Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

2021年06月

スマホを握りしめたまま11時くらいに眠ってしまったけれど、なぜか1時15分に目が覚めたのでDAZNを開いたら、なんと開いた瞬間に全北現代の2点目が決まり、思わずスマホを放り投げました。しばらく布団に突っ伏していたら、なんかワーワーという音声が!
なんとパトが藤春のクロスを叩き込んで1点目。
あ〜〜やるじゃん、パト、やっぱりやったじゃん、藤春〜〜
そしたらそれからほどなく宇佐美→矢島→パトのきれいなゴール。
ピッチを広く使って、しかも矢島がダイレクトで宇佐美のクロスを折り返し、それをまたダイレクトで合わせたパトリックに驚嘆! パト、どこかのスイッチが入ったみたいなんですけれど。恒常的進化を見せてもらったのか、それとも一過性の覚醒か。どちらにしても進化にはちがいない。
すっかり目が覚めて「逆転だ〜〜」と雄叫びをあげた(もちろん心の中で)のですが、ハーフタイムでまたも撃沈。
電気つけっぱなし、DAZN立ち上げっぱなしで、目が覚めたのは試合終了のホイッスルでした。
この結果をどうとらえるかは、予選が終わってから考えることにします。って私が考えてどうなるってもんじゃないでしょうが。
藤春が怪我したみたいですが、足がつっただけですよね? そうだって言って!
ACLなんて今のガンバには罰ゲームだ、と思っていたんだけれど、土下座して謝ります。
物理的にもトーナメント的にも場が変わったことがプラスに働いていると信じたい。

天皇杯は現地参戦の同志の中継で、タピネス戦は前半をDAZNで見たあと寝落ちしたけれど、その後のペレイラのゴールは見ましたよ。湘南戦のしょっぱい引き分け後にACL。どうなっちゃうんだろうかと不安でしたが、出発前の天皇杯2回戦で今年は大学チームに勝ったことで、チームは少し上向きなのかなと思ったり(でも試合内容はぼろぼろだったみたい。勝てばいいんですけれどね、勝てば)
あれこれ言っているうちに、もう29日午前1時より、というか今晩25時から全北現代戦ですよ。たぶん今日も起きていられなさそうだけど、きっと藤春がやってくれると信じてスマホ握りしめてせめて前半の半分くらいまでは起きていようと思っています。タピネス戦って藤春がチームをがんがん引っ張っていましたね。戻ってきてくれて助かった。藤春version3.0、期待しています。
私はガンバのことになるとすぐに悲観的になって、暗いムードで試合観戦してしまうのだけれど、それじゃあかんですね。
チームを信じよう! 
 

このところやたらと仕事が忙しく、6月は通常のZoom会議と取材に加えてリアル対面取材や撮影も入ったりして、生活が不規則になりがちです。いまカレンダーを見たらこの3週間休みがまったくとれていない。何もしない日をつくることが今年の目標だったのに、すでに3ヶ月以上何もしない日は1日もなくて、日々「しなくちゃいけないこと」に追われています。よくないよ、まったく。
食事時間が不規則になったことと、ウォーキングの時間があまりとれなくなったこと、筋トレがまったくできていないことの影響は体組成計の数字に如実にあらわれていて、体重は変わらなくても骨格筋率がじわじわと低下し、 体脂肪率が上がりつつあります。
そして意欲が低下気味です。
今朝目が覚めたときに「さあ、今日も頑張ろう!」という気持ちで起き上がれなかった。
がんばりすぎはよくない、と自分でもよく分かっているのです。そもそもがんばること自体、私には必要ない、と思います。がんばろうと自分を励まさなくても、私はたぶん十分なくらいついついがんばってしまう。よくないがんばり方です。
そして体調管理しているつもりで、体組成計の数字とにらめっこするのは本末転倒だとよくわかっているのです。数字はめやすであって、自分自身の健康を反映しているものではない。自分の健康や体調は、自分自身のからだの声を聞かないと分からないはずなのに。
頭ではよく分かっているのに、からだと気持ちがついていかない。体組成計やネット情報に自分の体調の判断を委ねてどうするんだ、と自分を叱責。
そんな体調管理は持続可能ではないですよね。
今日は自分を少し甘やかして、食べたいものを食べて、寝たいだけ寝よう。
 
