Glamorous Life

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2020年05月

5月7日(木)(前の日記と日が重なっているけれど、内容は別)
午前中、自宅で太極拳レッスン。振り返ると3月半ばから何かから逃れるように毎日太極拳のお稽古をしている。COVID-19の感染におびえ、外出を自粛し、コロナウィルス関連のニュースに暗い気持ちになることが多いこの数ヶ月だが、もし得たよいものをあげるとすると、からだの使い方に少し進歩があったことかもしれない。
 もともと体力には自信があったのだが、50歳を過ぎる頃から小さな不調に悩まされるようになった。人に話すと「ああ、私もよ!」「それが老化ってもんですよ」とか言われるだけなのだが、それまで「無敵」だった私にすれば、痛みをはじめとする不調に悩む自分が歯痒いし、腹が立つし、不安になる。
たとえば53歳になったと同時に五十肩になり、一度上がらなくなった右肩はそれから2年間も、動かすたびに痛みが走った。やはり50歳になったときから歯痛にも悩まされ、いまも毎月歯医者に通う。肩こりと腰痛はもはや持病で、腰痛にいたっては運動すればするほど腰が痛くなるという始末。ジムで筋トレをやったことが原因で筋肉を傷め、日常生活にも支障をきたすこともひんぱん。ランニングをすればなぜか腰痛になって整体のお世話になる。そういやヨガでも腕と肩の筋肉を傷めたっけ。
そこで出会ったのが太極拳だったのだが、まじめに取り組むようになったのは、始めてから7年ほどたった2018年からだ。
きっかけは、筋トレをまたやっていると言ったときの師匠の一言だった。
「むきむきの筋肉をつけることがいまの元子さんに必要なこと? 年齢を重ねていくうえで必要なのは、からだの使い方を覚えることではないの?」
ああ、そうか、と目が開いた。
からだの使い方がわかっていないから、筋トレや運動をするとどこかを傷めていたのだ。
無理なく正しい姿勢で立つこと。同じく正しい姿勢で座ること。
重心の移動を意識して、膝や腰に負担をかけないで歩くこと。
片足でもふんばらずに立つこと。(これが歩行の基本になる)
それができるようになったら、いま私が目標としている「80歳になっても自立した生活を営む」ことが可能になるはずだ。
今日もみっちりお稽古して、太腿裏と内転筋に心地よい筋肉痛を感じながら1日を過ごした。

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(公園での太極拳も、往復で初夏の花々をめでるのも楽しい。バラはつぼみから満開へ、そしてそろそろ終わりを迎える)

5月8日(金)
早朝太極拳道場、今日は一人きりなので、少し早めに行ったのだけれど、6時40分ですでに先客が6人。ノートパソコンを持ってきて何やらやっている女性が一人、アンパンをかじりながらスマホを見ている学生らしき男性、ランニングウェアでコンビニ食を食べている若い男性が一人、そしてお母さんと2人の子連れ。皆さんの視線をできるかぎり脳内から追い払って、八段錦からフルコースでお稽古をした。
と、いきなり響く男の子の声。
「お母さん、あの人何やってんの〜〜〜?」
お母さん「しっ! お邪魔しちゃダメでしょ!」
男の子「え? 何? 何やってんの?」(しつこいっ!)
お母さんもね、「しっ!」ってそれではお子さんの疑惑は深まるばかりですよ。あやしいことをやっている、あやしいオバハン疑惑を晴らしてやってくださいよ。何か言ってやろうと思ったけれど、自粛しました。
それにしても、なぜ6時40分の早朝にこんなに大勢(でもないけれど)が公園にお出ましなんだろう? って、あ、私もですけれどね。早朝だから人はいないだろうと期待している人たちなのかもしれないけれど。
8時前に終えての帰り道、出勤するらしき人たちと大勢すれ違った。外出自粛要請の期限は延長されたけれど、休んでいられない人は大勢いる。私も自宅でだけれど、7日から仕事を平常モードに切り替えた。
太極拳
(やはり早朝の公園で一人太極拳は不審者かも)

