Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2020年04月

ヴィッセルとセレッソで新型コロナウィルス 感染者が出たことを受けて、ガンバ大阪はスタッフと職員全員を17日間の自宅待機と通告したそうです。4月14日までとありますが、また延期になるかもしれません。京都サンガだけがずっと練習しているそうですが、地域差もあるのでしょうか。
試合がいっさい行われていないいま、週末に私はほぼ自宅で過ごしています。でも土曜日の朝目覚めると「今日はほんとは試合のある日だったな〜〜」とか「去年までは飛び上がって喜んだり、落ち込んだりしていたんだな〜〜」とか思って、少し寂しい気持ちになります。
パンデミックのいま、たかがサッカーのことで落ち込むなんてあまり大きな声では言えない、ということはわかっています(と言いながらブログに書いているのですが)。サッカーだけでなく、ほかのすべてのスポーツとスポーツ観戦が中止。財政的な困難にぶつかるクラブが多く出るのではないか(実際もう出ている)とそこもたいへん心配しています。

Jリーグとプロ野球の試合が延期され、悪くすると今シーズンはもう無観客試合にするしかない、いやそれもできないのではないか、リーグの再開はかなり厳しいのではないか……という声までささやかれる中で、いまあらためて「スポーツの社会的意義」みたいなことを考えています。
つまり、スポーツって社会にとって「不要」な存在なのだろうか? とか考えてしまうのです。
スポーツの試合だけでなく、現在公演中止となっている音楽のライブやコンサート、演劇やバレエなどの舞台パフォーマンス、 美術作品などの鑑賞、そういった「生」「ライブ」「リアル」なものを見たり聴いたり楽しんだりする行為は、これからいったいどうなるのでしょうか? 
感染を広げないためにたいせつなのだ、命と社会を救うためにはやめるしかないのだ、とわかっています。でも、スポーツや音楽、パフォーマンスで生計を立てている人は大勢います。試合や公演が中止になって、たちまち生活に困る人が出てくるし、倒産するクラブや企業や劇場はたくさんあるはず。再開のめどが立っていない今、大きな不安を抱えて過ごしている人たちは大勢いらっしゃるでしょう。そういう人たちへの救済が示されないままでは、感染症が収束したあとに、この社会の文化活動すべてにどんな影響がでるか、考えるとこわいです。
ここ一週間ほど、日経新聞の下段には大学受験予備校の広告がほぼ毎日掲載されています。調べてみたところ、「医学部合格○名」とうたっているところが半分以上ありました。もちろん医師志望者が増えることはいいことだし、どんな時代でも医師はたいせつな職業であり、社会を支える存在であることはまちがいない。それはよくわかっています。
でも、広告の上段の記事では、スポーツインストラクターやミュージシャンやレストランオーナーたちの、生活が立ち行かなくなっているという声が掲載されています。
記事を読み、広告を眺めた私は、うがった見方かもしれませんが、ある種の「脅し」を感じています。
「医師はどんなときでも社会から求められている職業だけれど、スポーツや音楽(そして私のような文筆業も)なんかは緊急の場合には真っ先に切り捨てられる職業だ」

試合観戦も音楽ライブを聴きにいくことも、平和で安全な社会でこそできることです。平和と安全を取り戻したときに、試合や音楽でまた感動が味わえることを願ってやみません。そのためにも、すばらしいプレーや優れたパフォーマンスを披露してくれる人たちを、こういう緊急事態にこそ守る指針をとくに政府と行政に示してほしいと思います。
スポーツも音楽も本も映画も演劇も、たしかにいまは不要不急でしょうが、社会にとって、いや人間にとってぜったいに必要なものだ、と私は信じています。