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ワクチン接種1回目が終わった実川です。大手町で接種したのですが、入ってから出てくるまで約1時間。私は甲殻類アレルギーがあると問診のところに書いたので、打ってから30分の待機時間がありましたが、それがなかったらおそらく40分弱じゃなかったでしょうか。実にシステマティックに運営されていました。ちなみにまだ副反応はありませんし、注射そのものはチクッとしたかな? くらい。2回目は7月中旬。夏休みは少しは気楽に過ごせるでしょうか。

という報告はさておきまして、先月からまた映画館で映画を観賞することを再開しています。NetflixでもAmazonプライムでもたぶん観られないだろうなあと思うような映画は、映画館に足を運ばねばなりません。その中から「観てよかった❤️」と感動した作品の感想を書いておきます。

『海辺の彼女たち』
藤元明緒監督の長編2本目(1本目についてはのちほどふれます)。新聞で映画評を見て、即チケットを予約しました。ベトナムから技能実習生として日本にやってきた3人の女性たちが主人公。ベトナムにいる家族を養うために日本に出稼ぎに来た3人は、「技能実習」とは名ばかりで、残業代はおろか給与もまともに支払われないのに休みがずっとなしで1日10時間労働みたいなブラックな職場で働かされ、たまらずブローカーの手引きで青森県の漁村で住み込みで働くことになります。そして1人がベトナムにいる恋人の子供を妊娠していることがわかり、でも恋人とは連絡がとれず、どうしたらいいのか途方に暮れる中で彼女だけでなくほかの2人も追い詰められていきます。
すごく暗いストーリーではあるのだけれど、決して絶望的な悲劇を描いているわけではない。また日本社会が抱えている「技能実習生なしに成り立たないのに、搾取をまるでなかったように無視する」という暗部をえぐっているのだけれど、つばを飛ばして告発しているというのでもない。かといってベトナム人女性のたくましさが素晴らしい、というのでもない。
生き抜くために必死ではあるのは彼女たちだけでなく、ブローカーのお兄さんたちや漁村のおじさんたちも病院のスタッフもみな真剣に(あがくほどに真剣に)生き抜こうとしている。必死になるほどに哀しみも増していくのだけれど、それでも生活は続いていく(まさにLife Goes On)
ある意味やりきれなさも感じたのですが、見終わって席を立つときには、ほんの少しあたたかいものを感じていました。最後のシーンが、外では冷たいミゾレまじりの風が吹き付ける中、3人が寝ぐらにしている漁師小屋をぼんやりと照らす電気ストーブが、若い彼女たちのエネルギーを象徴しているように思えたからかもしれません。


『僕の帰る場所』
藤元監督の長編1作目。建築の専門職を志してミャンマーからやってきたアイセ、夫を追って2人の息子を連れて日本にやってきたケイン、長男のカウンは小学5年生だが生後8ヶ月で来日して日本の保育園から小学校に進学したので、普通に日本語を話し、自分は日本人のつもりでいます。弟のテッは日本で生まれていま小学2年生。まだまだ父親にも母親にも甘えてわがまま言い放題。父アイセは難民申請をしてもしても認められず、ついに入国管理局に連れていかれてしまいます。母は夫が不在の生活に不安を覚えて精神が不安定になり、 ある日ついに「ミャンマーに帰る」と決意しました。
息子2人を連れ、夫を日本に置いてミャンマーの実家に帰ったケインはしだいに落ち着きを取り戻し、テッもミャンマーの生活になじんでいくのですが、一人カウンだけは言葉が通じず、生活習慣が日本とは大きく異なるミャンマーになじめません。電話で父に「いつ日本に帰れる?」「日本に帰りたい」「ぼくは日本人だ」と訴えるのだけれど、難民申請が認められず不法滞在者のレッテルをはられた父アイセには息子を日本に呼び戻す力はないのです。 ついにカウンは一人で日本に帰ろうと決めて飛行場を目指して家出をするのですが……。 
映画初出演の子役たちと実のお母さんの演技があまりにも自然で、ついドキュメンタリーだろうかと思うほど。実の親子だからこその甘え方や反抗っぷりがこの映画の主題である「日本の難民政策がかかえる大きな矛盾とそれが生む悲劇」をより鮮やかに浮かび上がらせています。父親役のアイセだけが(シロートではあるけれど)本物の父親ではないそうで、パンフレットで「子供たちが最初はどうしてもアイセをお父さんと呼べなかった」というエピソードを読んで微笑ましく思いました。父も息子たちも頑張ったな、と。