夕飯は焼肉と野菜のオリーブオイル焼き、トマトサラダ、ミネストローネ(焼肉は1人4枚ずつ、と言っておいたのに、私がミネストローネをよそおって食卓についたときに、先に食べ始めていた夫が6枚目を口に入れようとしていたところで、私の怒り爆発! 一口食べた残りを私の皿に戻したので、怒りが3倍に加速。これもコロナウィルス のせいだ。たかが肉で心が狭くなり、いじましくなる)

5月9日(土)
4月からVOGUE のWEBサイトでフェミニズムを学ぶ講座の連載をしている。
今日は第二弾がアップされた。
第二弾はフェミニズムがたどってきた歴史を振り返っての「フェミニズムの4つの波〜『フランケンシュタイン』から#MeTooまで」
VOGUE Change 
https://www.vogue.co.jp/change/article/feminism-lesson-vol2
私はフェミニズム第二波を青春時代に経験したのだが、そのあと『バックラッシュ』でフェミニズムとは何かがわからなくなり、1990年代からの第三波のガールパワーも「え? それがフェミニズムですか?」とはっきりととらえきれず、近年の#MeTooをはじめとする第四波になってようやくおぼろげながら輪郭が感じ取れるようになってきた、というところ。
お話をうかがっている清水晶子さんのフェミニズムに対するスタンスというか姿勢が、私にはとても受け入れやすく、胸をはって「私もフェミニストです!」と言える自信が持てそうになっている。

夕飯は、ふろふき大根、大根葉のゴマ炒め、大根の千切りと豆腐の味噌汁、大根と鮭缶詰のサラダ、トンテキのブロッコリ添え。
散歩に出かけた夫が、近所のミニ農園をやっている方から大根一本をいただいてきた。堀りたてのみずみずしい大根を丸ごといただいてしまおうというので、急遽大根づくし。トンテキはだからメインではなく添え物ですね。
大根づくしメニュー


5月10日(日)
お孫2号(2歳6ヶ月)とときどきビデオ電話でおしゃべりする。
保育園が休園になって1日中親と過ごすようになってから、急に語彙が大人っぽくなった。
理由は、テレビとNetflixとYouTubeにお守りをされることが多くなったかららしい。
いまの彼のマイブームは「ちょっとニュース見て良いかな?」とリモコンをとってテレビをつけて、「あれ、今日もアベさんはマスクつけてるね。お口のバイキンがまだきれいきれいになってないからかな」と確認することなんだとか。
そのあとで胸を張って「○ちゃんは食べたらちゃんと歯を磨くよ。だからバイキンはいないよ」とアベさんに向かって自慢する。
歯磨きも○○掃除もしようね、アベさん。