と、ここでさっき見つけたスティーヴン・キングのすてきメッセージを貼り付けます。
「もしアーティストが不要だと思っているのなら、隔離期間を音楽や本、詩、映画や絵画なしに隔離期間を過ごしてみたら」
私はここに「たとえ録画でもガンバの試合観戦なしに在宅隔離時間を過ごせますか?」とガンバサポに問いたいです。
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ついでに、フランス国立オーケストラの団員たちが、ネットを通じて演奏しているボレロの動画も貼り付けておきます。もちろんすばらしいパフォーマンスなんだけれど、よけいに生で聴きたくなります。


 

1990年2月にフリーランスになって以来、自宅を仕事場にして、まさに職住一致の生活をしています。時代を先取りしていた? いえいえ、そうではなかったことに、いま気づきました。
会社勤務の14年間中11年間は、一週間5日、朝7時に家を出て、自宅→保育園→満員電車に揺られて職場→夕方5時に会社をとびだし、またもや満員電車と自転車で保育園か学童かお稽古ごとの教室に駆けつけて子どもをピックアップし、買い物をして夜7時すぎに帰宅する日々でした。さすがにそんな日々にヘトヘトだったので、退職したら「明日からは外に布団が干せる〜〜! スーパーの閉店を気にしないで買い物に行ける〜〜(1980年代、地元の商店街とスーパーの閉店は7時でした)」と思ってほっとしました。このときは「私は新しいワークスタイルをおくるのだ!」「仕事と家庭のバランスがとれるようになるのだ」と期待していたところがあります。
しかし甘かった。
時代はバブルがはじけたばかりで、おかげさまで仕事は引きも切らずありました。でも個人営業は一人で何もかもやらなくてはならない。仕事は会社にいたときよりもはるかにたいへんで、時間も労力もとられました。起床時間は会社勤めのときと同じく6時前で、子どもの弁当作りから洗濯、掃除をすませて、子どもを学校や保育園に送っていくと、自宅に駆け戻って仕事。土日関係なく、毎日12時間はPCの前に座って必死にキーボードを打ち続け、その合間に打ち合わせか取材か会議で出かける日々。仕事があってとてもありがたかったけれど、いま振り返ると自由業ながら(自由業だからこそ?)ほぼブラックな働き方をしてきたのだと思います。ワークライフバランスは少しも改善されませんでした。
60歳間近になるころ、翻訳業や文筆業がパッとしなくなって、仕事をやめようかな〜〜〜という思いがよぎるようになりましたが、やはり家で一日中家事をしてのんびりすごすっていうのはまったく性に合わず、仕事したくて、「営業」と称してあちこち出かけて人に会ったり、ときには海外まで出かけたりしていました。またもやワークライフバランスの改善は先送りです。

ところが、新型コロナウィルスの感染を広げないため、ということで、最近は不要不急ではない用事がないかぎり、在宅せざるをえません。30代から50代までのもっとも忙しい時期に、あれほど望んだ「一日中家にいる」ことが(予想していなかったショックな理由ながらも)できるようになったのです。在宅で仕事をしてきたにもかかわらず、在宅しなくてはならない、という縛りができての在宅状態は初めてで、あれほど望んできたライフスタイルが始められるチャンスなのに、私はとまどっています。
家にいるのが好きではありますが、出かけることに躊躇して家にいるのは、それなりにストレスを感じます。たぶん私のワークライフバランスに対する意識が切り替わっていないからでしょう。
そこで、ここ最近(っていっても本格的に在宅を基本にしたのは10日間くらいですが)、このストレスを少しでも軽減し、ワークライフバランスをとるために私が心がけていることを書いておくことにしました。「え? そんなことが?」というようなことです。仕事ではZoomで会議や取材をするとか、テレワークの方法を実践するとかありますが、それは専門の方に任せることにして、私は「ライフ」つまり、日常生活における意識変革の話です。