ところで、ポレポレ東中野でこの映画を見終わってから、藤元監督にサインをいただいて少しだけお話する機会を得ました。実はこの映画を見に行った動機の一つに、日本に滞在しているアジア系の人たちの支援に今私自身が少しだけかかわっているということがあるからで、そのことについても少しお話できました。 いまミャンマーは本当にたいへんなことになっています。自分には何ができるだろうかといつも考えているのだけれど、たとえばこの映画のパンフやMakingのDVDを購入することくらいならできるし、ブログでこうやって映画のことを書くこともできる。藤元監督とお話しして、できることから少しずつやっていきたいとあらためて思いました。

『ファーザー』
フローリアン・ゼレール監督作品。
アンソニー・ホプキンスはもちろんすごい俳優だということはよくわかっていたのですが、この作品の認知症の演技には圧倒されました。何がすごいって、認知症の進行具合を「目」で示しているのです。よく小説で「目に不安が宿っている」「目がうつろ」「目が泳いでいる」という表現が書かれているけれど、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるたびに「それはこういう目のことを言うのか」と分かったのです。ラストシーンでの彼と介護士のキャサリンとのやりとりは、認知症患者の現実と妄想の間を揺れ動く不安定な精神状態をどんな本よりも如実に語っている、と思いました。
アンソニー・ホプキンスはラストシーンで初めて助けを求めます。「ママ、助けて」(私もしょっちゅう母に「お母さん、助けて」と言われる)「もう何がなんだかわけがわからない」(これもしょっちゅう母から聞く言葉)と介護士に向かって助けを求めるときの彼の目は、まるでガラス玉のように内面からの光をまったく感じさせていませんでした。全編を通して、認知症の人が「見えている」ものが、実はとてもぼんやりとゆがんでいる像でしかないことをカメラワークが語るのですが、同時にアンソニー・ホプキンスが、あるはずのものが見えず、ないはずのものが見えることを目で語るのです。娘役のオリビア・コールマンもすばらしい演技なのだけれど、アンソニー・ホプキンスに、というか彼が演じる父親の存在感にちょっとかすみがちでした。
これを観たからといって、母の認知症のことが少し分かった、ということありません。でも妄想と作話が不安から来るもので、認知症ではない人(と思っている介護人)が「おかしい」「言っていることはまちがっている」と否定するほどに認知症者の不安が増していくということはよくわかりました。

何かと気が重いことが多い昨今、ブログに愚痴を書くのもどうかと思うので、最近読んだ本の中でおもしろかったものをピックアップして紹介していこうと思います。

『ミシンの見る夢』
ビアンカ・ピッツォルノ著 中山エツコ訳
河出書房新社
19世記末、まだ因習と階級差別とジェンダー差別の壁が高くそびえたつイタリアで、針仕事によって自立していきた女性が主人公。もうね、こういう物語はたまらなく好きです。親を早くになくし、針仕事で生きていた祖母に仕込まれた女性が祖母も亡くし、一人で暮らして、一人で食べていこうとする。助けてくれる人が3人いると、足を引っ張ろうとする人が3人、自分のことで精一杯で困っていても見て見ぬふりをする人が4人、くらいの割合。助けてくれる人だって、いつ足を引っ張ったり、無視するようになるかわからない。「なくてはならない人」になるために、必死に技術を磨き、流行に目を光らせ、投資も怠らない。21世紀でも女性が一人で食べていくための闘いはちっとも変わっていません。何度もいうけれど、好きだなあ、この本。ある意味ファンタジーではあるのだけれど、現実味の中でのファンタジーの織り込み方が好みです。