夕飯はいわしのパン粉焼き、きのこと大根のベーコンスープ、麩チャンプル

5月4日(月)
3月半ばにスマホの電源を外出時以外は切ることを決断した。緊急事態宣言が出て不要不急の外出をやめたらスマホの必要性をあまり感じなくなったこともあり。このままスマホを解約しちゃうかも(てなことはたぶんないでしょうが)。
スマホの電源を入れるのは早朝太極拳道場に行く間、およそ2時間ほどだけ。家ではタブレットがあるので、メールやLINEやメッセージは読めるし、Zoomやスカイプでビデオ打ち合わせもできる。外出時だけ、もしものことがあってはと電源を入れて持参するけれど、在宅勤務を徹底したら、はたしてスマホはどこまで必要なのだろうか? 電話もLINEでできるわけだし。
スマホの電源を切るようになったのは、母との電話がお互いにストレスになったからだ。電話で話していると意志の疎通に困難を感じるようになったのが2年ほど前。30秒前に言ったことを忘れてしまい、5分間の電話で同じ話を10回は繰り返し、挙句に「なんで私が聞いたことにちゃんと答えないのか!」と怒る。夢と現実がごっちゃになってしまうのか、朝6時すぎの電話で私への恨みつらみを聞かされてうんざりすることが続き、ついに外出時以外はスマホの電源を入れないことにしたのだ。
かわりに母に手紙を書くことにした。1日おきに1通書き、たまに服や花を贈って、「今は会いにいけないけれど、忘れているわけじゃないし、こちらはみんな元気だ」というメッセージを送り続けている。親孝行なわけではない、決して。電話では気持ちが伝えられず、会いにも行けないこの状況で、なんとも歯痒く後ろめたい気持ちをごまかしているだけだ。
母は最初は電話をかけ続けて、通じないことに怒りのメッセージを留守電に入れていたようだが(それも聞かないことにした)、一週間たってやっと諦めたのか、母も手紙をくれるようになった。
そうしたら驚くなかれ、話が通じることがわかったのだ。電話で会話している人と同じ人物とは思えないほどで、書かれている内容はつじつまがあっているし、文章もちゃんとしている。妄想ももちろん書かれていない。周囲への感謝と気遣いも感じられるし、新型コロナウィルスという言葉も書かれている(電話では「風邪」と言い続けていた)。実際に顔を見て話をしているときも、話が通じないことが多くてまいっていたのだが、手紙だと「話が通じている」とほっとする。私が出した手紙の内容も理解して、問いかけにたいしてちゃんと返答を書いてくるのだ。
これは何を意味しているのだろう? 音からの情報では混乱するけれど、文字になれば頭が整理できるのだろうか? 
というわけで、今日は母への手紙だけでなく、お孫たちや友人たちにも手紙を書いて投函した。

夕飯はいわしの生姜煮、ポテトサラダ(まだ終わらない)、白菜そのほか野菜のベーコンスープ

5月5日(火)
外出規制が出されて以来、メディアでは「孤独感」が取り上げられることが多くなった、ような気がする。感染者数の多い東京など大都会では、一人暮らしの人も多く、コミュニティの結びつきが希薄で、孤独感が強まる、という趣旨のトピックがネットでもよく見られる(私はテレビをみないので、メディアというときには新聞かSNSなんだが)
その解消法として、SNSやネットの利用、オンラインでビデオ会話して、と提案されている。SNSやオンラインビデオなどを利用していれば、たしかに自分は一人ではないことが実感できて、不安はやわらぐ。私もFacebookやTwitterに投稿して、反応があるとほっとする。とくに一人旅に出ているときには、こんなことした、あんなもの食べた、おもしろかった、ショックだった、といちいち自分の活動を投稿して、存在を確かめ、孤独感を癒している。
だが、最近「一人になりたい〜!」というぜいたくな願いが湧き上がってくることがある。夫が在宅勤務になってからというもの、「頼む! 私はいないものと思ってくれ!」と切実に願うようになり、それはたぶん夫も同じなので、日中はできるだけ顔を合わさないように、声も聞こえないように、お互い気配も消して生活している(でも、水を飲んだり、トイレに行ったりするとどうしても顔を合わせてしまうのだけれど)
孤立は精神衛生上よくないが、孤独は精神衛生上必要なのではないか。
3月末の緊急事態宣言以降、スマホの電源を入れず、タブレットそのほかを全部別の部屋に置いて一人でどこか(私の場合は3畳のもと物置)に数時間閉じこもる、という日を意図的に作るようにしている。閉じこもって何をしているかというと、ぼーっと外の景色を眺めるでもなく眺めていたり、瞑想まがいのことをしてみたり。
SNSを断ち、音楽を聴かず、人の声も聞かず、活字からも離れ、ただ自分のからだの声に耳を澄ますだけ。世界に自分一人だけしかいないような感じがしてくる。
今日はそんなぜいたくな気分を数時間味わってみた。

夕飯は白菜と豚バラの重ね蒸し、白菜のおひたし、白菜そのほか野菜のベーコンスープ(やっと白菜を食べ終わった。白菜4分の1玉を2人で食べきるのにえらく苦労した)
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(お孫製作の鯉のぼり画像が送られてくるまで、子どもの日だってことをすっかり失念していた。子どもたちが元気にスクスクと成長する世界にするのが大人の責任ですね)