1)保存食を作る。
幸いにして、食品の供給は滞っていません。でも毎日買い物に出かけると無駄なものも買ってしまいがちだし、買いだめなんてとんでもないと以前から考えているので、保存食といってもあらたに何かを買うことはさけています。
使う食材は、毎週生協で届く食品のみ。新鮮なうちに食べられるのはたかが知れているので、使いきれない食材を最低でも一週間は食べ回しができるようにある程度調理して、保存しています。安くなった甘夏やいちごでジャムも作りましたが、ジャムってそんなに食べられるものじゃないので、いまいちおもしろくないし、役立たない。
だから精力を傾けているのはもっと日々の食卓に登場しやすい「保存食」です。(保存食とはいわないか?)
アイデアは以前もここで紹介した「賢い冷蔵庫」(瀬尾幸子著・NHK出版)と、「ごちそうマリネ」(渡辺麻紀著・河出書房新社)からもらっています。下ごしらえにプラスアルファして保存しておくことで、食卓のバラエティを豊かにするし、何よりも「達成感」が即座に得られてうれしいし、新しい味の発見もあったりして楽しい。外食をするのがむずかしい今こそ、レシピを増やして、気分を豊かにしたいです。

2)手紙を書く。
きっかけは、高齢者施設で一人で暮らす母にコロナウィルスのために会いにいくことができなくなり、やむなく手紙を出したら、思いの外喜んで、それまで険悪になっていた親子関係がわずかながら好転したことでした。
スマホに乗り遅れて、ガラケーの電話とショートメールだけがかろうじて使える母から、早朝深夜かまわずかかってくる電話に私はこの1年ほど悩まされてきました。しかも、自分が電話をかけたことも電話がかかってきたことも半日たつと忘れてしまうので(履歴の見方がどうしても覚えられない)、「なぜ電話をくれないのだ?」という電話が毎日続く、という笑えない状況で、親子関係は悪化する一方。
それがわずかながら好転するきっかけを作ってくれたのが、手紙でした。以前から手紙は送っていたのですが、手紙を送ったよ、としつこく電話で繰り返しいわないとポストを見にいかないし、ポストから取った手紙をどこかに置いたまま忘れてしまい、手紙なんかもらっていない、と言い張ってまた親子げんか。
でも、コロナウィルスのために外出が禁止になり、施設の体操教室や麻雀クラブがおやすみになって、いよいよすることがなくなったために、ようやく母には手紙を取りに行って読む、という余裕が生まれたのです。
来週、小学校に入学するお孫からも手紙をもらうようになりました。まだ鏡文字も多いし、どちらかといえば文字よりも絵で伝わってくる情報のほうが多いのですが、それでも手紙をもらうととても嬉しくて、すぐに返事を書いてしまいます。
そういうわけで、久しく忘れていた「手紙を書く」という楽しみを見直しています。
メールができる人にも、手紙を書くことでまた新しい関係が築けていきそうな予感もあります。

この2つはいずれも小さなことですが、私にとっては在宅が楽しくなって、ストレスを感じないでいられるための方策なのです。
なぜストレスを感じないでいでいられるか、というと、「効率」とか「時間短縮」とかを考えるのをやめた行為だからです。ぱぱっと効率よくできることを、しない。役に立つことを第一に考えない。少なくともライフ=生活においては、効率、時間短縮、生産性をかかげないことで、ストレスが減って、かつ家にいることが楽しくなるのだと思います。

COVID19に感染して苦しんでいらっしゃる方はもちろんのこと、感染症や病気だけでなく、経済的なこともふくめた先行きの不安を抱えながら過ごしていらっしゃる方には、まだ春は遠いと感じられていることと思います。
でも、COVID19の感染はいつか必ず終息します。それまでの間、私にできることは、在宅で過ごすこともふくめて、私個人ができる感染予防対策を十分にとって、いま苦しんでいらっしゃる方々、そして医療従事者の方々に祈りと感謝を捧げつつ、日々をたいせつに過ごしていくことだと考えています。
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(先日のなごり雪が降った日の桜風景。ある意味、今年らしい桜だったのかもしれません)

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