『ブルースだってただの唄〜黒人女性の仕事と生活』
藤本和子著
ちくま文庫
 1980年代、アメリカで暮らす著者の藤本さんが黒人女性たちの人生や生活について聞書をしてまわった、、、なんと言ったらいいのだろう、エッセイでもないし、ルポルタージュでもないし、インタビューでもなく、その全部といったらいいか。インタビューもあるのだけれど、そこに行き着くまで車窓風景からの自分の心象風景があったり、自分の孫の話があったり、ごちそうしてもらった食べ物のこととかも入っています。正面切って人種やジェンダーの差別のことや、貧困や犯罪について語っているわけではないけれど、読みながらひしひしと感じられたのは、差別される側は差別するものをどう見ているか、ということでしょうか。
藤本さんといえばリチャード・ブローディガンの訳者。20代のころ、私は『アメリカの鱒釣り』とか『芝生の復讐』を何回図書館で借りて読んだことか。昨年、たまたま本屋で『塩を食う女たち——聞書・北米の黒人女性』 を手に取り、立ったまま閉店まで読み耽り、そのままレジに持って行きました。そして先日、またまた本屋でこの本を見つけて立ち読みで読み耽りました。この2冊と一緒に、『アメリカの鱒釣り』と『芝生の復讐』を合わせてこれからもたいせつに読んでいきたいです。

『見知らぬ友』
マルセロ・ビルマヘール著 宇野和美訳 オーガフミヒロ絵
福音館
 訳者の宇野さんが紹介してくれて、すごくおもしろそうだとピンと来てすぐに本屋に駆けつけて購入。おそらく10代の読者に向けて書かれた短編集だとは思うのですが、読後に頭の中にとても不思議なイメージが浮かんで、それがなんだかわからなくて再読しました。10編おさめられているのだけれど、どの本も「え? そこで終わったら何がなんだかわからないんですけれど」という謎と秘密を残したまま終わっているので、そのあとどうなったかを自分で考えてしまって眠れなくなる(ベッドで一気読みしたら眠れなくなりました)。私が好きだったのは(好き、というよりもその先を考えるのが楽しかったのは)、「ムコンボ」。ワールドカップに出場したザイール代表選手の話です。サッカーファンであることとはまったく関係なく、ムコンボ、好きだなあ。

『科学とは何か〜新しい科学論、いま必要な三つの視点』
佐倉 統著
講談社ブルーバックス
「科学的根拠のない疑似科学を吹聴する科学者を支持してはいけないし、逆に、社会の要望や感覚を一顧だにしない専門バカは厳しく批判しなければならない。それは、科学と科学者をまっとうに育てていくための、社会の使命であると言ってよい。そしてまた、社会と日常生活が科学技術にどっぷりと頼っている現在においては、ぼくたちの生活と社会を快適で安全なものにするために社会の側が心得なければならないことである」
 というまえがきの文章を読んで即座にポチりました。著者はサル学の研究者から、社会と科学・技術との関係を考える科学史学者になった(と私は読んだのだけれど、ちがうかも)人なのだが、この本の意義は冒頭の言葉に集約されるとして、すごく面白かったのは、「科学」も芸術と一緒で、スポンサー(パトロン)によって発展してきた、ということ。研究開発には膨大なお金と時間が必要で、そのほとんどが「いったい社会の何に役に立つのか?」と白い目を向けられがち。それでも「発達」してきた科学・技術(この2つは別物)とは? というのがこの本。
昨晩、NHKでゲノム編集で遺伝子を組み換えることによって理想とするベイビーを得ることができることの是非、みたいな話が放送されていたのをちらっと見たのだけれど、まさにこの本で論じられている視点——なんのための科学・技術なのか? 誰を、何を、どう救うのか?ということをたえず議論し、検討していかないと、人類は早晩滅びかねないなと思った。

そのほかにも『Numbers Don't Lie~世界のリアルは「数字」でつかめ』バーツラフ・シュミル著、とか、『生物はなぜ死ぬのか?』小林武彦著 講談社現代新書、とか『生命誕生——地球史から読み解く新しい生命像』中沢弘基著、とかもすごく面白かったのですが、それはまた気持ちの余裕のできたときにご紹介。
(母がまた転倒・骨折。やーれやれ、この1年でいったい何回目か? という状況なので、落ち着いたときにまた) 

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