5月6日(水)
4日に外出規制が5月末まで延期することが政府から発表された。これで3回目の延期。
外に出かけるなと言われても、出かけないと仕事にならない人たちのほうが多く、仕事をしないと生活が成り立たない人が大半のいまの日本社会では、補償なしの外出規制は酷だ。たぶん明日から普通に仕事に戻る人が多いだろうなあ、と思いながら雨の街をひとめぐり。

5月4日にNHKBS1で放送された「北京の春 市民たちは〜コロナ危機を生きる」というドキュメンタリーを録画で見た。4月30日に外出規制が解かれた後も、まだマスクは外さないし、恐る恐るの市民たちではあるけれど、コロナ後を見据えての経済活動をどうまわしていくかを必死に考えて行動している人たちに注目した内容だった。
もちろん中国は広いし、格差も大きいというから、北京に住んでいるある意味特権的な人たちの話かもしれない。それにしても、登場する人たちが皆、とにかくたくましくて、ポジティブなのだ。つぎの感染拡大も見据えて、コミュニティの見直しや、デジタルでの健康管理(そこまで個人情報を官憲に渡してしまっていいのかとそこはちょっと引いたけれど)、これまでやってきたビジネスが先行きあやしいと思ったら、それを捨てて新しいビジネスに切り替えるいさぎよさとか。
以前に『台湾海峡一九四九』(龍應台著、天野健太郎訳 白水社)を読んだときも思ったけれど、中国の人たちのへこたれなさというか、生き抜こうとするそのたくましさに圧倒される。転んでも、転ばされても、ただでは起きないし、転ばした相手への恨みのエネルギーをポジティブに転換するところもすごい。
理不尽だ〜とか嘆くのは誰かに任せて、とりあえず自分はつぎ行くよっ❗️ という姿勢は見習わなくては。
夕飯はめずらしくラザニアもどきを作ってみた。鶏肉やきのこ類、ブロッコリをトマトソースで煮込んで、マカロニと混ぜ合わせ、ベシャメルソースとチーズをのせてオーブンで焼いた。キャベツ、にんじん、きゅうりと新玉ねぎの塩もみサラダ

5月7日(木)
私は長らく家で仕事をしていて、ステイホームが常態なので、家にいる時間が長いと退屈したり、運動不足になったり云々ということを言われても今ひとつよくわからない。
でも、友人がNetFlixで『コンテイジョン』(Rikaさんからのご指摘で間違いに気づきました。コンテイジョンをみようと思ってNetFlixに入ったのに、その前にヒョンビンに行っちゃったのが間違えた原因ですね)という映画を観て、今の世界の感染状況が予言されてたことに驚いた、という話を聞き、やっと重い腰をあげてNetFlixに登録してみた。
それで最初に観たのが、 『愛の不時着』という韓国ドラマ。 という韓国ドマ韓国のばりばりのビジネスウーマンが、パラグライダーで竜巻に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまって、北朝鮮の国境を守る美形中隊長と恋に落ちる、というストーリー。まだ1回しか観ていないので、はたしてどうなるのかわからないけど、たぶんこのまま観続けてしまいそう。
なんでよりにもよって初のNetFlix体験にこのドラマを選んだかというと、ヒョンビンが主演だから。『私の名前はキムサムソン』以来、ヒョンビンのファンなんです。
おもしろそうなドラマなんだけれど、このタイトルだけはどうにかしてほしい。『愛の不時着』って、なんともべたつくし、こっぱずかしい。

夕飯は買ってきた握り寿司、豆腐とナスとネギの味噌汁、塩もみサラダ
作るのはまだしも、自分で作ったものを食べることに飽きてきたので、たまにはいいよね。
 

ユヴァル・ノア・ハラリはいまおそらく世界中でもっとも注目されている歴史学者・哲学者だ。「ホモ・デウス」「サピエンス全史」は世界で累計2000万部を超えるベストセラーになっているし、NHK BSで特集が続くコロナ特集にも登場し、胸に突き刺さる提言を述べている。
彼が2018年に書いた「21Lessons〜21世紀の人類のための21の思考」は、いまのこの世界でもっとも耳を傾けるべき言葉が数多く書かれている、と私は思う。巣篭もり読書で一番私を揺さぶった一冊だ。
<テクノロジー面の難題><政治面の難題><絶望と希望><真実><レジリエンス>と5部の中で、
21の項目が並んでいる。扱われている<難題>は、幅広い。

