわ。
 逆転された時点でまだ後半20分ほど残っていて、このペースで3点目、4点目が入っちゃうんじゃないかと頭を抱えそうになったところで、なんと、その2分後、ガンバを救ったのが我らが10番、倉田秋!! 魂の同点弾でした。クロスを上げたのは、文句なしMOMの小野瀬。
 ところが、このヘディングシュート後、倉田が起き上がらない。ぐったりとピッチに横たわったまま。この時点では意識がなかったみたいに見えました。そして競り合ったときに、倉田の側頭部に頭突きした川崎の登里も倒れてました。歓喜に沸いたガンバゴール裏も、その光景に凍りつきます。倉田は担架に乗せられてピッチから運ばれ、あとからわかったのですが、そのまま病院に直行したそうです。登里はしばらくして立ち上がってプレー続行かと思われましたが、脳震盪の疑いありで、交代となりました。
 私はどうしてもガンバ側に立った目線でこの負傷場面を見てしまい、ヘディングしたあとにアフターで頭突きした登里はきわめて危険プレーではないか、なぜイエローじゃないのか、とか思ったのですが、おそるおそる2、3度見てからの「感想」は、衝突事故みたいなところがあったかな、と一方的に糾弾する気持ちが少し薄れました。
 ですが、この「事故」の伏線は試合開始のときからあったと思います。どちらのチームもどうしても負けられない状況にありました。川崎はこの試合を勝たないとリーグ3連覇の可能性がかなり遠のく。ガンバはいうまでもなく負けたら降格圏内突入です。前半からの荒いプレーの連続は、その必死さゆえ、だったのかもしれませんが、とにかく「球際の激しさ」とか「がんばり」を荒っぽさと勘違いしてしまうと、怪我につながる確率がかなり高くなる、というこれまでの私の観戦経験から得たデータがあてはまってしまう事態となりました。荒っぽさとがんばりを混同すると、命にかかるほどの重大な怪我を引き起こしかねない。
 私は先ほど倉田選手のヘディングシュートを「魂の同点弾」とか書いちゃいましたが、もし負傷がなかったらそんな大層な言葉を使っただろうか、と書いたあとで少し反省しました。でも、たぶん負傷がなくても書いていただろう、と思い直して消すのをやめました。負傷は辛いけれど、あのヘディングシュートはすばらしかった。大げさでなく、ガンバを救いました。今季のベストゴールにあげてもいいくらいです。
 激しい競り合いを怪我につなげないようにするために、ルールがあり、そのルールに沿って試合をさばいていくのがレフェリーたちです。ラグビーのレフェリーは反則をとるとき(もしくは反則に見えるけれど反則をとらないときも)、何がどうルールに反しているかを両方のチームにはっきりわかるように説明します。それどころか、つけたマイクを通して、スタンドのコーチたちや画像を通してレフェリングしている人たちにも即時伝える。テレビで見ていても、その声が聞こえます。
 私はこれがすごくいいと思います。何がどう反則なのか、もしくは反則ではないのか。言語化して選手、観客、視聴者に伝えることで、フェアに進めることができるのではないか(そうじゃないこともあるそうですが)何よりも、レフェリングのぶれが減るのではないか。そのことが負傷を減らせる助けになるのではないか。サッカーの試合には取り入れるのがむずかしいのでしょうか?

いまはただ倉田選手も登里選手も軽傷であることを祈るばかりです。
スポーツは人を元気にするものであってほしい。
そのために犠牲を出してはいけない。

私は思い出というものが嫌いで、過去はできるだけ忘れ去りたいとずっと思ってきました。だから過去に撮った写真を整理してアルバムを作る、なんてことはもっともやりたくないことの一つだったのですが、親の家を整理したときにごっそり出てきたアルバムを全部捨てるのはしのびなく、何冊かを持ち帰りました。いや、正確に言うと30冊ほども持ち帰ったのです。
このブログでも何枚かをアップしましたが、明治から大正、昭和初期にかけての曽祖父母、祖父母たちの記念写真は、やはり残しておかねばならないだろう、と一種の義務感をおぼえて保管しています。デジタル化もしました。気候変動の時代にあって、残しておく媒体は何種類かあったほうがいいだろうという判断からです。
しかし、自分の写真はいらない。残しておきたくない。
小中高時代の自分は、見るのもいやだ。
大学生時代の自分は、おぞましいと目をそむけたくなる。
たぶん楽しいこともいっぱいあったし、幼児期から思春期まできっと幸せな時間を過ごしたのだと思うのですが、 写真を見ると、記憶から拭い去りたいと思っていた「思い出」がよみがえってしまうのです。おそらく、当時は「こうありたい自分」「こんな風になっていきたい将来像」と現実の自分とがものすごく乖離していて、それにいらだっていたのだと大人になった自分は推測します。写真を見ると現実を思い知らされる。だから見たくない、記憶から消してしまいたい。
でも、当時の写真をいま見ると、決してかわいくないことはないのに、10代から20代はじめまで、私はずーっと自分のことをブスで、デブで、スタイルが今風でなくて、頭悪くて、センス悪くて、不器用で、運動神経ゼロで、おっちょこちょいで、何をやってもヘマばっかりで、かっこ悪いと思っていました。思い込んでいた、といったほうがいい。
コンプレックスの塊。
何をやっても自信がなくて、自信がないからおどおどしてまわりをうかがってばかりで、堂々と胸がはれない。そういう女の子はかわいくない。だからモテない。異性から声がかからないから、もっと自信を喪失するという悪循環。
目立ちたいのに、目立つことがこわい。
いつも「私なんて、私なんて……ぜんぜんダメ」と思い、そんなことを平気で口に出し(ある意味傲慢です)、そのくせ「そんなことないよ!」と誰かが言ってくれるのを必死に待っている。(誰も言うわけがない)
今思うと、自我が確立していなかったんですね。

でも、いつの間にか、根拠がないかもしれないが、自分に自信が持てるようになりました。
他人から何かを言われても、でも私は私だから、と胸をはって笑えるようになりました。
歳はとるもんですね。もうしょうがないじゃない、これが私なんだから、と吹っ切れるのです。
吹っ切れてようやく、自我が確立されたと言えるのかもしれません。
吹っ切れたあとからの出来事は、記憶に残しておきたいことがいっぱいあります。意図的に記憶に残している思い出をたぐりよせると、吹っ切れたときがわかるかもしれない。
吹っ切れたあとの楽しかったこと、印象深かったこと、出会ったすてきな人たちや言葉、全部記憶に残しておきたい。
それどころか穴入り赤面ものの失敗も、投げかけられた罵倒や投げかけた罵倒も、記憶に残したい。
(それでも自分の画像は残さんでいいけれど)

そこで思います。いったい いつから吹っ切れたのだろう?
思い出嫌いとして封印していたから、思い出せない。 

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