Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2020年08月

 この記事を公開するかどうかで悩みました。父が5年前に亡くなってから、ずっと考え続け、何回となく書いては消し、を繰り返してきた内容の記事です。母の「私の面倒見て! 家族なんだからもっと尽くして!」という要求に応えられない自分への言い訳ではないか、きれいな言葉でカッコつけているだけじゃないか、家族愛にあふれている人には耳障りな意見だろう、家族のプライバシーや尊厳を傷つけるのではないか、所詮たいして介護をしていない人間のあまっちょろい意見だ、と考えたのですが、思い切って公開することにします。なぜいま思い切ったか、その理由は自分でもわかりません。
---------------------
 今、母が入院しています。どうも長引きそうですし、たとえ退院できたとしても、もう以前のように自立した生活を送るのはむずかしいでしょう、と医師たちから宣告されました。退院後(早くて3ヶ月後かな?)の生活をどうするか、入居している高齢者施設とケアマネージャーと相談しながら、ケアプランを立てているところです。
 ケアマネさんや病院のソーシャルワーカーの方々から母の生活歴等についての聞き取り調査を受けながら、 老いることについて、そして介護における家族の愛とはなんだろうか、と考え悩み続けています。
そんなときに、ベテランのケアマネさんから言われてハッとした言葉がありました。
「介護に、こうあるべき、とか、こうするべき、という規範はありません。一人ひとり老いのあり方はちがいますし、生きてきた道もこれからたどる老いの道も一人ひとりちがうのです。家族のあり方もさまざまで、老いていく人に家族が○○しなくてはならない、などという決まりはありません」
 またソーシャルワーカーの方から「 介護者の資源(経済的、時間的、労力的な資源)には限度があります。被介護者の要求に全部こたえることは無理だし、あれして、これしてという要求にこたえることが「家族の愛情」ではありません。ご自分に無理がなく、できる範囲のことだけをなさればいいのです」とも言われました。
 また別のソーシャルワーカーの方からは「こと介護の場面において、いわゆる家族愛の美談はテレビや映画の中だけにしか存在しないのですよ」とも言われました。
 介護の主体は、被介護者ではなく、介護者だ、ということはもう何回となく、介護の現場にいる人たちから私は言われています。プロの介護者であれば、そういう割り切り方が実践できるのでしょうが、むずかしいのは被介護者が家族である場合です。家族の自分はどこまで資源を注ぎ込めばいいのか、注ぎ込みが足りない(=愛が足りない)から悪化しているのではないか、こんなに自分を犠牲にしている(つもり)なのに、なぜ被介護者は感謝をあらわしもせずに、もっと要求をつきつけてくるのか、、、、、、そんな思いにとらわれ、また腹を立てたり苛立ったりする自分に対して自己嫌悪と自責の念にかられる。思えば私は、母が胃がんの手術をしたことをきっかけに実家に通って家事を肩代わりするようになった16年前から、ずっとそういう思いにとらわれ、何回となく逃げ出しては(仕事を口実に会いにいかない、仕事を口実に海外に逃げる)母に責められ、腹が立つとともに逃げ出したことに対して自責の念にかられてきました。
 自分の中にあるどろどろとした感情をどうすればいいのか。「家族愛」という絶対真実、絶対美みたいな言葉を突きつけられたとき(自分で勝手に突きつけているだけ、というところもありますが)、そのどろどろした感情があまりに醜く見えて、ますます自己嫌悪に陥ります。
 そして私が今一番恐怖していること、それは自分の娘たちが老いた私の介護者となったとき、私がいま味わっているこういう思いに苦しむのではないか、ということです。それだけはなんとしても回避したい……と思っても、それは無理な願いなのかも。
 80歳、90歳をすぎてもかくしゃくとしているスーパー老人の姿がメディアで取り上げられ、「いまのお年寄りは元気だ!」と「美談」として報じられることが、家族の介護にプレッシャーをかけているような気がします。「老いて介護を受けて、家族に「迷惑」をかけているのは、その人の努力が足りなかったせい」と思わせてしまうのは、介護者と被介護者を苦しめるだけではないでしょうか?
 ケアマネさんが言われたように「老いの道は人それぞれ」であり、介護のあり方も家族それぞれ、なのです。そもそも介護する家族がいない人も大勢いるし、たとえ家族がいても介護拒否されてしまう人も大勢いる。そして介護拒否する人を、少なくとも私は責められない。
 自分はぜったいに介護を受けたくない、だから毎日ウォーキングして、食事に気をつけてる、という緊張感をもって生活することはもちろんいいことなのだけれど、だからといってその人(たとえば私)が明日要介護にならないという保証はまったくありません。せめて自分にできることは、「家族が介護者になるべき」とか「親なんだから、面倒見るべき」という「べき論」を介護に持ち込む必要がないのだよ、ということを子どもをはじめとする周囲に言い続けることくらいしかないのではないか、と思っています。
 きれいに締めくくる文章はまったく思いつかず、結論も何もないけれど、勇気をもって「投稿する」ボタンを押します。

ガンバ 1−3 FC東京

PKを入れられるまでDAZNを見ていたのですが、もう期待はできないなと思ってDAZNを切りました。
宇佐美のゴラッソは素晴らしかった。
井手口のゴラッソとともに、今季のガンバ・ベストショットとして記憶にとどめて、しばらく水面下に沈みます。
この残暑が去って、プライベートライフがいろいろと落ち着いたらまた浮上しますね。 

ガンバ 1−1 鹿島

実は試合をDAZNでもみていません。テキスト速報を睨んでいただけです。
家族が入院していて、その対応に追われていてしばらくサッカーどころではないかも。
でもテキスト速報のチェックくらいはやりたいです。
だから、いい試合をしてね>ガンバさん 

(あ! 新型コロナ関係ではないですからね〜〜) 

ガンバ 1−3 浦和
 もうね、猛暑酷暑とプライベートライフでいろいろとあってメンタル弱り切っているところに、この試合ではね。
 ミス3回で3失点。ちょっと酷すぎる。
 それだけでなく右サイドの小野瀬から左の藤春へのパスがまったく通らないとか、シュート打つべきところでパスを選択とか、もうダメダメガンバに逆戻りじゃないですか?
 この暑さの中でサッカーやるってこと自体が……と言いたいところだけれど、川崎10連勝。しかもサッカーがすばらしい。
 ガンバ、取り残されちゃってますね。
 

ガンバ大阪 2−1湘南ベルマーレ

 宇佐美選手のデビュー戦での得点(ACL予選ですでに突破を決めていたので消化試合)は、「いやーこの人持ってるなあ」と思ったのですが、今日のJC(ルヴァン杯)での唐山選手の2得点は「獲るべくして獲ったね」という感じがしました。ガンバ、試合を通して3本しかシュート打っていないのですが、そのうち2本で2点。どちらもすごくいいシュートでいいゴールでした。
 すごくうまい! すごく強い! ということはあまり感じさせないのに、シュート打つとなんか必ず決まるような気がする唐山選手。17歳の怪物とか、そういう凄みはないのに、ボール持つときっと相手はこわい感じがするのだろうなあ、というのが伝わってきます。
 あせらず、おごらず、今と変わらず飄々とストライカーへの道をまっすぐ進んでいって欲しいなあ。

 

↑このページのトップヘ