AI、バイオテクノロジーが進化したその先に、人はどう生きていけばいいのか?
コミュニティ、国家、ナショナリズム、宗教、移民を政治的にどう扱えばいいか?
人類を滅ぼしかねない 戦争は起こるのか?
遺伝子工学とアルゴリズムによって、健康で豊かな生活が送れるようにリスクが取り除かれる世界になったとしたら、私たちはどんな人生を選択するのか?(その人生に生きる意味はあるのか?)
そして、私たちは次世代のためにいまどう生きればいいのか?

というような壮大なテーマが並ぶのだが、21のどの章をのどのページをめくっても、「我が事」として突き刺さってくる言葉がある。こういう本って、ともすると頭がいいえらそーな学者さんのご託宣みたいで、鼻白むことが多いし、だいたいにおいて硬い内容でそのうち眠くなっちゃって放り出してしまいがちなのだけれど、この本にはそれがなかった。かといって一気読みができるって内容でもなくて、実は10日間かけてじっくり読み、いまもまだ読み続けている。
内容が幅広く深いので、感想を書くのではなく、突き刺さった言葉を紹介していきたい。

 「権限が人間からアルゴリズムに移ると、私たちはもうこの世界を、自律的な個人が正しい選択をしようと悪戦苦闘する場と見なさなくなるかもしれない。その代わり、私たちは全宇宙をデータの流れと捉え、生き物を生化学的なアルゴリズムにすぎないと見て、宇宙における人類の役割はすべてを網羅するデータ処理システムを想像し、それからその中に溶け込むことだと信じるようになるかもしれない」(<テクノロジー面の難題>「幻滅」の章より)

人間の愚かさは、歴史を動かすきわめて重要な要因なのだが、過小評価されがちだ
「人間の愚かさの治療薬となりうるものの一つが謙虚さだろう。国家や宗教や文化の間の緊張は、誇大な感情によって悪化する。すなわち、私の国、私の宗教、私の文化は世界で最も重要だ、だから私の権益は他の誰の権益よりも、人類全体の権益よりも優先されるべきである、という思いだ。世界に占める真の位置について、国家や宗教や文化にもう少し現実的で控えめになってもらうにはどうしたらいいだろう?」
(<絶望と希望>「戦争」の章より)

「道徳とは「神の命令に従うこと」ではない。「苦しみを減らすこと」だ。したがって道徳的に行動するためには、どんな神話も物語も信じる必要はない。苦しみに対する理解を深めさえすればいい。ある行動が自分あるいは他者に無用の苦しみを引き起こすことが理解できれば、その行動を自然と慎むようになる」(<絶望と希望>「神」の章より)

「自分の偏見を暴き、自分の情報源の確かさを確認するために時間と労力をかけるのは、私たち全員の責任だ」
「今日の世界では、情報と注意は決定的に重要な資産だ。自分の注意をただで差し出し、その見返りの低品質の情報しか受け取らないというのは狂気の沙汰だ」(<真実>「ポスト・トゥルース」の章より)

2050年の世界についていくためには、新しいアイデアや製品を考えつくだけではなく、何よりも自分自身を何度となく徹底的に作り直す必要がある。なぜなら、変化のペースが速まるにつれ、経済ばかりでなく「人間であること」の意味そのものさえもが変化しそうだからだ」(<レジリエンス>「教育(変化だけが唯一不変)」より) 

「アイデンティティの探究に乗り出す人の大半は、宝探しをする子供に似ている。親が前もって隠しておいてくれたものしか、見つからないからだ」(<レジリエンス>「意味」の章より)

人類が直面している大きな疑問は、「人生の意味は何か?」ではなく、「どうやって苦しみから逃れるか?」だ。虚構の物語をすべて捨て去ったときには、以前とは比べ物にならないほどはっきりと現実を観察することができ、自分とこの世界についての真実を本当に知ったなら、人は何があっても惨めになることはない。だがもちろん、言うは易く行うは難し、だ」(<レジリエンス>「意味(人生は物語ではない)の章より)

自分には「自由意志」があって、人生を自由意志で選択している、というのは幻想にすぎず、その選択は実は生化学的な揺れにしかすぎないことが科学によって明らかにされ、スマホやネットで集められた私についての膨大なデータが勝手に分析されて、明日食べるものからコロナの感染防止をどうしたらいいのか、はてはいつ死ぬのかまでアルゴリズムが全部教えてくれる時代に、それでは人はどう生きていくのか。
ハラリさん自身は「瞑想」によって答えを見つけようとしているそうだ。
「あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている。努力をすれば、私たちは自分が本当は何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ」
この締めの言葉を噛み締めている。

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5月のさわやかな風が新緑を吹き抜ける中でも、じっとがまんのSTAY HOME期間は続きます。思いもかけず5回目となった巣篭もり日記。10までいっちゃうんじゃないか……ま、そうなったらそうなったで、あせらず、巣篭もり社会へのあらたな展望を考えていきたいです。

5月1日(金)
5月が始まった。おそらく日本の、とくに関東地方の気候として、暑くもなく寒くもなく、空が真っ青で、虫がさほど飛んでいなくて、気持ちがよい日が集中しているのは5月だと思う。6月には梅雨入りし、それから猛暑がやってきて、秋になれば台風続きで、荒れ模様の不安定な天気は冬まで続く。日本と一口にいっても地方によって気候は様々だけれど、少なくとも関東地方で気持ちよくすごせる日数はそれほど多くない。汗かぶれをしやすくて、虫が好きじゃなくて、花粉症の私にとっては5月はとっても過ごしやすい月なのだ。
日本は四季があって、春夏秋冬いずれも気候は温暖で過ごしやすく……といってオリンピックパラリンピックを誘致して、よりにもよって日本で一番過ごしにくい7月末からの開催にしたことに対して、呆れたり憤っていたのはつい数ヶ月前。来年もはっきりいってオリンピックパラリンピック開催は厳しいだろうなあ。
なんてことを考えながら、また早朝に公園まで太極拳道場へと急ぐ。朝7時前にすでに気温がぐっと上がって初夏の陽気。早足で25分歩くと公園に着いたときには汗がじんわり。
公園のいつもの場所に到着したら、先に来ていた大柄な白人男性が縄跳びを始めたので、やむなく場所を移動した。気にしなければいいかもしれないけれど、たとえ5メートルくらい離れていたとしても、マスクをつけないで、荒い息をはっはっと口からはかれる人がそばにいると、頭の中に「マイクロ飛沫が飛び散っている図」が浮かんでしまってどうもいけない。
COVID-19感染防止に、マスクをつけるとどのくらいの効果があるのか、ということについては諸説あって判断がつかないのだけれど、緊急事態宣言が出されているいま、「マスクをしないで外出する」ことは社会に不安をよぶ行為だと私は思ってしまう。いくら屋外とはいえ、マスクをしないで公園にやってきて、呼吸も荒く運動することに対して、無神経という以上に暴力を感じる。
決して密集ではないにせよ、マスクなしで公の場所である公園や道路を歩いたり走ったりすることは、少なくともこの時期にはやめてほしいと真剣に思う。マスクは手に入れようと思ったら、最近はそれほど苦労せずとも入手できるようになっているのだ。
朝7時前に家を出て、できるだけ人とすれ違わない道を選んでいても、今日は往復1時間弱で38人もすれちがった。うち、マスクをつけていない人が13人、3分の1近くもいた。男性11人、女性2人。男性のマスク未装着の人の大半が高齢者だった。たぶん「早朝だから人はそんなにいないだろう」というのでマスクを付けなかったのかな。せっかくのいいお天気にもかかわらず、マスクのあるなしを数えながら歩いてしまう自分がほとほといやになる。

夕飯はうなぎ(!) ポテトサラダ、五目豆
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(朝6時すぎだと、人影はまばらだけれど、それでも3分歩くごとに誰かとすれ違います)

5月2日(土)
昨日の「マスクしないで縄跳びをする男性」に嫌気がさしたので、思い切って集合を6時30分にした。遠回りして、できるだけ人とすれちがわずにすむ道を行こうと6時前に家を出た。それでも結構な人が走ったり散歩したりしている。みんな早寝早起きになったのかな?
大学入学で実家を出て以来、私は「健康的」とされる生活習慣がなかなか実践できないできた。夜更かしも徹夜もしょっちゅう。徹夜しちゃったあと、寝だめといって週末に12時間寝ちゃったりして、昼夜逆転生活を送ったり。
たまに思いついたときにしか運動しない、運動するとなったら極端にしまくって怪我をする。
子どもたちの健康には責任があるから食生活は野菜中心でまあまあだったけれど、自分自身は家庭でも(外でも)酒を飲み放題。
ダイエットをするとなると徹底してやり、数ヶ月すると飽きて暴飲してリバウンド。子どもたちが家を出てからは、夜に酒を飲みながら映画を見るのが最高の楽しみなんて生活をしていた。
ところが巣篭もり生活が始まってからというもの、私はこれまでの人生でもっとも「健康的」な生活をしている。
早寝早起き、食事は2食だけれど酒は缶ビール1本か飲まない。毎朝散歩して太極拳。
毎朝、検温して、体調をチェック。
おかげですこぶる体調がいい。なんだか後ろめたくなるほど元気だ。
どこも痛くないし、咳の一つも出ないし、お肌もつややか。
健康的な巣篭もり生活が可能なのは、医療従事者の方たちをはじめ、流通や小売の人たち、治安を守ってくれている人たちなど社会生活を支えてくださっている大勢の人たちのおかげだ。
だからせめて私ができることは、心身両面を自分で細心の注意をはらって管理し、負担をかけないようにすること。

夕飯はステーキ(!)ブロッコリ添え、五目豆、ポテトサラダ
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(あやめやしょうぶの季節です)
5月3日(日)
今日も暑いほどの初夏の晴天。早朝太極拳道場から帰宅したあとは、1日書道に励む。
黒田龍太郎さんという大好きな作家(というかスラブ系言語の先生で学者)の本「外国語の水曜日」の中に、外国語習得の秘訣はただひとつ「やめないこと」とあった。
やめないことが、実は一番たいへんでエネルギーがいる。
書道を始めて12年目。私の一番の目標は「やめないこと」だ。続けること、ではない。うまくなること、でもない。賞をとること、でもない。とにかく「やめないこと」。
やめることは簡単だ。書かなければいい。いいわけはいくらでも見つかる。
仕事が忙しい。疲れている。家族が問題を起こした。
もっとも都合のよい言い訳はこれ。「やる気にならない」
書道教室は緊急事態宣言が出て以来、おやすみになった。毎日書道展も中止だ。やる気はそがれている。
でも、週末がきたら毛氈を広げ、墨を作り、筆にふくませる。
字書を引き、ノートをとり、草稿を作る。
そこまでやれたら大丈夫。
一応、やろうと思っていたところまでやって、筆を洗いながら(→実は筆洗いがいやで「今週はやめとこうかな」とぐらつくことが多い)「ああ、今週もやめないですんだ」とほっとする。
書きたいと思ってやる時もあるけれど、どちらかといえば「やめたらいけない」と思って紙を広げることのほうが多いかもしれない。

夕飯は冷やし中華、(最後の)五目豆、ポテトサラダ(やっと五目豆が終わった)
(あの、ちょっとお聞きしたいのですが、パートナーが在宅勤務になって、毎日顔をつきあわせてご飯を食べるのって嫌になったりしないですか? 私は2週目でもういやになったので、週末の夕飯は別々に食べることにしました。夫は私が意図的に別々にしているとはまだ気付いていませんが)
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